季漢書

季漢(蜀漢)の歴史は、三国志を始め、様々な史料を読まなければ実態が見えてこない。 この季漢の歴史を整理し、再構成することで、その実態を浮き彫りにしていくことに取り組んでいく。

目次

本紀

  1. 巻一 昭烈帝紀
  2. 巻二 安楽公紀

列伝

関羽張飛趙雲伝

諸葛亮蒋琬姜維陳祗伝

  • 姜維伝 上
  • 姜維伝 中
  • 姜維伝 下之上
  • 姜維伝 下之下
  • 陳祗伝
  • 費禕董厥樊建伝
    馬超黄忠黄権陳式伝
    李恢馬忠張嶷王嗣霍弋伝
    陳勰伝

    戦役志
    地理志

    益州

    涼州

    荊州

    諸葛亮遺構

    北伐関連地理

    人物遺構

    要衝

    職官志

    百官表

    北伐考論

    季漢政権論

    政治制度考論

    地理考論

    出自考論

    旧版

    建安八年~十年 博望の戦い・曹操包囲網(旧版)

    劉備の対劉璋戦略について

    建安十六年、劉備は張松らの手引もあって益州に入り、彼らの望む劉備による益州支配を背後に見つつ、劉璋の要請である張魯討伐に従事した。

    その翌年、劉備は劉璋を攻め、建安十九年に益州を自らの支配下に置いた。

    これは劉備の劉璋に対する裏切りと言えるが、こうした行動は劉備の築いていた評判を傷つけるものであり、積極的な行動とするには、それまでの態度と合致しにくい。

    劉備は、益州に対してどのような判断の下で、どのような戦略によってことを進めようとしたのだろうか。

    目次

    1. 劉備と劉璋の関係と、劉備の益州入り
    2. 対張魯戦と建安十七年の判断
    3. 劉備の戦略とは何か
    4. 参考史料

    劉備と劉璋の関係と、劉備の益州入り

    劉璋は、曹操が張魯を攻めるという風聞を耳にし、また、曹操が漢中を手にすれば益州を維持することはできないという進言もあって、劉備を引き入れて張魯を討たせ、益州の守りを強化しようという目的のもと、劉備を益州に呼び入れた。

    また、劉備の武威によって、州中の不穏分子である龐羲や李異を抑えつけることも目論見として持っていた。

    更にそれより以前、張松が赤壁での曹操の敗北を目にしたことで、劉璋は曹操への恭順的態度を改め、劉備との同盟によって北に対抗する路線に舵を切っている。

    したがって、「漢中を曹操に奪われる危険を取り除くため、同盟者である劉備を読んで張魯の討伐を進めようとした」というのが、劉璋側の状況であった。

    一方劉備の方は、劉備を主君に仰ごうとする張松や法正の意図もあり、益州を支配下に置くことを裏の目的として劉璋の要請を受諾したことが、法正伝より分かる。

    法正伝にある、劉備入蜀に際しての彼の進言は「以明将軍之英才乗劉牧之懦弱張松州之股肱以響応於内然後資益州之殷富馮天府之険阻以此成業猶反掌也」というもので、武力による制圧とまでは明言していないことには留意が必要となる。どのようにして益州を得るかは、劉備に委ねられていたことだろう。

    劉備が入蜀し、涪で劉璋と会談した際、張松、法正、龐統らが、劉璋を捕らえて一気に益州を手に入れるよう進言したことからも、そうした目的があったことは明らかであろう。

    この涪での会談の際、劉璋は劉備を行大司馬領司隸校尉に推し、劉備の方は劉璋を鎮西大将軍領益州牧に推した。

    これは、劉備を盟主として曹操と対抗することの宣言であり、対等な同盟から、劉備を盟主とする連合へ形態を変えることの宣言と言える。

    対張魯戦と建安十七年の判断

    龐統らの進言を「恩信をまだ著していない」として退け、友好的なまま涪での会談を終えた劉備は、葭萌で張魯との戦いに着手したが、先主伝に見えるように、すぐには攻めようとせず、恩徳を篤く打ち立て、人心の収攬を進めた。

