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   ヒンドゥー教の復活
                           2・6・21

今朝のビジョンは、私の意識が母神に呼ばれてネパールのカイラス山(カン・リンポチェ)に向かう場面が映し出されて来て、山が近く成ると、岩肌に顔の輪郭が見え始め、やがて口や目の位置も見えて来た。

次に、人間の母親の姿が登場して、一人の男子を育て上げる様子が映し出されて来た。
其れから、私の意識は其の育てられた男子の存在と成り、ヒンドゥー教のあらゆる儀式・神(はたらき)を伝授され始め、最終的な場面と成ると、其の世界・情報の下に、是まで私が書かされた文章(意識の段階)が、上昇して来てしっかりと・確実に、繋がる・合一する場面が映し出されて来た。

其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時47分・4時13分前」であった。

其れから再び眠ると、今度は、日本の地方・各地の男性公務員の意識が活発化し始め、国内だけではなく、海外にまで広く影響を与え始める様子が映し出されて来た。

其処で意識が目覚めると、時刻は6時13分であった。

今朝のメッセージのビジョンは、是までに無いモノ・世界なので、何らかの変化が神界(宇宙プログラム)に起きた様である。

今朝は「7時47分・8時13分前」に起きて・起こされてPCを立ち上げ、先ず「ヒンドゥー教」と「カイラス山」を調べて見ると、次の様に載っている。

「ヒンドゥー教」
ヒンドゥー教徒とは、ヒンドゥー教に関して文化的、民族的、または宗教的に従う人を指す[1]。歴史的には、インド亜大陸の人々を地理的、文化的、そして後には宗教的に識別するために使用されてきた[2]。
 ヒンドゥーという言葉の歴史的意味は時とともに進化してきた。ペルシャとギリシャが西暦前1千年のインダス地域に言及したことから始まった[3]。ヒンドゥーと言う用語は、インド亜大陸のシンドゥ(インダス)川周辺及びそれを超える地域に住んでいる人々を地理的、民族的、また文化的に識別する意味を持つ[4]。16世紀以降は、トルコ人やムスリム以外のインド亜大陸に住む人々のことを指すようになった[5
概要
多数の言語を話す人々に信仰されている
ヒンドゥー教の聖典「ヴェーダ」は古代の言語サンスクリット語で書かれている。しかし現在のインド人はサンスクリット語ではなく、各地の言語で生活しており、インドは多言語国家である。インド憲法で公式に認められた公用語は23言語、他に準公用語の英語がある。例えば世界遺産マハーバリプラムがあるタミル・ナードゥ州ではタミル語が使われ、隣のアーンドラ・プラデーシュ州(数多くの遺跡があるハイデラバードを州都とする)ではテルグ語が話されている。タミル語とテルグ語は言語も文字も違う。更にデリーの人はまた別の言葉ヒンディー語を話す。よってヒンドゥー教を「様々な言語を話す人々に信仰されている宗教である」ということも可能である。
アジア地域における信仰の広がり
インドでは人口の81.4%を占める8億2760万人、ネパールでは人口の過半数、バングラデシュでは人口の14%、スリランカは15%がヒンドゥー教徒である[6]。インドネシアのバリ島では人口の約9割がバリ・ヒンドゥーと呼ばれる独自の習合宗教を奉じ、マレーシア、シンガポールにも相当数のインド系住民に信仰されている。世界全体での信者数を比較してみるとヒンドゥー教徒は仏教徒よりも多くなる。

