その日の仕事は散々だった。簡単な書類整理を間違い、課長に注意されてしまった。電話の対応もミスして先方に怒鳴られてしまった。

家に帰ると、どっと疲れが噴き出した。今日の疲れと怒りを洗い流すには、いつもより多くのアルコールを必要とした。しかし、いくら飲んでも、怒りは増すばかりであった。

ねちねちと小言を言い続けた課長への怒りも、電話口で怒鳴り散らしてきた客への怒りも、最終的には女への怒りに収束していく。

『あの女のせいで、真奈にふられたんだ』

今日1日で、孝一のプライドはずいぶん傷つけられたのだ。

『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』

この怒りは、あの女にぶつけてやらないと気が済まない。孝一は立ち上がって、カーテンを開いた。

しかし、ベランダにも、駐輪スペースにも、線路沿いの道にも女はいなかった。真奈とデートした夜にマンションの外に現れて以来、女は姿を見せていなかった。

「ふん。今日、俺が怒鳴ったから、ビビりやがったな」

鼻で笑った。体がふわふわしているように感じられた。いつもよりもビールをたくさん空けたぶん、足元がおぼつかなかった。

きちんと窓の鍵がしまっているのを確認する。

本当にビビっているのは孝一なのだが、アルコールのせいで気が大きくなっている。

 デートの後、再び散らかり始めた部屋を横切って、キッチンにつながるドアを開けた。孝一の身体を感知して、玄関ライトが自動点灯する。黄色みを帯びた温かい光が、キッチンを兼ねた短い廊下を満たした。

今夜はためらうことなく、玄関ドアの覗き穴を覗き込んだ。

やはり誰もいない。向かいの104号室のドアが、丸くゆがんで見えるだけだ。

「へっ。やっぱり俺にビビってやがる」

孝一は鼻で笑って、6畳間に戻った。そして、電気を消してベッドに入った。

しかし、なかなか寝付けなかった。どうしても今日の出来事を思い出してしまう。

「もう会わない」

「消印がなく、私の家のポストの直接入れたみたい」

「やばいヤツとは関わりたくないの。孝一には悪いけど、私ともう会わないで」

真奈が寄こしたメールが、心に突き刺さったままだった。あのあと、真奈にも電話をかけた。しかし、彼女は孝一からのコールに出ようとはしなかった。

真奈には本当に惚れていた。ミスキャンパスに選出された美貌。女性らしい曲線を描いたスタイル。洗練されたメイクとファッション。大手化粧品会社に勤めている真奈は、自分の彼女としてふさわしいと感じていた。

それなのに、真奈はあっさりと脅迫に折れてしまった。孝一に対する真奈の愛情は、その程度のものだったのだ。

「はあぁ……」

大きな溜息をついて、寝返りをうつ。しかし、そこには真奈はいなかった。ただ暗い壁が広がっているだけだった。

『10日前には、ここに真奈が寝ていたのに』

彼女の誘うような視線を思い出す。

細い割に、大きな胸の谷間を思い出す。

『真奈が俺から離れていったのは、あいつのせいだ』

せっかくアルコールで洗い流したはずの怒りが、またふつふつとわき上がってきた。アルコールも抜けてきたらしく、だんだん頭も目も冴えてきてしまった。それもまた、女への怒りに転嫁される。

「あの女、別れてくれたんだ」

女のか細い声が思い出された。

『なんでこんなヤツのために、真奈と別れなければならないんだ』

女の行為は脅迫であり、犯罪である。

「あんな女と別れてくれて、ありがとう。孝一」

今度は女の笑い声が思い出された。気管が引きつるような不気味な笑いが、よみがえってくる。人の心を不安にし、不快にするような笑い方だった。

「孝一から連絡してきてくれて、うれしいよ」

まったく会話が成り立たなかったことも思い出された。話がまったくかみ合わなかった。

『今度現れたら、つかまえて直接話をつけてやる』

さきほどはそう意気込んでいたが、昼間のやり取りを思い出すと、自信がなくなってきた。自分と孝一の写真を合成して、真奈を脅すような「やばいヤツ」なのだ。問い詰めたり、文句を言ったりしたところで、話が通じない可能性もある。

