季漢書

季漢(蜀漢)の歴史は、三国志を始め、様々な史料を読まなければ実態が見えてこない。 この季漢の歴史を整理し、再構成することで、その実態を浮き彫りにしていくことに取り組んでいく。

目次

本紀

  1. 巻一 昭烈帝紀
  2. 巻二 安楽公紀

列伝

関羽張飛趙雲伝

諸葛亮蒋琬姜維陳祗伝

  • 姜維伝 上
  • 姜維伝 中
  • 姜維伝 下之上
  • 姜維伝 下之下
  • 陳祗伝
  • 費禕董厥樊建伝
    馬超黄忠黄権陳式伝
    李恢馬忠張嶷王嗣霍弋伝
    陳勰伝

    戦役志
    地理志

    益州

    涼州

    荊州

    諸葛亮遺構

    北伐関連地理

    職官志

    百官表

    旧版

    建安八年~十年 博望の戦い・曹操包囲網(旧版)

    なぜ曹仁が潼関の戦いの先鋒となったか

    建安十六年、曹操が鍾繇らに張魯を攻めさせようとしたことに刺激され、馬超ら関中の軍閥が一斉に蜂起した。

    俗に潼関の戦いと言われているこの戦い、大規模な反乱になったにもかかわらず、曹操自ら出向かず、当初は曹仁に対処をさせた。

    武帝紀を読むと、この時の曹操は鄴にいたように見えるが、敢えて出ることなく曹仁が向かった理由は何なのか、ということを考えていく。

    建安十六年の曹操の行動と幻の東征

    さきほど、武帝紀を読むと曹操が鄴にいたように見えるとしたが、実際にはどうだったのであろうか。

    そのことを示すものが、徐宣伝にある。

    入為門下督、従到寿春。会馬超作乱、大軍西征、太祖見官属曰「今当遠征、而此方未定、以為後憂、宜得清公大徳以鎮統之。」乃以宣為左護軍、留統諸軍

    門下督となった徐宣が、曹操に従って寿春に至ると、馬超が反乱を起こしたので大軍が西征することになった、と書かれている。

    つまり、馬超が蜂起した建安十六年夏頃、曹操は東征の途上で寿春にあったということである。

    曹操は、自身は大軍を率いて揚州へと前進しつつ、太原の賊を討伐した夏侯淵らを鍾繇に合流させると共に、馬超らに兵を出させて張魯を討とうとしたということである。

    馬超の蜂起をもたらした張魯討伐は、東征の片手間に企図されたものだったのである。

    馬超は、曹操が張魯討伐にかこつけて自分たちを攻撃しようとしたことを疑い、蜂起した。

    衛覬伝注の魏書にある、鍾繇が張魯討伐を名目に馬超らから人質を取ろうとした逸話に、若以兵入関中、当討張魯、魯在深山、道径不通、彼必疑之と書かれるように、深山に住まう張魯討伐を行うには入念な準備が必要であると考えるのが、当地の状況を知る者の考えであり、それは馬超にとっても同じだったはずである。

    曹操自らは遠く揚州にあり、夏侯淵らの手勢と、関中に入った三千の兵だけで完遂できるわけがない、そう馬超が考えてもおかしくはないのである。

    曹操は、関中軍閥十万が参加するなら討伐できる、と考えたのかもしれないが、曹操が来ないことは、その関中軍閥を疑わせるに十分なことだったのである。

    曹操軍中における曹仁の存在

    さて、最初の問いである、なぜ曹仁が投入されたか、ということであるが、これは前段で述べたように、曹操が不在だったことが最大の理由である。

    曹操がすぐには来られない以上、それに代わる司令官を派遣する必要があり、当時の曹操軍にあって、それができたのは曹仁だけであった。

    江陵での防衛戦、この潼関の戦い、田銀らの討伐、関羽討伐と、曹操が赴くべき戦場において、それができない場合に派遣されるのが曹仁、というのが、曹操軍中での曹仁の扱いになっていた。

    では、なぜ曹仁が曹操の代行を務める司令官となったか。

    それは、官渡の戦いから江陵防衛戦までの、空白の期間に鍵がある。

    それまで、曹操軍中随一の騎兵指揮官として、諸処で別働隊を任され大きな功績を上げていた曹仁であったが、官渡の戦い以降、八年後の江陵防衛戦まで、彼が戦果を上げた戦いは記述されていない。

