季漢書

季漢(蜀漢)の歴史は、三国志を始め、様々な史料を読まなければ実態が見えてこない。 この季漢の歴史を整理し、再構成することで、その実態を浮き彫りにしていくことに取り組んでいく。

目次

本紀

  1. 巻一 昭烈帝紀
  2. 巻二 安楽公紀

列伝

関羽張飛趙雲伝

諸葛亮蒋琬姜維陳祗伝

  • 姜維伝 上
  • 姜維伝 中
  • 姜維伝 下之上
  • 姜維伝 下之下
  • 陳祗伝
  • 費禕董厥樊建伝
    馬超黄忠黄権陳式伝
    李恢馬忠張嶷王嗣霍弋伝
    陳勰伝

    戦役志
    地理志

    益州

    涼州

    荊州

    諸葛亮遺構

    北伐関連地理

    人物遺構

    要衝

    職官志

    百官表

    北伐考論

    季漢政権論

    政治制度考論

    地理考論

    出自考論

    旧版

    建安八年~十年 博望の戦い・曹操包囲網(旧版)

    諸葛亮死後の後継人事に見る、その構想した指導体制について

    建興十二年、諸葛亮が五丈原で陣没すると、季漢はその政治的指導体制を大きく変えることとなった。

    そして、皇帝劉禅は、病の篤くなった諸葛亮に人を派遣して、その後の体制について詳しく聞き取っている。

    すなわち、諸葛亮が死した直後に行われた人事は、諸葛亮自身が構想したものと同一か、非常に近いものとみなすことができる。

    今回は、そこに秘められた諸葛亮の意図を探っていくこととする。

    目次

    1. 諸葛亮死後の体制
    2. 蒋琬体制に求められたもの
    3. 諸葛亮の望みと現実との乖離
    4. 参考史料

    諸葛亮死後の体制

    諸葛亮が死した後、具体的にどのような体制が布かれたのであろうか。

    代表的なものは、丞相留府長史であった蒋琬を尚書令とし、国事を総統させたことである。(後主伝)

    蒋琬伝によれば、諸葛亮は、以前より密かに劉禅に上奏し、自身の死後は蒋琬に後事を託すよう述べていた。蒋琬が実質的な宰相であり、諸葛亮の後継者であったことは、疑いようがない。

    また、軍事においては、姜維を右監軍として諸軍を統率させ、楊儀、鄧芝、費禕らをそれぞれ中前後軍師として劉禅を補佐する体制を築いている。

    華陽国志劉後主志では、ここに挙げた蒋琬、楊儀、費禕、姜維、鄧芝に、前領軍となった張翼を加え、並んで軍政を典じさせたとしている。

    蒋琬については、尚書令となった後、にわかに行都護を加えられ、節を仮され、益州刺史を領することになったが、これらについても諸葛亮の遺言に基づいたものだったのかは、判断の難しいところである。

    いずれにせよ、翌年に大将軍となったことは、諸葛亮の考えの外にあった人事であるとみなした方が良いであろう。

    なお、この頃の尚書としては、尚書令蒋琬の次官として、尚書僕射李福が、尚書として馬斉、尚書郎として楊戯らの名前があり、李福の後任として尚書僕射となったであろう姚伷もまた、尚書に就いていた可能性が高く、これらに名を連ねているのは、ほぼ益州人士であった。

    蒋琬体制に求められたもの

    この、諸葛亮死後の蒋琬体制について確認すると、ある点に気付く。

    それは、録尚書事の任を帯びるものがいない、ということである。

    蒋琬は翌年に大将軍となり、録尚書事を加えられるが、先述したように、体制を決めた数カ月後にあえて行うような人事は、諸葛亮が遺言した内容とは別物であったとみなした方が良い。

