櫻井

 縦六尺五寸、横五尺、深さ一丈にして、水質清冷、旱天にも枯れることなく、清泉甘味なり。

「大阪府誌」

 六万寺の櫻井の由来は、この櫻井と言う井戸があったことからです。

 現在は埋まって宅地化されて残っていませんが、河内の名所として名高い井戸だったのです。
  
 そこに、
 曾て関白藤原房嗣来りて一首を詠じたり。

 汲めば散る汲まねば底に影やどす花の香を汲む櫻井の水

                         「中河内郡誌」

 と、ありますが、この一首、実は・・・

 文和元年(1352年)の古文書に記されていて、南北朝時代の真っただ中であり、詠じた関白・藤原房嗣とは、それより100年ばかり後の人物なのです。

 後の時代の人が詠んだ歌を、前の時代の人が書き記すことは出来ません。

 では、この桜井を詠じた一首、はたして誰が詠んだのでしょうか?





 この古文書には・・・

 櫻井の井戸の名の由来も記してあり、

 そのむかし帝が吉野川の水上で狩りを催されたとき、獲物をたくさん捕えて大功有ったものがいた。

 帝、感じ入って、そのものに川上という氏を下し与え、吉野の桜を一本、そのものの里の名水を湧きでるという井戸のそばに移し植えさせたまえたとあります。

 それ以後、その井戸のことを櫻井と呼ぶようになり、西行法師も旅の途中、櫻井に立ち寄り喉を潤おし、

 汲めば散る汲まねば底に影やどす花の香を汲む櫻井の里

 と、詠んだとあります。


 するとこの歌の作者は西行法師?

 しかし西行の歌集には、この歌を見出すことが出来ないのです。


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 西行・・・

 元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日) 
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。
 俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。
 藤原氏の出自で、18歳で左兵衛尉に任ぜられ、鳥羽院の北面武士としても奉仕していた。
 和歌と故実に通じた人物として知られていたが、3歳で出家して西行と称した。
 出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。
 と、Wikipediaにありますが、ひとつ気になるエピソードが、

 西行が高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。
 しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く声もか細く魂も入っていないものが出来てしまい高野山の奥に捨ててしまったという。
 その後、人を作ることはなかった。

 なんと!フランケンシュタインをつくろうとしていたのです。

 高野山の奥には西行法師が造った人造人間が今も徘徊しているのやも・・・


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 そう思うと、櫻井の歌が西行の歌集に残されていないのも、なにかいわくのある事やもしれませんね。

 謎が謎呼ぶ、歴史のミステリー・・・

 


ねかはくは 花のしたにて 春しなん 
そのきさらきの もちつきのころ 
(山家集)



 西行の最期の歌です、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれています。



2018年3月11日公開