8月に入った。

本当ならば、盆休みには藤本真奈と海に行ったり、花火大会を見にいったりできたかもしれない。しかし、あの一件以来、結局真奈とは連絡がつかなかった。

また、あの不気味な女と接触することもなかった。次にあの女が現れたら、警察に突き出してやろうと意気込んでいたが、空振りが続いていた。

交差点で布教活動している姿も見かけなかった。

マンションの周辺にも、女は現れなかった。

電話もかかってくることはなかった。

もちろんこちらから女の電話番号にコールする気にはなれない。

熱帯夜が続いている。ただでさえ寝苦しいうえに、玄関ライトが自動点灯したあの夜から寝付きが悪くなっていた。ただ、あの日以来、玄関ライトのセンサーが反応することも、正体のわからない物音が鳴ることもなかった。

しかし、盆休みに入る前日は、ふとんに入ると、すぐに眠りにつくことができた。もちろんいつも通りアルコールの力を借りたということもあるが、ようやく仕事にひと区切りついたことが、心と体を緩ませたのかもしれない。今岡孝一にとってはゴールデンウィーク以来の連休だった。

その夜、孝一は夢を見た。

「たたみ?」

孝一の足元にはたたみが敷かれてあった。そのたたみは縦に連なって、彼の足元から遠く前方に伸びている。

周囲は真っ暗闇で、1本のたたみの道が続いているだけの世界だった。

「ん?」

白い点のようなものが、遠くたたみの先に見えた。

まばたきをする。すると、その白い点は大きくなった。

もう一度、まぶたをおろし、まぶたを開く。すると、その白い点は、人の形をしていることがわかった。

「え……」

まばたきをするたびに、その白い人型はたたみの上を歩き、孝一の方へと近づいてくるようだった。

一歩。

また一歩。

まだ遠くにいるのも関わらず、それが誰なのか、孝一にはわかってしまった。

あの女だ。

宗教の勧誘チラシを配り、101号室のドアの前でたたずみ、孝一の名前と電話番号を調べ上げ、コラージュまでして孝一との性交写真を作って真奈と孝一を別れさせた、あの女だ。

