jinenzazenのblog

長井自然老師の坐禅会情報及び講話を載せています。日本語と英語(Japanese & English ) 師弟法話集のダウンロード可能です。

ぜひ ご参加、ご利用下さい。

カテゴリ: 師弟法話集

師弟法話集 日本語縦書き pdf → ダウンロード

師弟法話集の本の在庫がありません。日本語縦書きのpdfを作りました。70ページぐらいですので、ダ印刷して読んで頂けます。素晴らしいご提唱でんでんエディターす。義寛老師の「本来の面目ともいいますけれど、」に吃驚しました。

師弟法話集のEpubを再編集しました。読み易い様に構成しました。

自然老師は販売することをお望みになりません。
故義寛老師が販売するのを良しとされなかったそうで、自由に使って頂く事に致します。
滅多にないお話しですので、周りの方にお勧め下さい。

こちらからダウンロード出来ます。

師弟法話集日本語

師弟法話集 English




音声はこちら↓
坐に親しむ(voice Japanese)



何時でも、すっと思考・考えの方にいっちゃうから、すぐ離れちゃう。これがほんとに出来るか。

山岡鉄州なんかすごいじゃないですか。十七年間刀抱えて、寝たんだか寝ないんだか。十七年間だって。じゃ、何とか、何とか義明、(斉藤義明の声-実際は浅利義明だそうです。)

そうそうそう、それ打倒しなきゃって、十七年間刀を抱えて寝たんだか寝ないんだか、ねぇ。これが潜行密用ですよ。寝たんだか寝ないんだか分らずに、ズーっとやってる。それが本当にやれるかどうかですよ。

そうすると煮詰まる。煮詰まって行き詰っちゃったんです。行き詰まりゃ良いんです。煮詰まる、行き詰るともう、ハラキリですよ。(そっちですか。)もう煮詰まってるから。煮詰まってるから、どんなご縁でも行くんですよ。中々其処まで煮詰まらない。

だから、それをそう言う在り様をこう真似るって言う事じゃない。兎に角この坐るって言う事ですよ。根気よく坐って坐って行くと言う事ですよ。そうすると、必ず煮詰まってくる。このただ坐わりゃいいってもんじゃないですよ。ラッコじゃないんだから。ラッコ坐禅じゃない。

兎に兎に角、思考考えのものをですよ、あれ?誰か言ってたかな。先ほどねぇ。ああメールで在ったんだ。メール、メール。

このインドにおられるポーランドの方からですね、今メールが来て、一日に40分二回ほどやってるんですけど、身体の調子が悪くて、それから仕事の関係もあるんで、それ出来ないんですけど、この時間を短くして良いんですか。どの位坐わりゃ良いんですかって。

この時間の長短とか何回て言う事じゃないんです。再三言う様に、坐ってる時間て言うのはもう限られてるんですねぇ。幾らあれだって、一日の中。

それはホラ、こやって食事した、食べてる、話をしてる、その時間が長いじゃない。その時間だって思い・考えとしてのものが起きるでしょう。それを放っとける様になるといい。それ坐禅ですよ。

それをねぇ、坐禅してる時ねぇ、まあ思考・考えを相手にしないって言う事があったって、ここでもう本当にこう相手にしてたら、ねぇ、これ駄目なんですよ。これ放逸してるから。

「謹んで放逸することなかれ」って。もう四六時中ですよ。四六時中。そうすると、必ず、こちらの方から、ほら、ねぇ、トントントントン(茶碗で机を打つ)証明されるから。ご自身の在り様が。

そうすると、この後、今度は楽になるんです。楽って言うか、勢いがついて来るから。こっちから行こう行こうとすると、大変なんですよ。今言った様に、何十分、一回何十分何回ってなんて、何時間ってたって、こっちから行こうとしてると、どうしてもそっちが気になる。

でもこちらの方からね、コンコンコンコン!すると今度楽になるんです。どの位って言う事なくなるから、何時でも四六時中、今度はほら、証明される様になるから。

(普通その処は坐に親しむって言う事ですか。)

だから其処まで、先ず、こうね、親しく親しく坐らないと、ならないんです。この人としてのこの在り様ですよ、人としての在り様が重いと、法としての在り様 今、こうやって法としての在り様だけなんですけど、この法としての在り様が軽くなるんですよ。だからこれこうやって証明されたって、何の事だか分らないでしょう。

それが、人としての在り様がこうね、軽くなってくると、法としての在り様が在るでしょう、法としての在り様が重くなると、ほら、否応なしに気がつくんですよ。気がつく様に出来てるでしょう。この法としての在り様ですよ。

だから兎に角、この人としての在り様、思いって事は、この何て言うんですか。思考・考えが中心になってるからですよ。それ放っときゃ良いんですよ。放っとくと自然と軽くなってくる。それ、人との在り様が軽くなってくる。そうすると法の在り様だけになってくる。

コン!否応なしですよ。法の在り様だけなんですから。人の在り様ってのはご自身が思い・考えで認めただけなんですから、人の在り様ってのは。

で否応なしに、ほら。どういう事もコロコロコロコロ、他へ行かないんですよ。

思い・考え、こうなってるんでしょう、災いしてるって言ういや、ねぇ、妨げになってるだけなんですよ。それ、放っときゃいいんですよ。

これが本当に出来るかどうか。


2017.4. 新宿坐禅会ご提唱                                      

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  白隠禅師 坐禅和讃


衆生本来仏なり 水と氷の如にて
水を離はなれて氷なく 衆生の外に仏けなし
衆生近きを知しらずして 遠くに求むるはかなさよ
たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うにことならず、
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏ふみそえて  いつか生死を離るべき
夫摩訶衍の禅定は 称歎するに余あり
布施持戒諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆このうちに帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処に有りぬべき 浄土即すなわち遠からず
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限なし
いわんや自から回向して 直に自性を証すれば
自性即無性にて すでに戯論を離たり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相をそうとして 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即蓮華国 此身即仏なり



白隠禅師の坐禅和讃、白隠禅師さんはですね、臨済宗の方で、あまり曹洞宗は、この坐禅和讃をお読みする事は、お唱えする事は無いんですけども、良いもんですから、曹洞宗の皆さんも是非ですね、この坐禅和讃に触れて頂きたいと言う様な事を書いておりましたけども、お示しになっていました。

これを先ず手短かなんですけども、非常に手短かなんですけれども、この坐禅の素晴しさをね、本当に端的に表現された、お示しになられた。

で、この一番最初にですね、開けて頂いてですね、「衆生本来仏なり」って、これ結論なんですね。前も話したと思います。ねぇ、どなたもですよ、もう仏様そのものですね。間違いないです。何故間違いないかって言うと、そうでしょ、すぐにこう パン!(両手を打ち鳴らす)コロッと、百人いれば百人、一万人いれば一万人、コロッとどういう訳か。人の思考・考えに拘らず、すっとこのものになれる。成れてると言いますかね。それが仏の様子なんです。


それで、その仏様の在り様はですね。人間的に、この何て言いますか、問題になっている悩み、苦しみ、迷い、こうすると、すっとこう離れる。パン!外れる様に出来てる。ねぇ。要するに、言葉を変えますと、本当に満足し切れている、ねぇ。安心し切れていると様子なんです。それを仏と言う。

ただ、お示し、お示にですね、その様な在り様が、私達の今の在り様ですよと言われたって頷けなきゃしょうがない。折角そうやって本当に端的ですよ、私達の、仏様の在り様とこうやって パン!示してくれてる、ああそうかって頷けなきゃですね、猫に小判です。はい。ですから、頷けなきゃ、折角のものが活きないと言う事になる。

次にあるでしょ、「水と氷の如ごとくにて」何故頷けないかって言うと、此処なんです。水と氷のごとくにて、と、ねぇ言われると、どうしても思考・考えが中心になって、水と氷が別にある様な錯覚を起こすんですよ。ねぇ。水と氷が別にある様になるでしょう。でもよくほら、仏のご自身の在り様を見て御覧なさい。水ったら、氷ないんですよ。氷ったら、水ないんですよ。いつもその事しか生じてないでしょう。何時もその事しか生じてないじゃないですか。

ですけど、思考・考えからするとですね、水と氷って言われると、何か二つある様な錯覚を起こすんですよ。これが苦悩の根源。これがご自身の仏の在り様に頷けない。その端的、まあ、何て言うんですか、在り様なんです。ねぇ。水って言ったら、水しか生じないんです。仏の様子は、在り様は。氷ったら、水はもう滅してて氷だけしか生じない。いつもその事しか生じないから、迷いようがないんです。そうでしょう。