【カイラス山】(Kailash / Kailas)、または カン・リンポチェ(チベット語)はチベット高原西部(ンガリ)に位置する独立峰。
サンスクリット名はカイラーサ(Kailāsa)。カイラーサの語源は不明だが、サンスクリットで水晶を意味するケーラーサ()と関係があるかもしれない。この名称が英語等へ伝わった Kailash / Kailas が、日本語における名称「カイラス」の直接の由来である。
標高6656mの未踏峰。信仰の山であるため、登頂許可は下りない。ただし聖者ミラレパ(1040年 - 1123年 / 1052年 - 1135年)が山頂に達したという伝説が有る[1]。
信仰
カイラス山北壁とストゥーパ
仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で聖地とされる。聖地とする理由は様々であるが、例えば、ヒンドゥー教ではカイラス山をリンガとして崇拝し、ボン教では開祖のシェーンラップ・ミヨが降臨した地としている。カイラス山の周囲の巡礼路を、チベット仏教徒は右回りに、ボン教徒は左回りにコルラと呼ばれる巡礼行為を行う。ジャイナ教と安息教の信徒たちは反時計回りに山を回りながら歩く。一周約52kmある巡礼路は、ゲルワ・グーツァンパが開いたといわれている。
 この巡礼路沿いにタルチョ、いくつかのチベット僧院(ゴンパ)、鳥葬場や仏足跡を見ることができる。巡礼路最高点ドルマ・ラは、標高5630m。日本人チベット巡礼僧の河口慧海は、「三途の逃れ坂」と呼んだ。通常の巡礼路の内側に、ナンコルと呼ばれる巡礼路もある。山麓南側にタルチェン村がある。
 巡礼者の多くはコルラを13回行う。特にチベット暦の午年には、1回のコルラで12回分の功徳が得られるとされ、多くの巡礼者を集める。巡礼へと向かう行為自体が功徳であるが、信仰心の厚いチベット仏教徒ではさらに五体投地(キャンヂャー)による礼拝でコルラを行う者も少なくない。
同一視
チベット仏教で須弥山と同一視される。ジャイナ教ではまた、最初のティールタンカラであるリシャバが没したアシュターバダと同一視される。
   フリー百科事典『ウィキペディア』2020/06/21現在

今朝起こされた時刻は、「4時13分前」「6時13分」「8時13分前」である。
何故「13分」であるかを考えると、私が「土肥無庵が神だから守れ」と告げられた日。岩手県の五葉山でイエスキリストの御魂と遭遇した日。昭和天皇の御魂のお告げにより「日の宮幣立神宮」に辿り着いた日。マルチンルターの縁(弁財天・サラスヴァティー・水・湖を持つもの)で江藤敬介氏に出会った日などが、13日である事が関係が有り、虚空菩薩の祭り日が4月13日である事に絡んでいるのかも知れない。

其れに、「6時13分」が「前」ではなく「過ぎ」である事を考えると、昨年の6月13日のメッセージが「切り開く能力・ちから」である事と関係が有り、既に「新しい御世の創造」は始まっているとの事なのではないだろうか。

其の様に考えると、私が是からチベットのカイラス山に行かなくても、ヒンドゥー教の神様「弁財天・サラスヴァティー・水(湖)を持つもの」は動いていると言う事であり、「須佐之男尊・すさのおのみこと」や釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の御魂も、其の手先・足先として神(はたらき)をして居るとの事なのであろう。

そして、私自身は何等自主的行動をしない事で、「統尊・すめらのみこと」の「詔勅・みことのり」「御嚴・みいつ、御稜威 ・みいつ」の役割を果たせると言う理・ことであり、其の理さえ守って居れば、日本列島の各地・ローカルから、新しい息吹が発生し、世界に影響を与えて行くとの事なのではないだろうか。

