季漢書

季漢(蜀漢)の歴史は、三国志を始め、様々な史料を読まなければ実態が見えてこない。 この季漢の歴史を整理し、再構成することで、その実態を浮き彫りにしていくことに取り組んでいく。

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蘇飛考

蘇飛という人物がいる。

黄祖の都督で、甘寧が呉に逃げる手助けをした人物である。

この蘇飛という人物は、三国志甘寧伝注の呉書にしか見えない人物のため、素性が全くわからない。

しかしながら、とある人物に関する記述を参照することで、それを推測できることが分かった。

今回は、この蘇飛という人物について考えていくこととする。

厳密には太平御覧の引く呉録にも、蘇飛と甘寧にまつわる話が載る。しかしながら、呉録は張勃の作であり、この記述が先行する韋昭呉書の記述に酷似していることから、韋昭呉書を下敷に作られたものと考えられる。

蘇飛にまつわる記述

蘇飛について記した記述は、先程述べたように、あまり多くない。

一つには、甘寧が呉に降る記述の後に注釈として引かれた、黄祖のもとから甘寧を逃がす際の記述である。

寧将僮客八百人就劉表。表儒人、不習軍事。時諸英豪各各起兵、寧観表事勢、終必無成、恐一朝土崩、并受其禍、欲東入呉。黄祖在夏口、軍不得過、乃留依祖、三年、祖不礼之。権討祖、祖軍敗奔走、追兵急、寧以善射、将兵在後、射殺校尉淩操。祖既得免、軍罷還営、待寧如初。祖都督蘇飛数薦寧、祖不用、令人化誘其客、客稍亡。寧欲去、恐不獲免、独憂悶不知所出。飛知其意、乃要寧、為之置酒、謂曰「吾薦子者数矣、主不能用。日月逾邁、人生幾何、宜自遠図、庶遇知己。」寧良久乃曰「雖有其志、未知所由。」飛曰「吾欲白子為邾長、於是去就、孰与臨版転丸乎」寧曰「幸甚。」飛白祖、聴寧之県。招懐亡客并義従者、得数百人(三国志甘寧伝注呉書)

劉表を頼ったが失望し、呉に逃げようとしたが黄祖の勾留されることになった甘寧について記している。

黄祖の都督蘇飛は、甘寧を何度も黄祖に推薦した人物であった。だが、それも結局叶わず、甘寧の不遇を哀れんで、呉に逃げられるよう取り計らったことが、この呉書には記されている。

彼についてのもう一つの記述は、同じく甘寧伝、黄祖を破って捕らえた時を記したものが、その注釈の呉書に残っている。

初、権破祖、先作両函、欲以盛祖及蘇飛首。飛令人告急於寧、寧曰「飛若不言、吾豈忘之?」権為諸将置酒、寧下席叩頭、血涕交流、為権言「飛疇昔旧恩、寧不值飛、固已損骸於溝壑、不得致命於麾下。今飛罪当夷戮、特従将軍乞其首領。」権感其言、謂曰「今為君致之、若走去何?」寧曰「飛免分裂之禍、受更生之恩、逐之尚必不走、豈当図亡哉!若爾、寧頭当代入函。」権乃赦之。(三国志甘寧伝注呉書)

孫権は黄祖を破った時、二つの箱を作っておき、黄祖と蘇飛の首を入れようとしていた。蘇飛は甘寧に急を告げ、甘寧は自分の旧恩に報いるため、自らの首を賭けて蘇飛の命を救った、という逸話である。

この二つが、史書に残る蘇飛の記述の全てである。

蘇飛とは何者か

蘇飛について、甘寧伝の注釈から分かることは二つである。

  1. 黄祖の都督であった
  2. 孫権からは、黄祖と同じ程度に怨まれていた

この二つを手がかりとして、彼の素性を探ることとする。

後漢末において、「都督」という表現は多種多様な意味があり、後の都督制におけるそれのような使い方は稀である。

呂布の都督高順や、甘寧が濡須で敵営に決死の攻撃をかける時、その都督に兵への酌をさせている。

後曹公出濡須、寧為前部督、受敕出斫敵前営。権特賜米酒衆殽、寧乃料賜手下百余人食。食畢、寧先以銀盌酌酒、自飲両盌,乃酌与其都督。 都督伏、不肯時持。寧引白削置膝上、呵謂之曰「卿見知於至尊、熟与甘寧?甘寧尚不惜死、卿何以独惜死乎?」 都督見寧色厲、即起拝持酒、通酌兵各一銀盌。至二更時、銜枚出斫敵。(三国志甘寧伝)