ですけど、思考からすると、水と氷って言われると、二つある。水と氷と○○さんと三つある様な錯覚を起こす。だけど、このものはですよ、仏の在り様からすると、水ったら、水だけですよ。氷ったら、氷だけで水ないんですよ。○○さんたら、水も氷も無くて○○さんだけなんです。

何時もその事しか生じないから、迷いようがない。選択する余地がない。選択、これがいいかあれがいいかって始まるから迷う。何時もそれだけだったら、迷い様がない。迷うと言う事がないからね、迷うと言うことが無いから、悩むという事が無い。悩まないから苦しむと言う事がない。その在り様なんですよ。水と氷のごとくにて、ね。

「水を離れて氷なく、」当然ですよ。何時もその事しか生じてないんだから。外から離れる、いや離れる方から言えば、きちっと全部から離れる。離れる方から言うとですよ、悩み苦しみからきちっと、悩み、苦しみと迷いからきちっと離れるてるんです、何時も。そう言う在り様なんです。

これですよ、この仏の在り様は。「衆生の外に仏なし」その在り様でしょう。ほら、パン!いつでもきちっと、こっからすっと、鳴ったんだか鳴らないんだかか、すっとそっから外れてる。何時でもこう縁にふれてこう何時でもその在り様になるんですけど、その在り様に留まると言うことはありません。すぐ外れるんです。すべての、なんて言うんですか、この在り様に在りながら、すっと離れてるんです。和して同ぜずって言う事ですよ。

そのものになって、すっとそのものから離れる。ここにですね、留まるって言う事ない。留まるって事ないから濁ると言う事もない。それを思考・考えだと留まっちゃうから、そっから濁る。濁るもんだから悩み苦しみ迷いが生じる。滞るってことはない。どれからも、すぐそこからもすっと外れてる。どれがご自身の在り様かわからない。実体がないから。

それを、思考考えですぐ実体を認める。こういうもんだ、ああいうもんだって、実体を認めてしまうから、その実体としての処のもの、相対するものが二つになったり、三つになったりするから、迷うんです。迷うから悩み苦しむ。だけど、すぐそっから離れる。実体としてのものは認めようがないんです。何を一つとして。それを認めるものが無いから、問題になる事は無い。認めるものが無きゃ問題にならないでしょ。

全部認めてるから。○○さんて何、あれして・・・ こうなるんですけども。認めるとすぐこう問題になっちゃう。認めるって事が無ければ、問題にならないでしょ。そのまま在り様で。

「衆生の外に仏無し」ってそうですよ。間違いなくそうでしょ。先ほど申し上げた様に、パン!(両手を打ち合わす)これが分るのは衆生しか分らないですよ。皆さんしか分らないです。動物じゃ分らないですよ。動物はこれ、パン!パン!分らないですよ。パン! 確かにあるんですけども、なんだか分らない。だけど、皆さん分る。それは仏の在り様です。

「衆生近きを知しらずして」って、ですね、こんなにもうそのもの自体になってる様に近い事なんですよ。何時でもそのもの自体だから。向かうとあるってのは、それですよ。そのもの自体だから。こんなに近い、本当に親密なってんですけど、遠くの方に。こんなにちゃんと仏の在り様が、きちっと、今してるのに、仏様になりたい、あれになりたいって、そんな事要らないでしょう。

「たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり」そうでしょ、水の中にいてのどが渇いたなんて要らないんです。宝蔵ですよ。

普勧坐禅儀のお示しの中に、宝蔵自ずから開けて受用如意ならん、宝蔵ですよ。宝の蔵にいて。その後出てきます。まだお金がほしいなんて、「長者の家の子となりて 貧里に迷う」それですね。そんな事有得ないじゃない。

「六趣輪廻の」ことですよ。[六趣輪廻の因縁は] 六趣輪廻って言うのは、天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄、って言うんですかね。そう言う事がですね、実際には無いですよ。それは人の、要するに在り様としてですね、「今日は気分がいいなあ、自然さん来たから、じゃ一杯奢ろうか」って、○○さん天上に居る時でしょ。地獄だと、「まああんな録でもない菓子出してなんて」って言ったら、もう地獄へ行っちゃう。そう言うな在り様、こうやってるでしょう。六趣輪廻の因縁は。

「己が愚痴の闇路なり」それ何で起きるかって、愚痴ですよ、愚痴。愚痴は何故起きるかって言うと、ほら、今この在り様をすっと思考考えに移すんですよ。このものに触れた時何にも問題起きないんですよ、ひとつになってる。ひとつになってる。

それをすっと、思考・考えに移すと、ああでもないこうでもないって、そうやって、それ愚痴ですよ。それ。言い訳が生じるから。言い訳が生じると愚痴になっちゃう。ねえ。それを愚痴の闇路って言うでしょ。愚痴言ってる間、ちっともその事がはっきりしてる事だって分かんないですよ。真っ暗闇だからねぇ。

「闇路に闇路を踏ふみそえて」この在り様で行ったらですね、愚痴ばっかし言ってたらですね、「いつか生死を離はなるべき」そんな事してたら、人とのご縁で、本当にはっきりしなきゃ、ひとつだけはっきりしなきゃ、この生死の事ですよ。生きてるとは如何いう事か、死んでるとは如何言うことか、そんな問題は解決出来ませんよ、愚痴を言ってる間は。

「夫摩訶衍の禅定は」摩訶衍の禅定って、今皆さんがお坐り頂いた坐禅でございます。「称歎するに余あり」こんなに素晴しいものは無いんですよ。「布施持戒諸波羅蜜 念仏懺悔修行等」「其品多き諸善行皆このうちに帰するなり」

色々の、修行の在り様としては色々の事あるんですよ。してるでしょ、色々の事やってるでしょう。色々の事やってるじゃないですか。それを煎じ詰めてみますと、全部坐禅の在り様ですよ。ねぇ。坐禅の在り様ってのはですよ、全てですよ。全てを、思考考えを、色んな考えと言うものが生じる。それを放っておく、捨てておくと言う事ですよ。捨てておくと、何にも問題ないんです。

捨てておくって事は、そのものに成り切ってる様子なんですよ。これから成り切ろうって要らないんですよ。思い考えって言うもの放っときゃ、成れてるんです。それを成れてる様子が、思い・考えの方に、何ていうんですか、移行しますと、その成れてる在り様がはっきりしないだけなんです。いつでも成れてんですよ。それが成れてるって頷けないって事は、思考・考えで取り扱いをしてるからです。ほっときゃ否応なしに、それ自体になるんです。ねぇ。

その次では「一座の功をなす人も」その「一座の功をなす」って言うのは、これですよ。パン!パン!(両手を打ち合わす)こうやると、今まであーでもない、こーでもない、あーだこーだ、あれだこれだって言ってたって、こうすると、パン!ゴロッと全部消滅するように出来てる。便利なもんですよ、これ。こんなことって無いでしょう。他にないでしょう。

どんな思いが生じても、これで、パン!コロッと。いつでもそれだけだから他が入らないから。全部消滅する。こうやってパン!あれだこれだ、誉めたってパン!全部消滅する。これだけになる。なくなっちゃうんですよ。それ一座の功をなす。坐禅もそうです。そうやって全部、思えたって全部消滅する。

「積し無量の罪ほろぶ」だからですよ、全部消滅するから、あんなことをした、申し訳なかった、悪いことをした、○○さん昨日あんなもの寄こした、全部消滅する。

「悪趣何処に有りぬべき」
ですからね、良い悪いなんて言う事はですよ、良い悪いなんて事、どこにも生じないですよ。悩み苦しみ迷うって事は無いです。 

「浄土即すなわち遠からず」そうでしょ。何時でもほらね、問題が起きない在り様だから、浄土ってのはそう言う事ですよ。問題が起きないから、何時でもその在り様に本当に安住できる。「浄土即すなわち遠からず」この事がわかれば、本当に浄土ですよ。

「辱なくも此の法を」この在り様ですね。「一たび耳にふるる時」それを聞いただけでもですね、「讃歎随喜する人は」ああそう言う事があるのか、そう言う、その事だけだって徳を得る事が出来る。徳を得るんですよ。それだけ本当に楽になる。そう言うものなんです。

「いわんや自から回向して」本当に、じゃやって御覧なさい。「直に自性を証すれば」次ですよ。そうでしょ。坐ると必ずご自身の在り様がわかる。「自性即無性にて」今まで人間的に私・ワタシと思っていた、そう言う事でないご自身の在り様ですよ。ねぇ。先ほど言いました様に、留めようったって留めようない。

