aamall

2017年08月01日

本とのブログ

すっかり更新の滞っているこのブログ。

単純に怠惰ゆえというのがいちばんの理由ではありますが、本に関する記事を別途noteというメディアに書くようになったこともまたもう一つの理由。最初はこちらにもテキスト貼り直していたのですが、流石にちょっと手間で、共有するのをさぼるようになってしまいました。一応、noteの記事は月イチくらいを目標に続けていきたいと思っているので、今後は更新時にリンクのみ、こちらにもベタ貼りしようと思います。

ちなみにコチラです。


jj_coba at 09:29|PermalinkComments(0)ヒトリゴト | 読。

2017年07月31日

Sette!!

一日遅れのアップとなっていますが、記事編集始めた当日の朝は少し雨。7年前も、確かちょっと雷とにわか雨の夜明けだったことが思い出されます。

今年も7月30日が来て、sette――7歳になりました。

一年前はどうだったかな、と昨年の誕生日の記事を見てみると、数字・計算への関心、読書好きだけどほうっておくとゾロリばかりになる……なんというか、一年前とあまり変わっていない?(笑)

一見同じように見えるのは、少しずつ興味関心を抱く傾向がはっきりしてきたからであって、それぞれのことへの取り組み方や熟達具合は、やはり一年という時間によってそれなりにちゃんと広く・深く成長はしているように思われます。

いちばん大きな変化としては、幼稚園の卒園から小学校への入学、という主たる生活の場が移行したこと。小学校に入ることを楽しみに待つ気持ちは割と早い時期から持っていて、勉強だ給食だ、ワクワクしていました。園の友達の大半が同じ小学校に進むということもあり、幼稚園生活が終わる、という感傷も親だけのもの。本人はあっさりと3学期を迎え、卒園し、スルスルッと小学校に入っていったように感じられます。

とはいえさすがに最初は環境の変化への戸惑いもあったのでしょう。何でも楽しいと感じているはずなのに、夕方以降に何かをするのに大きくブレーキがかかって、習い事や新しいことにトライするのが難しかったタイミングが、ほんのちょっとありました。まぁ、友達の親に聞くと大なり小なりみんなそのような感じで、みなとについても徐々に問題にならなくなったようです。

つい先日終業式を迎え、学校から持ってきた初めての通知表を見ると、親からは「何でも知ったかぶりして率先してやりたがる(目立ちたい、というのともちょっと違う感じ)」というふうに見えるところが、友達の様子にも気を配り、手伝ったりみんなで進めるための提案や牽引役をよく務めている、という方向に表れているらしい。もちろん先生の目を通してみた評価、という留保はつきますが、それでも日々自分たちが見ているのとはちょっと違った特徴が形成されてきているようで、またそれがいい方向に伸びる可能性をちゃんと備えているので、とても嬉しく思います。

これからの一年は、どうなるでしょうか。

まず、取り組んでみれば興味関心の幅は結構広くて、またのみこみも要領も悪くないから、何でも楽しんで進めることができるのはいいところ。取り組み始めたことへの集中力は高く、いったん入り込めば無心でやっていることも多々あります。

一方で、新たなもの、を自分で探して「おもしろそう」と初めてみよう、という動機は極めて薄く、自分の好きなこと・同じことをひたすら繰り返すのが好きなタイプ。正直な気持ちとしては、親がやらせるよりも自分で新しいことにいろいろ興味を持ってもらいたいのだけれど、楽しいと思う特定のことばっかりにはまり込むのも、ある意味子供らしいところ。だから、機会とそこに入り込ませる巧みな方法をこちらが研究して、幅広い世界に触れさせて、いずれ自分でそこから何かを選び取るための下地づくりを支えてあげたいと思います。

もう一点。一人っ子ということ、また両親が働くタイミングがズレる共働きという環境のため、わが家の場合は、親子の距離がだいぶん近い状態でやってきたように思っています(周りの家族との比較などから)。

春先から、今夏休みになって、日々のいろいろな活動において、一緒にその場には参加しない、という状況が徐々に徐々に増えてきています。まだ自分で友達と約束をして遊びに行く、ということはそれほど見られませんが、これからどんどんそうなっていくでしょうし、ぜひそうしてほしい。そうすると、これまでは特に土日休日の時間・経験をほぼ共有してきたけれど、次第にそうではない時間・経験がお互いの間にどんどん増えていくことになります。親離れ・子離れのステップ。親としてもそのことはどんどん背中を押しつつ、その際に何を大事にすればいいだろう?