    録尚書事が置かれないというのはどういうことか。

    これはすなわち、上奏と詔勅の発行に伴う諸文書を、皇帝劉禅自らが確認し、裁可を下す体制であったということである。

    諸葛亮自身は、自らに権力を集め、皇帝劉禅に代わって軍政の全てを取り仕切る体制を構築した。

    一方、自身の後継者に指名した蒋琬には、そうした体制を望んでおらず、尚書令として皇帝を補佐することを求めたと考えられるのである。

    諸葛亮が国事を総統することとなった時、劉禅は十七歳であり、諸葛亮が摂政として振る舞うことにも理があった。

    一方、建興十二年に至ると、劉禅も二十八歳となっており、皇帝としての責任を果たすことができると、諸葛亮は考えたのであろう。

    そして、諸葛亮は、臣下である自分自身が独裁で政治を動かす姿を、自然なものではなかったと、少なくとも自分の死後は継続するべきではないものだと考えていたとみなすことができるのである。

    その諸葛亮の願いを、劉禅が密奏などで知っていたのなら、諸葛亮を簒奪者のように語った李邈の言葉に、劉禅が激怒したのも当然と言える。

    そうした体制を蒋琬に諸葛亮が求めたとするならば、中軍師に任ぜられた楊儀の立場、そして楊儀と同等の軍師となった費禕、鄧芝の立場が、単なる閑職ではなかったと考えられる。

    劉禅自らが判断し、政治を動かしていく体制であるならば、その軍事的な師と言うべき軍師は、劉禅が主体となって魏の討伐を進めていくのであれば、北伐の方針や、その実行について指導する立場が求められていたとみなすことができるのである。

    諸葛亮の望みと現実との乖離

    皇帝が主体性を発揮していく体制を求めた諸葛亮の考えとは裏腹に、現実は、かつての諸葛亮体制と似た状態への回帰が進められていくこととなった。

    現状に不満を抱き、反乱の意思があるかのように述べた楊儀が放逐された後、それを報告した功績もあって費禕が尚書令となると、蒋琬は大将軍となり、録尚書事を加えられた。

    費禕伝に「自琬及禕、雖自身在外、慶賞刑威、皆遥先諮断、然後乃行、其推任如此」と書かれるように、これ以降、劉禅は国事を宰相に任せる姿勢を明らかにしてしまったのである。

    北伐も、政治をも蒋琬に任せ、自身は宮殿に引き籠もる道を、劉禅は選んでしまった。

    この結果が、費禕ら、自らが非主流派となったと思い込んだ人々の要求によってもたらされたのか、或いは劉禅自らが望んだものだったのか、それは分からない。しかし、自らの築いた歪な体制が、その死後も続く結果となったことは、諸葛亮の霊魂を大いに落胆させたことであろう。

    参考史料

    1. 陳寿 『三国志』 (後主伝、諸葛亮伝、楊儀伝、蒋琬伝、費禕伝、姜維伝、楊戯伝)
    2. 常璩 『華陽国志』 (劉後主志)

