黄祖出自考

黄祖

黄祖は、劉表に仕えて孫堅を討ち、江夏に鎮守して十年以上の間、孫氏の攻勢に耐えた人物である。

長きに亘り江夏という要衝を押さえていたにもかかわらず、どういった出自で、なぜ劉表に仕えることとなったのかは、史書に記されていない。

今回は、この黄祖がどういった出自を持ち、劉表政権でどういった立場であったのかを、数少ない材料から考えていくこととする。

黄祖の本貫

まずは、黄祖の本貫を推測していく。

本貫を推測する際に有効なのは、どの郡の太守となったかを見ることである。

後漢には、本貫を回避する法があるため、ある郡の太守となった人物は、その郡の人間ではない可能性が非常に高くなるのである。

後漢末においては例外も散見される。本郡の太守となった建寧の李恢、本州の刺史となった張既や李勝などである。しかしながら、例外は例外であるから、一般的には回避する原則に沿っていたと考えるべきである。

劉表政権において黄祖が就任したことが確認できるのは、江夏太守だけである。したがって、黄祖の官職からは、彼が江夏の人間でないということしか分からない。

そこで注目すべきなのが、黄祖の息子である黄射の存在である。

彼もまた劉表政権で郡太守に任じられているのである。

黄射は、詳細時期は不明であるが、劉表政権下で章陵太守となっている。

章陵郡は、劉表が南陽郡より分割して立て郡であり、襄陽東方60kmの地にある章陵県より名を取っている。

したがって、黄祖の本貫として、江夏郡と、章陵郡の範囲は候補から外れるということである。

黄祖出自

では、章陵郡の範囲はどこになるのか。

武帝紀の建安二年の条に鍵がある。この年、曹操は張繍の降伏を受け入れて宛に入ったが、自身の浅慮から、その張繍の離反を招き、敗北して引き上げた。その際、南陽と章陵の諸県が曹操に背いたことが書かれている。

建安二年初頭の段階で章陵が分割されており、且つ、曹操の侵攻経路上にその範囲が含まれていたことになる。

同じく建安二年、曹操は再度の南征を行ったが、その時に撃ったのが、湖陽に拠っていた劉表の将、鄧済である。

また、曹操に先んじて南征の先鋒となっていた曹洪が攻めていた県が舞陽、舞陰、葉、堵陽、博望であった。

南陽、章陵の境界は、これらの間にあるということである。そして、こうした境界は自然地形による境界が定められることが多い。

恐らくは、淯水を境界としたのであろう。つまり、張繍に南陽を任せることで、残余の地域を劉表所属の郡として立てる必要が生じ、章陵郡が生まれたと考えられるのである。すなわち建安元年のことである。

さて、黄射が章陵太守だった頃、許より戻った禰衡が劉表に見えて礼遇されたが、二人は親密になったという。

禰衡が許を訪れたのは建安元年の二十四歳の時、死んだのは二年後の二十六歳の時である。

したがって、建安初期の、すなわち初代の章陵太守は黄射だった可能性が高い

劉表の入楚

黄祖は、初平二年に行われた孫堅の南征を防いだように、初期劉表集団において、既に存在感を示していた。

そのため、初期劉表集団を検討することは、黄祖の出自を考える材料となる。

劉表は、孫堅に殺された荊州刺史王叡の後任であり、董卓政権に任命された刺史であった。

董卓討伐を名目として兵を挙げた孫堅に、袁術が合流して南陽から魯陽にかけて勢力を広げている中での赴任であったため、彼は目立たぬよう単馬にて荊州に向かっている。

劉表が宜城に入った頃、中廬県の名族蒯越、蒯良、襄陽の名族蔡瑁らが合流している。

蒯越は豫州汝南郡から故郷の荊州に舞い戻っている。同族と思われる蒯良から連絡を受け、新たな刺史を支えるために官職を捨てて戻ったのだろう。

劉表集団は、まず襄陽南方の少数の名族が従うことで始まったのである。

その後に重鎮として現れるのが、南陽の人間であった。零陵、桂陽、長沙の太守を歴任した後に反乱を起こした張羨、治中従事となった鄧羲、別駕従事となった韓嵩など、いずれも南陽の人間である。