今までは、土日祝の時間をほぼ一緒に濃密に過ごすことで、日々考えていることや、性格的なくせ・身体面の成長や特徴等々を把握してきたのだと思います。それをちゃんと追い続けていくことは、この先どれだけ成長しようとも大切なこと。ただ、接し方が変わるからアプローチも変わる。経験自体を共有しなくなっていくのであれば、やはりそれについて聞き、話をしないといけない。

同じ時間・経験を共有するほどの密度は当然得られないから、これまでに比べて、細かく細かく向き合っていかないと追いつけません。たぶん、週末だけではどんどん離されていってしまうでしょうから、日々少しずつの「話す時間」の確保、が大事なカギになるのだろうなぁ、と想像しています。仕事・働き方への向き合い方を含めて、ちょっと自分の生活リズムも組み直さなければ。そんなことを思った、7歳の誕生日でした。

また今年も、おめでとう、ありがとう!

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jj_coba at 23:50|PermalinkComments(0)家族のテツガク 

2017年04月01日

tramp shock!!

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ついに当ブログにおいてもトランプ大統領が当選。
大統領令、どんどん出すから覚悟しておいてねっ!

Fake news、ダメゼッタイ。だからねっ!


jj_coba at 01:29|PermalinkComments(4)TrackBack(0)ヒトコト 

2017年03月23日

sight from the back

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もう1週間たってしまいましたが、
先週の木曜日は、息子の卒園式でした。
入園式の日と同じく穏やかな晴れの日。

3年間の幼稚園生活全体を振り返ろうとするといろいろなことがありすぎて思いはつきませんので、卒園式に際して思ったことを少しだけ。

「卒園式は、もうすごく号泣するよ」という声はいろいろ聞いていましたが、自分の場合は割とあっさり。ほとんど感傷的になることもなく、小さい園だからほぼみな知っている同級生たちの成長の様子も含めて、どちらかというと「うんうん、大きくなったね、みんな♪」と微笑ましく見ていたような感じです。

卒園式が近づくにつれて、ある生活のかたちが一区切りを迎えることには確かに寂しさもありましたが、この3年が持つ意味を十分に受け取るには、当の息子自身はまだいろいろ幼い。主役である彼にとっての卒園および卒園式のそのような意味を考えると、それは日々の行事の1つとそんなに重さが変わるものではないのかもしれません。(実際に、式までの残りの日々の息子のふるまいなどを見ていると、この感覚はあまり外れていない気がします)。

式にあたっては、きっと親のほうが自分自身の思いや期待ほかあれこれの感情を、前方にいる子供に一方的に投影して見ている・経験しているのだろうな——前夜遅くに眠りにつく前に、フッとそんなことが頭に浮かんできました。

幼稚園の卒園式だから、式次第もまた各内容もごくごくシンプルなもので、子供たちの個性や思いがそこまで強く現れるタイプのものではないからこそ、サラッと受け取れたのだと思います。これがきっと、小学校や中学校の卒業式とかになると、各種の式辞にも歌にももっと子供自身の思いや感情が色濃く出るのだろうし、それを目にするときはきっと自分ももっと心を揺さぶられるのでしょう。

ただ、もしそうなったとしても、やはり僕は僕の思いで息子の背中を見つめていることには変わりはなく、そのとき息子の本当の心のうちはわからないはず。そしてまったく同様に、息子も僕がどんな思いを抱いて彼の背中を見つめているのかは、きっとわからないのでしょう。

なんともまとまらない雑感ですが、式の日を迎えようとしていた夜中にそんなとりとめもないことを考え、さらに息子と奥さんの背中を見ていたら、「あぁ、親ってこういう気持ちで子供の背中を見つめてきたんだなぁ」と思い至り、そのときだけはちょっとしみじみしたのでした。

何はともあれ、家族3人で、元気にこの日を迎えられたことに感謝。


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jj_coba at 09:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)家族のテツガク 

2016年12月31日

本のいのちをつなげる“人”

※元記事はこちら

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すっかり更新が滞ってしまっていて申し訳ありません。秋頃から「まとまった文章が全く書けない」状態に陥っておりました(本の仕事に関わる者としては由々しき事態ですが……)