「はあぁ……」

再び深いため息をついた。もうふとんに入ってから1時間以上はたっているだろう。ぐるぐると同じことを考え続けてしまっている。

もう一度寝返りを打った。

孝一は異変に気付いた。

6畳のワンルームとキッチンを隔てるドアの隙間から、黄色い明かりが漏れているのだ。

孝一の全身が硬直する。

玄関ライトは、人間の存在を感知すると自動点灯する。

ごくり。

緊張をのみ込もうとした。しかし、大量にアルコールを摂取したせいで、のどはからからに渇いていた。以前にもこんなことがあったような気がした。

『いつから点いていた?』

寝返りをうつまでは、ライトは消えていたはずだ。

しかし、再び寝返りをうって振り向いたときには……。

 ベッドから立ち上がろうとしたが、あまりにも手足が硬直していたため、身動きが取れなかった。

声をしぼり出そうとした。

『だれか……』

しかし、のども硬直しているのか、声を出せなかった。呼吸まで止まっていたことに気付く。孝一はゆっくりと息を吐き出した。

「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」

少し筋肉の緊張がほぐれた気がする。もう一度、声を出そうとしてみた。

『だれか……』

途中までは、やはりのどの奥で声が空回りしただけだった。しかし、後半はようやく口から声が漏れ出た。

「……いるのか……」

情けないほどか細い声だった。孝一は自分の声だとは思えなかった。

ライトは自動で点灯するように、人の気配がなくなると消灯するようにできている。しかし、なかなか黄色い明かりは消えない。

声を出せたことで、ようやく体の硬直もほぐれてきた。ゆっくりとベッドの上で起きあがる。

黄色く光るドアの輪郭から視線を外すことはできないまま、ベッドから出て立ち上がる。

ドアノブに手を伸ばす。しかし、その手をひっこめた。

『このドアの向こう側に……あいつが……いるのか?』

泥棒が侵入したとは、まったく思わなかった。真っ先に、あの女を警戒した。

ドアを開くと、女が大きく目を見開いて、こちらを見て立っているのをイメージした。

口角をくいと持ち上げて、口を三日月状に開けて、ひきつった笑みを浮かべているのではないか。

全身にぞわぞわと鳥肌が駆け巡る。

次の瞬間、黄色いライトが消えた。

「きゃっ!」

孝一は思わず少女のような悲鳴をあげて怯えてしまった。

101号室に静寂が訪れる。もうとっくに終電の時間も過ぎている。いつもはやかましい電車の音が懐かしく感じられた。

『ライトが消えたということは、誰もいないのか?』

しかし、自分の考えをすぐに打ち消す。

『いや、身動きしなかった場合も、動くものを感知せず、ライトは消える。だとしたら……』

再び全身に鳥肌が這った。脚に力が入らない。

『暗闇の中で、立っているのか? こちらを向いて』

真っ暗なキッチンに、女が立っている姿を想像する。

白いワンピースから、骨の浮いた脚と腕が伸びる。

前髪も後ろで束ねて、青白い額を露出している。

ドアを隔てた向こう側から、女がこちらを見つめているような気がした。

『最悪だ。ライトが点いていた方が、まだマシだ』

暗闇が恐怖を増幅させる。

カーテンからは、街灯のわずかな光が漏れ入るだけだ。ほの青く、6畳の部屋を照らし出している。

ギシッギシッ……。

ドアの向こう側から、何かがきしむような音が聞こえた。

『やっぱり誰か……いる』

孝一の全身がふたたび硬くなる。寒気を感じているにもかかわらず、額からは汗が噴き出していた。

体は硬くなっていたが、声は出すことができるようになっていた。

「……おい……誰かいるのか!?」

思わず出た自分の声の大きさに、孝一はすくんでしまう。

耳を澄ましてみたが、もう何かがきしむ不吉な音は聞こえてこなかった。

ごくり。

渇いたツバを飲み込む音が、異様に大きく感じられる。

さっきは諦めてしまったが、もう一度ドアノブに手を伸ばす。今度は触れることができた。冷房が効いているにもかかわらず、ドアノブは異様に温かく感じられた。ドアの向こう側で、女がドアノブを握り返しているのを想像してしまう。

孝一は歯を食いしばった。

開けないわけにはいかない。

開けずに夜を明かすことはできない。

とにかくこの不気味な状況に決着をつけなければならない。

ドアノブを握る手に力を込めた。そして、一気にドアノブを回して、ドアを引いた。

ギイィッ!