すぐこうやってパン!(両手を打ち合わす)コロッと外れるように。これが無性の様子ですよ。この在り様にやる様に、パン!コロッとこう外れる様に出来てるね。ねぇ。素晴らしいんですよ。

人の考えって言うのはね、外れないでしょう。考えって言うのは、外れよう、外れようをすると、余計嵌っちゃう。ねぇ。外れよう外れようったって、足掻く、足掻くって言うか、足掻けば足掻くほど、嵌りこんじゃうでしょ。その事に。ね。だけども、ホラ、私達は、仏の在り様はですね、パン!コロッと外れちゃう。ねぇ、これが。

「自性即無性にて」考えとご自身の在り様は違う。「すでに戯論を離れたり」だからこの事が分ると、ああいう事かな、仏ってああ言うことかこう言う事かって、もうすっとそんなようするにですよ、詮索する事も全部消滅しちゃうんです。

それでこれですよ、大切な「因果一如の門ひらけ」因果一如ってのはですね、人の考えだとですね、再三言う様に、因果、原因があって結果が生じて、それが因果。原因があって結果、二つ生じちゃう。これが原因でこれが結果って二つ生じちゃう、ねぇ。

私が居てあなた、二つ生じちゃうんです、私とあなた。これが。だけども、このものはですよ、「私」って言った時、私だけなんです。「あなた」ったらあなたしか居ないでしょ。あなただけですよ。ほら仏の在り様見て御覧なさい。二つ生じないんです。二つ生じないから問題がないんですよ。何時でもその事だけだから。

「私」「あなた」ってそれだけしか生じない。私の時は私、あなたの時はあなた。ですが再三言う様に、それ人の思考だと原因があって結果、二つ生じちゃうですよ。それは、二つってのは相手が生じちゃうんです。同時に。同時っていいますね、だから相手が問題になっちゃう。ひとつ、ひとつだったら問題にならない。

だから原因と結果が別じゃないから、このものの活動は、原因即結果だからねぇ。原因としてのものが生じるって事はもう滅してるんですよ。同時だから。だから残り物が無いでしょ。別に成ってない。残り物がなけりゃ、問題ないです。よくそれ仏の、ご自身の在り様、見てごらんなさい。残り物が無いんです。いつでもその事だけだから。

思考・考えで行くと、原因と結果が別になる訳だから、ねぇ、残り物が出来ちゃう。原因としてのもの、結果としてのものが残っちゃう。残り物がないから、後で引っ張り出してどうこう要らない。あれああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、残っている様な錯覚を起こすから、それを引っ張り出して来て、やるでしょ。そう言う残り物が無いから、因果一如ってのはそう言う事でしょ。

その事がはっきりしたら、「無二無三の道直し」今まで二つあった、三つあった、四つあったのが、あーなんだたったそれっきりだった、済む。それっきりだった、それがはっきりする。もう一切、悩み苦しみ迷いとしての種が消滅しちゃう。残り物が無い。

「無相の相をそうとして」残り物の無い在り様ですよ、何時でもその事だけなんですよ。その事でこうすると、すぐそっちに行っちゃう。その事自体になるでしょ。今まであーっと思ってたって、パン!(両手を打ち合わす)コロッとこれになっちゃうから。何だかと思ったってねぇ、すぐ消滅しちゃうでしょ。実体が残らないです。

実体としての、それが、あれでしょ、「無相の相をそうとして 行くも帰るも余所ならず」これですね、思考考えからすると行って、帰ったってなるんです。行って帰った、原因と結果が別になる。行って帰った二つ生じちゃう。このものは行く行くなんですよ。帰るって無いです。

帰るったって、帰る帰るです。何時でもひとつ事やってる。その在り様、いつもその事だけなんです。不思議な活動してるでしょ。その活動はそうなんです。それ仏の活動自体がですよ、ご自身の活動なんだけど、何の事いってるんだろうって、頷けないからですよ。

「無念の念を念として」思いも全くですよ、目として、耳ですね、それから舌、口、匂い、その活動と寸部も違わない。思われたら、その事がすでに滅してるんです。思われて、すぐ滅してるんですから、思われたってことは滅してる。生じたって事は滅してるんだから、一切残り物がないから問題のありようがない。

これが人の考えだと、認めるんですよ。あの人この人、思考考えの中で、自他を作っちゃう。この活動自体は作ってないですよ。残ってないですよ、よく見て。昨日やった事なんか何処にも無いんですけど、思考では何か作り出しちゃうんですよね。昨日の事自分で作り出してるんです。それで、それを相手にしてんですから。

でもよく見て御覧なさい。どこにも昨日の事なんか無いね。相手にしようがない。何処にも無い。そんなもの相手にしようがないでしょ。何処にもない。でも、ほら、思考・考えだと作っちゃう。それで、在るかの様な錯覚を起こしてる、やってるでしょ。あーでもない、こーでもない。よく見て御覧なさい。仏の在り様を。仏の在り様は、無いんです。

昨日の在り様なんか無いじゃない、と言ったってね、思考・考え中心になってると、エー、無いったって頷けないんです。そんな、いいですか、それ位錯覚を起こしてるって事に気づかない。

「歌うも舞うも法の声」ね、歌うもひとつって事はですね、認めるものもないですね。私ってなんて事、認めるものは無いんだけど、これだけ皆さん坐ってる。誰が坐ってるんですか。こんなこと坐ろうなんて無くて、ちゃんと坐れてるでしょう。頷くのは誰が頷いてる、ねぇ。

歌うも舞うも法の声って言うんでしょ。、そういう頷く人が居ない。舞うって、踊る人もない。歌うでもなくやってる。不思議な活動じゃないですか。それご自身の活動だから、本当にはっきりしないと駄目。何か私らしいもの居て、そうやって活動出来てる様な錯覚なんです。錯覚ですよ。思い違い。思い違いをしてんですから、何ともね、頼りない話。だから当然迷うんですよ。それで不安になる。

「三昧無碍の空ひろく」何時でもそれっきりだからですよ。これから三昧なんて要らないですよ。何時でもそれっきりだから、それ以上それ以下はない。これを三昧ったんですよ。何時でもどの活動ひとつとったって、それ以上それ以下ではない。それ人の考えだと、ああ、あーすればよかった、あんな事何でしたって言う、不足を生じちゃう、不足不満を生じるんですけど、私達の活動自体、何時でもその事だけだから、もう目一杯ですよ。

やる方から言や、目一杯やり切れてんですよ。一杯一杯なんですよ。これ以上これ以下と言うのが生じないんです。ないんです。何時でも一杯一杯に活動してるんですよ。それで済むんです。それを「三昧無碍」そう言う事が、さりげなくやられてるんです。

「四智円明の月さえん」その様子、活動の在り様ですよ、一々の活動の在り様、ちょっと四つに分たんでしょ。大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智とかって四つに分けた。分けたって、今の在り様ですよ。それが、ご自身で頷けるんですよ。ああそうか、何も問題ない活動、在り様なんだって、ね。月さえん、頷けるんですよ。「此時何をか求むべき」問題起こす人がない。頷けないから問題起きてるんですよ。

何故頷けないかって、頷けない人が居るからですよ。それは消滅してるからね、人がいないとなると、何時も「寂滅現前するゆえに」で寂静なんです。何時でも波風が起きない。その在り様、ご自身の様子がはっきり手に入る。寂滅現前するゆえに。問題のおきようが無い。悩み苦しみ迷いの種が消滅しちゃう。無かったと言う事です。

「当所即蓮華国れんげこく 此身即仏ほとけなり」当所になるでしょ。ああ、これで本当に良かったって。この身は本当に仏様だ。

ご苦労さまでした。よろしいですか。  (終わり)



音声はこちら ↓


自然老師 無門関26_01
自然老師 無門関26_02
自然老師 無門関26_03

二僧、簾を巻く

清涼大法眼、因みに僧、斎前に上参す。眼手を以て簾を指す。
時に二僧あり、同じく去って簾を巻く。
眼曰く、「一得一失」。

無門曰く、「且く道え、是れ誰か得、誰か失。若し者裏に向かって一隻眼を著け江得ば、便ち清涼国師
敗闕の処を知らん。かくの如くなりと雖然も、切に忌む得失裏に向かって商量することを。」

