季漢書

季漢(蜀漢)の歴史は、三国志を始め、様々な史料を読まなければ実態が見えてこない。 この季漢の歴史を整理し、再構成することで、その実態を浮き彫りにしていくことに取り組んでいく。

目次

本紀

  1. 巻一 昭烈帝紀
  2. 巻二 安楽公紀

列伝

関羽張飛趙雲伝

諸葛亮蒋琬姜維陳祗伝

  • 姜維伝 上
  • 姜維伝 中
  • 姜維伝 下之上
  • 姜維伝 下之下
  • 陳祗伝
  • 費禕董厥樊建伝
    馬超黄忠黄権陳式伝
    李恢馬忠張嶷王嗣霍弋伝
    陳勰伝

    戦役志
    地理志

    益州

    涼州

    荊州

    諸葛亮遺構

    北伐関連地理

    職官志

    百官表

    旧版

    建安八年~十年 博望の戦い・曹操包囲網(旧版)

    黄祖出自考

    黄祖

    黄祖は、劉表に仕えて孫堅を討ち、江夏に鎮守して十年以上の間、孫氏の攻勢に耐えた人物である。

    長きに亘り江夏という要衝を押さえていたにもかかわらず、どういった出自で、なぜ劉表に仕えることとなったのかは、史書に記されていない。

    今回は、この黄祖がどういった出自を持ち、劉表政権でどういった立場であったのかを、数少ない材料から考えていくこととする。

    黄祖の本貫

    まずは、黄祖の本貫を推測していく。

    本貫を推測する際に有効なのは、どの郡の太守となったかを見ることである。

    後漢には、本貫を回避する法があるため、ある郡の太守となった人物は、その郡の人間ではない可能性が非常に高くなるのである。

    後漢末においては例外も散見される。本郡の太守となった建寧の李恢、本州の刺史となった張既や李勝などである。しかしながら、例外は例外であるから、一般的には回避する原則に沿っていたと考えるべきである。

    劉表政権において黄祖が就任したことが確認できるのは、江夏太守だけである。したがって、黄祖の官職からは、彼が江夏の人間でないということしか分からない。

    そこで注目すべきなのが、黄祖の息子である黄射の存在である。

    彼もまた劉表政権で郡太守に任じられているのである。

    黄射は、詳細時期は不明であるが、劉表政権下で章陵太守となっている。

    章陵郡は、劉表が南陽郡より分割して立て郡であり、襄陽東方60kmの地にある章陵県より名を取っている。

    したがって、黄祖の本貫として、江夏郡と、章陵郡の範囲は候補から外れるということである。

    黄祖出自

    では、章陵郡の範囲はどこになるのか。

    武帝紀の建安二年の条に鍵がある。この年、曹操は張繍の降伏を受け入れて宛に入ったが、自身の浅慮から、その張繍の離反を招き、敗北して引き上げた。その際、南陽と章陵の諸県が曹操に背いたことが書かれている。

    建安二年初頭の段階で章陵が分割されており、且つ、曹操の侵攻経路上にその範囲が含まれていたことになる。

    同じく建安二年、曹操は再度の南征を行ったが、その時に撃ったのが、湖陽に拠っていた劉表の将、鄧済である。

    また、曹操に先んじて南征の先鋒となっていた曹洪が攻めていた県が舞陽、舞陰、葉、堵陽、博望であった。

    南陽、章陵の境界は、これらの間にあるということである。そして、こうした境界は自然地形による境界が定められることが多い。

    恐らくは、淯水を境界としたのであろう。つまり、張繍に南陽を任せることで、残余の地域を劉表所属の郡として立てる必要が生じ、章陵郡が生まれたと考えられるのである。すなわち建安元年のことである。

    さて、黄射が章陵太守だった頃、許より戻った禰衡が劉表に見えて礼遇されたが、二人は親密になったという。

    禰衡が許を訪れたのは建安元年の二十四歳の時、死んだのは二年後の二十六歳の時である。

    したがって、建安初期の、すなわち初代の章陵太守は黄射だった可能性が高い

    劉表の入楚

    黄祖は、初平二年に行われた孫堅の南征を防いだように、初期劉表集団において、既に存在感を示していた。

    そのため、初期劉表集団を検討することは、黄祖の出自を考える材料となる。

    劉表は、孫堅に殺された荊州刺史王叡の後任であり、董卓政権に任命された刺史であった。

    董卓討伐を名目として兵を挙げた孫堅に、袁術が合流して南陽から魯陽にかけて勢力を広げている中での赴任であったため、彼は目立たぬよう単馬にて荊州に向かっている。

    劉表が宜城に入った頃、中廬県の名族蒯越、蒯良、襄陽の名族蔡瑁らが合流している。

    蒯越は豫州汝南郡から故郷の荊州に舞い戻っている。同族と思われる蒯良から連絡を受け、新たな刺史を支えるために官職を捨てて戻ったのだろう。

    劉表集団は、まず襄陽南方の少数の名族が従うことで始まったのである。

    その後に重鎮として現れるのが、南陽の人間であった。零陵、桂陽、長沙の太守を歴任した後に反乱を起こした張羨、治中従事となった鄧羲、別駕従事となった韓嵩など、いずれも南陽の人間である。

