全仏決勝、ナダル対フェデラーをTVで見ながら、パソコンのキーボードを叩いて観戦記を記録していた。そのキーボードの傍らには宮本輝の小説「青が散る」の文庫本が置いてあった。フェデラーのガリア戦記最終章の題名はフェデラーが勝てば「開かれた扉」、フェデラーが負ければ「閉ざされた扉」にしようと考えていた。そこまで考えて「扉」という言葉に思い当たる節があった。「青が散る」のラストシーン、主人公の椎名遼平と片思いの相手夏子とのやり取りに「扉」という言葉が出てくるのだった。フェデラーが勝てば似たような文章になるな、と文庫本の最後の数ページを読み返しながらTVの中の決勝戦を見ていると、フェデラーが負けてしまった。だから「青が散る」のラストシーンを真似た勝利のシーンを書くことが出来なかった。というより「青が散る」のラストに近い結末になってしまった。来年はこのアイデアを生かしたラストシーンを書かせてほしいものだ。

その「青が散る」の文庫本をぱらぱらとめくりながら全仏決勝を見ていると、ついつい作中の人物である貝谷朝海の言葉が目に付いて、眼前のナダルとフェデラーにその言葉を重ね合わせてみてしまった。心理学者ユングの言う「偶然の一致」とはこのことかもしれないが、この全仏決勝フェデラー対ナダルの試合を見て「青が散る」の小説の中に出てくる貝谷の言葉を思い出した人は他にもいるらしい。某サイトの掲示板や某ブログのコメント欄にそのことが書いてあった。

「青が散る」の作中人物、大学のテニス部部員の貝谷朝海が語りそして自ら実践する独自のテニス理論、
それは
「二流の上は一流の下より強い」
「上手いということと強いということとは別の次元の問題だ」
「王道のテニスより覇道のテニスや」
である。

自ら「美しい」といって自画自賛するフェデラーのテニスが「王道のテニス」なら、左利きのシコラー(粘り屋)でカウンターショットの使い手であるナダルのテニスは「覇道のテニス」と言えるだろうか。
特にあのフォアハンド。フェデラーが教科書とおりに肩を逆クロスの方向に向けてコースを隠すのとは対照的に、ナダルは体を完全にネットに向けて体を開いてしまった状態から、背中に残した左手を強引に引っ張り出して打つ。あのスイングで打たれると対戦相手は腕の出所がわからなくてコースが読めないだろう。体が大きく開いているのにコースが隠れている。しかもクロスにも逆クロスにもとんでもない角度で飛んでいく。回転量の多いトップスピンはフラットドライブに比べて威力の面で劣るはずが、受けている相手がベースラインの外に押し出されてライジングではさばけないほどに強力な球威を持つトップスピンがナダルからは打たれている。漫画「ドラゴンボール」の主人公孫悟空に憧れてトレーニングした結果というあの太い腕の筋肉はテニスには役立っていないと本人は語っているらしい。だがそのテニスには不必要なまでの強い腕力が体が開いた状態でも強引にコースを変更できる、しかも回転量が多いのに威力があるショットを生み出しているではないだろうか。一見でたらめだが試合全体を見ていると理にかなっている。そして強い。それがナダルのテニスだ。

普段自信に裏付けられた力強くかつ美しいテニスをするフェデラーのテニスが「一流の上」のテニスであるならば、対ナダル戦で試合中自信を失い覇気が消えた状態のフェデラーのテニスは「一流の下」と言えるかもしれず、対するナダルのテニスが教科書にはない常識外れの変則的プレイでありながらそれでも強いテニスであるならばそれは「二流の上」と言ってよいかもしれない。ならば、あのMSローマの決勝と全仏決勝はつまりは「王道のテニス」が「覇道のテニス」に敗れた試合ともいえる。

ただ「青が散る」のなかでは「それでも一流の上は最強で、二流の上でも勝てない」事になっている。フェデラーが「一流の上」のテニスをナダルに対してできる日が来るだろうか。その日がくれば、それはナダルに対してフェデラーが勝利する日になるだろう。その日が訪れるかどうかはフェデラー次第である。そしてナダルがその「二流の上」のテニスを「一流の上」のテニスに昇華させる可能性を持っていることも忘れてはならない。

「青が散る」を読んだことのない人はぜひ一度読まれることをお薦めする。テニスにおけるメンタルの戦いが実にリアルに文章化されている。原本なんて読んでいる暇がないという方はこちらの名場面集をどうぞ。