2008年02月25日

えらぶ・選択

f3400a2d.JPG       えらぶ・選択
                  20・2・25

今朝のメッセージは、私が長年、憶って居たコトの真実が、漸くハッキリと明かされるトキ・時節が到来した事を、神々が示唆して来たモノ・現象の様である。

其れは、神社の鳥居や階段が、不必要な次元の到来である。
本来、人類も、他の地球生物と同じく、地球船の乗組員として、此の宇宙を飛んでいる存在であるから、神社や、鳥居も、階段も、必要無いのが、本来の姿なのである。

だから、釈迦仏陀や、老子や、イエスキリストは、其の様な物の必要性には触れてはいない。其れは、其れ等を設置すると、其の管理や、維持の為に、人間の意識が、其の事に囚われてしまうからである。

神社は、本来、自然の中の聖なる場で、自分の囚われている意識を、浄化する儀式の為に、造られた物であり、単なる、雨風を避ける為の、御籠り所の役割だったのである。

其れに、お寺の存在は、釈迦仏陀の訓えを書いた、経本を置く為の施設であり、其の釈迦仏陀の訓えの神髄も、人間の邪まな心を祓う理を、説明したものであるから、日本の神道の「祓いたまえ 清めたまえ。」の概念と、同じものである。そして、イエスキリストの教えも「建物に 神は住まない」であり、教会の必要性を認めてはいないのである。

だから、其れ等の宗教施設や、概念から、先ず離れる事が、一番の大事であるとの事を、皆が自覚する時節が到来したとの事である。
寧ろ、其れが、釈迦仏陀や、老子や、イエスキリストの教えの神髄なのである。

昨夜、ベッドで目を瞑ると、眠りに入る前に、男性の姿が、左側から右向きに現れ、代々のシャーマンの顔の連続性を示し、「ツール」の言葉を残して帰って行った。

そして、今朝方の映像では、私が、物干し竿ぐらいの釣り竿を持って、港の堤防で釣りをして居ると、突然、強い引きが有ったので、竿を起そうとすると、持っている手の所から、ボキリと折れてしまった。

仕方が無いので、直接手で綱を引くと、海底の岩に根掛かりをした様に動かないのである。私一人では引く事が出来ないので、側に居る人にも手伝って貰って引っ張ると、漸く動き出し、引き寄せる事が出来た。

其の獲物が、陸に近付いて水中に見えて来ると、丸い大きなエイの様に見えた。更に、水面まで引き上げると、大きな海蛇がトグロを巻いているのが見えた。

「是は 凄い物が 喰らい付いた物だ」と意っていると、誰かが、鈎の付いた棒を持って来て、海蛇の頭を引っ掛けて、堤防の方に引き上げた。
其れは、直径が10mぐらい有りそうな海蛇で、尻尾の先には、鯰の様な尾ビレが着いていた。

私は気持ちが悪いので、其れを海に返そうとすると、一緒に居た男性達が、「是が 一番 蛋白質を摂る為の食べ物だ。」と云って、適当な長さに、胴切りを始めた。
私が、其の作業を見ていると、胴切りが済んだ頭と内臓が着いている部分を、今度は縦割りにして、脳や心臓や肝臓や肺や胃等のパーツを、バラバラにして、其々自分の好みの部分を、選んでいるのである。

其の男性達は、前もって、自分が必要とする「部品・パーツ」を、選び易い場に座っているのである。
其の男性達は、どうやら、神々が男性の姿をとって、自分の持ち場に着いているのだと理解できて来た。

頭の鼻先に、座っている男性が「天御中主・あめのみなかぬし」で、其の下手の左右が「高御産巣日神 ・たかみむすびのかみ」と「神皇産霊神・かみむすびのかみ」と言う具合の様にである。
其れは、頭の方から尻尾の方への、座の「決め事・役割分担」は有る様だが、上座・下座の様な、高低の位の席順ではないのである。