さて、突然ですが、編集を担当した島薗進『いのちを“つくって”もいいですか?』についての読書会を開催することになりました。発売からちょうど1年後にあたる2017年1月29日(日)に行います。詳細はこちらをご覧ください。

本ブログ、4章まで書いたところで尻切れトンボのようになっておりましたが、読書会を開くことが決まったこともあり、書き残していたことをまとめて、きちんと環を閉じておきたいと思います。

ただ、本の内容に関わることは前回記事「ドコニモナイ、ドコニモナイクニ」までに留めたいと思います。5章「『いのちは授かりもの』の意味」はマイケル・J・サンデル『完全な人間を目指さなくてもよい理由』を、6章「小さないのちの捉え方」、7章「つながりのなかに生きるいのち」は日本人の宗教儀礼や文化慣習についての先行研究を議論の端緒に、また折々に参考にしながら、著者の考える試論が徐々にかたちとなっていきます。西欧的なキリスト教文化に根差すものとはまた異なる、日本やアジア諸国の文化・宗教的な要素を土台に据えた新たな倫理を打ち出せる可能性があるのではないか——そのように著者のメッセージが根底にあり、またそのために数々の著作が上げられるパートでもあるので、ここについてはぜひ本書のテキストそのものとじっくり向き合っていただければ幸いです。私自身、この部分について深めたいテーマは多々あるのですが、まだ混沌とした状態でもあるので、引き続き考え続けていきたいと思います。

本書にまつわる一連の文章を締めくくるにあたって記しておきたいのは、この本が出来上がるのを支えてくれた方々にまつわる、本の話です。

目次の次のページを開くと、そこには4名の方のお名前が記されています。

当然ながら、著者・島薗進さんの手に成る本書ではありますが、“本”としていのちを吹き込んでくれたのは、特にこの4名の方の支えによるものです。

iPS細胞の仕組みなど、科学的な説明に添える図版を描いてくれた渡辺裕子さんは、ふだんから月刊誌でもよくお世話になっているイラストレーター。説明的な要素は的確に、かつ人物やイメージカットはやわらかく親しみやすい雰囲気に仕上げてくれます。

ユニーク(でちょっぴり風刺の利いた)マンガも多く手掛けられていて、こちらは仕事とは別に、個人的に楽しませていただいております。

順番が前後しましたが、本書の装丁・レイアウトを手掛けてくれたのは装丁家の矢萩多聞さん

私が初めて多聞さんの本を手にしたのは、確か大竹昭子編『ことばのポトラック』だったと思います。「おもしろい本だな」と外見から手に取り、クレジットで多聞さんの名前を見つけました。どこかで聞いたことがあるような気もしつつ、印象に残る名前。

実は既に読んでいた中島岳志『中村屋のボース』、『インドの時代』佐野衛『書店の棚、本の気配』森まゆみ・津田篤太郎『未来の漢方』など、素敵な装丁だな、と思って本を開くとしばしば多聞さんの名前に出会うことに。さらに、シリーズの装丁をされている〈就職しないで生きるには21〉のご自身の著書『偶然の装丁家』を読み、ガツーンと大きなショックを受けました。同じ年月を生きてきて(多聞さんは同い年)、同じ分野の仕事に携わっているけれど、こんなにも違った、密度の濃い生き方をしている人がいるなんて、と。ぜひ一度仕事を頼んでみたい、という思いが募る一方、自分の凡庸さや熱意の足りなさが恥ずかしくもなりました。

そんなことを感じていた2014年12月、多聞さんのツイートで、バングラデシュのレンガ職人たちを撮った写真展が開かれていることを知りました。独特の力強さのあるモノクロームの写真に、多聞さんがデザインした手製本の写真集があるとか。以前、ある縁があって旅をしたバングラデシュはとても思い入れのある土地でもあったので、展示最終日にコニカミノルタプラザに駆け込んだのです。