『やっぱり……』

孝一の予想通り、白く見えていたものはワンピースだった。

ワンピースから伸びた、痩せ細った手足も見えてきた。その手足も白い。

その骨が浮き出た脚を、一歩、また一歩と、着実に前へと進めている。つまり、こちらに向かって近づいてくる。

孝一はたたみの数を数えた。

『7』

孝一から7枚目のたたみの上に、女は立っていた。孝一はまばたきする。すると、女は6枚目のたたみの上に立っていた。

『……』

孝一は恐る恐るまぶたを閉じる。もう一度まぶたを開けると、女は5枚目のたたみに足を引きずるように歩いている。

どうやらまばたきをするたるたびに、女は1枚ずつ近づいていたらしい。

もう女の表情を見てとることができた。

青白い額をむき出しにしている。

前髪は他の髪の毛とともに、後ろで1つに束ねているらしい。

目は大きく見開かれ、決して孝一から視線を外そうとはしない。

口の端が頬に食い込むような、いびつな笑みを浮かべている。

『あと……4回』

あと4回まばたきをすると、女は孝一の元に到着してしまう。

孝一は後ろにさがろうとした。しかし、足がたたみに固定されてしまっているかのように動かない。重心だけが後ろにかかり、孝一はたたみの上に尻もちをついてしまった。

「あ……」

尻もちをついたはずみで、まばたきをしてしまった。

4枚目。

女の頭が、かくかくと小刻みに前後に揺れ動き始めた。同時に、女ののどから引きつった声が漏れ出る。喘息で息苦しいのかと思われた。

しかし、孝一は思い出した。それが女の笑い方だと。

孝一はまばたきできない。

 まぶたが落ちそうになってくるのを我慢する。

 目が渇いて、だんだん痛くなってくる。

 歯を食いしばって、なんとか耐えようとする。

しかし、どうばんばっても、まばたきを抑えることはできない。

だんだんとまぶたが下がってくるのが、自覚できた。

「いやだぁ……いやだあっ!」

孝一は声を上げて、自分のまばたきに抗おうとする。

しかし、我慢の限界だった。まぶたは渇いた眼球を潤おそうと、ゆっくりと眼球を覆っていく。

ふさがっていく視界の隙間から女の顔が見えた。苦しそうな孝一の様子を、女は愉快そうに見下ろしていた。

「早くまばたきすればいいのに」

大きく見開いた目は、そう語っているようだった。依然、のどを引きつらせて喘ぐような笑い声を上げている。

「うわああっ!」

孝一は目を閉じてしまった。

あと3枚。

しかし、名案を思いついた。

まぶたを開くと、たたみ1枚分近づいてくるのだ。だから、まぶたを開かなければ、女は今立っているたたみの上から動かないのではないか。

目を閉じた孝一は、息をひそめて女の様子をうかがう。

『女は止まっているのか?』

しかし、ぜえぜえという不気味な笑い声にまじって、たたみに足を引きずる音が聞こえた。

「……来るな……」

女は足を止めていないではないか。

笑い声も足音も、ますます大きくなってくる。

あと2枚。

「来るなあっ!」

孝一は目を閉じたまま、大声で女を制止しようとした。すると、笑い声も足音もぴたりと止まった。

「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」

聞こえるのは、孝一自身の荒い呼吸だった。

『身動きを止めた女は、今どこにいる?』

孝一は目の前に立ち尽くす女の姿を思い浮かべる。

『そして、何をしている?』

女が大きく目を見開いて、愉快そうに自分を見下ろしているのを想像した。

今度は目を開けたくても、開けられなくなってしまった。子どもの頃、シャンプーをしたあと、目が開けられなかったことを再び思い出した。

目を開けたときに、誰かの顔が目の前にあるのではないか。

浴槽の中に、誰かが立っているのではないか。

曇った鏡の中に、何者かが映っているのではないか。

『今、目を開けると、目の前に女の顔があるのではないか』

歯を食いしばって、恐怖に耐えようとした。

しかし、力む頬に、何かが触れた。

「ひいっ!」

冷たい手のひらが、孝一の頬を包み込む。

やはり女は目の前まで近づいてきていたのだ。

冷たい指は、ゆっくりと頬を撫でていく。その感触を確かめるように。

「や……やめろ……」

孝一の声は震えていた。

しかし、女は愛撫をやめない。それどころか、孝一の顔にあたたかく湿った空気が包み込む。

「うわああっ!」

吐息だ。

吐いた息が顔にかかる距離に、女はいるのだ。

目を開けると、きっと文字通り、目と鼻の先に……。

孝一の腕も脚も、ガクガクと震えてしまっていた。しかし、次の瞬間、その震えすらも硬直してしまう。

鼻先に湿った何かが触れたのだ。

「ひああっ!」

孝一は裏返ったような悲鳴を上げた。

その何かは、ぺろりぺろりと、孝一の鼻の先端を濡らす。

孝一の味を確かめるように、味わうように丁寧に。

そして、女は満足そうに口を開いた。

「……おいしい」

その言葉を耳にした瞬間、孝一は弾かれるように目を開けてしまった。

目の前には、大きく見開かれた目があった。

血走った眼球が、孝一の眼球を覗き込んでいた。

「うああああっ!」

孝一は目を覚ました。

「はあぁ……はあぁ……はあぁ……」

見慣れた天井が目に入った。それまで見ていた光景が、夢だったことに思い至る。

『そうだ……今日から盆休みなんだ』

天井や壁がもうすでに明るい。日は昇っているらしいが、今日からは数日間は出社しなくていいのだ。

せっかくの連休初日に、不気味な夢を見てしまった。認めたくはないが、よほど女のことを恐れていたらしい。

「くそっ!」

夢の中とはいえ、冷たい指に触れられた頬、ねっとりと舐められた鼻を、さっさと洗いたかった。顔にまとわりついた女の生ぬるい呼気を洗い流したかった。その感触をありありと思い出せるのが忌々しい。

