2013年12月26日

【安倍晋三総理・「靖国神社」に参拝する】

無題2

【安倍晋三総理・「靖国神社」に参拝する】


(総理大臣の靖国参拝の是非)【「集団的自衛権」の直訳は「交戦同盟権」】

この平成二十五年十二月二十三日、今上天皇(キンジョウてんのう=在位中の天皇)である明仁陛下が八十歳のお誕生日を迎えられた。

陛下が仰(おっしゃ)るに、八十年間で一番の思い出として先の大戦を挙げ、犠牲者に鎮魂の想いを馳(は)せられた。

国民の平和と安寧(あんねい=無事安らか)を願う陛下の在り難い御心は、国民としてこの上ない感謝である。

しかし同じ平成二十五年十二月二十三日、安倍政権は陛下の御心を無視して禁輸三原則の例外を議会に掛けずに設け、南スーダンの韓国軍に一万発の銃弾を提供した。

確かに国連の平和活動支援の一環ではあるが、内閣の即決で「緊急措置の例外」がまかり通れば、何でも内閣で「例外」の前例が出来てしまう。

つまり平和憲法に抵触する恐れがある事項を「緊急措置の例外」で内閣決定が為される事になる。

この南スーダンのPKOに付帯する「緊急措置の例外」は、そうした安倍晋三氏の実績の積み重ねには大儀名分として持って来いの事案だった。

安倍晋三氏は憲法九条の改正論者であり、折に触れてそれを成し遂げるべくその言行は一致している。

安倍総理が推進する「集団的自衛権」は、ものは言い様の「言葉のマジック」であり、「自衛権」は「防衛交戦権」、そして「集団的自衛権」の直訳は「交戦同盟権」の事である。

「交戦権」では憲法九条に抵触するので、「自衛権」と表現する手口を「集団的自衛権」に拡大して「交戦権の範囲拡大」を謀っている事から、安倍総理の「好戦主義」は明らかである。


安倍晋三氏はその三日後、十二月二十六日(平成二十五年)に総理大臣として「靖国神社」に参拝した。

この総理靖国神社参拝問題は、周辺諸国からの「内政干渉」が強い為に日本人のナショナリズムを喚起させて、思考の焦点が「内政干渉」への憤怒に行き勝ちである。

しかしこの「内政干渉」への憤怒が、事の本質を問うべき思考方向を閉ざしてしまっているのではないだろうか?

何故なら本来の総理靖国神社参拝問題は、大前提として周辺諸国からのイチャモンと関係ない「国内問題(内政)」と捉えるべきだからである。


安倍晋三氏は、戦後の歴代総理も「靖国神社に参拝している」としているが、大半は「A級戦犯合祀」が公に成る前の話しで、「A級戦犯合祀」が公になってからはその評価は分かれている。

そして昭和天皇・裕仁(ひろひと)陛下と、今上天皇(きんじょうてんのう/平成天皇)であられる継宮(つぐのみや)・明仁(あきひと)陛下の東条英機(とうじょうひでき)氏への想いは、戦犯合祀後の靖国神社参拝に対する御意志で推測がつく。

前の昭和天皇・裕仁陛下も、現在の今上天皇・明仁陛下も、「A級戦犯合祀」以来「靖国神社」には参拝しなかった。

永い日本史の中に在って、天皇陛下は日本国民には犯し難い特別な存在である。

安倍晋三氏の周辺国への配慮に欠ける「靖国神社参拝行動」は、今上天皇・明仁陛下の御心を痛ませる行為ではないだろうか?

すると、どうやら安倍晋三氏の「右よりの思考」は、「臣としての陛下への念」ではなく単なる「武力信仰」や「権力信仰」では無いだろうか?

安倍晋三氏は民を死地に赴かせた戦犯を「靖国」に神と祀り、民の戦死を「お国の為の尊い犠牲」と美化して、「愛国精神を再び喚起しよう」と言うのか?

