グループ展「遅速を愛す」に出品していただいているモリケンイチさんの作品について、作家から紹介していただきました。
今回の僕の作品は2月に札幌の企画展示で発表した「原風景」を扱った連作の中からセレクトしました。
これらは僕の個人的記憶を介して70年代以降の日本の集合的原風景を暗示しようと試みた連作です。
このシリーズ全体は、炭鉱産業が支えた一時代の北海道を背景に、TV番組やおもちゃなど、大勢が共有した虚構的イメージの刷り込みを中心にしながら、当時の日本が格闘しなければならなかった大量再生産、大量消費文化の洗礼、軍国主義教育と敗戦の名残、技術の進歩と競争社会、核家族化した家族形態やメディアの性表現が生み出した女性と子供への「しわ寄せ」を表現したつもりです。
今回の展示では、その中から産炭地の巨大な赤子、現実の死を前にしたヒーロー、路上に捨てられたピンナップ写真、公園に佇む幻の友、夢で見た運命の3人の女神をモチーフとした5枚をセレクトしました。
技術的にはモノタイプ的手法を応用した、損傷し色あせたプライベート・フィルムを連想させる、普段とは違うテイストのアクリル画となっております。
「裏庭―産炭地の赤子」
この作品は石炭を積み上げたボタ山のイメージを背景に、夢で見た赤茶けた鉄板で組み立てられた巨大キューピーロボを描いたものです。
ボタ山とは石炭や亜炭の採掘に伴い発生する捨石(ボタ)の集積場で、産炭地には必ずある巨大な黒い山ですが、僕が幼少期を過ごした北海道の産炭地でもよく目にした風景です。
ここでは、炭鉱地の風景とその当時に見た巨大キューピーの夢を組み合わせていますが、産炭地というエネルギー産業の影響が甚大な土地で感じた近代的「産業」の巨大な影響力と暴力性が、夢の中で巨大なキューピー人形に「圧縮」されて表れたのかなと思っています。
昭和の高度経済成長を支えた炭鉱産業の野蛮さと、その時代に生まれた人間の文化的志向性を探った作品です。
「海と女ー路傍のピンナップ」
この作品は、少年時代に路傍や空き地に捨てられた青年雑誌の汚れたピンナップ写真に感じた、ある種の嫌悪感と言い知れぬ悲しさを表した作品です。
戦後の日本には様々なメディアを通してセックスイメージが溢れはじめましたが、興味を持ちつつも、路上の泥だらけのピンナップには、この時代の女性に対する扱いが凝縮されているようで、ちょっとした不条理を覚えていました。
見てはいけないものであると同時に、急速に日常に浸透してきた性的表現に子供なりの戸惑いを感じていたのかもしれません。
大和撫子からギャルへと変貌する、敗戦を乗り越えた女性達の脱皮と傷みの記憶がこんな形で頭の隅に残ったのでしょう。
「夢の草原ー3つのペルソナ」
この作品は少年時代に見た忘れがたい夢の一つで、カタルシス(浄化)を伴った夢の記憶を描きました。
3人の女性で表したものが何かは不明ですが、ユング風に解釈するなら北欧神話の世界樹ユグドラシルと3人の運命の女神ノルンといったところかもしれません。
夢の中では徐々に遠景の3本の木に視線が寄っていき、風に揺れる樹と共にバッハのアリアが静かに流れるというもので、泣きながら目が覚めたことを記憶しています。
転勤族だった僕は、当時北海道から離れ別の土地で暮らしていましたが、この北海道特有の風景に強烈な郷愁を感じたからかもしれません。
いろいろあるにせよ人生は美しい夢に違いない、最後にはここに戻って来るんだ。
何故かそんな気にさせてくれた夢でした。
「夜の公園ー幻」
少年時代は転勤族だったので独りで遊ぶことが多く、当時は両親の夫婦仲もあまり良くなったので家に帰ることを躊躇する日も多い子供でした。
空想の中で遊ぶことの多かった僕は、当時TVで見ていた様々な番組のキャラクターが一番の友人だったと記憶しています。
大抵は様々なヒーローものになり切って悪と戦う毎日ではありましたが、Qちゃんやブースカみたいな友達キャラが傍にいることを夢見ることも多かったように思います。
高度経済成長期世代の子供達は、核家族化や労働形態の変化により生じた「ひずみ」を、TVや漫画で埋めてきたのでしょう。
マボロシの友ブースカを、実際にTVで見たのかどうかは怪しいのですが、存在だけはよく憶えているのも不思議です。
全てはいつも遊んでいたセルロイド製のブースカのおもちゃが見せた孤独な夢だったのかもしれません。
「人生のドアー死との出会い」
少年時代のある日、野良犬に噛まれて尻尾や片耳を失った子猫がびっこをひきながら社宅の敷地に迷い込んできて、同じ建物に住んでいた子供たちみんなで介抱したことがありました。
僕ら子供は、何かのTVドラマのように、必ずこの可哀想な子猫も最後には元気になって元の居場所にもどるはずだと信じて看病しました。
同じ子供として、こんなに幼くして死んでしまうはずがないと思いたかったのです。
しかし、その猫は一晩ももたずに死んでしまいました。
そのとき、はっきりとフィクションと現実に一線が引かれたことを感じました。
子供心に了解したのは、目の前に横たわる無残な子猫の死体のように、この世界では目を覆いたくなる残酷な運命が存在しているらしいということです。
現実は、自分の思っている以上に恐るべきものなのかもしれない、そんな予感に慄いた記憶を描いた作品です。
「遅速を愛す」
2019年4月5日(金)~21日(日)