頌に曰く、

巻起すれば明明として大空に徹す、大空すら猶お未だ吾宗に合わず。
争か似かん空より都放下して、綿綿密密、風を通ぜざらんには。

と言う事だそうですね。この、これまぁ、一応公案て称されるものだそうなんですけれども、要するに、この公案と言うのはですね、何をこうやって皆さんにですね、お示しになってるかって言うとですね、この公案をですね、聞きますとですね、何かこの様なですね、別なですよ、ご自身と別なこの在り様ですね、これ、此処に書かれている様な在り様があるように、錯覚を起こすんです。これが人の苦悩の根源ですよって言う事です。

この、何て言うんですか、清涼大法源です。清涼大法源って言う方は、これ誰かって言う事です。清涼大法源と言う方がご自身以外にあったら、これ、もう、公案にならない。ねぇ。因みに、この僧、この僧は誰かと言う事です。二僧あり。これ誰か。無門、これ誰か。良いですか。

ねぇ、それ別に、ご自身の今の在り様、ご自身の今の在り様の他に、ご自身の在り様以外に、何か清涼大法源ですね、僧、無門、そう言う方が居られる様な錯覚を起こすんですよ。

でもほら、清涼大法源って言うと、必ずコロッとご自身がこう、ご自身の在り様ですよ。これ。ねぇ。二僧あり、二僧って言うと、コロッとご自身が二僧になる。無門曰くって言うと、ご自身がコロッと無門自体に。そのご自身の在り様にないと、公案は何の役にもたたない。別になってたら。ですから何時でもその様にあるでしょ。公案てことは別にあるんじゃないですよ。

それを公案、公に示す。公に何を示すか、ご自身の在り様ですよ。ですから、ねぇ、これは別にあっちゃ駄目なんですよ。公案とご自身が別になってたら駄目なんです。必ずそうなるでしょ。「二僧簾を巻く」と。ご自身が、二僧簾を巻く、とその様になる。ご自身の在り様ですよ。


「清涼大法源ちなみに僧斎前に上参す」その様になる。ご自身の在り様なんです。ねぇ、別の在り様は無い。何時でも一つ、一如です。

先ほどですよ、「因果一如の門開け」って言うでしょう。「無二無三の道なおし」なんですよ。これがはっきりしないからです、何時でもものを二つに見てる、三つに見てる、四つに見てる。無二無三の道直しにならない。何時でも二つ三つ。無二無三にならないんです。何時でも。ものが生じちゃ。
このご自身の在り様の他にものが生じちゃ。これが人間の苦悩の根源ですよ。

本来一つのものなんですね。このものはですよ、一つのもの。人の作用として認識すると言うことがある。そうすると、すっとこう認識すると、こう分かると言う事があると、すっと二つになって三つになる。ね、本来一つのものなんです。

一つって言うのは、何時も言う様に、こう分からないんです、一つですから。相対するものが生じないと分からないんです。一つだと分からないんです。一つってのは分からないんです。そのもの自体だから。そのもの自体で絶対に分からない。ねぇ。

今と称されるものですよ。「い」って言ったら「ま」が無い。「ま」って言ったら、「い」が無い。今ってどんな事したって分からない。今の事実がこの私達の本来の在り様ですよ。ねぇ。分かり様が無い。分からないからですね、問題が生じないんですよ。

当然ですよ、分からなきゃ。分かるから問題が生じるんでしょ、三つになって。あれだ、これだって。相対するものが生じるから、ねぇ、問題が生じるんですよ。分からなきゃ一切問題が生じない。分からなくて問題が生じたって事ないんです。ねぇ。

その事をですよ、前回、この何ていいますか。やはり、この無門関って言う事で示されていた様に、平常心是道って言う事ですね。あれもそうでしょ。知。不知って言うでしょ。知る、知らない、これ二つですよ。ここでは一得一失ですよ。得る失う、ねぇ二つです。一得一失と何か二つある様な錯覚を起こすんですよ。そうでしょう。得、得ると言う事と失うって事、別にある様な気がしてる。

これよく、この働きって言いますかね、よく見て御覧なさい。一得一失、一つですよ。一得一失。別のもの生じてないですよ。二つ生じてない。一得一失って。二つ生じない。一得って言ったら、一失がないんですから、一失ったら一得が無いんでしょ。一失って言った時、一得ないでしょ。何時もひとつしか生じてない。それさえも分からない位。ねぇ。

だから思考考え、ふっと、こうやって一得一失って言われると、二つだ、得と失がある様な錯覚を起こすんですよ。これが人間の苦悩の根源ですよって。別な事言ってる訳じゃない。

そう言う、こう色々示してありますけども、そう言う錯覚おこしてますよって。ご自身にですよ、ご自身がですよ。ご自身自体はですね、錯覚なんか無いですよ。この在り様よく御覧なさい。錯覚は無い。思考・考えにすっと、ね、思考・考えに移行するって言うか、移すと、ホラ、一得一失って言うと何か二つある様な気がするでしょう。

でも事実はこの在り様ですよ。一得一失って言うと、一得の時は一失がないんだから。一つですよ。一得。一失の時は一得がないんだから。何時でも一つですよ。その在り様。一つだから問題が起こり様がありませんよって言う事です。だけど、思考・考えにすっとこう移すと、一得一失、何か得と失、得ると失うって言うか、二つ在る様な錯覚を起こしてる。

ねぇ、それだから因果一如って言う事ですよ。一得一失、そう言う風にこのものは一得一失、二つ生じて無いんですよ。因果一如です。何時でも生じる、一得って言うのは生じるって事ですよ。一失ってのは滅するって事です、ねぇ。いいですか。生じて滅したんじゃないんです。生じたものがあって、それが滅したんじゃないんです。生じるって事はもう滅してるんですよ。

その様な活動してるでしょ。これ。ご自身の在り様見ないと駄目ですよ。ねぇ。一得って言うと、生じた、こう生じて即滅するじゃない。生じてすぐ滅するから得るものが無いんです。

無いでしょう。どこに得る様なものが在った? 無いじゃないの。すーっと生じて、生じたと同時にって言うか、生じるって事は滅する事なんです。得るって事は一切ないです。得られるって事は、無いでしょ。この活動は。

一失って言ったって、一失ったって、ねぇ、何か失うものがあったかって言うと、一失ったって、生じて滅したんですから、失うものなんてどこにも無かったです。ありましたか。そうでしょう。そう言う活動してるじゃない。ご自身の活動ですよ。得るとか失うなんて事はね、一切無いでしょ。この活動自体に。

失うものがありましたか。そうでしょう。そう言う活動してるじゃない。そうでしょう。得るとか失うなんて事、ねぇ、一切ないでしょ。そう言う事、それ自体に。だけどそれが思考に移すと、得るとか失うものが何かある様な気がするんです。その錯覚に誤魔化されているんじゃありませんか、と言う事です。ただそれだけの事です、これは。

無門曰、「しばらく道え、是れ誰か得、誰か失」ねぇ。誰が得したのか誰が損したのか。得たものも損したものも一切無いじゃない。全部そうでしょ。ご自身の在り様ですよ。ねぇ。得たものも失ったものも何も無いじゃないですか。そうでしょ。

でも思考・考えですとね、一得一失って、先ほど言いました様に、何か得た様な、失った様なそう言う錯覚を起こす。で、事実はそんな事じゃないでしょう。失うものも得るものも無いじゃありませんか。

「若し者裏に向かって、一隻眼を著け得ば、すなはち清涼国師敗闕の処を知らん」そのことに、まあ一隻眼ってちょっと苦情を言やあって事です。苦情を言えば、清涼国師の敗闕
の、本当の処をですね、本当の処を知らないと言う事ですよ。

まだね、このあと、頌に。まだ足りませんよ。一得一失なんて事じゃ足りませんよ、そんな言い分じゃ足りませんよ、こう一応ね、苦言を呈してる。

「かく如くなりと雖然も、切に忌む、得失裏に向かって商量することを」だけども、願わくば、一得一失なんて事じゃなくて、そう言うことだと、そう言う事を、要らん事ですね。本当にして頂きたいところ、です。そう言うことだと思います。言い分としては。それは清涼国師じゃないですよ。ご自身ですよ。分かった得た、そんな範囲じゃだめですよ。

だってこれ自由でしょ。自由でですね。「巻起すれば明明として大空に徹す」すっとこうなるでしょ。知らぬですよ。知らぬが大空が生ずる。「明明として大空」ああ、そうか、こう言う在り様だったか。まあ一応、明明、はっきりするってことがあるんです。