米国も、首相・安倍晋三氏の「靖国神社参拝」に不快感を表している。

日本人は、歴史的経緯を都合良く忘れて米国はいつでも味方と誤解しているが、忘れてならないのは東京裁判で「A級戦犯」を裁いたのは当時の戦勝国・米国だった。

つまり本音では、当時敵国だった日本の指導者(戦犯)を神と祀る事に、米国の心情として認め難い物が在って当然なのである。

それを靖国神社宮司・松平永芳(まつだいらながよし)氏が、信教の自由と政教分離を盾に「A級戦犯」を勝手に合祀したが、現在の日本ではこの合祀を政治的に改める事は法的にできない。

安倍晋三氏の祖父・岸伸介氏は、戦中の戦時内閣の閣僚(商工大臣他)も務めて居た為にA級戦犯被疑者として三年半拘留の後不起訴となり公職追放となる。

祖父・岸伸介氏は公職追放解除後に政界復帰し、第五十六代〜五十七・首相を務めたが、こうした経緯から岸伸介氏・外孫の安倍晋三氏は「A級戦犯」に対しては同情的である。


「日本は右傾化傾向にある」と周辺国が批判しているが、安倍晋三氏の「右傾化」は何を目指しているのだろうか?

もし、「安倍晋三氏本人の気持ちを満足させるだけのもの」であれば、巻き込まれる国民は大迷惑な話である。

小生は左派ではなく歴史小説家で、天皇陛下の存在を尊び、自衛権の存在も必要と考えているが、安倍晋三氏の行動は戦時中の首相・東条英機(とうじょうひでき)氏の様に思えて来る。

実は基本的に、「国益」と「民益」は必ずしも一致しない。

つまり「国益」は、しばしば「為政者の為の言葉の道具」と成って「民益を犠牲にする歴史」を繰り返して来た。

「国敗れても山河は在り」、民は大地に寄り添って再び復活するが、言葉の道具として「国益」を使い、「民益」を犠牲にした為政者が命を落とすのは歴史の道理である。


正直感情論で言えば、中・韓のイチャモン染みた反応には「内政干渉」と言う思いを抱く事は日本民族として当然かも知れない。

だが、「相手国憎し」の日中韓関係の感情問題だけに特化して、靖国参拝問題を「内政干渉だ」と解釈しての単純な思考処理ではいけない。

また、思想・信条・信仰の類はその信念の為に、時には重大な事実を無視したり否定してしまう危うい物である。

事、靖国神社の問題を単純に「内政干渉」と突っぱねる事は、「死にに行け」と指導した戦争指導者(A級戦犯)と勝手に合祀された多くの英霊の心情に対しても失礼では無いのか?

靖国参拝派は、「お国の為に戦った英霊に、総理が礼を尽くすのは当然の行為だ」と綺麗に言う。

祀られた庶民の英霊は確かに尊い犠牲なのだが、何故か違和感を感じるのはあの「侵略戦争」に徴兵された悲惨な戦いが、本当に「お国の為」だったのだろうか?

あの「侵略戦争」は、「一部軍閥や一部財閥の不健全な欲望が引き起こし、庶民を巻き込んだ」と評しているのは小生だけだろうか?

靖国参拝派は、今後も庶民の命を消耗品にする為の靖国神社を「お国の為に戦わせる精神的支柱」として温存させる積りか?


「生き物が命を惜しむ」と言う基本的な事を否定する不条理を、さも格好良さ気に教育したのは、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)と戦陣訓(せんじんくん)である。

しかし人々は、真実が「深読み」の中にこそあるのに、上辺(うわべ)ばかりに関心を持ち、「深読み」をしたがらない。

生き残った人々が「犬死にとは想いたくない」と「綺麗事で済まそう」と言うそうした上面(うわっつら)の対処を、英霊は苦々しく想ってはいないだろうか?