    したがって、初期から参画した黄祖は、襄陽周辺か、南陽の人間である可能性が高い。

    荊州の黄氏

    さて、そもそも、荊州における著名な黄氏は、どこに分布しているのか。

    この時代、最も有名なのは江夏安陸の黄氏である。三公となった黄琬を輩出している。しかし、黄祖が江夏安陸の黄氏でないことは、前述の通りである。

    他には江夏黄氏の祖である江陵黄氏、南陽太守黄子廉を祖とし、黄蓋を輩出した零陵泉陵の黄氏である。

    残念ながら、襄陽周辺にも、南陽にも、黄祖以前の時代では著名な黄氏はいない。

    しかし、同時代には漢中王国の後将軍黄忠、光禄勲黄柱が、いずれも南陽の黄氏である。また、太守の子孫は、その任地に定住する例が散見されることを考えると、黄子廉を祖として南陽に残った黄氏が、黄忠や黄柱を輩出し、黄祖とも同族である可能性が大いにある。

    結論として、黄祖は黄忠と同族であり、南陽の黄氏となる

    劉表政権での黄祖の立ち位置

    黄祖の本貫が南陽であるとして、どのようにして劉表に仕えたのだろうか。

    それを推測するため、黄祖が劉表にどのように用いられたかを考えることとする。

    黄祖は孫堅を迎撃する劉表の将として現れるのが最初であり、その後に江夏へと移って、十年以上に亘って東方の最前線にいた。また、その息子である黄射は、立てて間もない章陵の太守となり、対曹操の前線で戦うようになった。

    劉表は、その領土の防衛を黄祖の一族に頼っていたと言えるのである。

    黄祖を渠帥とする南陽黄氏の軍閥が、劉表に仕えてその主たる戦力となったということであろう。

    黄忠もはじめ中郎将として劉表に仕え、対孫氏の前線である長沙を守っていた。中郎将というのは、後漢末の群雄割拠の時代にあって、部曲を伴って仕えた人物が任じられることが多い官職であり、彼もまた小軍閥を率いていた可能性がある。そうであれば、やはり黄祖とも連なり、南陽黄氏という一大勢力の一員だったと言えよう。

    後漢末、戦乱によって秩序が失われたため、力のある一族は塢壁を築いて中に立て籠もり、小軍閥を形成するようになった。

    許褚もまたそういった軍閥の一つであり、劉表が謀殺した江南の宗賊も、そういった勢力である。

    南陽は黄巾の被害が大きかった場所であり、そうした小軍閥が形成されやすい土壌があった。南陽黄氏もまた、そうした流れの中で現れた小軍閥だったのであろう。

    一方、孫堅が南陽を奪った時、江夏太守だった劉祥がそれに同調していたが、南陽の士民は太守を殺した孫堅と共に、この劉祥も怨んでおり、兵を挙げてこれを攻め殺した。

    これは恐らく、劉表による南陽奪還の動きであろうが、この時に主役となったのが南陽人であり、かつての太守張咨の遺臣であろう。この当時、南陽人で、且つ南陽を奪還する力を持っていたと考えられるのが、劉表がその戦力を頼った黄祖らくらいしかない。

    恐らく黄祖は、黄巾の乱による混迷を受けて形成された軍閥の長であり、時の太守張咨に仕えて反董卓の兵に加わろうとしていた勢力だったのであろう。

    それが、孫堅の暴挙によって仕えるべき主君を失い、報復を願っていたところに劉表が現れたのである。そして、孫堅と敵対することになった劉表に協力して、その勢力伸長の立役者になると共に、因縁浅からぬ孫氏との戦いに明け暮れるようになったと考えられる。

    参考史料

    陳寿 『三国志』 (武帝紀、劉表伝、曹洪伝、荀彧伝、許褚伝、黄忠伝、劉巴伝、孫堅伝、黄蓋伝)

    范曄 『後漢書』 (劉表伝、禰衡伝)

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    初平二年~三年 襄陽の役

    参考ツイート

    建安十七年 青泥の戦い

    建安十七年、益州を攻める口実を得ようとする劉備は、孫権が曹操に攻められていることを以て、劉璋に帰還の意思を告げた。

    その中において、関羽が青泥で楽進と対峙していることが述べられ、それも帰還理由の一つとして挙げられている。

    しかし、この青泥での対峙について、劉備の言葉以外で明確な記述は出てこないため、どのような戦いだったのか分からない部分が多い。

    今回は、史書から青泥の戦いに関する記述と思われる箇所を抽出した上で、どういった戦いだったのかを検討していく。

    青泥の戦いに関する記述の検討

    青泥の戦いについて記述したと思われる記述は、以下の通りである。

    1. 「曹公征呉、呉憂危急。孫氏与孤本為唇歯、又楽進在青泥与関羽相拒、今不往救羽、進必大克、転侵州界、其憂有甚於魯。魯自守之賊、不足慮也。」(先主伝)
    2. 「後従平荊州、留屯襄陽、撃関羽、蘇非等、皆走之、南郡諸郡山谷蛮夷詣進降。又討劉備臨沮長杜普、旌陽長梁大、皆大破之。」(楽進伝)
    3. 「与楽進討関羽於尋口、有功、進封延寿亭侯、加討逆将軍」(文聘伝)