    季漢益州刺史任官考

    季漢は、王朝として成立して以来、その支配領域はほぼ益州一州に留まっていた。

    そのため、益州刺史或いは益州牧の地位は、支配領域全体の地方行政を統括する立場となり、必然的に宰相の帯びる職となった。

    今回は、その任官者について、特に、費禕以降のそれについて検討を加えていく。

    目次

    1. 劉備時代及び諸葛亮輔弼期
    2. 蒋琬・費禕輔弼期
    3. 費禕時代以降
    4. 参考史料
    5. 関連記事

    劉備時代及び諸葛亮輔弼期

    劉備が皇帝となっていた時代については、皇帝たる劉備自身が益州牧を帯びていた。

    皇帝が州牧を兼務するというのは不自然であるが、ともかくも、益州の組織は劉備直属となっていたということである。

    劉備が益州を支配して以降、劉焉から続く益州牧組織による領域支配体制が確立されており、それを急に別な人物の下に置くことの混乱を避けたのだろう。

    この体制は、劉備が永安で崩御し、劉禅が後を襲うことで変わることになる。

    三国志諸葛亮伝によれば、劉禅は建興元年に諸葛亮を益州牧とし、以降、諸葛亮が丞相領益州牧として、季漢の朝廷と、地方行政の全てを統括する体制が築かれるのである。

    蒋琬・費禕輔弼期

    建興十二年に諸葛亮が亡くなると、その後を継いだのは留府長史の蒋琬であった。

    蒋琬は尚書令となり、にわかに都護を加えられ、節を仮されるとともに、益州刺史を領するようになった。

    劉備、諸葛亮時代と異なり、益州牧ではなく益州刺史となっているが、劉焉時代より州牧の下に置かれていた前後左右司馬などの軍事組織が解体され、州牧という形式で置く必要がなくなったからであろう。

    また、この時、蒋琬は益州刺史を費禕、董允に譲ろうとしているが、彼らが固辞したため、蒋琬が就任することになった、という経緯が、三国志董允伝にある。

    蒋琬には北伐という事業を担う責務があり、地方行政を統括するのは足枷になるからであろう。諸葛亮でさえ、その仕事量に疲弊したのであるから、北伐と益州刺史を同時に担うのは困難と考えてもおかしくはない。

    いずれにせよ、宰相たる人物が州職を帯びるという体制は、蒋琬の時代も継続することとなった。

    さて、蒋琬が東征を強行しようとして成都の反対に遭い、費禕が蒋琬の東征を制して大将軍となると、また体制に変化が生じる。

    大将軍となった費禕が興勢の役を勝利に導くと、蒋琬は州職を固く辞し、費禕がこれに代わることとなった。

    大司馬録尚書事である蒋琬、大将軍録尚書事である費禕という、二人の宰相が並び立つ状態であったが、その時の勢いのある人物である費禕が、州職を兼ねることになったのである。

    諸葛亮や蒋琬のように、単独首班であった時、州職はその人物が帯びていたが、費禕以降、宰相が複数存在する状況が作られることになり、州職を帯びるものも、その状況に合わせて決まる状態になったということであろう。

    費禕時代以降

    費禕は、延熙十六年正月に亡くなるまで益州刺史を帯びていたと考えられるが、彼の死以降、益州刺史を誰が帯びていたか、ということが史書に現れなくなる。

    三国志を編纂した陳寿が出仕したのは、ちょうど費禕が亡くなる頃であり、それ以前も譙周に師事していて、季漢が滅亡するまで官僚であったのだから、陳寿が当時の益州刺史を知らず、それを記録した史料にも当たれなかった、ということはありえない。

    したがって、三国志にこの時期の益州刺史の記述がないのは、陳寿が意図的に記さなかったか、或いは益州刺史だった人物が三国志に記載されるほど重要ではなかったか、ということになる。

    益州刺史が宰相の帯びる職だったことを考えると、後者はありえないだろう。つまり、陳寿が意図的に書かなかったのである。

    書かなかったということは、当時の益州刺史がだれだか記すことが、陳寿或いは彼が支援すべき益州人士にとって、不利益になるものだったということである。

    そうした前提に立つならば、誰が益州刺史だったか、というのは自ずと見えてくるのである。

    費禕の後任

    延熙十六年に費禕が亡くなった後の後任は誰であろうか。

    これは、当時、呂乂に代わって尚書令となっており、実権では姜維をも上回ったという陳祗が該当すると考えられる。

    陳祗は、録尚書事こそ帯びていないものの、蒋琬-費禕体制、費禕-姜維体制の時と同様、当時の宰相たる姜維と並び立つ宰相であった。

    したがって、益州刺史の職責から言っても、以前の任官者の例から言っても、非常に自然な人事となる。

    一方、董允伝に付された黄皓伝、陳祗伝に見られるように、陳祗は黄皓が台頭するきっかけを作った人物であった。

    その黄皓は、国家を転覆させた人物と記され、蜀人で董允を追慕しない者はいなかったと書かれるほどに評判が悪かった。

    黄皓が権力を握るための道を開いた陳祗も、蜀においての評判は当然悪かったであろう。

    また、華陽国志後賢志によると、陳寿は、初め州命に応じて衛将軍主簿となったと書かれる。

    この州命が誰のものか、というのは明示されていないが、彼が元康七年に六十五歳で亡くなったことを考えると、延熙十五年で弱冠であるから、十五年から十七年頃のことと考えられる。