良く使われる「英霊の尊い犠牲の上に今日の日本の平和と発展がある。」は確かにその通りだが、生き残った者たちが納得する為の言い訳染みた「究極のすり替え論旨」である。

この平和と発展は「良いも悪いも敗戦の結果」で、現在の繁栄が敗戦の結果だったら、あんなに惨めな戦場で戦わせ多くの犠牲を出さない内に降伏していれば良かったのだ。

つまり今日の平和と発展が、「英霊の尊い犠牲の上」は敗戦の言い訳で、日本帝国が勝って居れば今日の米国の様に未だにあちらこちらで戦争をしていたかも知れない。

正直、右傾化を夢見る輩(やから)は、単純に感性を優先して人の命より格好の良さを優先させる輩(やから)である。


因(ちな)みに、人間には善悪を持ち合わせる多様性が在り、場面場面で善人にも悪人にも成れるものである。

それを卑怯にも、上辺(うわべ)の「建前」だけを論じて「善人ぶる」のが一般人の「偽善的な悪」である。

確かに生き残った人々に、「お国の為に死んでくれ」と送り出した「偽善的な罪の意識」は在るかも知れない。

しかしその「偽善的な罪の意識を払拭しよう」と言う自分達の都合の為に、現実を摩(す)り替えて逃避する事が、英霊の本意だろうか?

これは善人の悪意であるが、そうさせたA級戦犯を責めるべきで、だからこそ彼らA級戦犯の靖国合祀は赦されない事である。

日本国民は、格好だけの綺麗事を言う前に、戦地に赴いた兵士が、いかに理不尽な戦いを強いられ無念の内に亡く成って行った事に想いを馳せるべきである。

その理不尽さ故に、東條英機氏や軍部の「「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」」と言う戦陣訓の教えに反して、捕虜に成った者も多い。

しかし「生き物が命を惜しむ」と言う基本が生き物に在る以上は、捕虜になった彼らを誰が責められようか?


明治維新後の国家の経緯を見る限り、薩長維新政府は極端な天皇親政政策を隠れ蓑に、強引な神国政策を強行し、「日本を駄目にした」と考えられる。

維新以後の歴代政府は、儒教を道徳の柱にして国家の統制を図った。

当然ながら「嘘はいけない事。」と散々教えた。

その政府が、「国民に不安を与えたくない」の理由で、負け戦を「勝った勝った」と詐称して国民に発表した。

東条英機氏が首相を勤めた戦時中の「大本営発表」である。

すると、「嘘はいけない事。」と言うのは、国民限定の戒めで下々(しもじも)限定の道徳的教えらしい。

それが証拠に、戦後六十年間を経た現在でも政治に嘘が蔓延している。

武士道の国・日本」と「大本営発表」、この矛盾を解消しない限り、日本の政治家の言う事は建前以外の何物でもない。


人類学のロジック(論理)として、人間は厳しい現実よりも聞き耳が良い「気持ちの良い嘘話」を「夢が在る」として聞きたがる。

実は武士道精神に限らず、哲学・信仰の類も民心を掴む目的で意図的に「気持ちの良い嘘話」を中心に構成されている。

まぁ、「熱心に信仰すれば、死んでも天国に行ける」の類だが、これはあくまでも気分の問題で、信じる者は少ないにも関わらず、その天国の存在の真贋を曖昧にするのも信仰である。

つまり「お国の為に散れば、靖国神社で神に成れる」を「信じたい」と想いこそすれ、どのくらいの兵士が本当に「神に成れる」と信じたのだろうか?