「大空すら猶お未だ吾宗に合わず」このものの在り様、わが宗って言うのは、このものですよ。このものの在り様からすると、大空すら尚未だ我が宗にあらず。そんなものじゃ、そんなものでも間に合わないと言ってる。このものは。この今の在り様ですね。

「争でか似かん空より都て放下して」そんな大空なんかって、そんなもので用は要りませんよって。そんなものがある間は駄目ですよ。「綿綿密密、風を通ぜざらんには」一切ですよ、そんなものが無くなるまで、用が要らなくなるまで、風を通ぜず。そこまで行かなきゃ駄目ですよ、と。無門さんがこうやって示されてる。

ご自身の在り様ですよ。これねぇ。分かったとかねぇ、得た何だかってかんだかって、そんな程度の事じゃ駄目ですよ。そんなの、そんな活動してないでしょ。ねぇ。ご自身ですよ。得た、得た様な活動してるか、そんな事にかかわらないじゃない。分かったって得たって、そんな事にかかわらない活動でしょ。そんなものにかかわってる間は駄目ですよ。ねぇ。もうそんなものを以って、こう何て言うんですか、用がなくなる。

じゃどういう事かってねぇ、ホラ、まあ井上義衍老師が「幾らそれが分かっても、未だ人間臭さが残るからなぁ」って。ねぇ。原田雪渓老師が、「まあ、動物になる事ですかね。」もう一切分からりません。一切分からないから、分からないから、だからもう空も悟りも、何も一切無いです。そこまでという事だと、こう、私はその様に、こう思います。

このあれをはじめてこう上げたんですけど、この無門禅師の言い分としてはね、その様な事を示されておられる。だから本当に際限が無いんですよ。この私達の仕様と言いますかね、在り様って言う、これで、これで、って事無いです。それ大方皆、これでって言ってる。良しとしちゃうんですから。その程度のことじゃ詰まらないでしょ。言う事です。

よろしいですか。時間が未だありますけど、ご質問がありば。幾らでも話は出来ますよ。話は幾ら聞いたってしょうがない。別のこと話すんじゃない。


長井自然老師・録画書き起こし

悟りへの道 長井自然老師
  

求め心がないとやらない

小泉義人さん:(以下、小)ここは毎日坐ったり、接心とかされるんですか

老師:そうそう。毎月です。接心は十五日から二十一日迄ですね。

小:毎月ですか。

老師:一週間、毎月です。七月と八月は休み。お寺の関係ですから。それは二か月だけは接心はしてませんけれど。

小:あんまり法事とかはされないんですか

老師:法事?だってここは檀家さんいませんから。

小:禅道場なんですね、ここは。

老師:ただ頼まれて七月八月はどうしてもね、他のお寺さんのあれをしなきゃならないので。そういう関係で七月八月は接心は一応なしということで。

小:安穏寺って、とりあえずお寺の名前付いてるんですね。

老師:一応宗教法人ですから。はい。四年前ですよね。でも実質活動始めたのは、平成五年ですから、二十年位になりますね。


小:お話を聞くと、井上義衍老師のところで悟られたと言う話を聞いたんですけど。

老師:義衍老師に一応つきました。そこで参禅をしまして、それから、御次男になりますね、井上義寛という、其の方のもとで得度して、それからです。

小:その時の、悟った時の状態というのはどういう形?

老師:それはだって特別じゃないですよ。あなた様も悟ってますよ。

小:あ、ああ。そういうことですか。皆悟っている。

老師:そうそうそう。それ、特別視することないでしょうけど。そういうことがよくないと・・・。それでどうこうしたってですね、当のご本人がおやりになればよろしいでしょ、それ。

小:あ、自分がおやりになれば良いってことですか。

老師:そうそう、ご自身の。人の話を聞いてもしょうがないです。

小:面白そうだな。話してて楽しいです。

老師:そうですか。まあでも、先ほど言ったように、今までに無いですね、この要求といいますかね、特に若い方のね、その悟りとか見性悟道とか、そういうことじゃなくて、ご自身がどうしても不安でですね、不安で精神的に落ち着かないって言う、其れをどうにかしたいと、そういうことでしょ。それで、こういうあっちに行ったりこっちに行ったりはするのでしょうけれど、なんかしっくりこないと言う事で、その要するに流れが、この坐禅の方に向いてきたと言う、かと思うんですけど。その辺はどうでしょうかしら。

小:満たされているけれども、何かもっとあるんじゃないか。みたいな。心の問題いろいろあるよね。其れをどうにか出来ないかみたいな。

老師:そうそうそう。そのいろいろ問題あるっていうことですよね。いろいろ問題ありながら、じゃ、一体何が問題になっているのかってのがはっきりしないだろうと思いますよ。このはっきりしない中で、いつも不安とか、すっきりしないとか、ご自身が溜飲が下がらない、何かみたいな。

小:(要約)インド系でサイクルという考え方、末法が終わって黄金の時代ー人が本来の自分を取り戻すという考え方です。

老師:あなた様が?

小:皆がです。

老師:それは考え方ですからね。いくらでも考えれる。

小:(要約)スピリチュアル系では来る光線で、意識が上がる、アセンションという考え方。

老師:それは人間受けする。人の心情として受けやすい。

小:インドから来るもので、西洋人にはわかりやすい。

老師:それは多分ですね、ご自身がですよ、それに傾倒して仮にしたとしてもですね、ある程度のところまでは行くと思いますよ。ご自身の精神的、何と言いますか、欠落したというか、満たされないものを満たすという意味で。でも本当にこれで良かったというところまでは行かないでしょうね。どうでしょうか。

でもスピリチュアル系の方っていうのは、それは要求はどの程度の要求なのかしら。

小:それは、まあ、ちょっと他力本願的に感じているんですけど、そういう風に銀河の光線が変わってくるから、地球のエネルギーもアップして太陽のアップして其のときに人も意識が覚醒してくると、そういう考え方。

老師:ああそう。で、あなた様は?

小:僕は、自分がやっぱり覚醒しようと、悟ろうと思わない限り、せっかくおいしい料理が前にあっても食べないみたいなことになっちゃうかなと思うんですけど。


老師:だから井上義衍という方はですね、仏道、仏法というのはあらゆる人の要求に応じられるんです。それ、今言ったスピリチュアル系の方のように、ある程度の要求、精神的に落ち着きたいという要求にも応じられる。でも其の上を更にわたしはもっと、って言う人に、そして最後はですね、本当にご自身で本当に満足いく、安心ゆくところまで決定的にいく、そういう要求にも応じられる、と言ってます。仏道仏法というのはそういうものだと思いますよ。

だからある程度の要求しかない方にですね、いやあなたそんなところで止まってないで、最後までと言う事言ったって、いやいや私はそんな要求はないから余計なことですって言われちゃう。それはしょうがないでしょ。

小:ああ、つまりその人が深く悟っていくっていうのは、その人の思いがないとそこまで行けないって言うことでもあるんですね。

老師:それは当然です。要求がなきゃやれないですよ。だって、今お話しました様にね、要求が浅い方に、それで一応いいんですけども、いやそうじゃないからもっとって言ったって駄目なんですよ。だから要求の強弱と言うか、そういうことですね。

要求が強ければイヤーっておやりになるでしょうけど。要求が薄い人に対してそんなもったいないってかと、どうって言ったってね、それはあれですよ、それ以上におやりにならないですね。一応はね。でもこれは又人の有り様ですから、何時又コロッとお変わりになるかもしれない。其のときは又おやりになるかもしれないですよ。それは何ともいえないですよね。

小:なるほどねー。

老師:だから、釈尊でもそういうことでしょ。あれだけ恵まれた環境だったんでしょうから、其れが生老病死ということが問題になって、もういたたまれない、全部投げ捨ててはじめたって言う。これはもう、要求以外の何者でもないでしょう。収まらないものでしょう。当然こう、言い聞かせたって、エーなんとしてもこれを、ということがあるでしょうから。そういう要求がなきゃできないですよ。

小:なるほどねー。その人のやっぱり求めるものなんですね。


求めることが問題

老師:だけどその求めることが問題なんですよ。

小:エッ、問題なんですか。

老師:求めるって言うことが、それで問題が起きてる。求める必要もないものですけど。どうしても人の考えが中心になって、どうしても求めたがる。それ、求め心って言うんです。求めることが問題なんですけれども、これがなきゃやらないんです。だからこの求め心で求め心を忘れるってい言うんですね。消滅させる。

小:あーなるほど。

老師:でないと、このはっきりしたいって言う要求はなきゃできないですよ。

小:欲求は必要なんだけど。

老師:それが残ってちゃ駄目なんです。

小:最終的には執着だから。

老師:それ、人の考えですからね。それを、求め心を求め心にして忘れるって。

小:何心?

