いつもありがとうございます。
秋田俊弥です。

今日は、わたしが
「なぜこの仕事をしているのか?」
その根拠の物語をお伝えします。


なぜかというと、

わたしという人間を知ってもらうために。

また、なんでわたしが、
社長さんの
「なぜこの仕事をしているのか?」
その根拠の物語を書くようになったのか?

その理由を知ってもらうために。


もう、ひとつは、、、

ひとの物語を読むことの意義です。


もし、あなたが

「自分の軸を明確にしたい。」

「自分が誰のためにお役に立ちたいのか、
明確にしたい。」

「このところ少し元気がないので、
元気エネルギーを吸収したい。」

と思っているとしたら、

そのような方のために書きました。

なぜかというと、

人の物語を読むことで、
その中にある波動、波長、エネルギーが
あなたの中の体験とリンクします。

そして、
眠っていた記憶、
眠っていたエネルギー
眠っていた魂
が動き出すのです。

それが、【心の声を明確にする】ことでもあります。


それでは、
「わたしが【心の声を明確にする】を使命に掲げている理由」
お届けいたします。



わたしが【心の声を明確にする】を使命に掲げている理由。


【第一章 「勉強できない自分は、自分じゃない」】

わたしは、父の影響を色濃く受けています。
わたし自身のことを振り返るために、
まずは、父の話からお聴きください。

父は、8人兄妹の長男。

大学入学と同時に、父親を亡くす。
7人の妹弟と母親を養うために、
大学に籍を起きながら、アルバイト。

さらに、アルバイトが終わった後に、
大工さんに教えてもらいながら、
自分で家を建てる。

このときの頑張りで、20代で
すべての歯が抜けます。

その後、これからの日本を考えたとき、
金融と貿易だと考え、北海道庁を退職し、
金融の世界へ足を踏み出す。

いつも、将来を見据え、計画的に生きる。
しかも、強い「信念」を持って。


そんな父に、わたしは育てられました。


小学6年の夏、
仙台から札幌に転校したことを境に、
わたしの人生は、一変します。

仙台の田舎の小学校では、
毎日野山をかけめぐったり、
カキーンと野球、野球の
楽しい日々。

さらに、大人しい性格だったのですが、
まわりの推薦で、生徒会長に選ばれました。
多くの人に囲まれて過ごしていました。


それが、小学6年の夏、札幌に転校。
4つ目の小学校でした。

今まで、遊ぶことで生き生きとしていました。
そこは、勉強が主の世界でした。
壁には、勉強の成績や手を挙げた回数などが
貼り出されていました。

毎日、毎日、
学校に行くことがイヤでイヤで
たまらなかった。

転校、転校で、
いつも友だちを作ってはなくなる。
そして、またゼロから作る。

「またかよお……」

そんな辛さがありました。

そこに、勉強という新たな価値観で、
自分の存在を見られる。


中学になっても、
いままで勉強をしたことがない
のでできない。

あれほど好きだった
野球もやる気は
起こりませんでした。

そんなある日、父から言われました。

「おまえは、医者に向いている。
医者になるなら、
札幌南高校に行ったらいい。」


この言葉を、わたしは、

「おまえは、医者になりなさい。
医者になるには、
札幌南高校へ行かなければならない。」

そう思い込んだのです。

札幌南高校というのは、北海道一の進学校。
そこに入るために、勉強できない自分と
医者にならないといけない自分の狭間で、
聴こえてきた声。

「勉強できない自分は、自分じゃない。」

父と学校から、勉強が絶対だ
という風に押し付けられている、
そう強く感じました。

いつもなにかするときには、
勉強ができないために
「自分はだめだ。」というささやきが。

それからです。自分に自信が持てず、
自分の殻に閉じこもるようになったのは。



【第二章 「おまえ、少し疲れているんじゃないか?」】

毎日コツコツ勉強をして、なんとか
札幌南高校には合格できました。

念願の高校に入ったはいいのですが、
ビリから数えた方が早い成績。
ものすごい劣等感にさいなまれました。

しかも、理系は苦手。
一年生が終わる頃には、医者の道は
諦めました。

ただ、医者を諦めたことを、
父に言うことはできませんでした。

目の前にいないのに、
いつも父の目が気になる。
自分の思うような行動が取れない。

当然、父の前では、
言いたいことはいえません。


「なんで、こんな人間になったのか?」


無性に自分のことを知りたくなりました。

友人から勧められた精神分析の本を
読んだときに、がく然としました。

高圧的に指示し、わたしの言うことを
最後まで聴いてくれない。
自分の考えを押し付ける。