    もともとの劉璋の意図としては、曹操が漢中を攻める前に、早期に張魯を併呑することであったはずであるが、劉備はゆっくりと事を進め、劉璋もそれを咎めていない。これは、既に曹操が馬超らと戦っており、すぐに漢中を攻める危険性がなくなっていたからであろう。

    劉備はその状況を利用し、益州の人心収攬を優先したのである。

    なお、この時の劉備は、劉璋に仕える人々に対してもそうであるが、張魯に対しても同じように恩徳を打ち立てる戦略を取っていたと考えられる。

    なぜなら、劉備が劉璋を攻めた際、葭萌を寡兵で守っていた霍峻に対して、張魯の将が共に葭萌を守ろうと提案したことが霍峻伝にあり、また、三国志文帝紀注献帝伝は左中郎将李伏の曹丕に対する上表を載せ、そこには、張魯の臣下の中に劉備を頼ろうと述べる者があり、その発言を受けた張魯が「魏公の奴隷にはなっても、劉備の上客とはならない」と述べている話があるからである。

    これらは、益州を攻めるより以前から、劉備が張魯と修好していたことを示し、劉備が張魯に対しても武力ではなく恩徳によって心服させる路線を取っていたことが窺えるのである。

    そうした中、この状況を一変させることが起こる。曹操による孫権攻撃である。

    馬超らを破った曹操は、建安十七年冬に、今度は孫権を攻撃するため揚州に兵を進めている。

    孫権は劉備に救援を要請し、劉備としても孫権が曹操に敗れては荊州の存立も危ういため、これを断ることはできない状況であった。

    劉備は劉璋に孫権と関羽の救援を行うため帰還することを述べ、実際にも東行を進めようとした。

    この帰還の意思が本当であったことは、張松が慌てて劉備を引き止める書を送ったことから分かる。

    また、張松の態度を見たその兄が、張松の叛意と劉備の裏切りを劉璋に告げたことで、劉備と劉璋の関係が初めて悪化し、その後に劉備が劉璋に軍を向けたことを考えれば、何事もなければ実際にも一旦帰国していた可能性を示している。

    劉備は、やはりぎりぎりまで益州を武力で制することを躊躇していたと考えられる。

    劉備の戦略とは何か

    上述の事象や状況を鑑みた上で、劉備が益州を支配するために当初選んでいた戦略とは何だったのか。

    それは恐らく、陶謙が徐州を、劉表が荊州を劉備に任せようとしたのと、同じ状況を益州で作ろうとするものだったのであろう。

    劉備は、この入蜀に際しても、益州を奪えという龐統の進言に対して、自分は曹操の逆を行うことで事業が成ると考えていること、益州を無理矢理奪うことで天下の信義を失うべきではないと考えていることを述べている。

    最終的には失敗したが、劉備が穏便に、自身の信義を傷つけない方法で益州を支配しようという方法を模索していたと考えた方が、より自然である。

    陶謙、劉表という成功例がある以上、時間をかけて恩徳を樹立すれば意図した方向に事態が向かう、と劉備が考えていても、全くおかしくはないのである。

    参考史料

    1. 陳寿 『三国志』 (劉璋伝、先主伝、龐統伝、法正伝、霍峻伝)
    2. 常璩 『華陽国志』 (公孫述劉二牧志)

    街亭の位置及び諸葛亮の行動について

    馬謖が張郃に敗れた戦場である街亭は、一般的には現在の街亭古戦場の辺りであったと考えられている。

    しかしながら、そうではなく、祁山の近くであったとする主張もある。

    そこで、街亭はどことみなすのが妥当なのかを検討した。街亭はどこにあったのか、そして、その過程で浮かび上がってきた、当時の諸葛亮がどう動いていたのか、ということを論じることにする。

