一年前、全仏男子シングルス準決勝で予想された対戦カードは世界中の注目を集め、期待通りに実現し、その結果は偉大なる記録の達成を阻止しただけでなく、ATPにおけるトップ選手たちの力関係に大きな影響を与えた。それ以後、勢力地図は塗り替えられたが、それでもATPに君臨する皇帝の座は揺らぐことはなかった。今年のヨーロッパクレーのシーズンが始まるまでは。

ロジャー・フェデラーが生涯グランドスラムの達成と年間グランドスラムの可能性を拡大させるべく、今年もガリア(フランス)の地に乗り込んできた。しかし、ここに至る道のりも、これからの道のりも、共に去年より厳しいものとなった。フェデラーが全仏オープンのタイトルを取るための最大の障壁、ラファエル・ナダルの存在は対戦を経るごとにその大きさと重みを増しつつある。この2人がこの全仏の決勝で当たることは去年の後半からずっと予想され続け、確実視されてきた。フェデラーにポイントで圧倒的大差をつけられているとはいえ、ナダルがこの一年で稼ぎ上げたATPランキングポイントは過去の歴代No1選手たちのポイントを上回るものであり、クレーコートだけでなく、年間を通じてナダルがATPツアーNo2であることは今や歴然たる事実である。エントリーランキングのNo1とNo2がグランドスラムに出場すればシード1・2となり、決勝でしかその対戦はありえない。対戦成績6戦5勝1敗、ナダルは全ての対戦でフェデラーから2セット以上を奪っている。ヘンマンもナルバンディアンも対フェデラーの対戦成績は勝ち越しているが、それはフェデラーがNo1になる前に稼いだ勝ち星を換算してのことである。フェデラーがNo1になりATPに君臨する圧倒的強者になってから大きく勝ち越している選手は世界で唯一ナダルだけである。

去年の全仏SFでは1-3でフェデラーは負けた。雨により進行が遅れた上に直前のプエルタ対ダビデンコが白熱のフルセットマッチを行ったため、試合開始が大幅に遅れた。2005年MSマイアミ決勝での大苦戦から始まった対ナダルへの意識過剰、サウスポーからのトップスピンにまだ完全にアジャストしていないためと思われるフォアハンドの回り込みの際のミス多発、日没順延を予想して集中力を最後に切らしていたという油断もあっただろう。言い訳は多々あるだろうがフェデラーは負けた。
そして2人の再戦はその後のグランドスラムでもマスターズシリーズでも実現しなかった。
ところが今年全豪が終わり、春のアメリカハードコートシーズン突入しようかという直前のドバイ決勝で2人はいきなりぶつかった。第一セットは2-6フェデラーが取った。しかし、第二・第三セットは6-4でナダルが取った。ベストオブ3セットマッチ、ナダルがハードコートでフェデラーを破った瞬間であった。
そしてヨーロッパクレーコートシーズン突入、MSモンテカルロ決勝で2人は5度目の激突、3-1でナダルの勝利、フェデラーはナダルの前に封じ込められた。もう言い訳はない。ナダルはフェデラーに対して完全に優位に立った。挑戦者となったフェデラーはナダル対策に万全の体制を整え、MSローマの決勝に挑む。対ナダル戦略は功を奏し、フェデラー優位で試合は進む、しかし、ナダルは崩れない。フェデラーに喰らいつき、脅威の粘りとカウンターショットが奇跡を何度も生む。その反抗の前に崩れたのはフェデラーのほうだった。最後にナダルのフォアハンドの連続強打は優位にあったフェデラーを文字通り「押し戻し」、力でねじ伏せた。5時間を超える激闘を制したのはまたもやナダルだった。

ナダルとフェデラーの距離はモンテカルロの時点よりローマの時点の方が縮まっている。戦術・技術・パワー・体力面では実はクレーの上でも両者は互角なのかもしれない。しかし、勝利を重ねる度にナダルの中で大きく強くなっていくもの、同時に敗戦を重ねるごとにフェデラーの中で揺らぎ失われていくもの、それは「自信」である。