だから、言いたいことも言えずに、
親父の言いなりになってしまった。
こんな自分にしたのは、親父のせいだ。

それから、もっと自分を知りたい、
もっとこの不可思議な人間を知りたい
と思いました。

そして、哲学や心理学の本をむさぼり読む
ようになりました。


ある日、家族で、大学の進路についての話になったときのこと。

わたしは、

「理系は向いていないので、
文系に行く。心理学科に行きたい。」

と話しました。


すると、父は、ぴしゃりと。

「心理学なんか、
男が勉強するものではない。
文系に行くなら、法学部に行って、
弁護士になるか。

おまえは、おっとりしているから、
経済学部に行って、
長期信用銀行のようなところが向いている。」


わたしは、わかってもらえないと思うと、
そこから、心をかたく閉ざして、
黙ってしまいます。
言葉が出てこなくなるのです。

ただ、黙れば黙るほど、心の奥底では、
憎しみが塊となってこびりつきます。

「ぜったい、許さない。」

そんな憎しみが大きくなっていきました。


結果としては、一浪して、大学に合格し、
文学部哲学科に進学しました。

毎日、一人で本屋や図書館に行き、
全部読めないにもかかわらず、
毎日3冊くらい本を買っていました。

学校へ行くと、みんなはコンパやテニスと、
チャラチャラしていることがいやでした。

それで、益々一人の世界に入っていきました。

人と接しないで、毎日本屋に向かい、
本ばかり読んでいると、
頭の中は、生きた感覚はなくなっていきました。

一方では、
みんな勉強もせずに遊んでばかりだ、
と否定の感情に包まれました。

そして、
一年の夏に大学を辞めることにしました。

父にそのことを、恐る恐る話しました。
自分が選んだ道なのに、簡単にやめるとは、
根気がないと怒られるのではないかと恐れながら。


すると、父が話した言葉は、

「おまえ、疲れているんじゃないか。
少し休んだ方がいい。

大学はいつでもやめられるから、
席は残しておきなさい。
もどりたくなったいつでも、
もどったらいい。」


この言葉で、救われたと思いました。

一人でトコトン頑張り続け、実は、疲れ切っていたのです。
そのことわかって、受け入れてくれた、
父の存在が、ものすごく大きく感じました。
この上なく、ありがたく感じました。

そして、人間の心のベースになるものは、
家族だ、家族が最初で最後の砦だ、
と強く思ったのです。

その後、父のこの言葉に従い、
わたしは、
頑張ることをやめて、ゆっくり休むこと
にしました。



【第三章 「人一倍仕事ができない、自分じゃない。」】

大学は1年留年、3年間休学しました。
最終的に、7年かけて卒業しました。

新入社員として自動車部品メーカーの営業として入った
のが、26歳。現役で卒業した同期とは、4年遅れ。

会社に入ったとき、同期入社のみんなから、26歳だ
というとびっくりされ、とてもカッコ悪い自分がいました。

会社に入って3ケ月経ったとき、わたしの教育担当だった
ベテランの先輩が突然会社を辞めました。
その人の仕事の半分が、新入社員のわたしに降りかかりました。

その日から、毎日12過ぎまで仕事をして、会社の車を吹っ
飛ばし独身寮へ。熟睡する間もなく5時半には起きて会社へ。
日曜日も休日出勤。がむしゃらに仕事をしていました。

その原動力は、4歳も年下の人間と同期でのスタート。


だから、

「人一倍仕事ができない自分は、自分じゃない。」


お客さんの工場長とも一人で、納期の交渉をしていました。

購買の課長さんからは、電話口で、わたしがモゾモゾとしゃ
べると、ガチャンと電話と切られました。そのたびに、すぐ
に飛んで行って、「すいません。」とあやまり、用件を必死
に聴きに行きました。


なにもかも新入社員なのに、一人でやり切っていました。
心の中では、「なんで、だれも助けてくれないんだ。」
という声なき声をつぶやいて。

1年目の冬休みになった途端、高熱でバタンと倒れました。
もう体がもたないのと、だれも助けてくれないので、
「こんな会社、辞めてやる。」
と1年経ったところで転職しました。


その後、電線メーカーに12年。その後、ヘッドハンティング
されて大手通信会社へ。

会社を辞める理由は、
「自分一人だけ必死に売上を達成するために頑張っているのに、
だれもわかってくれない、だれもついてきてくれない。
だったら、こんな会社辞めてやる。」
という声に導かれてです。

大手通信会社で3年目に、営業マネージャーから技術の部長に
任命されました。マネージャー7人、部下70人を束ねる部長。
しかも、営業マンではなく、技術職の人の長。敵の中に一人
放り込まれた感がありました。