老師:求め心を求め心を以ってして忘れるって言うんです。

小:あーなるほどね。

老師:ですけど、そのあれがないとできないんです。

小:何か凄い深い話を聞いた。


人とのご縁のある間に

老師:ですけれど、多くはですね。私のところにも今参禅に来る方ですね。坐禅に来るかたは坐っていれば其のうち、棚からぼた餅式じゃないんですけども、其のうち悟りだか何だか知りませんけども、そういうものが転がってくるような、そういう錯覚を起こしている人が多いんです。

小:ああー、ただ坐るだけじゃぼた餅の様に落ちては来ないんですね。

老師:そうですよ。坐ってるっていうことだったら、狐だって、猫だった犬だってサルだって坐ってますからね。

小:狐とか猫って出てました、よく僕初心者とかに質問されるんですけど、犬とかは悟ってんのかって聞かれる。

老師:悟りとか悟らないとかってことに関係ないんです。

小:ああ、なるほど。

老師:ですから、何と言いますか、至道無難禅師ですか、「本来は教えもできず、習われず」その位どうこう手のつけようがないって言うことです。で、今、ここでも活動してるでしょう。あなた様の考え、なんですか、考え抜いてどうこうなんてことは出来んのです。「知れば知られず」わかったって言うことがあれば、それは嘘ですよって、で、わからないっていうことになったら、それは始末におえない。わからないっていうのは犬とか猫ですよね。もうまったく、そういうこの人の思考から離れた有り様ですよ。其れにおいてわかるってことありえないですよ。問題外です。

もう人ですよ。人はだからこの、考え方っていいますかね、思考するって言う作用、そういう機能が備わった、そういう生き物であり、この作用があるがために迷うってことがある。で、迷うということがあって、其のことによって今度は覚めるって言うことがあるんですね。はっきりするということがある。だからこれは人じゃなきゃ出来ないんですよ。この眼耳鼻舌身意のこの作用がないと。だから犬猫だめ。それぜんぜん問題外ですから。それでいいですかね。

小:だから気にしないということですね。

老師:だから人だけですよ。人とのご縁がある間にその事がはっきりするということが一番大事なことですよ。人として一番しなきゃならんこと。人とのご縁だけですよ。もう二度とないですよ、人とのご縁は。だからこの人とのご縁の間にね、ご自身の本当の有り様ですよね。私と言うそういう思いじゃなくて。そういう有り様と全く違うんですから。しょうがないですよ。私、嫌です、たって、本来的に違うんですから。だからそれをこうはっきりする。

釈尊が人として、一番最初に其のことをこう自覚されたんですよね。それがずっとこう伝わってきているだけですから。これはやる価値があるんですよ。人の一番やりたがらないこと。人はどうしてもこう、ご自身の思いの、思いっていいますかね、思い通りにこう行きたいんですよ、考えで。考え・思いの有り様の方に持って行きたい。それを捨ててこう行きなさいって言うんですから、やりたくないですよ。

考えによる執着

小:あのちょっと難しいなと思うのは、人として多分何かしたいなと言う感情が出てくる時があるじゃないですか。人によっては家を建てたいとか車買いたいとか思うかも知れない。だけど委ねるって生き方、全てを何処に委ねるのか解らないんですけど、委ねて生きるみたいな考え方もあるのではないかなと、思ったんんですけど。

老師:でも委ねるたってそれは考えです。考えってのはですね、どうしてもこう執着です。執着を伴うんですよ。相手があるから。考えてこう相対するものがあるからですね、必ずこう執着。今おっしゃった様に、ただ思われてるだけ、ああしたい、こうしたいって言う、この有り様だけだったら問題ないで
すよ。

小:ああそうですか。

老師:それをどうしてもこう執着するんですよ。どうしても。

小:絶対ほしいとか。

老師:そうそう、それ執着ですよ。この執着が生じるからですよ。この執着がなきゃ、何でもない。お子達など、お子達は、あれしたい、これしたい、あれしたい、ですよ。言いっぱなし、執着が無いから。

小:子供ですか。

老師:お子達。コロコロ、コロコロ、コロコロ。ねえ、この有り様。考えが中心になってると、どうしてもご自分の考えに執着するんですよ。

小:これ、大人になって良かったのか考えちゃうんですけど、考えるって点で言うと。

老師:そうそう、そうそう。いや、それはやっぱり先ほど言いました様に、この考えるということが悪いんじゃないですよ。考えるということを否定するんじゃないですよ。でもこのご自身の自覚がはっきりしていませんと、いつもこう考えっていいますか、考えに執着が伴うんですよ。それだからやっぱり、考えるっていうのは問題なんですよ。それを指名してくれる人がいないですよ。

その考えは、何ていいますか、人間的に思っているような実体があるんじゃないんですよ。水泡って言いますか、水の泡のように、ポコッ、ポコッ、ポコッとこう出て、そんなもんだから根もあれも無いん
ですよ。

そういうものに対して、そういうものを実体をすっとこう認める。考えの実体ですよ。それで執着が生じちゃうんですよ。考えをほっとけばいいって言いますか。ですから考えをほっときゃ良いんですよ。根も葉も無いんですから、元々。

本当にそうですよ。(右を向いて)目の働きと同じで、(左を向く)こう向かうと今までの皆消滅してこうなるでしょう。(右に向く)こっち向かうとこう。思いもそう、次から次々とこう出てきて。生じては滅し、生じては滅し。そのもう、ほっきゃいいじゃないですか。

でも考えが中心になっちゃうとどうしても執着するんですよ。それが問題なんですよ。ほっとけないんですよ。実に簡単明瞭なんですけども、なかなかこれ出来そうで出来ない。いや事実は出来てるんですよ。生じて滅して行ってるんですけども、何か残っているような気がする。

小:今ちょっとヒントが来ました。まあ確かに考えの中で、通常は子供のように、ちょっとなにか食べたいとか思って、普通にやってるんですよね。時々、幾つかの考えについて執着が始まって、それがもうがっちり、こう頭の中に残ちゃったみたいになっちゃうってことですよね。

老師:はい。それで思いを、起きた思いをこう、執着で更にこう重ねていくんですよ。どんどん、どんどん、こう膨らましていくじゃないですか。それで、元々無いこの思いとしての実体をこう認めちゃうんですよ。ただ、嫌だなーって時はですね、ただ嫌だなーってことなんですよ。それを又思いを重ねると嫌だなーって思われているような実体を認めるんですよ。だたそれだけなんですよ。

実体が無いものを、思いを重ねると何か実体がある様な錯覚を起こすんですよ。そうするともう手放せないんですよ。それ自分でやってることですよ。

其れを放っときゃいいんですよ、全て、それ消滅しちゃいますから。本当にご自身の思いですよ。全て作りだしたものです。全部ご自身の思いでつくり出すんですよ。はじめ何にも無かったんですよ、思いとしての実体は。ご自身の思いを重ねて実体を認めちゃったんですよ。

これはコップですよ、湯のみですよ、「ああそうか」だけど、これ貴方ですよって言うと、「何ー」ってこうなる。其れぐらいこんれコップとしての実体これ認めちゃう。それご自身がしてることですよ。

元々コップだって茶碗だって、貴方ですったって変わらないんです。そうですよ、そういうもんです。コップと言うと頷ける、貴方ですと言うと、何を、とこうなる。何といったって変わらない。ただそれ何ですよ。其のことにお気づきになると、一応はですよ、思いが起きても放っとけるようになる。


小:良い話、ありがとうございます。これ見たらテレビの人、泣いちゃうかも知れない。凄いいい話聞いたって。私も井上哲玄老師の所でもう三回も接心やってますんで。

老師:まだここでもありますよ、どうですか。

小:泊り込むんですか、ここは。

老師:泊まり込まなくたって、通ったっていい。それは別に制約はございません。

小:でも泊まった方が心安らぐっていうか。

老師:心安らぐ。

小:集中力が増すとか。

老師:ああだからそういうこと、集中力っていうか、それはこう行ったりきたりしれいるより、泊まった方がそれは良いってことありますけど、でも行ったり来たりが悪いのかったら、そうでもないですよ。しょうがないでしょう。その人の事情によることですからね。どちらでも構いません。まあ一週間なら一週間こうつめてして頂ければ、なお良いって事あります。