まぁ歴史経緯で言わせて貰えば、南北朝時代から室町時代を経由して戦国時代の乱世に、上下関係の身分秩序を侵す武力行為で、上位者を倒して地位を乗っ取る下克上(げこくじょう)の戦乱に依る反省から、武士の組織形態を安定させる為に江戸期に要求されたのが武士道精神だった。

その武士道精神を利用して、「日本軍閥の祖」の異名をとった明治維新政府の高官・山縣有朋(やまがたありとも)を中心に考え出されたのが「天皇の神格化」であり、その為につくられたのが「軍人勅諭」や「教育勅語」である。

つまり靖国神社は上手く政治利用されているのに、戦没者遺族は気が付かない。

そこに気を使わないで、無条件に首相の靖国参拝を支持する戦没者遺族の方々は、本当に戦没者の心情に思い至っているのだろうか?

或いは、戦没者遺族ではなく首相の靖国参拝を支持する方々には「別の意図が在って」の事と疑いたくなるのだ。


靖国神社は元々戦争遂行の為に国民啓蒙に活用された神社であり、幾ら安倍総理が「不戦の誓いの参拝」と言ったところで、靖国神社に参拝すれば他国から「好戦主義者」と見られても仕方が無い。

また、「内政問題だ」と積極的に靖国神社参拝を支持すれば、その方の心情も「好戦主義者」と見てさほど間違いは無い。

法的には、個々が何を考えても自由勝っ手ではある。

だが、ベトナムやアフガンからの帰還米兵の多数が「心的障害」に犯されて帰国後も悲惨な生活を送っている事実を思えば、「心情好戦主義」は無責任ではないだろうか?


A級戦犯の合祀に疑問を挟まず、「国の為に亡くなった尊い御霊」と美化する輩は多い。

だが、そう言う人間に限って自分は安全圏に居て、今後も「国の為に」とあおり立て、国民に犠牲を強いる目論見が、発想の中に在る指導者である。

その手口は巧妙で、幻想に過ぎない「武士道の精神」をでっち上げて民に「国の為に死にに行け」と誘導した。

しかし正しくは、「お国の為に戦え」はまやかしで、軍事組織的に言えば「お国の為」は「国民の為」ではけして無い。

洋の東西に関わらず、歴史的に見て国民巻き込み「盾にしたり戦わせたり」をしこそすれ、軍事組織が国民を守った歴史は無い。

何故ならば、幾ら綺麗事を言っても軍事組織が守るものは権力者(政治指導者達)の利権・権益で在って、国民の命ではないからである。

そこには、「目的の為の手段」と言う「統治者の論理思考」があり、その延長線上には特に留意すべき「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」がある。

そして下級兵士は、その権力者(政治指導者達)の利権・権益の為に使い捨てにされるのが常だった。

「市民・国民を守る戦い」などと建前を並べ立てても、現実は上辺だけである。

それ故に、二次大戦中の満州関東軍は「作戦」と称して攻め込んで来たロシア軍から在満邦人(日本人の満州入植者)を守る事無く撤退している。

沖縄戦に於いても市民と伴に立て篭もったガマ(洞穴)から日本兵は「戦闘の邪魔」を理由に市民を追い出したか自決を促したのが事実である。

勿論個々の兵士には「市民・国民を守る」と言う気持ちは在ったかも知れないが、組織としての軍隊にはそんな良心は通用しない。

つまり戦略戦術が軍事組織の命であるから、それを度外視して国民を守る事など元々許されては居ないのである。


東条英機(とうじょうひでき)氏は、「戦陣訓(せんじんくん)」の中で「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と兵に教えた人物である。

つまり、兵には「捕虜になるなら死ね」と教えたが、自らは拳銃自決に失敗して死に切れず、極東裁判で絞首刑にされた格好悪い人物である。

その東条英機(とうじょうひでき)氏の指揮の下に前線に立たされた将兵は、戦闘ではなく、九割が病死、餓死、自刃、特攻と言う「過酷な無駄死に」の最期を迎えている。

無謀な作戦で、兵の補充も、兵器銃弾の補給も、食料の補給も出来ない情況を「精神力で戦え」と命じた時の総理・東条英機の武器は「日本本土が焦土と化しても吹きはしなかった神風伝説」と「まやかしの大本営発表」だった。