しかも初めての部長職。
「部長とマネージャーとは違うんだ。
部の責任を負っていないマネージャーには
自分の気持ちは理解できない」。
そう想うと、本音で話すことができません。

同じ技術部門の部長さんとは、
「営業出身のわたしの気持ちはわからないだろう」。
そう想うと、部長同士の相談もできません。

営業のときの仲間とは、
「技術の立場なんて、わかってもらえないだろう」。
そういう気持ちがあり、話しができない。

会議に出て、よその部署の部長に
「こんなことをして欲しい」
と依頼をすると、「それはできません。」の一手。

営業からは無理難題を一方的に言いつけられる。
だれにも、心を開けられず、孤立無援。

さらに追い打ちをかけるように、
社長直轄の大プロジェクトの
プロジェクトリーダーに社長から任命されました。

朝から夕方まで会議。夕方、自分の席に戻ると、
マネージャーからの相談。
しかも、今日中に営業に回答をしないといけない。

「なんで、もっと早く相談しないんだ。」
という怒りの気持ちを胸にしまい、
営業部長と交渉。

20時すぎて、みんなが帰ってから、
自分の仕事とプロジェクトリーダーの仕事。
帰宅は、毎日タクシーで朝の3時。

プロジェクトを修了させた途端、
バタンと倒れました。
胃潰瘍になっていました。


そんなときに、ある日一本の電話。

「ひとの役に立つ仕事をしたいと思いませんか?」

寝る暇もなく、心を休める暇もなく、
追いたてられるように仕事をしていたわたしに、
「ひとの役に立つ」という言葉は、
救いのように思えました。

全然動かない組織の壁。
まったく相談のないマネージャー。
無責任な営業。
組織や人にうんざりして、
すべては自分の責任でできる。
その想いで、絶対にやらないと決めていた、
生命保険の営業に逃げるように転職しました。

43歳のときです。



【第四章 天から言葉が降ってきた。】

43歳で、初めてのフルコミッションの営業。
しかも生命保険。

じつは、入社早々の社員研修の夜。部屋で
一人になったとき、涙が出てきました。

「この選択は間違っていた。自分に向いていない。
前の仕事がいやでここに逃げてきてしまった。
しかも、フルコミッションというリスクの高い仕事
を選んで、家族に迷惑をかけるかも。」

その時の正直な気持ちでした。

翌日からは、この気持ちをかき消すように、
モーレツに仕事に向かいました。

営業をスタートしてからは、とにかく人に
会いまくりました。

アポを取っては、面談。多いときは、
1日13人の人と会うこともありました。

結果、1年目は、新人賞、社長賞、海外旅行
キャンペーン入賞、と、すべての賞をいただ
きました。

ところが、心の中は、いつも追い立てら
れている。気持ちが休まることもない。

その気持ちの通り、1年目、3年目と成績
は落ちていきました。3年目には、家族
3人で生活するには、毎月の赤字が10万円
まで落ち込みました。

5年目を迎えたとき、どん底の成績からは
持ち直しましたが、やる気が出てきません。

セミナーに行ったり、勉強会に行って、
営業トークを磨きましたが、やる気が長続
きしません。

仕事をこなしているだけで、なんのために
この仕事をしているのか、わからなくなって
きたのです。


そんなとき、営業トークも必要なく、社長
さんの話を聴く=インタビューするだけで、
紹介が生まれ契約になるという営業方法を
知りました。

もう、すべてを捨てて、社長インタビュー
に賭けてみようと思いました。

ただ、
わたしにとって、なぜ、社長さんだったのか?

何人かの零細企業の社長さんを訪問すると、
仕事の悩みだけでなく、社員のこと、さら
には息子さんのことなどを時間を気にせず
に、わたしに正直に話してくれました。

わたしを必要としてくれている、というよろ
こびがありました。そして、一人で頑張って
きたわたしの孤独感となにか似た雰囲気を感
じて、社長さんのお話に食い入るように聴い
ていました。

社長インタビューが40人くらになったとき、
ある社長さんから言われた言葉が忘れられません。


「秋田さんのインタビュー、すごくいい。

自分は、なんで若き起業家を応援する税理士
になったのか?

