自虐史感から抜け出し明るい社会を望むエコノミスト

ケインジアンのエコノミストと言いつつ40年、市場経済の心理的影響や期待的要因または外生変数の大きな変化による「不安定性、不確実性、複雑性」に注意を払いつつも、それを克服する可能性を「安全、確実、単純」に求められないかと探している。そして、この日本の閉塞感から脱皮できることを望んでいる

武士道

武士道は日本の大きな遺産(新渡戸稲造)

ヨーロッパの「騎士道」は、封建制度から離されるやキリスト教会に引き取られ育てられた。
決められた宗教をもたない日本では、貨幣愛主義者または軍隊組織が武士道を己の都合のよいように利用するかもしれない。
名誉によって築かれた国家は、屁理屈で武装した政治家たちの手にかかれば、たやすくひねりつぶされてしまう。国家や権力者が「忠義」なる言葉を使うときほど危険なことはない。
「武士道」は、大きな遺産である。我々の指名は、この遺産を守り、未来へとつないでいくことではないだろうか。

忠義(武士道の道徳律Ⅶ)

最後に「忠義」とは、主君に対する絶対的な従順のことである。一見その本質は、日本の封建社会の政治理念に見えるが、共通の考え方が海外にもある。
アリストテレスは、「個人は国を担う、国家の一部として生まれてくるのだ」と言っている。
ソクラテスは、「あなたは、今まで国家に生まれて教育されてきたのに、自分が国家の家来ではないと、いえるのか?」と言っている。
しかし、西洋の個人主義においては、主君に対して個人と別々の利害が認められているが、武士道において、個人、家族、広くは組織そして国家の利害は、一体のものであるところが、違う。

主君の命令は、絶対だったが奴隷ではない、主君の間違った考えに対して、命をかけて己の気持ちを訴えた。
忠義とは、強制ではなく、自発的なものである。あくまでも自分の正義に値するものに対して忠義を誓う。

名誉(武士道の道徳律Ⅵ)

「名誉」とは、名を尊び、自分に恥じない高潔な生きかたを、貫くことである。
その観念は、外聞や面目と言われるが、裏を返せば、恥を知ることである。子供の頃から、人に笑われるな、恥ずかしいことをするな、対面を汚すな、と教育する。
「恥」は、道徳意識の基本であり、「名誉」とは、人としての美学を追求するための基本の徳である。
名誉を守り、どう美しく死ぬかを追求することは、同時に、何のために生きるかという哲学に帰着する。

礼(武士道の道徳律Ⅳ)

「仁」の思いやりの心、憐れみの心、他者の気持ちを尊重する心から生まれる謙虚さが「礼」の根源である。「礼」とは、「仁」の精神を型として表したものである。
茶の湯の作法など、定められた方法が結局、時間と手間を省く最上の方法である。
礼儀作法は、心で肉体をコントロールして心を磨くという点において目的の本質はひとつである。
伊達政宗は「度を過ぎた礼は、もはや、まやかしである」と言っている。礼の作法も心がこもっていなければ、ワザとらしいものとなる。「仁」の心と共に「礼」をなすべきである。
アメリカ人は、「この贈り物は、素晴らしいものです」と言ってわたす。日本人は、「つまらない品物(立派なあなたには失礼な品)ですが、お納めください」と言ってわたす。ずいぶん違うようだが、贈り物そのものに心を向けるか、送る気持ちに心を向けるかの違いで、つまるところは、同じである。

仁(武士道の道徳律Ⅲ)

仁とは、人間としての思いやり、他者への憐れみの心である。
高潔で厳格な「義」と「勇」を男性的な徳とすると、「仁」は、女性的な優しさ、母のような徳である。

伊達政宗は、「義に過ぐれば固くなる。仁に過ぐれば弱くなる」と言っている。義と仁のバランスと言うことである。義に偏ると厳しすぎる。仁に偏ると甘すぎる。

孟子は、「仁の心を疑うものは、薪についた大火を茶碗一杯の水で消せなかったと言って 水で火を消せないと思うようなものである」と言っている。難しいことであるが、他者への思いやりを忘れてはならない。

ヨーロッパにおいては、キリスト教が他者への憐れみの心に貢献したが、日本においては、音楽や書に対する嗜みが、それをなした。
敗れた者を慈しみ、おごれる者を挫き、平和の道を立つることである。

勇(武士道の道徳律Ⅱ)

「勇」とは、義(正義)を敢然と貫く勇気(実行力)のことである。
孔子は、論語の中で「義を見てせざるは、勇なきなり」と言っている。勇気とは、正しいことを実行することである。
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「勇気とは、恐れるべきことと、そうでないことが、分かることだ」と言っている。わざと危険を冒して死ねば、単なる犬死にである。武士道では、これを「匹夫の勇」と呼び、さげすんだ。
水戸光圀は、「本当の勇気とは、生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬ、ことである」と言っている。武士は、(匹夫の勇)と(大勇)の区別を子供の頃から学んでいた。
勇とは言っても、自分よりも強い暴漢などに怯えて、義の精神を実行できなければ無意味である。武士たちは、精神修行と同時に、肉体を鍛えあげ、「文武両道」を追求していった。

義(武士道の道徳律Ⅰ)

「義」とは、人間としての正しい道(正義)を指し、もっとも厳格な徳目である。身体にたとえるなら骨である。骨がなければ、胴体の上に頭がつかず、手も足もうごかない(真木保臣)。武士は、とにかく銭勘定を嫌った。つまり 損得を追求する行為だからである。商売は、商人にまかせて、人々の模範となる生き方を追求した。
打算や損得を超越し、自分が正しいと信じる道を貫く武士道の中心となる良心の掟が「義」の精神である。

花は桜木、人は武士!

ヨーロッパ人は、バラの花を愛するように、騎士道を愛し。日本人は、桜の花を愛するように、武士道を愛した。
「武士道」とは、ひとりの人物が決めた思想ではなく、武士社会の成長とともに口伝えされていった格言のようなもので 武士だけでなく広く庶民にも浸透し、やがて「大和魂」となっていった。
当時の食事は、一汁一菜が基本で質素なものだった。贅沢は、人格に悪影響を与えるもっとも恐れるべきものだと考えられていた。
そして刀は、十五歳になると帯刀(刀は、「武士の魂」として力と武勇の象徴とされていた。)を許され、自尊心と、危険な凶器を持ち歩くことに対して責任感を、持つことでもあった。

武士道とは日本人の道徳観の支柱

諸外国では、学校で子供たちに善悪の基準を宗教に基づいて授けるのが普通です。
日本では、それがありません。しかし それに代わる親や先輩からの武士道教育があります。
歴史の中で 武士から次第に町民にまで滲み出た武士道によって。親達から子孫に道徳教育を代々授けていっているのが現状です(新渡戸稲造)。
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秀峰

新規一転、自分の可能性を求めて自由に何にもとらわれず、エコノミストとして出来る限りを尽くしたい。趣味は、海と酒と美食、囲碁とカメラと旅行です。

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