其れは、誰が偉いと言うのではなく、鼻・目・口・胃・心臓・肺・肝臓・腎臓・腸・生殖器・肛門・尻尾と、蛇が生きて行く為に、必要な器官の仕組みの順位に従って、席順を採っている事に成るのである。
其の映像で、昨夜12時前にベッドに横に成った時に、映り込んで来た映像の意味と、「ツール・道具」の言葉の意味が理解できて来た。

しかし、其れが何故、人間の体の構造がツールとして使用されずに、海蛇の身体を使って映し出されて来たのかと言うと、人間の体よりも、海蛇の体の方が遺伝子的に古いからであろう。

其れに、人体の解剖図であれば、人間である私の意識が、気持ち悪がるだろうし、私が医者ではないので、人間の体を解体した事が無いので、ハッキリとツールの認識が出来ないからでもあろう。

其れに、一番大事な事が「パーツ・部品」の選択の言葉である。
選択の「選・セン」は、日本語の「選ぶ・えらぶ」に当てられているが、「えらぶ」とは古代語で「海蛇」の事である。

其の証拠として、「口之永良部島・くちのえらぶじま」と「沖永良部島・おきのえらぶじま」の「えらぶ・永良部」の名が、現在まで残されている。
其れは、両方とも「海蛇・エラブ」が産卵に上陸して来る島であり、古代の海洋民族が蛇を食料にしていたので、名付けた島名である事が解かる。

因みに屋久島は、「鹿島・やくしま」の意味で、「鹿・ロク・やく」が沢山住んでいる島の意味である。

昔の人達は、自分の肉体の中に、蛇の記憶が在り、其れが、物事を選択しているとの理が、人間の潜在意識の中に存在していると、自覚していたのであろう。だからこそ、選択する事を「えらぶ」と云っていたのである。

「選」の漢字は「行+止+巳+巳+共」の組み合わせで、象形の字義は「行くか止まるかは 自分の意識の中に 二匹の蛇が住んで居て 共に競って決める。」との意味である。

其れは、人間の意識には、蛇の脳の働きである古皮質が、一番深い所(脳幹)に存在し、自律神経や本能を司っている理を、古代の人達が知っていた事を示している。
だからこそ、仏陀の悟りの場面や、旧約聖書の場面にも、蛇が智慧に関係している事が伝えられているのである。

しかし、今朝の映像では、蛇の体自体は神としてではなく、深い海の底から、地殻の化身として、丸い身体でトグロを巻いて上がって来た。
そして、其の蛇の体の各器官を前にして、自分の役割を「チョイ」と「チョイス・choice・選択」して居たのは、人間の男性の姿をした霊魂である。

だから、蛇自体が、神と言うのではなく、蛇の体の器官の進化に、意味が有るとの事であろう。
蛇の体は9000万年前に、蜥蜴(かなへび)がヤマカカシの様に身体が大きく成り、足が邪魔に成るので、両足を体内に引っ込めた物である。

しかし、其の蜥蜴は、恐竜時代の生き残りでもあり、「イモリ・泉守」や「ヤモリ・家守」と、先祖を同じくしている。

アフリカのシャーマンの言い伝えでも、「岩に住むトカゲは 宇宙の記憶を全て持っている。」とあるらしいので、世界中で人間の意識には、古代から「蜥蜴・石竜子・ト陰」が深く関係した事が分かる。
だからこそ、中国の「道・タオ」のマークも、陰陽の蜥蜴がモチーフと成っているのである。

今朝のメッセージの映像と、昨日の映像の違いを考えると、「爬虫類」と「哺乳類」の「時間差・違い」が、明らかにされて来ている。

昨日の私の意識は、右手で乳房に触れ、口には乳首を含んでいた。
其れは、明らかに哺乳類としての記憶である。しかし、今朝の蛇は爬虫類であり、爬虫類は卵性なので、子供を産まないから、乳首は持ってはいない。

だが、今朝の私の意識は、赤子ではなく、成人と成った男性の行為を行い、また、其の作業風景を眺めていた。
其れは、昨日より、時間的には深く入り込んではいるが、認識は、現代の臨床医学や物理学や哲学の世界での立場に在る。