世界大戦当時でも、「生きたい。殺したくない」と言う日本人は数多く居た。

それを「赤紙(召集令状)」で徴集して兵隊に仕立て上げ、強引に「靖国神話」を押し付けて出征兵士の総意のごとく「靖国で逢いましょう」を演出した。

この辺りの民情を「非国民」で弾圧し無視した「愛国論」は、知性人(ホモサピエンス)とは到底言い難い粋がった男達のロジック(論理)に過ぎない。

こうした歴史背景が在るにも関わらず首相の靖国参拝を支持する者は、「好戦主義者」と見られても仕方が無い。


安倍晋三氏の本質は「国家国益主義」で、アベノミクスも「気分」で景気上昇を目論むなど発想の構造が戦前の軍事政権の思考傾向を感じ、良く似ている。

靖国英霊論者は、A級戦犯達が兵に課した責任を、そして敗戦責任を何故首相参拝論議から外すのか?

小生は、右派でも左派でもない歴史研究者(小説家)で、勿論、あの理不尽な「極東軍事裁判」を肯定している訳では無い。

あれは、「一種の復讐」と言う解釈が妥当で、裁いた方も非人道的だった。

本文章はそれとは別に、あくまでも悲惨な戦争に国民を巻き込み、それを主導した当時の軍事政権のA戦犯の責任を国内問題として評している。

そして多くの民間非戦論者を「非国民」として投獄弾圧した軍事政権指導の内政の歴史を、首相の靖国参拝を支持する方達は意識的に欠落させている。


日本には、「亡くなった者の罪は消えると言う文化が在る」と主張してA級戦犯合祀を靖国参拝擁護派が居る。

しかしこれこそ、明治維新後の政府が為した国民皆兵政策方針に依る国民皆武士道化と言う歴史文化の捏造が生んだものである。

まぁ西洋文化のキリスト教徒でも、日本国内の神道や仏教でも「罪を犯せば地獄に落ちる」と言う教えがある。

歴史文化を主張するなら、日本の神社仏閣は戦勝祈願の場所であり、争いの相手を呪い殺す「祝詞(のりと)やお経」も存在する。

そして日本の神社にも地獄へ落とす「祝詞(のりと)や儀式」が在り、仏教にも地獄へ落とす「お経や葬式」が、現在でも存在する。

それが国民皆兵政策方針に依る国民皆武士道化で、死者に対する解釈が歪んで行く。

「切腹(自決)した者は命で罪を購ったのだから赦される」としていた武士道を、「A級戦犯合祀の問題」に成ると、切腹(自決)できずに裁かれた者まで無理やり「死ねば赦される文化」とこじつけた。

正直小生も「東京裁判は報復裁判で無効だ」と想っているが、だからと言って戦争指導者が国民に与えた罪まで無効では無い。

通常の生活の中では、犯意が無い過失致死でも罪に問われるのだから、確信の基に多くの将兵を戦地に送った指導者が、靖国に合祀されて神と祀られるのは如何なものか?


勿論日本人として、中韓の質濃いイチャモンにはかなり癖々(ヘキヘキ)としているが、帰還兵士の懐古話として上官に理由無く殴られた恨み話が在る。

その心情では、殴った方は忘れても殴られた方は何時までも覚えている。

それを殴った方が、「充分反省している」や「あ奴(い)つら何時までも質濃く覚えて居やがって」は、かなり勝手な言い分である。


自分が一度信じた事を、中々「間違いだ」と認めたがらない事をアンカリング効果と一貫性行動理論と言う。

つまり当時の日本の指導者(A級戦犯)は周辺国に批判されるまでも無く、日本の国内問題としても靖国神社に合祀されて「神に成る資格は無い筈」である。

一般人の英霊を冒涜するものではないが、せめてもの安らぎの場所である靖国に、「死にに行け」と教えた指導者(A級戦犯)と一緒に祀られる事を、彼らは喜んで居るのだろうか?

