馬謖の逃亡と街亭の戦い

三国志向朗伝には、諸葛亮が馬謖を斬った際の逸話として、不思議な記述が載っている。

そこには、馬謖が逃亡したと書かれているのである。

しかし、その詳細は向朗伝からはわからない。

今回は、この向朗伝に載せられた逸話が、どういったものであったのかを考えていくこととする。

馬謖は何から逃亡したのか

まずは、くだんの向朗伝の記述を見てみよう。

「五年、随亮漢中。朗素与馬謖善、謖逃亡、朗知情不挙、亮恨之、免官還成都。」(三国志向朗伝)

「(建興)五年、(向朗は)諸葛亮に随行して漢中に赴いた。向朗は平素より馬謖と親しかった。馬謖が逃亡した時、向朗はその事情を知りながら報告しなかった。そのため諸葛亮はこれを怨み、向朗を免官して成都へ帰した」

馬謖逃亡にまつわる記述は、これだけである。

この逃亡は、文脈的には街亭で敗北した後、処刑されるまでの間に起こった出来事である。

そのため、可能性としては下記が考えられる。

  1. 敗北し、馬謖の責が明らかになった後、処刑を恐れて逃亡した。向朗は馬謖の逃亡を知りながら、諸葛亮に報告しなかった。
  2. 街亭の敗北における賞罰を決定する際、馬謖が戦いにおいて逃亡した事実を知りながら、向朗がそれを報告しなかった。

まず、前者の可能性であるが、これはありえないだろう。

馬謖が裁かれ、刑が確定した後に逃亡したということは、獄に繋がれる前に逃げたか、獄に繋がれた後に逃げたかである。

獄に繋がれた後であれば、誰かの手引か或いは獄吏の大きな過失がなければ逃亡できないはずである。しかし、ここではそうしたことは述べられていない。

獄に繋がれる前の逃亡であれば、強引に逃げることはできるかもしれないが、親しいとはいえ、わざわざ丞相長史のところへは行かないはずである。命が惜しくて逃亡するのに、軍中にとどまるなど合理的な行動ではない。

また、向朗が脱獄の手引をしたり、逃亡した馬謖を匿っていたりしたのであれば、それは諸葛亮に怨まれるという類の話ではなく、法に違えているはずであり、単なる免官で済むものではない。

すなわち、ここで述べられている逃亡というのは、馬謖が街亭の戦いにおいて逃亡したということと考えられるのである。

街亭の戦いにおける馬謖の逃亡

馬謖が街亭の戦いで逃亡したということとして、それはどのような状況で起こったのであろうか。

まず考えるべきは、向朗が報告しなかったことで諸葛亮に怨まれたという事実である。

報告がないことで諸葛亮が向朗を怨んだことは、その逃亡が誰の目にも明らかな事実ではなく、何らかの調査を行った結果として判明したことであるということを示している。

このことから、馬謖の逃亡は、街亭の諸軍が軍として統率を維持していた時期に行われたのではなく、逃げたかどうか簡単にはわからない状況、すなわち張郃に撃ち破られて軍が潰走した時に逃亡したのであると推測される。

また、この時の記述として、王平伝に以下のように書かれている。

「於是平徐徐収合諸営遺迸、率将士而還。丞相亮既誅馬謖及将軍張休、李盛,奪将軍黄襲等兵」(三国志王平伝)

王平が散卒を収容し、将士を率いて帰還したことが書かれ、この戦いの結果として、馬謖に加え、将軍の張休と李盛が処刑され、同じく将軍の黄襲が塀を奪われたことが記されている。

散卒の収容は、本来は指揮官たる馬謖や、張休、李盛らが行うべきことであるが、実際には裨将軍の王平が行っている。

このことから、馬謖らは、街亭の軍が潰走した時、指揮を執ることができる状況でなかったことが窺えるのである。

馬謖らが散卒を収容しなかった、馬謖らの逃亡は簡単にはわからない状況で行われた、という事実から、街亭の戦いにおける敗北の流れが以下のよう推測できる。

  1. 水を絶たれた馬謖軍が、張郃の攻撃を受けて崩壊する。
  2. 馬謖や張休は、軍の崩壊を受けて指揮を執るのが不可能と思い、軍の統率を放棄して逃走する。
  3. 王平が踏みとどまり、張郃が退く。
  4. 王平は散卒を収容し、徐々に退く。この時に馬謖や張休が軍に帰還する。
  5. 馬謖軍全軍で諸葛亮のもとへ帰還し、そのまま漢中へと退く。