小:月ごとにやってるってのは吃驚しました、僕。

老師:毎月やってるところは無い。もう何年もやってますよ、一回も欠かしたこと無い。

小:そうですか

老師:今百五十三回ですか。だから、ああそうそう、年に十回でしょ。十五年もやってるんですよね。十五年もやってる。


思いの処理法

小泉:元々は住職とかそういうところでこうやられたのですか。

老師:いえいえ、先ほど言った様に、義衍老師ですよ。私も壁にぶつかってね。ニッチもサッチも行かないということがありましたよ。その、この思いの処理法っていいますかね、思いの処理法を知らなかった。それだけなんですよ。思いの処理法。思いの処理法を知らなかった。

思いの処理法は何かって言うと、処理する必要がいらないって言うことです。それ知らなかったから、何とかってねぇ、思いをあーでもないこーでもないってやったから、そのうち出口がわかんなくなっちゃう。

小:あー、それでこのままでいいんだということで、

老師:いや、そうじゃなくて、出口が。どうしょうもないでしょ。怖いじゃないですかねえ、精神的に。怖いでしょう。四六時中思いが頭の中を駆けずり回るって言うかねえ。怖くなるんですよ。どうしても薬のほうに行くでしょ。だけども、そういうどうしょうもない思いを、思いが身体の中に充満していたって、コロっとこう抜けるんですよ。抜け出られてるんですよ。

そんなものだって想像だにも出来なかったですよ。それは素晴らしいことですよね。それだからどんな思いがおきたって問題じゃないんですよ。こちらからわかろうするのを捨てる。

小:はい。ひとつちょっと、僕わかんないところがあって、そういった心の安寧ですかね、その安定というか、そこを獲得するというのか、一つの目標ではありますよね。で、あともう一つの目標として、この世界を自分との関係といいますか、自分が無くなる瞬間とか、その辺も坐禅の方で、こうまあ体験するといいますか、それをこう求めたりするんですか。

老師:あなただってそうじゃない。今、そう。今あなた様はどこにいるんですか。それ、そう聞かれない前は、どこにいるのか知らなかったんでしょう。その位知らずに出来てるじゃない。

小:はい

老師:どうしても、こう悟りだなんだかって、すぐそっちへ、それらしいものを追っかけるんですね。ご自身が今その生活出来てるのに、そっちの方に行かないで、どうしても向こうの方に悟りらしいだって、向こうに求めたがる。そうでしょう。いちいちの活動がもうそうですよ。いつでもこう思考が中心になってるんですね。今のこの有り様がいつでもこう疎かになる。疑問が起きないんですよ。

だからお釈迦様は、先ほども話しました様に、生病老死という疑問を解決したいということで、ヨガの先生も下について6年間も、身も心も本当にね、こうズタズタになるほどやったんですよ。やってみて、ご自身がこう一向に生病老死の問題が解決しない。

まあこんなことやってもしょうがないやって言うことで、そこを離れて、たぶん山に行かれたんでしょうね。それでお釈迦様はご自身のこの

今まで6年間した修行を点検したんですよ。何が問題だったのか。何故あれだけやったのに生病老死が解決しない。そしたらですね、いつもこちらからですね(手で自分から向こうに働きかける仕草)生病老死を解決しようとこっちの方から運んでた。だけども、まあここまでは大体普通でも人間の考え方をもってして解かるんですよ。ああ、こうやってたねって。

だけど、これがお釈迦様、よくこんなことに気がつかれたなって。だけども、こちらからこう解かろうとしなくたって、ホラちゃんとあるじゃないか。わかります?向こうにある。これはこうわかろうとしてあるんじゃないんですよ。わかろうとしなくたってあるんですよ。

これ一体何なのかって。これは疑問にならないんですよ。これが疑問になってって言うんですから、お釈迦様。それで、一つの見解ですよ、わかろうとか、わかるとかいらないんです。向かうとあるんです。この有り様だけで、こちらからわかろう、わかろうって言う、捨てちゃう。だめだったんですから。それ捨てたんです。ね。ほっといた。でこの有り様だけで行ったんですよ。これが坐禅です。こちらから運んじゃ駄目なんです。

小:その有り様を知る機会が坐禅ってことですか。

老師:それ知るんじゃなくて有り様のまま。知ろうとしたら、こっちから運ぶんです。これは、だって知ろうということ要らないじゃない。向かうとあるんです。知ろうとしたって、しなくたって、ちゃんとはっきりある。こっちからこうやって運んで知ろうなんてこと要らないです。それを捨てていた。

今までわかろう、わかろう、生病老死を解決しよう、解決しようとこうやって躍起になってやってた、それ。それ駄目だったんです。でもわかろうとかわからないとか言うこと無しにちゃんとこうある。それになろうとかなるまいじゃなくて、其の有り様だけでいかれたんです。それが坐禅なんです。

そしたら、向こうもこっちも消滅しちゃった。わかんなくなっちゃった。それ、今の有り様です。あなた様の。今もう経験してるでしょう。それに頷けるようになれば良い。特別なことじゃないです。既にできてるんですから。だから、そういうもの向こうへ追いとくと駄目でしょう。追っかけ回すから。こっちから行こう行こうとするから。

これは道元禅師さんも言われるように、自己を運ぶ、これ迷い、こっちから行ったら迷いになる。万法にって、向こうから証せられる、これを悟りという。もう、明確なんです。

思いと活動は別々

小:万法に証せられる中に、例えば自分が何か食べたいってのも、入ってるってことですよね。

老師:そうですよ。食べたいってのは食べたいって言うだけで。

小:なるほどそうか、そうですね。

老師:ええ。だけど、人の考え方、食べたいって言うことの思いによって活動とか言うことになるんですよ。食べたいって時は食べたいっていう思いなんですよ。活動のときはそれと関係ないんですよ。関係ないって言うよりも、関係あるでもない、関係ないでもないんですよ。

それは関係あるんですか、ないんですかって、人の考えじゃどうしようもないことを、人がどうこうしようとするから、混乱するんですよ。わかりますか。

小:ああ、はい。考えでどうにかしようとするところが混乱で、まあ食べたいんだったら、そこでご飯をたいてしまって食べてしまったら、解決しちゃうんですよね。


思いの作用

老師:だって、食べたいって言うときは食べたいんですよ。そういう作用ですよ。これが動く時は動くんですよ。其のときは食べたいって言うことはもう無いんですよ。でも人は必ず、食べたいって思いがおきたからそういう活動が、って言うことです。繋いでしまうんですよ。このものの活動はそうじゃない。食べたいって思いが生じた時は生じたんです、すぐ消滅しちゃう。そういう活動がある場合もあるし、無い場合もある。ひとはそうやって繋ぐから、この活動がそういう思いがおきたからこの活動になったって。当てはめてるだけなんですよ、考えで。

それは事実と違うんですよ。そういう動きがあったって、そういう動きが、私は食べたいって思いによって動いてますって行ったためしが無いんです。だけど人は当てはめるんですよ。そういう考えがおきたから活動がある。思いとしてのものは生じてすぐ滅している。活動としてのものもすぐ生じて滅して、何の関連性も無いんですよ。ないんでもないあるんでもない。どうしょうもないですね。ひとはどうしても繋ぐ、考えで繋ぐ。取り扱ってね、其れをわかろうとする。それだけ余計なことです。

小:これ、何でしょうね。頭で考えてわかるってことじゃないんですけど、この漠然とした、この働きですか。ここを感じるというか、何というんですか。

老師:ですから、意が止む、意が止むって言うことがあるんですよ。こちらから働きかける、これが止む。思いをほっとけばほっとくほど止んでくるんですよ。どうこうしょう、どうこうしようの内、どうこう要らないことがわかって来るんです。わからないじゃないんですよ。それをやると必ず、どうこう要らない様子がこのものの有り様によってですね、どうこうなんて要らないことがこうわかる。どうこう要らない、だから尚更こう思いをほっとけるようになるんですよ。そうすると、もうどうこうしなくなる、一切。そこまで行きゃいいですよ。

そうすると全部このものですから。疑いの余地がおきない。疑いの余地がない。すべてがそのものの、其のことですから、疑問が起きない。思いが完全に止んだってことじゃないから疑う。本当に止んでしまったら疑いが起きない、そのものだから。