試しに、昨年の6月21日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。

2019/6/21今朝のメッセージの映像には、令和・平成・昭和等の元号や、世の中の改革の為のスローガン「正確無比」の様な、漢字文字言葉が幾つか映し出されて来た。
そして、其の事は「文字・言葉」が力を有しており、文字言葉が存在しなければ、人間社会の文化の発展が無い事が理解されて来た。
 私は、其の事が、釈迦ブッタの法華経の「十二因縁起」の内容とは反対の世界であるので、昨日告げられて来た「ダブルスタンダード」の言葉を思い出して居た。
そして、意識が目覚めたので照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時30分」で、長短の針が重なっていた。
仏陀釈迦の「十二因縁起」の教えは、次の様な内容であり、人間は物事に名前を付けた為に、思考が生じ其れに因って煩悩が生まれると謂うモノである。・・
 此の内容は、旧約聖書に有る「アダムとエバが 蛇が勧める林檎(知恵)を食べた為に エデンの園から追放された」との物語と共通している。
だが其の蛇は、東南アジアでは釈迦仏陀を守護する「七つの頭を持つコブラ」として表現されているのである。
其の矛盾を、どの様に考えれば良いのか。
 はっきりしている事は、地球生物の中で、言葉や文字を持つのは人類だけであり、他の動物は「音・聲」を使って、仲間とのコミュニケーションを図っているだけであるので、考えの参考には成らない。
人間は、類人猿と同じ次元から「音・聲」を進化させ、言葉を紡ぎ出し、其れを文字化する事で大脳を発達させ、現在の文化文明を築いて来た。
 だが其の事で、文字や言葉の世界が頭脳を占領してしまい、本来の動物的感覚を失ってしまっており、其の事が原因で、他の生物が有している「宇宙とのコミュニケーション・大自然との結び」の能力を失ってしまっているのである。
 其の事が原因と成って、人間は「欲望・煩悩・エゴ」が拡大して、自分自身が何物なのかが判らなく成り、其の「カルマ・業」から脱出できなく成ってしまっているのである。
其れは、「釈迦(ガウタマ・シッダールタ)が生きた2600年前の時代でも問題であったので、其の問題解決に釈迦は取り組み悟りを得て説法を始めたのである。
 其れは、其の煩悩に満ちた人間社会から出家する事であり、2000年前にイエスキリストも其の原理に気付いたので、「私に付いて来なさい」と謂って、弟子を増やして行ったのである。
だが、其の釈迦やイエスの教訓が現在迄傳え残されているのは、言葉や文字が存在するからである。
 其れを考えると、今朝のメッセージは「言葉や文字の力を正しく使いなさい」との理・ことが示されて来ている事に成り、其の妨げに成っている「文字・言葉・情報」は、全て消しさらなければ成らないと言う事なのであろう。
 今朝の由香のビジョンは、始めに鳥の翼の部分だけが映し出されて来て、どこをどの様に動かせば、鳥の様に身軽に飛翔出来るかという事が示されて来たとの事で、次に水中から浮力に因ってスーッと水面に浮かび上がっていく場面と、地上から空中に真直ぐにスーッと浮かび上がる場面とが映し出されて来て、どちらも子供ら数人が周りに居て、身軽であればあるほど、早く浮上して行くというものであったとの事である。
 私は、其の由香のビジョンから、今朝のメッセージは、新約聖書に有るイエスキリストの言葉「蛇の様に賢く 鳩の様に素直で在りなさい」との言葉を思い出した。
 其れは、人間が言葉を使用するのは、十二因縁起に書かれている様に「人間が地上を歩く行為」と関係が有り、座って瞑想する世界は「気持ちを軽くして、無限宇宙に意識を飛翔させる」事に有るからである。
 其の様に考えると、エジプトの有名なツタンカーメンの黄金のマスクの額に付いている「コブラ」と「鳥の頭」や、マヤ・アステカの「羽毛の生えた蛇」のイメージも、其の理・ことが関係が有り、世界中で自分の意識に、大地にしっかりと身を留める事と、宇宙に飛翔する事の両方が、人間の意識の根幹に備わっている・潜んでいる事に成り、其れが宗教が生まれた原因である事に成りそうである。
 今朝起された・起きた時刻が6時30分であった事から、昨年の6月30日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。・・
 此の文章の内容からすると、私は「人間は万物の霊長である」との理・ことを、自分の事として考え「森羅万象の流転」をしっかりと観察しながら、言葉を紡ぐ必要が有り、其れが今朝映し出されて来た「正確無比」との言葉と関係が有るのだろう。
 明日6月22日は、今年の「夏至」である。
其れを考えると、本日の私と由香へのメッセージは、北半球が最も太陽に近く成る日に関係が有り、「天照坐皇大御神御魂 ・あまてらしますすめおおみかみのみたま」との言葉が関係有るのかも知れない。
「文字と言葉の力」http://blog.livedoor.jp/jitekiodo/archives/55771868.html

此の文章の内容からすると、今朝のビジョンは、私の「文字と言葉の力」が、前人未到のカイラス山の神(はたらき)の土台として、しっかりと築かれたとの事であり、私が屋久島の東経130度30分の線上に有る、百姓詩人であった「山尾三省」の墓に初墓参して手を合わせた時、「礎・いしずえ」と一言告げられて来た事が関係が有り、ヒンドゥー教(拝火教・密教)の「大日如来・マハーヴァイローチャナ」が「マントラ・真言」で動くとされている事と、関係が有りそうである。

其れを考えると、仏教(釈迦)や聖書(イエス)は文字が無い時代・社会で生まれた物であり、本人の言葉は解釈者に拠って、歪められてしまっているので、老子の様に本人が書いた物しか、当てにしては成らないと言う事にも成る。

其れを考えると、矢張り「一二三神示・霊文神示(ひふみ)・日月神示・天津霊継神事」に有る「道院殿老祖様(老子から派生した概念)」だけを中に祭禱(さいき)しろ」との言葉は正しいと言う事に成る。

其の事を考えると、此の私も、耄碌(もうろく)しない間に、自分自身の考え・理論を組み立てる必要があると言う事に成るのかも知れない。

                        令和2年6月21日

                             礒邉自適