その写真を撮っていたのが吉田亮人さん。やはり同い年だった吉田さんとその場で意気投合し、いずれ京都で多聞さんも交えて再会しようということになりました。その後、一度は機会を逃してしたものの、2015年夏に東京で行われた上記の写真集『Brick Yard』にまつわる吉田さんと多聞さんの対談イベントにて、ようやくお話できました。やはり多聞さんが装丁を手掛けていた『アントニオ・タブッキ 反復の詩学』の著者であるイタリア文学者・花本知子さんと私が一緒にお仕事をしていたことなどもあり、短い時間ながら本にまつわるさまざまな話をして、また近いうちにかくかくしかじかの本の装丁をお願いするかもしれません、ということを伝えました。ただその装丁が好きだったことに留まらず、著書『偶然の装丁家』を読んで多聞さんは自分なりの死生観、いのちの捉え方を持っているのだなと感じ、きっと『いのちを〜』の主題をしっかりと汲んでくれるはず、という確信があったからです。

ようやく本の全体構成が見えてきた秋、正式に多聞さんに装丁・組版を依頼しました。多聞さんとの仕事のハイライトは、『偶然の装丁家』にも描かれていて、編集者など装丁を依頼する人には有名な「紙芝居プレゼン」。用意したラフ(およびその生成過程)を、相手の反応も見ながらタイミングよく提示していく、ライブ感たっぷりのまさに紙芝居。目の前で繰り広げられるストーリーは実におもしろく、そして最終的に辿り着いたデザインは文句なく素晴らしいものでした。自然光の入るカフェで目にしたあのプレゼンの感動は忘れられません。

その後も多聞さんは、ミシマ社の『ちゃぶ台』、吉田亮人さんの『Tannery』川内有緒『晴れたら空に骨まいて』など、ひとつひとつ素敵な装丁をたくさん手掛け続けていて、また『たもんのインドだもん』の執筆や、絵の個展などにも大活躍。取材のことを少しだけうかがったことのある『紙の旅』も、そろそろ具体的にかたちが見られそうで、今から大変楽しみです。

続いては、各章トビラの絶妙な犬キャラクターのイラストを描いてくれた中村圭志さんのことを。

中村さんを形容するのはなかなか難しく……確かにイラストを描いてもらいましたが、専業のイラストレーターではありません。第一に優れた宗教学者であり、著述家・翻訳家。またイラストだけでなく、独特の世界観のある絵画を描いているアーティストでもあります。

中村さんには、『いのちを〜』の元となった連載「いのちとモノ」からイラストをお願いしていました。著者の島薗さんと打合せをして連載のテーマと原稿の進め方などを一通り決めたところで、イラストをどうするか、という話に。内容にゆるやかに関わりつつ、死をも扱うややデリケートな内容を緩和できるようなイラスト——ただ絵の雰囲気がよいだけではなく、内容を深く理解したうえで表現できる人に依頼する必要があります。そこで島薗さんから名前が挙がったのが中村さんでした。

名前を聞いてすぐに、『信じない人のための〈宗教〉講義』『宗教のレトリック』を思い出しました。前者は、一定の距離を取りながら、その機能や意義を深く読み解く優れた論。後者はレトリック・修辞技法という切り口で宗教の存在やその機能を分析したもの。いずれも他にはない大胆な方法で本質に迫る論を展開していて、非常にインパクトを受けたことを覚えています。特に後者を読んでから中村さんのホームページなどにも目を通していて、宗教学研究室の先輩であること、絵を描く人であることも既に知っていました。

こうして、実は著者・イラストレーター・編集者がみな同じ宗教学研究室出身者、というチームでの連載がスタートしたのです。医療・健康情報の雑誌上において、「死、いのちの有限性を認識したうえで考える生、健康の意味」ということを隠しテーマとしたエッセイだったので、やわらかい文章を心がけたものの、それでもなかなかデリケートな要素を扱うことも多々。もし文章だけを読むのであれば、雑誌の連載としてはちょっと取り付きにくい面があったかもしれません。しかし中村さんに原稿を送ると、根底にある問題意識は完璧に汲みつつ、ユーモア溢れるアレンジを施してイラストに仕上げてくれたのです。著者の原稿をいちばん最初に読むのは編集者の特権ですが、中村さんから返ってくるイラストも全く同じ存在感を持っていて、連載中、私は毎月毎月それをワクワクしながら待っていました。『いのちを〜』には描き下ろしのカットもあり、連載分から採られたのはそのごく一部。24点のほとんどは、今皆さんにご覧いただくことはできない状態で、個人的に非常に残念なことだと感じています。

そうして2年間、中村さんには全ての原稿にも目を通してもらっていたので、書籍化の作業のなかでも、進捗を報告したり実際にイラストを発注する折に、いつも簡潔に的を射たアドバイスをいただき、『いのちを〜』が生まれるまでの過程を、始めから完成までずっとサポートしていただいたと感じています。

