魏公と魏王~郗慮はなぜ失脚したか

郗慮という人物がいる。

兗州山陽郡高平県の人であり、幼くして鄭玄の教えを受けた人物であり、建安六年には荀彧、鍾繇とともに献帝に学問を教えるほどであった。

彼は建安の初めに侍中となり、その頃に同じく朝廷に仕えるようになった孔融とも親しかったが、後に仲違いし、孔融弾劾に積極的に関与した。その後は曹操の腹心のように働き、御史大夫として曹操を魏公に任ずる策命を届け、伏皇后を捕らえた件における実働も彼であった。

しかしながら、劉劭伝によれば、彼はどこかの時期に罷免されており、以降は名前が現れない。曹操を魏王とする際にも名前が出てこないことから、それまでには御史大夫を罷免された上、後の復職もなかった可能性が高いのである。

郗慮はなぜ罷免されたのか、ということを考えながら、曹操が魏公、そして魏王となったことについて述べていくこととする。

孔融と親しく、曹操が孔融と郗慮を仲裁した際に「孔融とも旧交はなく、郗慮とも恩紀はない」と述べていることから、兗州出身といえど、兗州牧曹操に仕えていたわけではなく、孔融と共に建安元年に朝廷に出仕したのだろう。

郗慮罷免の時期及び原因の推定

さて、郗慮が罷免された理由を考えるには、罷免された時期を検討する必要がある。

これは、武帝紀より絞り込むことができる。

郗慮は曹操が伏氏を誅滅した建安十九年十一月には御史大夫として現れるが、建安二十一年五月に曹操を魏王とする策命を届けたのは、行御史大夫劉艾であった。

すなわち、建安十九年十一月から、一年半後の二十一年五月までに、郗慮は失脚したということである。

この間、あまり多くの政治的事象はない。なぜなら、曹操は張魯討伐のために漢中へと遠征に出ていたからである。

主なものは下記である。

    建安十九年十二月、献帝は曹操に旄頭を許可し、その宮殿に鍾虡を置くことを許した

    建安二十年正月、曹操の娘を皇后とした

    建安二十年九月、献帝は曹操に封侯と太守・国相の任免について承制を許可した

    建安二十年十月、名号侯から五大夫までの爵位を設けた

    建安二十一年五月、曹操が魏王となる

この中で、郗慮失脚の契機となりそうなものは何か。それは魏王即位くらいしかないのである。

その理由は後述するとして、まずは曹操が魏公になった流れを見ていくこととしよう。

何が曹操を魏公としたか

郗慮は曹操が魏公となる際も、その後も積極的に協力している。

したがって、曹操を魏公に推した流れに対しては、彼もまた身を任せているのであるから、それと同じ流れの中にある事象については、反対しないだろうと考えられる。

では、曹操を魏公に推したのはどういう動きであったのか。それを検討する。

曹操を魏公とすることは、彼に皇帝への階段を一歩登らせることと等しい。

しかしそれは、あくまで最終的な到達点である上、魏公となることは必ずしも必要なことではない。

なぜなら、彼より以前の異姓簒奪者である王莽は、二県一都郷一聚三万戸の列侯に過ぎず、安漢公も巨大な公国を領したのではなく、単なる名号に過ぎなかったからである。

絶大な功績と天命があれば、魏公や魏王にならなくとも、皇帝になることはできたのである。

荀彧が目指したのも、そうした路線であろう。

つまり、建安十八年に曹操を魏公としたのは、彼を皇帝にすることとは別の目的によって為されたと見るべきである。

それは何なのか。その答えは、武帝紀注に見える、曹操を魏公に勧進する荀攸らの上表に見える。

その中に、「且列侯諸将、幸攀龍驥、得竊微労、佩紫懐黄、蓋以百数、亦将因此伝之万世、而明公独辞賞於上、将使其下懐不自安」という言葉があり、列侯諸将が爵土を万世に伝えたいと願っているのに、曹操が一人恩賞を辞退することで、下の者(列侯諸将)が不安を抱く、というのである。

これは、曹操を信じてついてきた部下たちが、子孫に伝えるべき爵土を得るために、曹操が魏公になるべきである、という意味である。

また、これより以前、建安十五年末に曹操が出した布令にも、そうした朝臣の意思が見えている。

この時、曹操は、もともとは自身に大望などなく、幸運にも朝廷を支えることができたこと、自分の働きで天下に偽帝がはびこるのを阻止したことなどをつらつらと述べている。

しかし、この布令で真に述べたいことは、最後段にある。すなわち、曹操がその三子を封爵することに対する批判に答えたものなのである。従ってきた臣下たちが満足に封爵されないまま、曹操の子供が大封を得ようとすることに対して大きな批判の声があったのだろう。