如空はATPにおいてグランドスラムタイトルホルダーにしてエントリーランキングNo1経験者を「王」と呼ぶ。如空の知る限り現役選手の中で「王」はアガシ、モヤ、サフィン、クエルテン、ヒューイット、フェレーロ、ロディックの7人である。しかし、ロディックの後を受けて現在までNo1を維持し続けるフェデラーは彼ら「王」と同列に語るにはあまりにも強すぎる。全盛期のサンプラスでさえ、これほど圧倒的ではなかった。2004年の全米オープン決勝でヒューイットに圧勝してリトルスラム(年間グランドスラム3勝)を達成したとき、如空はその圧倒的強者の出現を前にして「王」という称号は役不足と感じ、勝手に「皇帝」という称号を与えて、今日までフェデラーを皇帝と呼んできた。
その皇帝の強さを支えている基盤は何か。如空は2004年のマスターズカップ決勝で再びヒューイットに圧勝して優勝したフェデラーに対して次のように述べている。

「・・・・・・しかしいったい何なんだこの強さは。スピード・パワー・テクニック、あらゆる点でフェデラーが超一流である所は異論がないだろうが、それ以上に凄いのはメンタルだ。まったく迷いがない。悩まない。揺らがない。崩れない。攻めていても、攻められていても変わらない。持っている力がずば抜けているだけでなく、その力を常に100%発揮できている。
大学のセンター試験や自動車免許の試験でおなじみのマークシート試験、このマークシートで同じ番号が続くと、自分の回答に不安が出てきて「自分では正しいと思っているが、実は間違えているのではないか、こんなに同じ番号が続くはずがない」と考えてしまい、自分では正しいと思っている回答を違う番号に変更した経験はないだろうか。如空はそんなことは日常茶飯事だ。しかし、フェデラーなら、そんな状況でも自分の判断を信じて、決して回答を書き換えたりしないだろう。
自惚れとは「自分にない力があると思い込むこと」であり、自信とは「自分の力を信じること」という。まさに今のフェデラーを支えているのはゆるぎなき「自信」、微動だにしない「自信」である。
フェデラーにもピンチなる場面はある。しかし、彼は崩れない。あきらめない。苦しい状況が続くと「このポイントは捨てて次のポイントからがんばろう、このゲームは捨てて、次のゲームでがんばろう。このセットは捨てて、この試合は捨てて、この大会は捨てて、このシーズンは捨てて、次からがんばろう」と、いい訳を心の中で作ってあきらめてしまう。そんなことはフェデラーにはないのだろうか。リセットして仕切り直したいと誰もが思う場面で、フェデラーはその状況から逃げずに、耐えて、しのいで、チャンスを呼び込み、モノにして最後に必ず勝つ。強い。本当に強い。
追うより追われるほうが精神的に辛いものだ。特にポイントを積み重ねていくテニスという競技ではなおのことだ。リードすることも大変だが、リードを守って勝ちきることはもっと苦しい。それを黙々とやってのけるフェデラーは強い。」


今年の全豪オープンはフェデラーにとって優勝こそすれ厳しい大会だった。4回戦対ハース戦、QF対ダビデンコ戦、SF対キーファー戦、そしてファイナルの対バクダティス戦とどれもセットを落とし、相手を圧倒することが出来ず、苦しい第二週であった。ロディック・ヒューイット・アガシ・サフィン・ナダルなどのビックネームが相手ではない。そこでこれだけ競る試合になるというところにATPツアー全体のレベルの底上げが感じられる。決勝に進む確率が100パーセントに近いフェデラーはそれだけ多くの試合に出場し、それだけ多くの選手の目に触れ、対戦し、研究される。ツアー全体がフェデラーとの距離を詰めてきているのだ。それでも勝ちきった。それはフェデラーが自らの勝利を信じて揺らがなかった「自信」があってのことだろう。だから崩れなかった。