    史書にはこの程度しか残っていない。更に言えば、先主伝にある劉備の言葉以外は、状況証拠的に青泥の戦いと考えられるのみであり、明確に述べているのは先主伝だけである。

    また、後世の地誌である読史方輿紀要によると、現在の鍾祥の東一里に武陵、またの名を青泥山と呼ばれる山があり、宋の祝穆の言を引き、そこが青泥の戦いの戦場であったとしている。

    なお、襄陽西北の青泥河の戦場とする考えも、そこで述べられている

    関羽らを逃走させた楽進が、南郡諸山谷の蛮夷を降伏させ、臨沮や旌陽の長を破ったことを考慮すると、戦場は南郡の青泥、すなわち襄陽西北である可能性も考えられるが、当時の関羽は勢力圏を十分北に広げることができていない可能性が高く、襄陽西北まで進出するというのは困難を伴うはずである。

    また、襄陽西北を戦場としたのなら、関羽の方から攻めたことになるが、劉備は「関羽を救わねば楽進が州界を侵す」と述べている。攻めている側が、敵の侵攻を警戒するというのは不自然である。

    そして、読史方輿紀要によると、雲杜から安陸にかけての地域に、関羽が駐屯したとされる場所が複数記述されている。

    関羽が雲杜方面に駐屯したとするなら、鍾祥に進出したとする方が自然である。青泥の戦い以外に、そこへの進出が考えられる戦いがないため、やはり青泥の戦いにおける戦場は鍾祥であったとする方が良い。

    では、雲杜周辺が戦場であったとすると、何を争って戦ったのであろうか。

    孫皎伝には、孫皎が程普に代わって夏口を治めるようになった後の奉邑が書かれているが、そこには雲杜、南新市が含まれている。したがって、戦場となった場所は、青泥の戦いの後も劉孫連合の勢力圏であったのである。

    そして、この戦い以降、江夏に劉孫連合が攻め寄せた記述もないため、それ以前から一貫して雲杜、南新市は彼らの支配域だったと考えた方が良い。

    このことから、楽進らは雲杜、南新市を奪うために兵を出し、それを達成できずに撤退した、と考えるのが自然である。

    では、その経過を見ていこう。

    青泥の戦い

    青泥の戦い1

    建安十七年冬、曹操は孫権を攻めるべく、東の濡須口へと兵を進めた。

    また、合わせて、襄陽の楽進、江夏の文聘にも軍を南下させ、江夏の沔水北岸を争わせたのである。

    鄀以南の沔水流域を劉備、孫権に押さえられている現状は、彼らに良好な交通線を確保させてしまっており、荊州北部の安全を脅かすものとなっていたからである。

    実際にも、南郡諸山谷の蛮夷は関羽に従うようになっており、劉備たちはその勢力圏を北に進めていたのである。

    楽進の南下は、劉備が遠く益州にある中、孫権軍主力を東に引きつけた状態で行われた。

    そしてこの時、荊州に残っていた劉備軍主力である諸葛亮、張飛らの軍は、益州攻めの準備のため動けないでいたのである。

    劉備軍では、関羽のみがこの事態に対応できたが、兵力が不十分であったため、南郡北部諸山谷の異民族及び臨沮、旌陽県の守備兵を加え、青泥山にて楽進を迎え撃った。

    孫権の方では、蘇飛を迎撃に向かわせ、関羽と合流させた。

    建安十七年末のことである。

    青泥の戦い2

    しばらくの対峙の後、戦況に動きが生じる。江夏太守文聘が雲杜方面に軍を進めたのである。

    これは、沔水を警戒していた劉孫連合の隙を突く格好となった。

    この事態に対処するため、関羽は異民族兵らに青泥を任せ、雲杜方面に転進した。

    しかし、関羽なしでは楽進に対抗できず、異民族兵は降伏し、臨沮長の杜普、旌陽長の梁大は大いに破られることとなった。

    杜普らを破った楽進は、南へと追撃することはせず、東に関羽を追った。関羽の撃破が作戦の成否を決めるとの判断からである。

    東に向かった関羽は文聘軍を押し戻し、安陸西南の尋口にて対文聘の防衛線を再構築した。

    そこに楽進も合流し、建安十八年春、戦場を尋口に変えて、再び両軍の対峙が始まった。

    建安十八年二月、両軍ともに決定打に欠いたまま、対峙が続いていたが、東方の濡須口において動きがあった。曹操が濡須塢の突破に失敗して撤退を開始したのである。

    これを受け、楽進らも兵を退き、関羽は辛くも江夏の防衛に成功したのであった。

    参考史料

    陳寿 『三国志』 (楽進伝、文聘伝、先主伝、孫皎伝)

    張舜徽 (1987) 『三國志辞典』 山東教育出版社, ISBN 7-5328-1066-

    顧祖禹 『読史方輿紀要』 (巻七十七)

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