ドアは悲鳴を上げながら勢いよく開いた。

「ひいっ!」

孝一はドアから飛び退きながら、叫び声をあげた。ドアのきしむ音が、電話で聞いた女の笑い声に聞こえたのだ。

キッチンを兼ねた短い廊下は、真っ暗で何も見えない。

『誰か……いるのか……』

大きく目を見開いて、暗闇に目を凝らす。暗闇の中からより多くの情報を集めようと、瞳孔が開いていく。

だんだんと目が慣れてきた。短い廊下の先に、玄関ドアの輪郭がうっすらと浮かび上がってきた。

『誰も……いない……』

心臓が早鐘を打っていることにようやく気付いた。全身で、心臓の鼓動を感じ取ることができた。

ゆっくりとキッチンへと足を進める。6畳のワンルームからキッチンへと出たところで、センサーが孝一を感知した。黄色いライトが、キッチンを照らし出した。

空のビール缶。

洗うのが億劫になり、シンクに積んだままの汚れた食器。

毛先の開いた歯ブラシ。

小さなうなり声をあげる冷蔵庫。

一方、沈黙を保つ洗濯機。

『はあぁ……はあぁ……』

ようやくまともな呼吸することができた。

最後に戸締りのチェックをしたときと、キッチンと廊下に何も変化はない。玄関ドアの鍵もしまったままになっている。

『さっきのきしむような音は、いったい何だったんだ?』

孝一は左側に目を移した。そこには2つのドアがある。トイレと風呂のドアだ。

再び緊張が高まる。

『もしさっきのきしむ音が、このドアを開閉する音だったとしたら……』

さっきと状況は変わらない。ドアを開くと、そこに宣教女が立ち尽くしているかもしれないのだ。

もう一度自分を鼓舞する。

『もし女が出てくれば、しっかりと話をつけてやる』

トイレのドアノブに手をかける。

『あんなガリガリに痩せた女に、俺が負けるわけがないんだ』

そう思うと、力がわいてきた。孝一は勢いをつけて、トイレのドアを開いた。

「……」

自分を勇気づけていたとはいえ、呼吸が止まる。

トイレの中を、玄関ライトの黄色い光が照らし出す。

トイレの中には、洋式の便器があるだけだった。オーナーこだわりの最新のウォシュレットの電源表示が、赤く点滅している。隠れられる場所はどこにもない。

残すところは風呂場だけだ。

孝一は女を追い詰めたような気がした。しかし、「窮鼠猫をかむ」という言葉のように、追い詰められた女は、襲いかかってくるかもしれない。

こぶしを握りこみ、力を込めた。

格闘技の経験はないが、かなりの体重差があるあの女なら、押さえ込む自信があった。

『そうだ。つかまえて、すぐに警察につきだしてやればいい』

ますます力がみなぎってきた。風呂のドアレバーをにぎる。

『もしこの部屋に侵入しているとすれば、それは立派な犯罪だ』

孝一はドアレバーを押し下げ、一気にドアを開いた。

そこに、誰かが立っていた。

「うわあああっ!」

全身にみなぎっていた力も勇気も、一瞬にして吹き飛んでしまった。さらに心臓が縮みあがる。孝一は腰を抜かして、短い廊下にへたり込んでしまった。

風呂場には、恐怖に歪んだ表情の男が座り込んでいた。

今岡孝一自身だった。

「はあぁ……はあぁ……鏡……」

風呂場の鏡に、自分が映っていただけだった。孝一は上体を起こして、風呂場をのぞきこむ。

浴槽の中にも誰もいなかった。

「な……なんだよ……」

大きな溜息をつく。

風呂場とトイレのドアをしめた。結局101号室には、自分以外誰もいなかったのだ。

昼間のできごとに、神経が過敏になっていたのだろうか。

6畳間に戻って、ドアをしめた。散らかった部屋が広がっていた。どっと疲れが押し寄せてきた。

折りたたみベッドに、どさりと横になった。ベッドがギシギシときしんだ。

『暗闇から聞こえた、きしむような音はいったいなんだったんだ?』

耳を澄ましてみたが、やはり何も聞こえない。

『そして、誰もいないはずの玄関で、どうしてライトが自動点灯した?』

ベッドに横になりながら、ドアの隙間をながめていたが、もう黄色く光ることはなかった。

ネズミか何かがうろついていたのかもしれない。

体は疲れていて、睡眠を欲している。

しかし、頭は冴えて、結局一睡もできずに夜を明かした。