したがって、初期から参画した黄祖は、襄陽周辺か、南陽の人間である可能性が高い。

荊州の黄氏

さて、そもそも、荊州における著名な黄氏は、どこに分布しているのか。

この時代、最も有名なのは江夏安陸の黄氏である。三公となった黄琬を輩出している。しかし、黄祖が江夏安陸の黄氏でないことは、前述の通りである。

他には江夏黄氏の祖である江陵黄氏、南陽太守黄子廉を祖とし、黄蓋を輩出した零陵泉陵の黄氏である。

残念ながら、襄陽周辺にも、南陽にも、黄祖以前の時代では著名な黄氏はいない。

しかし、同時代には漢中王国の後将軍黄忠、光禄勲黄柱が、いずれも南陽の黄氏である。また、太守の子孫は、その任地に定住する例が散見されることを考えると、黄子廉を祖として南陽に残った黄氏が、黄忠や黄柱を輩出し、黄祖とも同族である可能性が大いにある。

結論として、黄祖は黄忠と同族であり、南陽の黄氏となる

劉表政権での黄祖の立ち位置

黄祖の本貫が南陽であるとして、どのようにして劉表に仕えたのだろうか。

それを推測するため、黄祖が劉表にどのように用いられたかを考えることとする。

黄祖は孫堅を迎撃する劉表の将として現れるのが最初であり、その後に江夏へと移って、十年以上に亘って東方の最前線にいた。また、その息子である黄射は、立てて間もない章陵の太守となり、対曹操の前線で戦うようになった。

劉表は、その領土の防衛を黄祖の一族に頼っていたと言えるのである。

黄祖を渠帥とする南陽黄氏の軍閥が、劉表に仕えてその主たる戦力となったということであろう。

黄忠もはじめ中郎将として劉表に仕え、対孫氏の前線である長沙を守っていた。中郎将というのは、後漢末の群雄割拠の時代にあって、部曲を伴って仕えた人物が任じられることが多い官職であり、彼もまた小軍閥を率いていた可能性がある。そうであれば、やはり黄祖とも連なり、南陽黄氏という一大勢力の一員だったと言えよう。

後漢末、戦乱によって秩序が失われたため、力のある一族は塢壁を築いて中に立て籠もり、小軍閥を形成するようになった。

許褚もまたそういった軍閥の一つであり、劉表が謀殺した江南の宗賊も、そういった勢力である。

南陽は黄巾の被害が大きかった場所であり、そうした小軍閥が形成されやすい土壌があった。南陽黄氏もまた、そうした流れの中で現れた小軍閥だったのであろう。

一方、孫堅が南陽を奪った時、江夏太守だった劉祥がそれに同調していたが、南陽の士民は太守を殺した孫堅と共に、この劉祥も怨んでおり、兵を挙げてこれを攻め殺した。

これは恐らく、劉表による南陽奪還の動きであろうが、この時に主役となったのが南陽人であり、かつての太守張咨の遺臣であろう。この当時、南陽人で、且つ南陽を奪還する力を持っていたと考えられるのが、劉表がその戦力を頼った黄祖らくらいしかない。

恐らく黄祖は、黄巾の乱による混迷を受けて形成された軍閥の長であり、時の太守張咨に仕えて反董卓の兵に加わろうとしていた勢力だったのであろう。

それが、孫堅の暴挙によって仕えるべき主君を失い、報復を願っていたところに劉表が現れたのである。そして、孫堅と敵対することになった劉表に協力して、その勢力伸長の立役者になると共に、因縁浅からぬ孫氏との戦いに明け暮れるようになったと考えられる。

参考史料

陳寿 『三国志』 (武帝紀、劉表伝、曹洪伝、荀彧伝、許褚伝、黄忠伝、劉巴伝、孫堅伝、黄蓋伝)

范曄 『後漢書』 (劉表伝、禰衡伝)

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