2014年に刊行された『教養としての宗教入門』が好評を博し、中村さんは世界各地のさまざまな宗教をフラットな目線で、かつ学術的な知を背景に語れる著者として、専門的な世界を超えて一躍注目を集めるようになりました。『教養として読む世界の教典』『世界5大宗教全史』など宗教学の本丸をわかりやすく説く本から、『徹底分析! ハリー・ポッター』『SEKAI NO OWARIの世界―カリスマバンドの神話空間を探る』のように宗教学的な視点でサブカルチャーをユニークに読み解く本まで、多彩な、そして一つ一つが本当によく練られた本を、次々と送り出しています。

イラストレーターとしての中村さんの魅力も大いに実感しつつ、『信じない人のための〈宗教〉講義』以来の惚れ込んでいる者として、中村さんと本を作りたい、と強く願っています。真打ちとなるある題材のほか、いくつかのテーマを考え、お話を伺っているところ。私にとって、今もっとも大切に磨きたい課題です。

最後は、校正を担当してくれた牟田都子さん

今、今年でこそ、ドラマ「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」によって校正・校閲という職業が世間一般に認知されるに至りましたが(といってよいのでしょうか?)、出版業に関わる人でなければ、その存在はほぼ知られていなかったと言ってよいのではないでしょうか。人・社によっては、出版業界の人でもその意義をちゃんと理解していないことさえあるかもしれません。

編集という仕事を10年以上も続けていると、校正・校閲者がいなければとんでもない事態になっていた、ということはもう数えきれないほど。個人的にその意義を感じていることに加えて、「誰もが発信者になれる」web時代において、はじめの騒ぎがすぎてそれが日常に近づいてくるに従って、校正・校閲というものが求められるようになっていくのではないか、ということを漠とではありますが考えていました。

牟田さんと初めて会ったのはちょうどそんなことを考えていた時期で、ある編集関係のイベントに参加し、アフタートークで意気投合。「編集ナイトがあるならば、次は校正ナイトをやりたいですね」という話をしたことを覚えています。それからちょうど一年後、なんと牟田さんは本当に「校正ナイト」を実現させてしまいました。当日参加できなかったのは残念でしたが、こちらの記事からもその熱量が伝わってきます。

出版社の校閲部に務める傍ら、ひとり校正者「栞社校正室」として活躍の場を広げている牟田さん。書籍編集の経験がほぼなく、特にこの人に、という頼るべき校正者を持っていない状態で、上の記事に見られるようなゲラに向き合う姿勢や、石橋毅史『口笛を吹きながら本を売る』のようなノンフィクションの校正を手掛けられていたことなどから、『いのちを〜』の校正を依頼することにしました。決して強い指示や表現はないものの、きめ細かく行き届いたチェックが本全体にわたってなされていて、著者の島薗さんもその丁寧が仕事ぶりにとても感嘆していました。

その後も栞社校正室は引く手あまたのようで、いつもお忙しくされているようです。鹿子裕史『へろへろ: 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々』マリー・ムツキ・モケット『死者が立ち止まる場所』若松英輔『悲しみの秘義』等々、粒ぞろいの素晴らしい本に校正者として携わっています。そして、これらの本の著者や編集者が牟田さんの校正を非常によく信頼していることが、あとがきやSNSでのやりとりから伺えます。本来、黒子的な存在である校正者が、第一にはその仕事の質が高いことが要因であるにせよ、名のある個人として評価さら、信頼されているということは、とても興味深いことだと思います。

どれだけ自分の手掛けることに誠意を込めて向き合えるのか。すべてはここに帰結するのではないでしょうか。そのようにして取り組む姿勢、およびその結果は、同じように物事に取り組んでいる人たちにとって、自ずと共感・共鳴できるものなのでしょう。すぐれた本には、それをつくる優れたスタッフ、チームが存在する。

その意味で、『いのちを〜』にはそれぞれの面で最高のスタッフが集い、支えられたことで、あのような1冊に仕上がったのだと確信しています。本をつくっているのは、すべて“人”なのだ——そんなことにも思いを馳せながら、多くの方にこれからも本書を長く読んでいっていただけることを、心から願っております。