どっちがどっちだかわからない。二つになってるから疑いが起きるんです。つながりがあるんじゃないかって疑いが起きる。もう、そのものですから。


小:先ほどの泡って話があってですね、自分てのは泡も自分だし、其の泡を生み出してる、其の水も自分だってことですよね。

老師:ですから其の区別は付かないんです。区別は考えでつけてます。

小:私たちは出てきたその泡、まあ思考の其の泡を、ずーっと見続けてしまうところでこう問題が起こってきてるってことですね。

老師:見続けるってことできないです。

小:見続けることはできないんですけどね。


老師:それ考えですよ。言葉ですよ、見続けている。一々の処でこうやって切れてる(両手でパンパンパンと打つ)まあ表現すればね。繋ぎようがないんですよ。そういう在り様ですけども、考え言葉は、言葉を用いると何か繋がって、向こうからこっちへ来たっていうのね(右から左へ)これからこっちへ(左から右へ)来たって言う。

向こうからこっち来たって言うと、向こうがあってこっちがあるような気がする。向こうの時は向こうなんですよ。こっち無いんです。こっちにいる時向こうは無いんです。考えにすると、向こうからこっちへ来たって言う、向こうがあってこっち来た様な錯覚を起こしている。

小:頭が其の間をつないじゃうんですね、勝手に。

老師:思考というのはそういうもんです。二つないと思考にならない。考えにならない。相手が無い。そうですよ。一つっていうのは考えにならないですよ。

小:あーそうです、考えになる時は二つになってるってことですね。

老師:そうですよ。考えってのは二つにならないと考えにならないんですよ。向こうそしてこっち。向こうからこっちって考える考えは向こうを認めこっちを認め、事実は向こうの時は向こう、こっちの時はこっち。

そういう考えは素晴らしい作用なんです。これに誤魔化される。これに誤魔化されてるから、私たちは本当にご苦労しちゃうんですよ。

小:まあ、ある種日常生活を何かこう事務的に何かやっていくっていう点では良いのかも知れないんですけど。

老師:事務的に。だって、其れだってあなた様は考えによって事務的なことが処理されている様な、そういうのだって錯覚ですよそれ。もう全てですよ。全てのその活動ってんですよ。大きな宇宙って言うんですよね。宇宙全体の活動自体がですね、活動自体が始めも無く終わりも無いんですから。

そういう活動ですよ。わからないっていうことですよ。だけど人は分かるもんですから、それで、分かるから問題がおきただけなんです。分からなきゃ問題にならないんです。

小:分かろうとしなきゃいいってことですね。

老師:分かろうとしなきゃいいってのは考えです。

小:ああはあ、もうとりあえず考えちゃうんですね。


坐禅で思いの縛りは解ける

老師:それ位考えが中心になっちゃうんですね。何かすっとこうやると、其れに対して思いがおきてくる、次々次々。そういうまあ癖っていいますか。癖って言うとそういう癖としての実体がある訳じゃないですけれど、皆そういうことでしょうね、身に付いちゃってる。

だけど身についてるたって、別に実体があるもんじゃないから、放すんですよ、全て。思いでそれつくりだしたもんですから、だからその思いを放して。それが坐禅ですよ。で、必ず解けちゃう。自分の思いでこう縛っただけ。それを放せば本来の在り様に。無いんですから。

小:坐禅をしてると、そういうものが解けていく作用もあるってことですね。そういった思考が、癖が解けていく作用みたいなものがある。

老師:ですから、解けるから、解けて来てる様子があるから、尚更できるんですよ。その在り様があるから、でなきゃ出来ないですよ。はっきり言って。それって分かるから、自分で。それだからやるじゃない、よしって。

小:そうか、そこを言ってくれる人いなかったな。

老師:当然そうですよ。それ分かるから。分かるから、今度は勢いが、弾みが付くんですよ。そりゃあなた様やって坐禅ですよ。犬とか猫と同じように座ってるだけじゃだめですよ。捨ててかかるんですよ、思いを。思いをほっとく。

ほっとければほっとけれるほど、こんどは 万法の方って言いますかね、環境の方から証明されるから、だから思いが止んでくるんですよ。要らないってことが分かるから、思いでどうこうする必要が無いってことが分かるから、思いを尚すててかかれるんですよ。

小:あーまあ、その坐禅をすると静まってきますよね。静まりますよね、その思いというものがもう無くてもいいてこともわかるし、

老師:こりゃそこに関わりないってことがわかるから、それで思いを捨てにかかる、ほっとけるようになる。でなきゃほっとけないですよ。

小:そのままで良いって感じられますものね、確かに。その深くこう坐禅してる時って何の考えも要らない、出てこないし。

老師:いや出てくる時は出てくるじゃない。どういうわけで出てくる。それが邪魔にならない。消滅しちゃう。そういう様子が自分で分かるから、ああ邪魔にしてるから問題になるんだな、ほっときゃいいんだなってことになる、当然。

小:ありがとうございます。

老師:だから外に行かないんです。道元禅師さんが普勧坐禅儀の中で、本当に明確に言葉、表現をかえて、同じことを何回もいろいろお示しになってます。そのとおりにして頂ければ良いんです。もう経験者ですからね。ご自身の経験したことをお示しになっている。

だからあそこに、言を尋ね語を追うの解行を休すべし。坐禅している時いろいろな思いが起きてくるでしょう。それをどうかなこうかな、ああかなって、それが言を尋ねている様子。そっちの方に行こう、こっちの方に行こうって、今度言をわかりたいって言う、何かってことを分かりたい、其れをこうやめてみなさいって。

これをやっていただければいいんです。そうすると、こんどは回向返照の退歩を学すべしってのは、必ずこちらの方向に証明されてきます。

小:よいお話ありがとうございます。


老師:余計なことは私いえませんけれども、そういうことで行じて頂ければ、必ずどなたも、いちいちが出来てるんですから、ご自身が今、錯覚、思考の上で、考えの上で、そういう活動が生じているような錯覚を起こしているだけなんです。だから、そういう錯覚、思いをこうほっときゃいいんです。そうすると、その活動自体になるから。そうすると否応なしに分かるんじゃないですか。ああ本当にその通りだって。

ほかに行かないですよ。悟りなんて追っかけなくたっていいですよ。訳の分からんものを。否定する訳じゃないですけどね。やたら、そういうことばっかり話題になって、肝心な方に行ってないもんですか
らね。

小:坐禅した方がやっぱりいいんですかね。

老師:やっぱり、お釈迦様の後の祖師方の有り様みたって、やっぱり坐禅なんですよ、どうしたって、こう考えだと行き詰っちゃう。

小:ああ、そうかそうか、考えで考えていくから行き詰っちゃう。

老師:行き詰るんですよ。もうどうしょうもなくなるんですよ。だから坐るんです。坐ったんですよ、祖師方も、どうしょうも無くて。で、こう坐るってことは、放すんですよ。こうやって、こう分かろう分かろう、分かろうとしてたんですよ、祖師方だって。

そういうことがわからないから。そのことが問題だって分からないから。一生懸命何とかって、分かろう分かろうとしてた。で行き詰っちゃったんですよ。それで今度はいいやって放した。

其れが坐禅ですよ。放す。大方は、どなたも逆やってんですよ。わかろう、分かろうって。そのことで何とかなるんじゃないかって。思考の範囲ないでやるとそんなもんですよ。それが苦悩の根源なんだなんてのはわからなかった。一生懸命やったんですよ。やればやるほど深み、なんていうんですか、どうしょうもなくなる。で、もうしょうがないやって、捨てたんですよ。それではっきりされた。坐禅ていうのは当然です。

坐禅ていうのは坐るだけじゃないですよ。坐禅ていうのはいろんな思いがおきて来て放っておくということです。捨てておく。だから今でもできるんですよね。四六時中。行住坐臥。坐禅だけやってたんじ
ゃ間に合わないですよ。

小:ああそうか、四六時中の行動の中でも。

老師:思いが起きるじゃない、其れを捨てておく、捨ててかかる。捨てとくんですよ。まあ捨てて措かれてるんですけども。これやってみなきゃわからない。捨てて措かれてるんですよ、っていってもどうしてもそんな気しない。やっぱりやってみなきゃわからない。捨ててかかるんですよ。

坐禅だけが一番好ましい、好ましいってことは無いわけですよ。行住坐臥ですよ。立って仕事したり何たり、とにかく思いをこう捨てておく。何も別の作用じゃないですよ。坐って坐禅してるのも、お仕事したって何したって、別に別な作用じゃないんです。人の考えで区別してるだけ。それほっときゃいい。行住坐臥全部坐禅なんです。そうなったら問題ない。

小:ありがとうございます。何か一杯貰っちゃったみたい。

老師:そんなことないです。

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