■ テーマ: 【No. 1677  『コラム・震災一周年』 志(こころざし)のバトンを引き継いでいく】

■ ポイント: 志(こころざし)のバトンを引き継いで、強く生き思いを次世代につないでいく

■ コラム
今日で、あの東日本大震災から丸一年が経過しました。震災後のさまざまな報道などを見ていると、1年経過してもなかなか思うように復興が進まない状況があり、もどかしさも感じます。また、放射能被害の深刻さも更に明らかになっていて、新たな生活を行なうための準備にも長い時間が必要です。

震災を経験し、震災前までの生活がいかに平和で恵まれていたかを痛感できました。そして、今ここに命をいただいて生かされていることに感謝の念を抱かずにはいられません。ただ、ここは中国ビジネスを主にお伝えする場ですので、復興などに関する専門的な発言は専門家にお任せすることとしましょう。

中国と関係する震災関連のニュースを一つ紹介します。ご存知の方も多いと思いますが、宮城県女川町・佐藤水産役員の佐藤充さんは、地震直後に大連出身の中国人女性研修生20人全員を寮から誘導して高台の神社に避難させました。研修生の安全を確認した後、佐藤さんは寮に残した妻と娘を捜しに戻ったものの、残念ながら中国人研修生たちが見ている前で津波にさらわれ、帰らぬ人となりました。
中国人研修生20人を助け 津波にのまれ不明の日本人に感動の嵐

震災後一週間経って、女川の佐藤水産で研修していた20名の中国人研修生は中国に帰国しました。断続して発生する余震やまた来るかもしれない津波から逃れるためには仕方の無い選択でした。

女川の研修生のほとんどが中国大連市周辺の出身でした。ただ、中国では日本の原発事故を非常に深刻にとらえている人が多く、研修生のご両親は二度と日本には行って欲しくないと願っています。ところが、中国に帰国した20人のうち12月までに14人の研修生が女川に帰ってきました。

しかし女川町の漁業復興の道のりは険しく、再来日した研修生らの昼休みはわずか1時間で給与も上がりません。中国の両親には女川に帰ったことを秘密にせざるを得ない研修生もいます。両親を心配させたくないので、毎回実家に電話するたびに自分は中国の蘇州市にいると告げています。

ある研修生はこう語っています。「だけど、人は生きているなら良心が必要。佐藤さんがいなければ、私達は生きていなかった。皆さんに恩返しできることは、ここに帰ることだけです」
「恩人」と苦難を共に 女川町に戻った中国研修生

ケータイメールに愛が感じられる作品を年一回表彰するイベント、「ドコモ・iのあるメール大賞 第10回グランプリ」の作品を紹介します。

・受賞: 第10回グランプリ
・From: 宇野 邦久さん(50代)
・Sub.: Re. 生きてるぜ
     家流された。船流された。でも、
     生きる意欲までは流されていない!
     家族は、皆無事だから。
・エピソード: 震災の後、やっと連絡がとれた漁師をしている知人からのメール。無事と知り、ほっとしました。
「Re: 生きてるぜ」 iのあるメール大賞 第10回グランプリ

しかし、同じケータイメールでも、とても残念な結果となったものもあります。以下、共同通信のニュースを転記します。

・東日本大震災の津波に襲われた宮城県南三陸町の防災対策庁舎で亡くなった町職員三浦亜梨沙さん=当時(24)=が、流される直前、交際していた男性に「大津波来た!」とメールを送っていた。
・最初のメールは、地震発生17分後の午後3時3分、男性に「6メーターの津波きます。頑張って生きます」と送った。
・男性が3時11分に「ぜってー死ぬなよ!」と返信すると、亜梨沙さんはその7分後「うん、死なない!愛してる!」と送信した。 男性は3時11分に「オレも愛してるよ」と返信。
・津波は家々をなぎ倒し、3階建ての南三陸町防災対策庁舎の屋上にいた多数の職員が流されたのは午後3時33分ごろ。男性はその後もメール送信を続けたが、返信はなかった。
大津波直前、緊迫のメール 交際相手に南三陸町24歳女性

宮城県南三陸町の防災対策庁舎はもともと鉄筋コンクリート三階建てで、今では町に赤い鉄骨だけを残す建物です。津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道されてきました。屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の現場となりました。前述のメールの三浦亜梨沙さんも犠牲者のうちの一人です。
防災対策庁舎の悲劇◆宮城・南三陸

また、同じ南三陸町危機管理課職員の遠藤未希さん(当時24)は地震後すぐ防災対策庁舎内の放送室に駆け込み、防災無線で「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」と呼びかけました。「6メートルの津波が予想されます」、「異常な潮の引き方です」、「逃げてください」と連呼、多くの町民の命を救いました。しかし放送室から退避して屋上へ逃げたものの、津波の後屋上で生存が確認された10人の中に遠藤さんはいませんでした。

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(写真: 津波で被災した南三陸町・防災庁舎)

将来のある多くの方々が津波の犠牲となりました。なくなられた方の無念さや残された家族のお気持ちは、想像するばかりでとても書き表せるものではありません。

陸前高田の八木澤商店は、200年以上続く醤油や味噌を作る老舗です。今回の津波で工場が全て流されました。9代目社長の河野通洋さんは復興を誓い、TV取材にこう答えていました。

「生き残ったものがあきらめず前に進むことで、なくなった方々の無念さに報いる。前に進む原動力は、怒りや悔しさが根底にあるかも知れない。」

心ならずも犠牲にならざるを得なかった方々はもっと生きたかったことでしょう。また、生き残った方でも志(こころざし)半(なか)ばにして夢をあきらめざるを得なかった人がたくさんいらっしゃいます。

こうして命がある私たちは、犠牲者の方々や一時的にも志をあきらめざるを得なくなった被災者の無念な気持ちを忘れずに生きていくこと、言い換えると、そういう方々の志(こころざし)のバトンを引き継いで生きていくことがとても大切なのだと感じます。

志(こころざし)のバトンを引き継いだ人には、自分だけで生きているのではないという大きな責任感が生じます。スポーツでいえばサッカーの日本代表のような気持ちというか、さまざまな思いを背負ってチャレンジするようなものです。「もし津波がなければ」という悔しい気持ちから、「自分がやらねば」という現実的な気持ちへと切り替えられると期待します。

では、志(こころざし)のバトンを受け取ったとしても、私たち一般人はどう生きていけばいいのでしょうか?

ボランティアとして直接的に被災地を支援することも大切です。多忙なので被災地への寄付を行なうことも貴重な復興資金となります。また、しっかり働いて納税するだけでも、国の復興予算の源泉となります。

バトンを受け取った生き方として筆者は、『目前のことに対して、日々解決しながら淡々と生きる』ことだと考えます。自分ができることを日々淡々としっかりこなして生きていく、そういう姿勢が納税につながったり、何か他人のために貢献する余裕を生んだりしていきます。

志(こころざし)のバトンを受け取ったと自覚できる人は、きっと強く生きられる、そして思いを継続できる。少しでも多くの人が強く生き、思いを継続することで被災地の復興につながっていく、そう信じたいと強く思います。

そして、バトンを受け取った私たちは、次の世代へこのバトンをいい形で渡していくため、できることを淡々と継続して新たな局面を切り開いていく必要があります。