    目次

    1. 街亭はどこにあったか
    2. 街亭の戦いにおける諸葛亮の行動
    3. 参考史料
    4. 関連記事

    街亭はどこにあったか

    現在の街亭古戦場近傍を街亭とみなす意見は、元和郡県志や通典の記述が時期の早いものであり、遅くとも唐代には、隴城県にある街泉亭が、馬謖の敗れた街亭であるとみなされていたことがわかる。

    更に後代の読史方輿紀要でも、元和郡県志等の記述を踏襲し、秦安県の街泉城が馬謖の敗れた地であると述べ、そこでは劉昭の言葉を引いて根拠の一つとしている。

    読史方輿紀要が引く劉昭の言葉を是とするなら、街亭を秦安県にあったとみなす意見は、唐より更に遡り、南北朝の時代には成立していたと考えられる。

    一方、街亭を祁山の近くと直接的にみなす史書の記述については、私の知る限り見当たらない。

    では、街亭を祁山近傍とみなしている意見の根拠は何であろうか。

    それは、三国志諸葛亮伝の注に引く袁子の以下の記述である。

    (或)曰何以知其勇而能闘也袁子曰亮之在街亭也前軍大破亮屯去数里不救官兵相接又徐行此其勇也

    袁子、すなわち袁渙の子である袁準が、ある人と諸葛亮について論じており、その中で諸葛亮の勇敢さを説明した一節に、街亭の戦いにおける諸葛亮の振る舞いが説明されているのである。

    袁準は、前軍、すなわち馬謖が大敗した時、諸葛亮が数里の距離にありながら救わず、魏の兵が接する状態になっても、慌てることなく徐に退いたことを以て、諸葛亮が勇敢であると語っているのである。

    そして、三国志において、第一次北伐における諸葛亮の行動が「出祁山」「囲祁山」「攻祁山」等と記述されていることを考慮し、諸葛亮が祁山の近くにあって、街亭もその数里先の場所にあったとみなしているのである。

    街亭を祁山近傍とみなすこの推測は、妥当なものと言えるのであろうか。

    少なくとも、軍事的合理性や、三国志等から窺い知れる戦況から考えると、あまり妥当とは言えない。

    そもそも馬謖は、街亭の南山に登った上で、張郃に包囲され、水を絶たれて軍が潰走しているのである。

    張郃が現れ、一気に攻め破られたわけではない。

    したがって、馬謖が諸葛亮の数里先という、肉眼でも分かる位置で敗北したのなら、諸葛亮は馬謖が南山に赴くのも、張郃がそれを包囲するのも、はっきりと確認しているはずである。

    そんな状態で少しも兵を動かさないということになれば、馬謖がゆっくりと敗れるのを黙って見ていたと結論せざるを得ず、街亭での敗北を機に退いた漢軍の敗北を馬謖の責とすることに、軍の合意が得られるはずがない。

    諸葛亮が、その権力によって戦いの記録を実際の戦況から捻じ曲げ、馬謖に全ての責任を負わせた、と主張することもできるかもしれないが、それは史書から得られる諸葛亮像との乖離が激しい上、袁子一つでそうした解釈を導くのは乱暴に過ぎるだろう。

    街亭を祁山の近傍としてしまうと、三国志に書かれる街亭の戦いの記述と整合性が取れない上、諸葛亮が愚将となってしまうため、諸葛亮を称賛する文脈でこの逸話を述べた袁準も、また不合理な行動を取っているように見えてしまうのである。

    また、そもそも、この論の基礎となっている袁子の記述だけを見ても、街亭を祁山近傍とするのは無理があるとわかる。

    袁子には、「亮之在街亭也」とはっきり書かれている。これはつまり、袁準は諸葛亮がいた場所を祁山ではなく街亭であると言っているのである。

    「数里先なら祁山にいたことを指して街亭にいたと述べても不思議ではない」と考えるのかもしれないが、それなら三国志を含む史書において、馬謖が敗れた場所を祁山とするものが皆無であることが不自然になろう。