ベッドの上で起きあがり、足を床におろした。

その瞬間、孝一は違和感に気付いた。

本来あるはずのないものが、視界に入った気がする。

その違和感に目を向ける。

窓だ。

よく見ると、カーテンがふっくらと盛り上がっている。

ドクンと、心臓が大きく脈打ったのを孝一は感じた。

外からの太陽の光を受けて、うっすらと人の影を浮かび上がらせている。

視線を下に移動させていく。

カーテンは、床との間に5cmほどの隙間がある。

その隙間に、青白い10本の足の指が見えた。

「うああああっ!」

孝一は夢と同じ悲鳴を上げた。

その悲鳴を聞いて、女は身をひるがえして、ガラガラと窓を開けた。

カーテンから女の影が消えた。

床とカーテンの隙間からも、女の足指が消えた。

孝一は叫んだきり、身動きを取ることができない。恐怖のせいで、筋肉が硬直してしまっていた。夢の中で動けなかったように。

ガサガサという音が聞こえる。ベランダの外の植え込みの音だ。

開いた窓から風が吹き込み、さっきまで女を隠していたカーテンが大きく波打った。

『そうだ。つかまえて、警察につきだすんだ』

孝一は以前そうやって自分を鼓舞したことを思い出した。

他人の部屋に勝手に忍び込んでいたのだ。れっきとした犯罪である。

『現行犯でつかまえてやる』

孝一は歯を食いしばって立ち上がった。脚はがくがくと震えている。

『しっかりしろよ!』

孝一は力のこもらないこぶしで、震える太ももを何度も殴りつけた。そして、窓に向かって駆け出した。

カーテンを勢いよく開けた。

開いていた窓からベランダに飛び出す。

身を乗り出すと、植え込みと駐輪場の向こう、マンションの敷地から道路に出るあたりに女はいた。

体勢を崩して倒れかけていた。

「この野郎!」

孝一は勢いに乗って吠えた。

ベランダの縁に手をかけて、女がそうしたようにベランダを乗り越えようとした。

その瞬間、女は振り返った。

女の顔を見て、孝一は動きを止めてしまった。

女は四つん這いになり、孝一に向かって、骨ばった尻を突き出していた。

顔だけこちらに向けて、大きく目を見開いて、恍惚の表情を浮かべていた。

孝一は目が合ったまま、動けなかった。

短い時間だったが、ずいぶんと長い間視線を合わせているような錯覚に陥る。

突然、女は動き出した。

四つん這いで首を孝一に向けたまま、骨の浮き出た両手両足を前に進める。

「ひっ!」

その不気味な歩き方に、孝一ののどが悲鳴を上げた。

女は嬉しそうに頬を吊り上げたまま、四つん這いで駈け出した。

孝一の方へと首を不自然にねじったまま、道路に飛び出す。

決して孝一から目を離さず、四足の獣のように駆け去っていった。

 『これは夢か?』

 異様な光景に、孝一は現実かどうか疑いたくなった。しかし、間違いなく、これは現実である。

 場違いなほど、穏やかな風が吹く。生温かい風が、孝一の顔を撫でていった。

「……濡れてる……」

鼻がひんやりと感じられた。

夢の情景を思い出す。

夢の中で、冷たい指で頬を撫でられた。

生温かい吐息を吹きかけられた。

鼻先を舐められた。

背中に悪寒が走った。

『あの感触は、夢ではなかった?』

女は孝一の部屋に侵入していたのだ。

もしかしたらベッドの横に立ち、眠っている孝一を見下ろしていたのかもしれない。

大きく目を見開いて、口角を上げて愉快そうに笑いながら。

筋張った指で、本当に頬を撫でていたのかもしれない。

寝ている孝一に顔を近づけて、舌先をにゅっと突き出している姿を思い浮かべる。

そして、生ぬるい息を吐きかけながら、鼻先をぺろりと舐めたのかもしれない。

「……おいしい」とささやいて。

もう一度、背中に激しい悪寒を感じた。

『じゃあ、どうやって部屋に忍び込んだんだ?』

昨夜の行動を思い出そうとする。

『鍵を開けたままだった? いや、いつものように戸締りはチェックしたはず……』

寝る前には、ベランダに通じる窓の鍵も、玄関の鍵ももちろん確認している。

ということは……。

『もしかして合鍵を持ってるのか?』

孝一の電話番号や藤本真奈の住所まで調べ上げていたのだ。何らかの方法で、合鍵を作っていたとしても、もはやおかしくはなかった。

孝一はすぐに警察に被害を届け出た。脅迫と住居侵入の事実を伝えると、警察はすぐに動き出すと明言してくれた。

女がやっていることは、正真正銘、犯罪なのだ。