    唯一、建安十一年の壺関包囲において、曹操の側にあって城を降伏させる策を進言したことが残っている。

    また、曹仁は若い頃は品行を修めなかったが、長じて将になると法令を厳格に奉じ、常に条文を左右に置き、それに従って事を行った、と曹仁伝にある。

    彼の前半生に、そうした転向があった様子はない。また、将になった時期を、行征南将軍となった建安十三年とすると、官渡以降の空白期間が契機だったということになる。

    この期間、彼が曹操の参謀のように振る舞ったということは、常に曹操に近侍したということであろう。

    この前後の変化を考えると、曹仁は、官渡の戦い以降、曹操の近くにあって、軍法や作戦術を学んでいたと推測できるのである。

    曹仁は、官渡の戦い、すなわち汝南での劉備撃破によって曹操に見込まれ、数年間その薫陶を受けたことで、曹操の代行ができる司令官として、軍中にその存在を認められたのであろう。

    そしてそれ故に、曹操が寿春にあって不在の状況の中、その代理として潼関の戦場を任されたのである。

    参考史料

    陳寿 『三国志』 (武帝紀、夏侯淵伝、曹仁伝、徐晃伝、衛覬伝、徐宣伝、先主伝)

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    建安十六年 韓遂、馬超の乱-潼関の戦い

    後漢西晋戸数動態 (一)

    後漢から西晋にかけては、後漢末の動乱と、続く三国時代の戦乱の世によって、中華全体で戸籍人口を大きく減らしたことが知られている。

    しかし、その変化が何によってもたらされ、どのような変化であったのか、というのは、全体の数値を見るだけでは考察することができない。戸籍人口の大きな変動という、乱世を読み解く上で重要な要素であるにもかかわらず、これに詳細な分析を加えないのは、三国志を理解する上で大きな陥穽を見過ごす可能性がある。

    そこで本論では、この変化について細かい分析を加えていくこととする。

    しかしながら、西晋の統計として用いている晋書地理志は、各郡の戸数を示してはいても、人口までは記されていない。

    そのため、今回は戸数に着目して統計を整理し、分析していくこととする。

    方法として、まずは州単位での変動を確認し、その後に郡単位での変動を確認して分析するというやり方で進めていく。

    各州の変動

    各州の戸数変動を、後漢は続漢書郡国志、西晋は晋書地理志を利用してデータを整理し、確認していく。

    なお、州や郡の領域は後漢に合わせ、西晋の戸数を調整している。

    州ごとの変動を下表にて示す。

    戸数 対後漢
    西晋戸数
    戸数変動率偏差
    後漢 西晋
    司隷 616355 435900 0.707 0.400
    豫州 1142783 118896 0.104 -0.203
    冀州 908005 359440 0.396 0.088
    兗州 799302 130050 0.163 -0.145
    徐州 576054 75221 0.131 -0.177
    青州 635885 95150 0.150 -0.158
    荊州 1399394 367300 0.262 -0.045
    揚州 1021096 312800 0.306 -0.001
    益州 1525257 354148 0.232 -0.075
    涼州 102491 64320 0.628 0.320
    并州 115011 57300 0.498 0.191
    幽州 396263 78820 0.199 -0.109
    交州 270769 59820 0.221 -0.087
    全土合計 9508665 2509165 0.264 ---

    ここで、戸数変動率の平均は下記の通りである。

    戸数変動率平均 0.307
    戸数変動率中央値 0.232

    戸数を維持した順に、司隷、涼州、并州、冀州と続く。逆に、最も戸数を減らしたのは豫州、次いで徐州、青州、兗州となる。

    一方、単純に戸数順で並べると、第一位は司隷、二位は荊州、そして冀州、益州、揚州と続く。

    これらを表にすると以下のようになる。

    順位 後漢 西晋戸数 戸数変動率
    1 益州 司隷 司隷
    2 荊州 荊州 涼州
    3 豫州 冀州 并州
    4 揚州 益州 冀州
    5 冀州 揚州 揚州
    6 兗州 兗州 荊州
    7 青州 豫州 益州
    8 司隷 青州 交州
    9 徐州 幽州 幽州
    10 幽州 徐州 兗州
    11 交州 涼州 青州
    12 并州 交州 徐州
    13 涼州 并州 豫州