(『いのちを“つくって”もいいですか?』に関する記事、これにて了)


jj_coba at 21:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ヒトリゴト | 読。

シャシンカイギ(後編)

元記事はこちらです。

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さて、前編はほぼ写真展そのものについての話になってしまいましたので、後編は「本」の話のほうに少し引き戻したいと思います。

今回の展示のテーマを構想するのにあたって、ひとりだけ写真家・カメラマンではない編集者として、それ以上に文章と本を愛好する人間として、「写真を展示するだけではなく、最終的に何らか文章、そして本のかたちにもっていきたい」という漠然としたイメージを持っていました。

ただ、初めから物語的な要素が念頭にあったわけではなく、今回額装をお願いした方からのアドバイスで、スペースを考えると展示するのは10〜12点程度が適当(A4〜四切くらいで、上下2段の場合)という物理的な条件が、展示テーマを考えるコンセプトの根っこになったのです。

既に粗くセレクトしていた写真と12という数字から、最初に考えたのはシェイクスピアの『十二夜』。でもこれまであまり馴染みがなかったこと、またザッと概要を見てみたものの写真とうまく結びつくイメージが得られなかったことから、さらに考え続けて浮かんできたのが夏目漱石の『夢十夜』です。とても好きな作品で、またその不可思議な世界観を写真のイメージと結びつける、という試みが非常に魅力的に感じられました。そして「夢」を想起させるもの、という観点でこれまでの撮りためた写真を見直す作業を繰り返すなかで、「偶然の光と色彩」というイメージが明確になってきました。

展示する作品を最終的に決定し、そのプリントおよび額装の手配を終えたのは搬入の3日前。一応、展示ができるだけの準備はできたわけですが、『夢十夜』に倣って、それぞれの写真に奇妙な夢の物語を一つずつつける。さらに、それを印刷物、本の形にして展示に添える——それが自分なりに考えた理想の形でした。時間的には厳しく、半ば諦め半ば開き直りつつ、とりあえず一つ、書き始めてみました。

写真はこれまでに訪れた国内外さまざまな場所で撮ったもので、意図せずそれぞれ別々のところに散らばりました。一つ一つ独立した話としながらも、緩やかにつながる感じを持たせつつ、かつ最初と最後が循環するように——そうイメージしてまず並びを決定。そして、それぞれの場所にまつわるいくつかの思い出と、写真そのものから浮かぶ想像を簡単にメモして、あとはそれらを組み合わせながら『夢十夜』ふうに物語を走らせてみる——するとおもしろいことに、想像以上に物語のほうが勝手に進んでいったのです。1話の分量は原稿用紙1枚ほど、いずれもほぼ30分で書き上がり。単純に時間がなかったという事情もありますが、不可思議な物語なので論理的に構築する必要がなく、敢えてほぼ推敲もせずに直感に任せて仕上げました。後付けにはなりますが、自分の意図を超えた偶然の効果に頼った写真とも、何か通じるものがあったのではないかと思います。

残念ながら紙や製本にまでこだわる余裕はなく、ごく普通の両面印刷用マット紙を使い、せめてもの装飾として見返しふうにトレペを1枚、そして表紙を入れて中綴じにしました。ただ、慌てて最後に見つけたものながら、表紙の紙は濃紺に小さな銀の斑点が散らされておりどこか夜空を連想させ、予想外によい仕上がりとなりました。

さて、ようやくここから少しだけ、いつもの「本をつなげる」話をしたいと思います。

既に述べたように、今回の構想の根っこには『夢十夜』があります。「こんな夢を見た」で始まる幻想的な物語10篇の連作で、『三四郎』など他の著名な作品とはやや趣きを胃とする作品ですね。しかし言い様のない理不尽な状況を、口をつぐんで受け入れざるを得ない主人公の在り様、諦観のようなものは、他の作品にも通じて見られるような気もします。

今回、勝手に『夢十夜』ふう、などと称して、辻褄も何も気にせず、むしろ現実的な論理を崩すように物語を組み立ててみたわけですが、現実的なものが破綻した夢のような世界を描いた連作短篇としては、内田百痢慳重咫も大変奇妙でおもしろい作品です(この2つはよく並んで挙げられますね)。ただ、今回文章を書いてみようと思ったこともあり久しぶりに読み直してみると、『冥途』は『夢十夜』以上にかなり不穏な雰囲気に満ち満ちていて、いきなりこの世界に跳躍することは難しいな、と感じました。

