建安十七年 青泥の戦い

建安十七年、益州を攻める口実を得ようとする劉備は、孫権が曹操に攻められていることを以て、劉璋に帰還の意思を告げた。

その中において、関羽が青泥で楽進と対峙していることが述べられ、それも帰還理由の一つとして挙げられている。

しかし、この青泥での対峙について、劉備の言葉以外で明確な記述は出てこないため、どのような戦いだったのか分からない部分が多い。

今回は、史書から青泥の戦いに関する記述と思われる箇所を抽出した上で、どういった戦いだったのかを検討していく。

青泥の戦いに関する記述の検討

青泥の戦いについて記述したと思われる記述は、以下の通りである。

  1. 「曹公征呉、呉憂危急。孫氏与孤本為唇歯、又楽進在青泥与関羽相拒、今不往救羽、進必大克、転侵州界、其憂有甚於魯。魯自守之賊、不足慮也。」(先主伝)
  2. 「後従平荊州、留屯襄陽、撃関羽、蘇非等、皆走之、南郡諸郡山谷蛮夷詣進降。又討劉備臨沮長杜普、旌陽長梁大、皆大破之。」(楽進伝)
  3. 「与楽進討関羽於尋口、有功、進封延寿亭侯、加討逆将軍」(文聘伝)

史書にはこの程度しか残っていない。更に言えば、先主伝にある劉備の言葉以外は、状況証拠的に青泥の戦いと考えられるのみであり、明確に述べているのは先主伝だけである。

また、後世の地誌である読史方輿紀要によると、現在の鍾祥の東一里に武陵、またの名を青泥山と呼ばれる山があり、宋の祝穆の言を引き、そこが青泥の戦いの戦場であったとしている。

なお、襄陽西北の青泥河の戦場とする考えも、そこで述べられている

関羽らを逃走させた楽進が、南郡諸山谷の蛮夷を降伏させ、臨沮や旌陽の長を破ったことを考慮すると、戦場は南郡の青泥、すなわち襄陽西北である可能性も考えられるが、当時の関羽は勢力圏を十分北に広げることができていない可能性が高く、襄陽西北まで進出するというのは困難を伴うはずである。

また、襄陽西北を戦場としたのなら、関羽の方から攻めたことになるが、劉備は「関羽を救わねば楽進が州界を侵す」と述べている。攻めている側が、敵の侵攻を警戒するというのは不自然である。

そして、読史方輿紀要によると、雲杜から安陸にかけての地域に、関羽が駐屯したとされる場所が複数記述されている。

関羽が雲杜方面に駐屯したとするなら、鍾祥に進出したとする方が自然である。青泥の戦い以外に、そこへの進出が考えられる戦いがないため、やはり青泥の戦いにおける戦場は鍾祥であったとする方が良い。

では、雲杜周辺が戦場であったとすると、何を争って戦ったのであろうか。

孫皎伝には、孫皎が程普に代わって夏口を治めるようになった後の奉邑が書かれているが、そこには雲杜、南新市が含まれている。したがって、戦場となった場所は、青泥の戦いの後も劉孫連合の勢力圏であったのである。

そして、この戦い以降、江夏に劉孫連合が攻め寄せた記述もないため、それ以前から一貫して雲杜、南新市は彼らの支配域だったと考えた方が良い。

このことから、楽進らは雲杜、南新市を奪うために兵を出し、それを達成できずに撤退した、と考えるのが自然である。

では、その経過を見ていこう。

青泥の戦い

青泥の戦い1

建安十七年冬、曹操は孫権を攻めるべく、東の濡須口へと兵を進めた。

また、合わせて、襄陽の楽進、江夏の文聘にも軍を南下させ、江夏の沔水北岸を争わせたのである。

鄀以南の沔水流域を劉備、孫権に押さえられている現状は、彼らに良好な交通線を確保させてしまっており、荊州北部の安全を脅かすものとなっていたからである。

実際にも、南郡諸山谷の蛮夷は関羽に従うようになっており、劉備たちはその勢力圏を北に進めていたのである。

楽進の南下は、劉備が遠く益州にある中、孫権軍主力を東に引きつけた状態で行われた。

そしてこの時、荊州に残っていた劉備軍主力である諸葛亮、張飛らの軍は、益州攻めの準備のため動けないでいたのである。

劉備軍では、関羽のみがこの事態に対応できたが、兵力が不十分であったため、南郡北部諸山谷の異民族及び臨沮、旌陽県の守備兵を加え、青泥山にて楽進を迎え撃った。

孫権の方では、蘇飛を迎撃に向かわせ、関羽と合流させた。

建安十七年末のことである。

青泥の戦い2

しばらくの対峙の後、戦況に動きが生じる。江夏太守文聘が雲杜方面に軍を進めたのである。

これは、沔水を警戒していた劉孫連合の隙を突く格好となった。

この事態に対処するため、関羽は異民族兵らに青泥を任せ、雲杜方面に転進した。

しかし、関羽なしでは楽進に対抗できず、異民族兵は降伏し、臨沮長の杜普、旌陽長の梁大は大いに破られることとなった。

杜普らを破った楽進は、南へと追撃することはせず、東に関羽を追った。関羽の撃破が作戦の成否を決めるとの判断からである。

東に向かった関羽は文聘軍を押し戻し、安陸西南の尋口にて対文聘の防衛線を再構築した。

そこに楽進も合流し、建安十八年春、戦場を尋口に変えて、再び両軍の対峙が始まった。

建安十八年二月、両軍ともに決定打に欠いたまま、対峙が続いていたが、東方の濡須口において動きがあった。曹操が濡須塢の突破に失敗して撤退を開始したのである。

これを受け、楽進らも兵を退き、関羽は辛くも江夏の防衛に成功したのであった。

参考史料

陳寿 『三国志』 (楽進伝、文聘伝、先主伝、孫皎伝)

張舜徽 (1987) 『三國志辞典』 山東教育出版社, ISBN 7-5328-1066-

顧祖禹 『読史方輿紀要』 (巻七十七)

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