其れは、人間の肉体の「記憶・魄」は蛇的な体に在るが、「叡智・魂」は現在の人間の姿に任されているとの事ではないだろうか。
そう考えれば、蛇の体を調べて、肉体的な記憶・DNAを研究するのは良いが、それだけでは、未来への扉は開かないと言うことである。

人類の潜在意識の存在は、地球の蜥蜴の体を土台・基礎とはしているが、蜥蜴や蛇と違い、宇宙の進化の最前線に立っているので、未来に向かって、自分の細胞を進化させて行かなければ、成らないと言うことである。

其の意味では、確かに、現代人は、食料が豊富に成った事で、肉体は大きく成って来たが、其の分、魂しいの方が希薄に成って、精神の生長どころか、退化の方に向かっているかの様である。

其の事を、是からどうするかが、私達に課せられた課題であろう。
だからこそ、今朝のイメージ、ビジョンが送り着けられて来たのではないだろうか。
もう、人間は、神や他人に甘えて、乳首に吸い付いて居てはいけないのである。甘えの構造を止めて、其々が、未来に向けて歩き出さなければ成らないのだ。

昔と違って、釈迦や、老子や、イエスに、直接歩いて会いに行く必要はないのである。こうして、PCに向かって検索すれば、あらゆる情報が手に入る時代である。

何も、外側に居る、蛇やコブラの智慧を借りる必要はないであろう。
人間の潜在意識の門には、「戸陰・とかげ」が門番として、役割を果たしているのだから、其の自分の蜥蜴と仲良くすれば良い事である。

私達は、其の蜥蜴の門番を、内側に飼っているのである。
だから、自分の蜥蜴に良い餌を与えるべきであり、神社や寺院の門番に、餌を運ぶ必要は無いのである。

自分の、内側に住む蜥蜴にこそ、良質な供養を捧げなければならないのだ。
其の、自分の内側に飼っている蜥蜴が、人間社会でどの様に役立つのかは、自分自身の癖を調べれば、自から見えて来るはずである。
其れが、釈迦仏陀の謂う「仏の働き・生命力」なのである。

其れは、単なる「夢現・ゆめうつつ」の世界での話ではないのである。
其れと反する世界が、現在の人間社会で行なわれている、株や為替や国債などの金融マネーゲームなのである。

其れこそが、人間の頭が、勝手に創り出した夢現の世界であるのだ。
其の夢現は、もう直ぐ、神の手で覚まされるであろう。
其の、神の手段が実行される前に、其の夢から、覚めなければ成らないのである。其れが、今朝「大蛇・大エラブの命」が、自分の身を犠牲にして伝えて来た真実なのだ。

いま、知り合いのHPを見ると、人間の体内のパーツが区分けされて今日アップされている。其のHPのシンボルは、身体を丸めて居る蛇である。
其れも、人類全体が、同じ潜在意識で繋がっている理・ことを示している。

蜥蜴は、東北地方では「カガミッチョ」と呼ばれ、「カガミ・鏡」と同じ名前である。
漢字の監察の「監・かがみ」は、水を溜めた容器の中に、人間が大きく目を開いて屈み込み、水面に自分の顔を映して、観察して居る姿を、表わした象形である。

其れは、釈迦仏陀が、自分の存在意味を明らかにする為に、自分の内側を瞑目して覗き込んでいる姿を、コブラが屈み込んで護っている姿と、同じモノ・情景である。

私は、今朝、其のブッダの現場に、岸壁で立ち会って居たのだ。
其れは、仏陀が、衆生を彼岸へ渡す、準備でもあるのだろう。

漸く、海と陸の間にある「港・巷・ちまた」の距離が、狭まって来た様である。其れは、別の言い方をすれば、神社の「斎庭・さにわ・白砂」の場が、復活するとの事でもあるのだ。

                                                              平成20年2月25日

                                                                    礒邉自適


Posted by jiteki129 at 15:49│ 神のメッセージ