今回の展示および連作は、ポルトガル・リスボンの夜の一場面から始まります。時系列的にも一番最初のもので、またまだ全く写真を撮ることに意識的でなかった頃に「撮れてしまった」という側面の最も強い1枚であったので、始めに置きました。リスボンの夜、誰かに導かれるように彷徨う——ということで思い浮かべたのはアントニオ・タブッキの『レクイエム』。しかも、タブッキとも、タブッキと思しき主人公が出会う詩人ペソアとも同じような丸眼鏡を、ちょうど私がかけている、という偶然がまた想像力を刺激しました。今回の連作中には他にも数人、丸眼鏡の人物が登場するのですが、おもしろいことに、モデルとした実在の人たちもまた、実際に丸眼鏡をかけていたのです。

誰かの後を追いかけていく人物と追われる側の人物とが、溶け合ってしまうようにその存在自体が不確かになっていく。そんな物語を組み立てながらイメージに浮かんできたのは、同じくタブッキの『インド夜想曲』です。物語にはっきりと分かりやすい筋道があるわけではなく、暗示的な要素の断片が絶妙なバランスで綴られていく、そんなタブッキの作品の数々に、改めて惚れ惚れとしました。また、今回はそこまではっきりとは表現に込めなかったものの、もうここにはいない人との対話、というモチーフが頭の中にあって、そこにも確実に、タブッキの作品が大きく影響しているのだと思います。

そして先程も述べたように、今回の連作は、始めと終わりがぼんやりと循環するような構成になっています。そこだけは初めから意図していたこともあり、ややあからさまに感じられるかもしれませんが……技法の稚拙さはさておき、始めと終わりが循環する、というモチーフは、ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』から多大な影響を受けています。幻想的な、そしていずれもどこか哀しみをたたえた短篇の連作、その始まりと終わり地点で重なる姉と弟の存在。そしてこの作品がエンデの文章と父エトガー・エンデの絵が交錯する地点で成り立っている、という事実が、この作品の循環的なイメージをより一層深めるように感じます。

短い物語同士が連環し、渦を巻くように絡まり合い、終わりからまたループする、というものとしては、イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』がとにかく秀逸な作品です。一つ一つはかなり奇妙な物語たちを、どのようにすれば複雑かつ精緻なパズルのように構築できるのか。今回、ほぼ初めて創作に手をつけてみたわけですが、『冬の夜ひとりの旅人が』はその究極の地点にある、見果てぬ夢のような存在です。

ただ、今回の展示にあたって、自分が撮った1枚の写真を起点に、そこから浮かぶイメージに現実の記憶をいくつか組み合わせ、それを『夢十夜』ふうの文体にアレンジする、という方法を試してみたところ、思っていた以上に物語が出てきた、自然と引き出されてきた、という実感がありました。元々この方法は、人物を撮った写真でできないだろうか、と考えていたことなのですが、今回の展示では敢えて人物写真を一切出していません。では、人物の写真ならば、またおもしろい展開があるのではないか——もちろん、逆に全くうまくいかない可能性もあるわけですが、少なくとも、まだ新たに試みる余地は十分に残っています。熱が冷めないうちに、次なる一手を打ってみたいものです。

本当は、最後に述べてきたような「本のつながり」にまつわる話を、展示の場にも用意したいという気持ちがあったのですが、写真展という空間を考え、物語の冊子を置くのみに留めました(まとめる時間がなかった、というのも事実ですが)。それは結果的に正解で、やはり写真を観に訪れる場所であり、またそれをきっかけに話の輪が広がることを想定していた場だったので、冊子でさえ、ゆっくり見ていただくのは難しかったようです。この点は、展示の構成の仕方・準備としてやや見込みが甘かったな、とも思っています。次に何か企画するときにはぜひ生かしたいです。

(前編から)シャシンカイギという展示の概要に、それについての自分の雑感、さらには本来の当ブログで記しているような本の話。それぞれバラバラの話をひとまとめにしてしまったので、妙に長ったらしくまとまらない記事になってしまったこと、どうかご容赦ください。ただ、この度のシャシンカイギという企画を通して率直に感じ、考えたことの主たる部分を取り出すと、およそこのようになります。その感じが、少しでも伝われば幸いです。

(了)


jj_coba at 21:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ヒトリゴト | Photo!