そのフェデラーの強さを支えていたもの、皇帝の「自信」が今揺らいでいる。

少なくてもMSローマ決勝の試合内容を見る限り如空にはそう見える。攻めるべきときに攻め切れなかった。彼が築き上げ、自ら「美しい」と自画自賛するテニス、それをやりきれなかった。自分を信じることが出来なかった。自信が揺らいだのだ。

「メンタルが強い」のはプロのテニス選手としては当たり前のことだ。だが、精神的に強いか弱いかとは別に、人間の性格は大きく「楽天家」と「悲観論者」に別れる。果たしてフェデラーは楽天家だろうか。ウィンブルドンでは優勝の度に泣いている。今年は全豪でも優勝したとき泣いた。如空はフェデラーが「悲観論者」だと思っている。確かめる術はない。単なる如空の憶測である。

恐怖とは想像力だ。「悪いことが起こるのではないか」と想像してしまう。それは性格であり、もって生まれた宿命であり、外的要素で変えられるものではない。楽天家が考えもつかない悪い予想をついつい想像してしまう。それが恐怖であり、恐怖が悲観論者を支配する。しかし、悲観論者が精神的に弱いわけではない。「悲観的に計画して楽観的に行動せよ」とはよく言われることである。悲観的な予想が実現してしまわないように、危機を予測し、それを回避する術を考え、その手段を身につける。あらゆる準備をやりきって勝負に臨む。何が起こっても大丈夫、十分に準備した。その思いが心の奥底からわきあがる悪い想像、恐怖を封じ込め、最後まで自分のプランが正しいことを信じて貫き通す。それが恐怖に打ち勝つ術だから。それが「自信」なのだ。勝利のあと、悪い想像が実現しなかったことに対する安堵の涙を流すことは決して弱さを見せることでもなければ恥じることでもないのだ。

皇帝よ、どうか自らを信じて貫いて欲しい。私はあなたを「皇帝」と呼び、あなたが自らを信じる強さを尊敬し、誇らかに仰ぎ見てきた。そのことを失望させないで欲しい。あなたが強い存在であったればこそ、あなたを負かしたサフィンやナダルやナルバンディアンが光り輝くのだ。ロディックもヒューイットもあなたに勝てない悔しさに身を焦がすことがあってもけして恥じてはいないはずだ。あなたは常に自らが美しいと自画自賛するテニスをやり通して、前のみを見つめて歩き、コートの上で輝いているべきだ。消極的姿勢や相手のミスを待つことなどが皇帝のテニスになりうるか。比類なき覇気と攻めの姿勢こそが皇帝の真価なのだ。

司馬遼太郎が日露戦争を描いた大河小説の題名は「坂の上の雲」である。なぜ「坂の上の雲」という題名なのかは小説を読んだだけではわからない。それは単行本第一巻のあとがきを読んではじめて理解できる。司馬氏は明治が歴史の教科書で教えられているような暗いだけの時代ではなかったという。これほど楽天的な時代はなかったと。明治日本を作ったのは幸福な楽天家たちだったと。その楽天家たちが自ら作り上げた近代国家をもって大国ロシアとの戦争という途方もない大仕事にかかる姿をこの小説で書こうと思ったと。そして「楽天家たちはそのような時代人としての体質で、前のみを見つめながら歩く。登って行く坂の上の青い天にもし、いちだの白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上ってゆくであろう。」と

けっして楽天家ではないだろう、皇帝ロジャー・フェデラー。おそらくは悲観論者であろうこの「皇帝」が自ら作り上げたテニスで生涯グランドスラム達成という大仕事に取り掛かる。彼の前途は決して平坦でなく坂道を登っていくかのように多くの困難が待ち受けるだろう。そして坂を登りつめた先に待つであろう決勝の相手ナダルはフェデラーの今までのテニスキャリアにおいて最大の障壁として立ちふさがるだろう。いま、フェデラーに必要なのは「自らを信じる」事だ。全仏タイトルという坂の上の雲を目指してフェデラーがゆく。その過程を今年も「フェデラーのガリア戦記」として書き記そうと思う。結末がどうなるかはまだわからない。