6000河内湾



kitunekao 「あんなァ、むかし瓢箪山は海岸やってんでェ。」



 7000年ほどの大昔、河内のくには、海の底でした。

 現在より数℃ほど暖かく、現在より海面が2~3メートル高いため、 河内湾 と呼ばれる入江になっていたんです。

 地上に出てるのは上町台地だけ、生駒の山裾が海岸線だったのです。

 なんと!河内湾には鯨すら泳いでいたんです。



kitunekao「ほんでなァ、海がふさがって湖になりよったんやァ。」



 時代が下るにつれて、大和川が運ぶ土砂によって上町台地が北へ北へと伸びていったために、河内湾はふさがれてゆきました。

 そして大和川が運ぶ水によって淡水化されて、古墳時代のころには 河内湖 となりました。

 河内湖は、ゆっくりと縮んでゆきました。

 中世には今の大東~鴻池あたりに、深野池新開池 という二つの大きな湖を残すのみとなって湿地化してゆきました。

 当時の大和川は、河内平野に出ると、流れ道を上町台地にさえぎられるために、蛇行しながら河内平野を北に北にと流れていったのです。

 そして、河内の低湿地を長瀬川、玉串川などに分かれて乱流し、深野池・新開池に流れこみ、そこから西流し淀川と合流して大阪湾に注いでいたのです。



kitunekao「せやから、河内のくには河ンなかやってン。」
 


 長瀬川 は、今では想像もできないのですが、広いところでは川幅700mもあり、大和川の本流として河内の里を潤おしてきました。

 玉串川 は、今の近鉄花園駅付近で菱江川と吉田川に分かれて、その船着場は各地の物産を集めて定期的に市が開かれていたため 市場村 と呼ばれたそうです。

 両川はともに奈良・河内・大阪を結ぶ重要な水運の拠点であり、剣先船 の往来で賑わっていたそうです。




 大和川は 天井川 で、何百年もの間の土砂が積み重なって、川底が両岸の土地より高くなっている川です。

 その大和川、もともと保水能力の高い山地をひかえているため、こと梅雨や台風ともなるとそれが仇となり、山地や盆地で蓄えられた多量の水が吐きだされて、急流となり、北上する川からあふれ出して水害となるのです。

 まして周囲の土地より高い天井川、一旦氾濫すると洪水の被害をさらに大きなものとしていました。



大和川付け替え



kitunekao「そこでなッ、大和川を付け替えたんじゃァ!」



 今米村の庄屋・中甚兵衛 を中心とした河内の百姓たちが、たび重なる洪水の被害をなくすため 「大和川の流れの向きを九十度変える」 という凄い事を考えだしました。

 そして江戸幕府に直訴して50年にわたる付替の運動が展開され、ついに宝永元年(1704年)に大和川の付け替え工事が行われました。

 付け替えられた大和川は、現在のように河内平野を西流して大阪市と堺市の境を通り大阪湾に注ぐようになりました。



kitunekao「水が引いたらナ、みのりの里となったんやデェ」



 付け替えられた元の大和川は小さな運河や新田へと変わり、深野池や新開池は水量が減少して、鴻池新田 として開拓され、実りの大地と化しました。

 旧河床は、元々が砂地であり稲作には不向きであったので、木綿の栽培が盛んになり、それらは 河内木綿 と呼ばれるまでになったのです。

  


 河内のくには、大和川の恩恵と脅威を受けて、その歴史は刻まれてきました。

 ほんの少し前まで、河内平野は豊かな田園風景の続く水郷地帯であったのです。

 瓢箪山から西を見渡すと、池島・玉串・若江などのわずかな旧村を除くと、今では想像できないほどあたり一面水田ばかりだったそうです。

 まさに河内のこころは、河のなかに有ったんですネ。



※ まいぷれ東大阪さんに掲載したものに加筆しました。


2016年6月30日公開