最初から読む

─その十六 より

 びっくりしたよ、あの時は。お母さまなんて上品の言葉で呼ばれたことないからね。
「花枝ちゃんかい」
「はい。やっぱりお母さまですのね」
 もう五十五、六歳だったろうね、花枝も。高等学校の校長夫人だから、品もいいよ。これが二才の時に捨てて逃げた娘だと思うと、目をうたがったよ。ひどい女だよ、あたしゃ。不公平がきらいだなんて、生意気な口をきけるがらじゃあないんだよ。
「ごめんよ、花枝ちゃん。ごめんよ、お母さんはねえ……」
 あたしゃ、いろいろ言い訳みたいなことを言おうとしたんだけれど、口にはでなかったよ。あれ以外に方法はなかったんだとか、お父さんがひどい人だったとか、字が書けなくて便りも書けなかったんだとか、とても言えなかったよ。ただ、花枝を抱いて泣いたよ。はたから見れば、抱かれているのはあたしのほうだよ、小さな婆さんなんだから。
 花枝は火事のことを知って、わざわざ熊本からきたんだよ。ちゃあんと家が建ってからきたのも考えたんだろうね。あたしゃ隆夫と会わせてやりたかったよ。
 花枝と会ったのは五十何年ぶりなんだからねえ、苦労かけちゃったんだねえ、あの娘には。

 あたしの一生なんて、能登の海に流れこんでいく笠師の小川の水のようなものだねえ。いや、あの小川に浮かべて遊んだ笹舟だよ。だれにも逆らうわけでなし、流れるままに流されて、風が吹けば、どんどん早く流れるし、岸にぶつかると、しばらくとまってさ。
 笹舟も、海に流れ込んでしまえば、もうおしまいだね。笠師の川は、小さな、ちょろちょろ流れている川だけど、海にはいれば、もうそれまでだねえ、笹舟は。」
 
おしまい
 
父・金子徳好の遺稿から書き起こした『カミさん棟梁』はこれでおしまいです。この物語は父方の祖母・ハツイをモデルにして父が小説にしたものです。登場人物の一部は名前は架空のものになっています。


本作「カミさん棟梁」著者・金子徳好の本『ゼッケン8年』を電子書籍化しました。 

「どんな運動も最初は一人から」
 
「ベトナム戦争に反対して一人で始めた〝アメリカはベトナムから手をひけ〟ゼッケンデモは8年も続けることに」
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表紙05