宝田夢彦は電車をおりて、駅の改札口を出た。もう外は暗くなっていた。乗客たちは、それぞれの家路をたどる。夢彦も単身赴任先のワンルームマンションへの、見慣れない道を歩く。
しかし、夢彦の胸はざわついていた。
さっきは電車がやってきて、杏奈との通話が中途半端になってしまった。何より、杏奈の声がいつもと違っていた。
テレビを見ながら、バランスボールに乗っていたと杏奈は言っていたが……。
以前にもこんなことがなかっただろうか。
電話して、彼女の様子が変わっていたというようなことが。
大学時代の苦い記憶のふたが、ガタガタと音を立てている。
駅前には大きなビール工場が建っていた。工場の表側は交通量が多いが、裏側は人通りが少ない。裏通りを歩く夢彦の前にも後ろにも、だれもいなかった。街灯はかなり離れて立っており、裏通りは光よりも闇の方が強い。夜になっても工場のラインは動いている。機械が動いている音、従業員の話し声、トラックの音などが、工場の塀越しに聞こえてくる。
しかし、今の夢彦の耳には、それらの音は届いてはいなかった。
夢彦はポケットからスマートフォンを取り出した。
もう一度かけてみようか。
しかし、これまでの「寝取られ経験」が、警告を発していた。
スマートフォンの電話帳を開いてみたものの、踏ん切りがつかない。
杏奈の顔を思い出そうとする。
しかし、どういうことかうまく像が結ばない。
きれいな髪。
幼さの残る顔。
ふくよかなバスト。
くびれた腰。
杏奈のパーツパーツは思い浮かぶのだが、全体として杏奈の姿を思い浮かべることができないのはどうしてだろう。
夢彦の中で焦燥感が募る。
今度はスマートフォンの写真アルバムを開いてみた。暗い裏通りを歩きながら、杏奈の写真を表示させる。暗闇の中で、慶太郎を抱いた杏奈が浮かび上がる。優しい笑顔で息子を見つめる杏奈の顔を見て、夢彦の心は少し和らいだ気がした。
しかし、その瞬間ブレーキ音が鳴った。
それは夢彦の耳元で鳴ったような気がした。
そこからはスローモーションのようだった。
杏奈と慶太郎の写真から顔を上げた。
夢彦のすぐ右横には、スクーターが迫っていた。
なぜこんなにもスクーターが近くにいるのだ?
なぜこんなにも近くにいるのに、気づかなかったのだ?
そこでようやく夢彦は、自分が交差点に進入していたことに気づいた。
いや、交差点とは呼ぶほど大きな道路ではない。
信号機もなかった。
スクーターは黒色に見えたが、周囲の暗さとライトの逆光でよくわからない。
もしかしたら青かもしれないし、赤かもしれない。
あるいは緑かもしれなかった。
夢彦は焦る気持ちが追いつかず、ただただ目の前の光景を目に焼き付けていた。
逆光だったが、スクーターの運転手が、ひどく驚いた表情をしているのが見えた。
女性だ。
スクーターのタイヤが、自分の脚にあたった。
強い衝撃とともに、走馬灯のような光景は、そこで終わった。
夢彦をとりまくスピードが一気に加速し、現実のスピードに追いついた。
しかし、そのときには、すでに夢彦は地面に倒れていた。
体を動かすことができない。
痛みを感じる余裕もないまま、遠のく意識の中で、杏奈の姿が一瞬だけ見えた気がした。
しかし、杏奈は、夢彦ではなく別の何かを見つめていた。
<完>