今日話してみて、中学のときの“あの”体験
からなんだということが、わかりました。

今後、今日話したことを、自信を持って、
クライアントに話すことができます。」

このように、力強くご自身のことを話される
社長さんをはじめ、わたしのインタビューを
気に入っていただける方が急激に増えました。

結果、紹介もたくさん出て、毎日3名の社長
さんとお会いできるようになってきました。


社長さんの話を聴くことで、初対面なのに
距離がぐっと縮まることで、わたしの中で、
ひとつの変化がありました。

当時参加していた経営者のための勉強会後
の懇親会でのこと。

テーブルには、40代の男性3人。誰とも
なしに父親の話になりました。

同席の人たちは、たまたま父親に壁を感じて
いる人ばかり。

みんなが本音で、
「あの親父許さない。」とか
「もう8年も会っていない。」
と話していました。

すると、わたしの中からある感情が出てきた
のです。


「おれが、許さない、という気持ちでいたら、
親父、寂しかったんだろうな。」


そう思った瞬間、なぜか涙がこぼれ落ちました。
人前で泣くことなど、まったくなかったわたし。

それと同時に出てきたのは、封印していた父
への想いです。

敬遠してきてしまった父は、
「本当は近寄りたかった。
ぬくもりを感じたかった。甘えたかった。」
そして、「みとめて欲しかった。」
そんな感情も、涙とともに出てきました。


「感情って、いいな。」


父への苦手感は残るものの、当初帰る予定の
なかったに北海道へ帰省することにしました。
それは、わたしがこの時にできる一歩でした。

8日ほどの帰省中、自分から父に近寄るわけ
ではないのに、いつになく2人になることが
多いのです。父が寄ってくるのです。

これまでは、わたしの方が父を避けていたに
過ぎなかったのかもしれません。


「もしかしたら、
お父さんの方が寂しかったのかな。」
「いろいろ言ってしまうのは、
分かり合いたいからかもしれないな」

そんな想いも出てきました。ただ何も言わず
一緒にいるだけでしたが、これまでとは違う
通い合う時間を持てました。

これまで、
「父の否定は自分の否定。
そんな自分は何をやっても無理だな」
とずっと感じていたのです。

父との時間を持ち、父を少し認めることがで
きた結果、自分を信じられるようになりました。

その気持ちの変化が、社長インタビューを加速
させていきました。

社長インタビューが90人くらいまで行った
とき、わたしの中でわいてきた疑問。

「生命保険の営業よりも、このインタビューをする
ことの方が向いているのかもしれない。
でも、これは逃げではないのか?」


そんなある日、天からこんな言葉が降ってきました。


「オマエは、
今まで自分のために一人で頑張ってきた。
 これからは、孤独な社長さんの話を聴いて、
心の傷を癒してあげなさい。

そして、なんでこの仕事をしているのか?
その使命の言葉を紡ぐ物語を書いて、
勇気づけなさい。」


わたしは、「えっ!」と驚きながらも、
天からの言葉に妙に説得されました。

ただ、
「これってなんの仕事なんだろう?
どうしたらいいんだろう?」
そんな疑問から、何人かの方に相談しました。

その中で、この社長インタビューの師匠の
山下義弘さんからこのように言われ、
勇気づけられました。

「秋田さんは、
現状から次のステップにきておられる段階
だと私は感じました。

次のステップ、つまり現状より飛躍する瞬間です。
こんな時は、わがままなくらい、
自分に正直に、誠実にされると良いと思います。
リラックスして、自分のペースで行くことが
ベストだと思います。」