    もし、三国志等に見える街亭の戦いの流れと、袁準の言葉とを、どちらも是として解釈をするのであれば、それは、諸葛亮が張郃に包囲される馬謖を救援するため、街亭に向かっていた、ということになるのである。

    街亭の戦いにおける諸葛亮の行動

    さて、諸葛亮が馬謖を救援するために街亭に向かっていたとして、当時の状況として諸葛亮が街亭に達することはできたのであろうか。

    祁山から街亭までは、西県を経由する道で約150kmであるが、仮に諸葛亮が郭淮の籠もる上邽近傍にいたとすると、その距離は約90kmとなる。

    替え馬を用意していない状態の伝令であれば、一日に45km程度が妥当なところであり、諸葛亮が祁山にあれば四日、上邽にあれば二日で、馬謖は危急を告げることができる。

    また、行軍ということであれば、祁山からなら十日、上邽からなら六日で街亭に達することができるだろう。

    したがって、街亭祁山間で想定すれば半月、街亭上邽間で想定すれば七日から八日で、馬謖の救援に応じて諸葛亮の軍が街亭に至ることができるのである。

    馬謖は水を絶たれて敗れた。包囲されるまでに備蓄していた分の水を消費しきれば、一日二日しか持たなかっただろう。

    張郃による包囲から潰走まで、精々五日程度だったと考えられる。

    祁山からの救援であれば包囲される十日前に、上邽からの救援であれば包囲される二日前に張郃を発見できれば、諸葛亮は馬謖が大敗する直前に、街亭近傍に達することができるだろう。

    馬謖は前軍として派遣されているので、魏の救援軍に対する索敵は実施していたはずである。そして、監視するとすれば隴関であろう。

    隴関から街亭まで約50kmであり、馬謖が張郃を確認した四日後には接敵する距離である。

    したがって、諸葛亮が上邽より救援を送れば救援は間に合い、祁山からなら間に合わない可能性が高かったということである。

    三国志は諸葛亮が祁山を攻めたとしているが、曹真残碑には諸葛亮が上邽で兵を称したと書かれる。

    それが本隊か否かは不明であるが、諸葛亮が上邽近傍にも一定程度の兵を置いていたことは間違いないだろう。

    したがって、上邽包囲軍から兵を抽出し、諸葛亮自身はそれを指揮するため少数で移動し合流したなら、諸葛亮自身が馬謖の救援のため街亭近傍に達することができた可能性が残ることになる。

    ただし、諸葛亮は馬謖が逃げたことを向朗が報告しなかった時、それを告げる別の者の言葉がなければ逃げたことを把握できない状況にあった。

    その状況に照らし合わせれば、街亭から数里という袁準の言葉も誇張がある可能性が高く、諸葛亮と街亭の位置関係は、数里ではなく一舎程度であったのかもしれない。

    また、緊急事態であり強行軍で救援に向かったと考えるなら、十日の行軍が六、七日に縮まった可能性もあり、諸葛亮が祁山にあったとしても、街亭近傍まで救援に向かうことができた可能性を否定しないだろう。

    こうした背景を考慮すると、近くにあった馬謖を救援せず、あえてゆっくり移動したという逸話が、前軍の大敗にも慌てることなく、無理に救援して隊列の整わない状態を攻撃される愚を犯さず、敵と接しながら隊列を保って退くという、諸葛亮の勇敢さを示すに十分なものになるだろう。

    参考史料

    1. 陳寿 『三国志』 (張郃伝、諸葛亮伝、馬謖伝)
    2. 杜佑 『通典』 (州郡四)
    3. 李吉甫 『元和郡県志』 (巻三十九)
    4. 顧祖禹 『読史方輿紀要』 (巻五十九)

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