これまでの功績を爵土という目に見える形で得たいという、臣下たちの希望を結実するための手段が魏公即位だったと考えられる。

一方、曹操が褒賞を辞退することで、臣下の封爵が蓋をされているということだけならば、魏公国十郡という広大な領土を曹操が得ることまでは必要ないはずである。そのため、荀攸らの勧進に対し、当初曹操は魏郡一郡を得ることで収めようとしたのだ。

曹操の魏公即位を後押ししたのは、魏郡を受けようとする曹操に対して更に荀攸が述べた言葉であった。

荀攸は、天下には漢王朝を翼賛する、藩屏となる国が必要であること、魏国十郡といえども、かつて天子を助けた魯国より実質的には小さいことを述べ、曹操に魏公となるよう説いた。

かつての魯国を想定したということは、曹操を単なる宰相として終わらせず、曹氏がその権勢を次代以降も維持することを考えたということである。

つまり、曹操を魏公に推した動きには、先に述べた臣下の封爵以外に、彼が天下を平定できぬままに死んでしまった場合に、後漢が息を吹き返し、それを支えてきた自分たちの努力が水泡に帰すことを恐れた、という側面もあったのである。

建安十六年正月に曹丕を丞相の副二としたことも、曹氏の権力が一代で終わることを危惧した措置と言える。

荀攸や董昭が曹操を魏公としたのは、

    曹操についてきた自分たちへの封爵を、より一歩進める。

    漢から魏への交替が、曹操の死によって頓挫することを防ぐ。

ということの両立が理由だったのである。

魏王即位と郗慮の失脚

曹操が魏公となった意味は、上記のように考えることができた。

では、郗慮罷免の原因となったであろう、魏王即位は何を意味するのか。

それを考えるために、曹操が魏王となってから取り組んだことを整理しよう。

    建安二十一年八月 魏国大理を相国とした。合わせて、魏国に奉常と宗正を置いた。

    建安二十二年四月 曹操は天子の旌旗を設け、出入りに警蹕(天子の出入りに際して行う先払い)を称することを許された。

    建安二十二年六月 魏国に御史大夫を置いた。

    建安二十二年八月 魏国に衛尉を置いた。

    建安二十二年十月 曹操は十二旒の冕を被ること、六頭立ての金根車に乗り、五彩の副車を設けることを許された。

    (いずれも天子に許された装飾や乗り物)

    建安二十二年十月 五官中郎将曹丕を魏の太子とした。

曹操は、魏王となって一年強の間に、魏国を次代の帝国とするための制度を整えるとともに、曹操の位を天子と同等にまで引き上げているのである。

そうした行動とは対象的に、天下を平定するための軍事行動は控えられるようになる。この間、曹操は建安二十一年冬から翌年春にかけて行われた孫権討伐を除き、外征を行っていないのである。

曹操は、天下の平定を待たずして漢帝国を解体し、魏帝国を成立させようとしていた。

そしてそれは、その行為の円滑な進捗を考えるに、魏王となることがそうした路線への転換であることは、以前より示されていたということだろう。

不完全なままで、前王朝を解体し新帝国を樹立する。それは、以前の時代にはない、歪な形での建国であり、強い反発をもたらす結果を生む。

建安二十三年正月に起きた反乱がそれである。

この反乱は、漢の太医令吉本、漢の少府耿紀、そして丞相司直の韋晃が首謀したものであった。この内、耿紀は荀彧に杜畿を推薦し、隣り合って住んでいる仲であった。韋晃については、彼が京兆韋氏であれば、韋端同様に荀彧との関係が深いと推察できる。

この反乱に与した金禕もまた京兆の人であり、耿紀も杜畿が猟官のために訪問していることから、やはり京兆の人であろう。

韋氏を通じた荀彧京兆人脈が中心となって行われた反乱だったのである。

彼らが反乱に踏み切った理由は書かれていないが、献帝を監視するために漢王朝に残っていた面々である以上、もとより漢王朝に忠誠を誓っていたというわけではない。失脚以前に荀彧が担っていた任務を継承した人々だったということだろう。

すなわち彼らは、天下の平定によって新たな王朝を築くという、荀彧路線を奉じていた可能性が大いにあるのである。

そうした荀彧路線を修正し、魏公国による天下平定へと目標を切り替えて曹操に従っていた彼らが、急激な革命の進行に嫌気が差し、南方で隆盛していた劉備を迎えようという考えに至っても不思議ではない。彼らが信頼していた荀彧は、曹操によって殺されたようなものであったことも、そうした考えを後押ししたであろう。