その後、営業コンサルタントの木戸一敏さん、
山下義弘さん、吉見範一さん、庄司充さん、
渡瀬謙さん、森川滋之さんはじめ多くの方々に
応援をいただきました。

さらには「号泣ライター」と
命名していただきました。

2010年、プロフィールライターとして
独立することにしました。



【第五章  わたし秋田俊弥の使命】

2010年4月、第一回のセミナー。
今までわたしがセミナーに参加していたセミナー
講師の方はじめ、30名の方が参加していただき、
大盛況に終わりました。

始めてセミナーでお会いした方からも、わたしの
話を聴いて、「自分も使命の物語を書いて欲しい。」
という依頼も受けました。


その後、プロフィールを作ることでの転機となる
出来事がありました。

2014年1月のある日。一緒にホームページを
作ってきた岩波久雄さんから依頼が来ました。

岩波さんの代わりに、岩波さんのクライアントに
お客様インタビューをして、記事を書いてくれない
かと。

そのクライアントの方は、わたしがプロフィールを
書いた方だったので、ふたつ返事でOKをしました。

実際にお会いして20分ほど楽しくインタビュー。
その後、焼き肉屋で食事会。

翌日、30分ほどで、楽に簡単に楽しく、お客様
インタビュー記事を書くことができました。

自分でも、「この記事はかなりいい。」という
感触がありました。

出来上がった記事を、岩波さんとクライアントの方
に送ると、ふたりとも大よろこび。

「これ、お客様インタビュー記事の最高傑作ですね。」

「想いがよく伝わります。」

この時、かすかな想いが、「この感覚だ!」という
実感に変わりました。

「楽に簡単に楽しく作る感覚。これだ!」と。

そして、わたしが今まで何度となく頑張っては疲れて
あきらめたり、会社をやめてきた理由も見えてきました。


「人一倍頑張らないと自分じゃない」
という強い思い込み。

そこから見えてくるのは、ひとに相談して否定される
のがこわいから、すべてトコトン自分で頑張れば、
いいものができるという思い込みでした。

ひとを信じ、一緒に相談しながら作るという感覚
が欠如していたのです。

一方では、おれはこんなに人一倍頑張っているのに、
誰もわかってくれないという、
相手への非難の気持ちがあったのです。

じつは、自分が想っていること、自分が伝えたい
ことを相手に伝えるということから逃げていたんだ
ということに気づき、衝撃を受けました。

「いままで、おれは、いつも逃げてきたのか。」


そのことに気づいたとき、自分から逃げずに、
自分としっかり向き合う、自分の本当の想い(声)
を確かめることから始めようと決意しました。

自分と向き合い、自分の本当の想い、自分の心の声
を聴く、ここから再スタートしよう。

そして、
わたし一人で頑張らないで、相手の想い(声)
を確認したり、相談しながら、
一緒に作っていこう、と。


ここから、わたしの使命は、
【心の声を明確にする】とすることに決意しました。

そして、
頑張らずに、力を抜いて楽に簡単に楽しくやる
ことを、自分に許して。

自分自身に「楽に簡単にやっていいよ」と自分を
許してから、プロフィールの作成依頼が、3件、
4件と立て続けに来るようになりました。

「自分一人で頑張らないといけない」という意識
がなくなると、お客さんの“声”がよく
聴こえてくるようになったのです。

お客さんの“声”がよく聴こえるようになると、
お客さんが自分で気づき、自分で答えを出せる
ようになりました。

お客さんが自分で話して、自分で気づくこと。
これが、相手の方へわたしが提供する、
【心の声を明確にする】という使命でもあると、
実感しました。


その方々のプロフィール完成後の“声”です。

「初めてのスカイプのときに、自分でも驚き
ましたが、涙しました。
ずっと、心の中につかえていたものが、
やっと吐き出せたことで、
自然と涙してしまいました。


自分をさらけ出せてよかったです。
今まで、誰にも言えないことを抱え込んでいて、
正直、母や兄を恨んでいた。

それが、逆に自分が反省して、最後に、自分には、
勇気がなかったことに気づけたことが、大きかった。」


「自分で気づけない自分に、50歳にして気づけた
衝撃。

その自分に出会えたことが、
 なによりうれしいです。

そして、自分の想いを一番伝えたかったのは、
自分自身なんだと。

毎朝、自分のプロフィールを読んで、
自分を奮い立たせています。」


「秋田さんの聴き取り方はうまい。
心の底で思っていたことが、質問に答えていくと、
自分の言葉で出てきた。

自分に自分で納得。読んでみて、
これは人に胸をはって紹介できる、
という気持ちです。」



最後に、わたしからのメッセージをお聴きください。

わたしの父は、銀行員を定年退職後、60歳から
再度勉強をして、針灸師の資格を取りました。 

最初は、60歳以上の人はリスクがあるので、
資格を与えられないと、学校から入学を断られました。

そこを自分の夢と熱意を伝えると、学校側もその
熱意に打たれ入学を許可しました。

その後、2年間の勉強の末、針灸師の資格を取りました。

父の友人は、若くして、小さな子供を置いてガンで
亡くなりました。そのときの友人の方の苦しむ姿が
忘れなかったそうです。

痛みで苦しんでも、病院でもなにもしてくれない。
その姿がいたたまれなかったそうです。

そこで、定年後は、ボランティアで、末期ガンの
患者さんにターミナルケアとして、針灸で痛みを
取る仕事をしようと、決めていたそうです。

その話を父から聴いたとき、背筋が震えるほど、
感動しました。

わたしは、少しでも父の熱意を受け継いで、
社員を抱える小さな会社の社長さんの話を聴く
ことで、「心の痛みを取る」お手伝いをしたい
と思います。

心の痛みが取れることで、不安なく、
ご自身の使命に生きられることに、
わたしの命を捧げたいと思います。

それが、わたしが授かった使命、
【心の声を明確にする】、そう考えています。


このことを教えてくれた父と、
いつも黙ってなにごとも淡々こなす母、
両親に心から感謝します。
              秋田 俊弥