「靖国で逢おう」を合言葉に散って行った兵士達の心情を思えば、天皇や首相の靖国神社参拝は当然かも知れない。

しかし歴史を学ぶ者の端くれである我輩に言わせれば、残酷の様だが「靖国で逢おう」はその時代の為政者の洗脳に過ぎないのである。

時の権力者に洗脳されて、靖国神社に祀られるを事を唯一の支えに戦った人々とその遺族が素直に首相参拝を願う気持ちは良く判る。

しかし現状で、「A級戦犯合祀」と言う取り上げるべき問題意識が希薄なまま、「戦死者崇拝感情」と言う偏狭な解釈で「首相の靖国参拝」を支持すれば、世界各国は日本人の歴史観を疑うだろう。

戦死者を靖国神社に「神」として祀るのは、つまり戦争遂行の為に靖国神社を戦死者の受け皿として活用する目的だからである。

それ故に、過去の戦死者を靖国神社に祀る事を肯定して温存すれば、「戦死者の居場所」として「次の戦争の受け皿として活用できる」と権力者が考えている事に気付かなければならない。


「いびつ」で「不確か」な「建前の一般論」で真実に蓋をしてしまう稚拙な主張では、時として正しい歴史認識を追究する芽も摘んでしまう。

それが、国策遂行(戦争遂行)の為に為政者が構築した「一般庶民が信じる靖国神話の正体である」と理解すべきではないだろうか?

そして多分、それを承知しながら「靖国で逢おう」の建前しか彼らに選択肢が無かった事を、後世の我々が想い馳せるべきである。

庶民がその辺りを勘案せず建前の額面通りにしか受け取らない所に、為政者が入り込む余地が在る事を、歴史小説家としての我輩は時代のそこかしこで見せ付けられて来た。

これは結局の所は直面する「感性部分」の問題で、感情優先に走る結果、冷静に分析すべき「理性部分」はどこかに追い遣られてしまっている。

そしてその「感性部分」を巧みに操って来たのが、時の権力者の民意誘導手法な事に、戦後六十年経ても理解できないで居る善人が大衆なのである。

結論として、A級戦犯を合祀した靖国神社の首相参拝が、「単に戦没者の追悼」と言う以上の「政治的意味を有する行為」と解釈されるのは当然の事で、事を「戦没者の慰霊」と単純化して安倍氏が強弁するのは愚かである。

尚、付け加えるなら、良く「中・韓のイチャモン」に利用される【従軍慰安婦の強制連行】は、存在しない「全くの捏造(ねつぞう)」で、靖国参拝とは別の問題だから中・韓には一緒に政治利用されたくない事を明記しておく。

また、この「従軍慰安婦の強制連行」に関して、政治目的の為に【国の威信を売るような発言】を繰り返したみんなの党々首・渡辺喜美氏に対して大いに抗議する。


それにしても、普段は「国益、国益。」と仰(おっしゃ)る安倍晋三総理、靖国神社参拝を強行する事は「何の国益」なのでしょうか?

安倍総理は、岸・佐藤・安倍と言う長州トライアングルの名族・安倍家の出自で、祖父にあたる岸家・岸信介氏(旧姓佐藤)は戦時中に兵を戦場に送り出した内閣の商工大臣大臣で、戦後は外務大臣や内閣総理大臣を歴任している。

その祖父・岸信介氏に可愛がられて育った安倍総理が、祖父・岸信介氏の兵を戦場に送り出す上流階級意識を受け継いでいても不思議は無い。

つまりいつの世も、戦時に最前線に駆り出されるのは一般庶民である。

最期に、安倍晋三総理言う所の「丁寧に説明する」の意味は、ハッキリ言えば「あなた方の意見は聞かないからとにかく言う事を聞け、と言う意味である」と、政治言語の翻訳を付け加えて置く。

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