翻って郗慮はどうであろうか。彼もまた、荀彧によって見出され、曹操に仕えた人物である。

そして、失脚するまでは、漢の御史大夫という任務を通じて、漢王朝に引導を渡す役目を受けていた。耿紀らと同様である。

郗慮もまた、荀彧を継ぐ者の一人であった。であるならば、荀彧の理想とした路線を大きくかけ離れた革命に対して、郗慮もまた異を唱えたであろうことは、想像に難くない。

郗慮は、曹操の魏王即位に反対したがために、失脚し、官職を失ったのであろう。

附 曹操集団と臣下の封爵

さて、曹操が魏公、そして魏王となったことの意味は、前述の通りである。

ここで、曹操が魏公となった理由の一つである。臣下に対する封爵がどうであったかを見てみよう。

封爵まとめ

この図は、封爵時期と、その食邑が一定程度の確からしさで推測できる人物たちを整理したものである。

曹操が魏公となった後も、魏王となった後も、功臣たちは大封を得てはいないのが分かる。

臣下に大きな食邑を与えることは、国家の税収を臣下に多く分け与えるということである。それは国家の運営、ひいては天下の平定を困難にする行為である。ゆえに、曹操は、荀攸らの期待に応えようという気を見せながらも、臣下の封爵には躊躇していたのである。

曹操は性急な革命へと舵を切りながら、天下平定事業のことも諦められず、措置が中途半端に終わっているのである。

魏が臣下に土地を以て報いる方向に進んだのは、その息子、曹丕の時代であった。

曹丕が魏王に即位した時期、或いは皇帝に即位した時期に爵位を与えられた臣下をまとめよう。

名前時期爵位
曹仁曹丕即王位安平亭侯→陳侯
曹洪曹丕践祚国明亭侯→野王侯
曹休曹丕即王位無爵→東陽亭侯
曹真曹丕即王位霊寿亭侯→東郷侯
夏侯尚曹丕践祚平陵亭侯→平陵郷侯
賈詡曹丕践祚都亭侯→魏寿郷侯
何夔曹丕践祚無爵→成陽亭侯
邢顒曹丕践祚無爵→関内侯
鍾繇曹丕践祚東武亭侯→崇高郷侯
華歆曹丕即王位無爵→安楽郷侯
王朗曹丕即王位無爵→安陵亭侯(曹丕践祚で更に楽平郷侯となる)
程昱曹丕践祚安国亭侯→安郷侯(更に子供も列侯とした)
董昭曹丕践祚千秋亭侯→右郷侯
劉曄曹丕践祚無爵→関内侯
劉放曹丕践祚無爵→関内侯
孫資曹丕践祚無爵→関中侯
梁習曹丕践祚関内→申門亭侯
杜畿曹丕即王位無爵→関内侯
張遼曹丕践祚都郷侯→晋陽侯
張郃曹丕即王位都亭侯→都郷侯(曹丕践祚で更に鄚侯となる)
徐晃曹丕即王位都亭侯→逯郷侯(曹丕践祚で更に楊侯となる)
朱霊曹丕践祚高唐亭侯→鄃侯
臧霸曹丕即王位都亭侯→武安郷侯(曹丕践祚で更に開陽侯となる)
文聘曹丕践祚延寿亭侯→長安郷侯
呂虔曹丕即王位無爵→益寿亭侯
許褚曹丕践祚関内侯→万歳亭侯
衛覬曹丕践祚無爵→陽吉亭侯
劉廙曹丕即王位無爵→関内侯
桓階曹丕践祚無爵→高郷亭侯
陳羣曹丕即王位無爵→昌武亭侯(曹丕践祚で更に潁郷侯となる)
陳矯曹丕践祚無爵→高陵亭侯
徐宣曹丕践祚無爵→関内侯
衛臻曹丕践祚無爵→安国亭侯
和洽曹丕践祚無爵→安城亭侯
常林曹丕践祚無爵→楽陽亭侯
杜襲曹丕即王位無爵→関内侯(曹丕践祚で更に武平亭侯となる)
韓暨曹丕践祚無爵→宜城亭侯
高柔曹丕践祚無爵→関内侯
辛毗曹丕践祚無爵→関内侯
郭淮曹丕即王位無爵→関内侯

非常に多くの人物が封爵されていると共に、華歆や王朗など、功臣たちでも無爵の者が多かったのが理解できる。

魏公、そして魏王となった曹操が、功臣に爵土を与えるという約束を果たさずにいたことが、曹丕の時代になって圧力となって現れた結果であろう。

参考史料

陳寿 『三国志』 (武帝紀、荀彧伝、杜畿伝、劉劭伝)

范曄 『後漢書』 (孔融伝、荀彧伝)

班固 『漢書』 (王莽伝)

袁宏 『後漢紀』 (巻二十九)