王平が踏みとどまらなければ、軍全体が潰走していたはずである。その場合、馬謖の逃亡も、軍全体の潰走という事実から仕方のないこととして処理されたはずである。王平の頑張りが馬謖や張休を処刑に導いたとも言える。

なぜ向朗が馬謖の逃亡を知り得たか

向朗は、上記の馬謖逃亡の事実を知っていたが、彼は丞相長史であり、街亭には派遣されていない。

したがって、普通に考えると、向朗がこの事実を知り得ることは無いように思える。

向朗はいかにして馬謖逃亡の事実を知ったのであろうか。

それは、当時の丞相長史の職責が関係している。

当時の季漢では、尚書を中心とした意思決定は形骸化しており、それが丞相府に移っていた。

丞相府で執行する朝廷の職務は膨大になり、長史の職務もそれに比例して複雑化していたことが推測される。

その一つが、遠征における兵站の管理である。

「亮数出軍、儀常規画分部、籌度糧穀、不稽思慮、斯須便了」(三国志楊儀伝)

「亮数外出、琬常足食足兵以相供給」(三国志蒋琬伝)

これらは、楊儀が丞相長史、蒋琬が丞相留府長史となっていた時代の逸話である。軍の必要な糧食の管理について、成都側を蒋琬が、前線側を楊儀が受け持っていたことが窺える。

そしてもう一つ、当時の長史の役割として重要なものがあり、それが向朗をして馬謖逃亡の事実を掴ませたことなのである。

先程と同じく楊儀伝、そして張裔伝を見てみよう。

「軍戎節度、取弁於儀」(三国志楊儀伝)

「亮出駐漢中、裔以射声校尉領留府長史、常称曰『公賞不遺遠、罰不阿近、爵不可以無功取、刑不可以貴勢免、此賢愚之所以僉忘其身者也』」(三国志張裔伝)

楊儀が長史であった時、軍の節度は楊儀によって取り仕切られたことが記されている。節度とは軍中の指揮命令或いは法の執行による軍紀維持のことである。

また、同じく張裔が留府長史であった時、諸葛亮は彼を、賞罰が親疎や貴賤に拠らず公正に行われているとして称賛しているのである。

五丈原から退く時、司馬懿らの追撃に対し、姜維が楊儀に命じて反撃の姿勢を示したことが、諸葛亮伝注の漢晋春秋にある。これも、楊儀の丞相長史としての職責に、諸葛亮の遺命を遂行して軍を動かすこと、すなわち北伐軍の節度を担うことが含まれていたことを示している。

すなわち、丞相長史は軍や朝廷の賞罰を決定することについて大きく関わっていたということである。

特に、軍に随行する長史については、軍の賞罰に大きな権限を有していたと考えられ、街亭の戦いの状況を調査し、賞罰を決めるための情報は、向朗に全て集まっていたと推測される。

それにより、向朗は馬謖が逃亡していた事実を知ることができたのである。

向朗は、調査の結果を以て、諸将の褒賞や量刑を決めて諸葛亮に提案する責務を負っていたと考えられるが、その際に、馬謖と親しかったことから、逃亡の事実を隠して報告し、馬謖が死刑とならぬよう配慮したのであろう。

諸葛亮は、たとい親しくとも馬謖を斬り、公正な裁きを行っていた張裔を称えた人物である。

自身の恣意で法を曲げようとした向朗を嫌悪し、免官して成都に帰したのも、無理からぬことと言える。

参考史料

陳寿 『三国志』 (諸葛亮伝、楊儀伝、向朗伝、張裔伝、王平伝、蒋琬伝)