    姜維の一連の軍事行動における失敗を見て漢寿に退いた費禕が、わざわざ益州刺史として陳寿に命じて姜維の幕僚に付ける、というのは、考えにくいことである。

    譙周門下で子游に例えられたほどの俊英を、軍事行動をやめさせる相手の主簿とはしないだろう。

    したがって、これは、費禕後任の刺史によるもので、姜維が北伐を再開するに当たり行われた変則的な人事だったと考えられる。

    つまり、陳寿を挙げたのは陳祗であり、陳祗は陳寿にとって挙主に当たるか、或いは陳祗の故吏であったとみなせるのである。

    地元である益州での陳祗の評判を鑑みると、自分が陳祗によって登用された人物であると知られるのは陳寿にとって不都合であり、それを史書に編んで後世まで残すのは尚更であろう。

    陳寿が費禕の後任を記さなかったということは、それが陳祗であったことを暗示しているのである。

    最後の益州刺史

    費禕の後任が陳祗だったとして、その陳祗は景耀元年に亡くなっており、その後任もまた存在しているはずである。

    では、それは誰であろうか。

    それには、華陽国志後賢志に見える当時の状況と、三国志諸葛亮伝付董厥伝の注釈に引かれた、孫盛異同記より推測できる。

    華陽国志後賢志は、黄皓が朝廷を牛耳っていた時のこととして、州将、すなわち益州刺史が軍政を董じていたこと、その従事が朝廷における尚書の如き機能を有していたことが述べられており、朝廷に嫌気が差した益州人士が地方に流れていったことが書かれる。

    このことから、黄皓が権力を握った陳祗死後の季漢においては、益州刺史は、その黄皓と対立する側の人物であり、且つ、軍政を董じることができるほどの権力を有していたことがわかる。

    この条件に該当する人物は、当時においては姜維しかいないのである。

    また、三国志董厥伝注の異同記によれば、「瞻厥等以維好戦無功国内疲弊宜表後主召還為益州刺史奪其兵権」と、諸葛瞻、董厥らが「姜維を召還して益州刺史とし、兵権を奪うべし」と上表している。

    姜維は、陳祗が死んだ景耀元年に成都へ戻るが、それ以降、景耀五年に侯和に出るまで成都に留まっており、侯和に出兵した際は廖化も張翼も随行しておらず、それまでと比べて非常に規模が小さい軍事行動であったことが窺える。

    これは、姜維に益州刺史を与えて忙殺し、北伐へ向かう余裕をなくすと共に、直属の軍以外への指揮権を奪うような動きを朝廷がしたと考えると自然であり、それは異同記にある諸葛瞻らの上表と内容が一致している。

    したがって、姜維は陳祗に後任として益州刺史になるために召還され、合わせて大将軍にも復帰することとなったが、それ故に北伐を再開できなかったということである。そして、黄皓とも対立することとなり、黄皓に阿る荊楚の人士が牛耳る朝廷を嫌った益州人士の受け皿となったのである。

    季漢益州刺史任官表

    参考史料

    1. 陳寿 『三国志』 (先主伝、後主伝、諸葛亮伝、董允伝、蒋琬伝、費禕伝、姜維伝)
    2. 房玄齢 『晋書』 (文立伝)
    3. 常璩 『華陽国志』 (後賢志)

    関連記事

    1. 季漢末の政治的分裂について

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