    どのような理由によって戸数が変動したのか、ということについて正確に分析するには、もっと細かく、郡単位での分析を行い、戸数変動をもたらすような事象が、その地域で発生したかどうかを調べる必要がある。

    そうした分析は次回以降に実施するとして、ここでは州ごとの変動について大まかに見ていこう。

    なお、今回見ていくのは、後漢時代の戸数、西晋時代の戸数、戸数変動率のいずれかで上位5位に入った州とする。

    司隷

    まずは司隷である。ここは、最大の版図を得た魏の都が置かれていた場所である。

    後漢の頃は全13州で8位という戸数であったが、西晋では1位となっている。減少量も最も少なかった。

    しかしながら、司隷の特に三輔は荒廃した記述も残っており、この期間を通じて変わらず戸数を維持していたとは考えにくい。

    何らかの理由によって、三国時代を通じ、減った戸数が回復する現象が発生したのだろう。

    荊州

    荊州は、後漢末に劉備、曹操、孫権の三者が領有を争った地である。

    後漢においても西晋においても、全土で2位の戸数を誇っている。戸数の変動は平均をやや下回るが、中央値を上回っていることもあり、全体としては大きな戸数を維持している。

    三国時代を通じて魏呉が相争っており、大きな兵力と、それを支える策源地としての機能を持たせるため、戸籍への登録を積極的に進めた可能性がある。

    また、劉表が治めていた頃の荊州は、江東同様に多くの流民が入ってきた場所である。そうしたことも、この結果につながっているかもしれない。

    冀州

    冀州は袁氏を破った曹操が根拠地とした場所である。

    袁紹が割拠していた頃より、豊かな土地であったことを示す記述があり、曹操が奪った際も、その戸数の多さに驚くような記述があった。

    曹操の河北平定以降、大きな戦乱に見舞われることもなかったため、必然的に戸数を維持できたのだろう。

    益州

    益州は、劉備の最終的な根拠地となり、季漢の統治した場所である。

    三国の一角をなした季漢の本拠であるため、内部の統治が進み、最終的に戸数を維持できたのだろう。

    また、ここも荊州同様に民が流れ込んだ場所である。

    一方、後漢では全土で最大の戸数を誇った益州であったが、西晋では4位に転落しており、冀州や荊州ほどには戸籍人口流出を防げなかったことがわかる。

    揚州

    揚州は孫権が割拠し、武昌遷都期間を除けば、概ね呉の首府が置かれていた州である。

    後漢では4位の戸数、西晋では5位の戸数である。戸数変動の偏差は平均通りとなっている。

    揚州も大きな民の流入があり、それは主として徐州や豫州からであった。また、孫権時代より山地の民を積極的に戸籍に組み込む政策が続いていた。

    そうした人口増加要素があったにもかかわらず、揚州の戸数変動率が平均止まりということが、この時代の戸数維持の難しさを示している。

    豫州

    豫州は、後漢時代は全土で3位の戸数であったが、西晋になると7位まで落としている。

    戸数変動率においても最下位であり、最も戸数を減らした州である。

    この州は黄巾の乱における主要な戦場の一つとなったが、後漢末から三国時代においては、涼州や荊州、揚州ほどには戦場となっていない。戦乱によって荒れ果てたという要素もあるだろうが、それ以外の要因による戸数低下も考えられる。

    涼州

    涼州は異民族と接する地で、後漢においては全体の1%程度の戸数しか持っていなかった場所である。

    後漢における戸数も最下位であるし、西晋においても11位であり、辺境の、戸籍人口の少ない土地、という傾向に変化は見られない。

    しかしながら、後漢の頃の7割の戸数を維持しており、季漢と魏で長く争っていた土地にしては、戸数を維持できている。

    この理由は、もっと詳細に見ないと推測も難しい。

    并州

    并州も涼州同様に異民族と接する土地である。こちらも後漢においては13州中12位であり、西晋においては最下位である。

    やはり涼州と同じように、戸籍人口が少ない土地という傾向自体は変わっていない。

    もともとの戸籍人口が少なく、異民族と接する辺境で、後漢の頃に対して戸数を比較的維持できている、という三点において、涼州と并州は共通している。

    并州についても、この変動の原因については、詳細な分析を待つべきであろう。

    参考史料

    司馬彪 『続漢書』 (郡国志)

    房玄齢 『晋書』 (地理志)

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