甘寧伝の逸話からすると、甘寧麾下の兵百余人を取りまとめる立場だったと推測される。

蘇飛もこの甘寧の都督と同様の立場だったとすると、黄祖の部下として、麾下の兵を取りまとめる存在だったのだろう。

蘇飛が都督として黄祖の対孫権戦で活躍していたのなら、怨まれる可能性もあるだろう。

しかし、凌操を射殺した甘寧も、そこまで怨まれていたようには見えない上、黄祖の一都督が、黄祖と同等の怨みを買っているというのは、あまり考えられない。

黄祖が怨まれているのは、孫権の前に立ちはだかったということもあるが、彼が親の仇であるということも大きいはずだからである。

では他に、蘇飛にそこまで怨まれる要素があるだろうか。

これは、彼を、劉表伝注釈に引く司馬彪「戦略」に現れる蘇代だったとすれば、自然なこととなるのである。

劉表之初為荊州也、江南宗賊盛、袁術屯魯陽、尽有南陽之衆。呉人蘇代領長沙太守、貝羽為華容長、各阻兵作乱(劉表伝注司馬彪戦略)

これは、劉表が刺史として初めて荊州に至った時の記述であるが、この時、長沙太守を領して劉表を阻んでいた呉の人物である、蘇代という人がいる。長沙は孫堅が兵を挙げた場所であり、その長沙を領した呉人であれば、孫堅集団の中核として背後の守りを任された人物であろう。

そして孫堅は、この後に劉表と敵対し、黄祖と戦って死ぬこととなる。

もし、蘇飛がこの時の蘇代であり、何らかの理由で孫堅から離反して劉表に就いたのだとしたら、孫堅に背後を任されながら、仇敵に与した人物ということになる。そうであれば、孫権が大いに怨むのも当然と言えよう。

そして、代の説文小篆を見ると、なんとなくであるが字形が似ている。

代

韋昭が呉書を編纂する過程で、蘇代とされていた人物が何らかの理由で蘇飛に変形されたか、或いは司馬彪が戦略を編纂する過程で、蘇飛が蘇代として伝わってしまったのだろう。

黄祖の都督で甘寧を救った蘇飛は、もと孫堅の側近で、呉人の蘇代だったと考えられるのである。

参考史料

陳寿 『三国志』 (劉表伝、呂布伝、甘寧伝)

参考サイト

漢典

代の字形について上記サイトを参照した。

三国志の戦争における勝敗二

前回、三国志において、印象論で語られることの多い戦いとして、曹操の徐州征伐について論じ、その勝敗がどうであったかを分析した。

今回は、同じように勝敗が不明瞭なまま、何となく語られている戦いとして、孫氏の対劉表戦争を取り上げる。

これは、建安四年に孫策が黄祖との戦いを始めてから、建安十三年に曹操の南征によって止んだ、孫氏の西進のことである。

主として黄祖との戦いを分析することになる。

対劉表戦争における一般的な評価

この、孫氏の対劉表戦争における勝敗は、往々にして孫氏の勝利であるように語られる。

これは前回取り上げた徐州征伐と同様に、戦術的な部分に着目されるからであろう。

建安四年、孫策は劉勲を救援した黄祖らを破った。建安八年に孫権が黄祖との戦端を再び開いた際も、凌操という被害は出たものの、その水軍を破り、ただ城を落とせなかったことのみが強調されており、全般では勝利したように書かれる。

建安十一年も、十二年も、十三年も、やはり孫氏側の史料に勝ったことが強調されている。

こうした記述を読むと、この戦争が孫氏側の連戦連勝であるという印象を抱いてしまうのも、仕方ないと言えよう。

孫氏の戦争目的

孫氏の対劉表戦争の目的は何であろうか。

孫策が戦った時は、単に劉勲討伐の成り行きによって始まった戦争であった。

しかしながら、その前提として、孫策は朝廷に帰順し、荊州諸郡の太守を任じられることで、朝敵であった劉表の討伐に関する大義名分を得ていたことが、孫策伝注の江表伝に引かれる黄祖討伐戦果報告の上表からわかる。

いずれにせよ、この頃は建安四年以外に衝突はなく、明確な戦略目標を以て戦っていたわけではない。

では、孫権に代替わりしてからはどうであろうか。

これは、魯粛の提言した戦略に則った行動と考えられるのである。

すなわち、「曹操が多忙な間に、黄祖を除き、進んで劉表を討ち、長江を極めて建号する」というものである。

迅速に黄祖を破り、そのまま劉表を討って荊州を得、益州までを制圧して天下の南半分を領有して曹操に対抗する、という戦略である。

魯粛や孫権は、これをどの程度の期間で達成することを考えたであろうか。

山東挙兵から河北の覇者が決まるまでに十年だったことを考えると、魯粛らもこれを数年の内に決することと考えていたはずである。ましてや、官渡で袁紹を破った曹操が河北を安定させるまでの間しか猶予を考えていないのであるから、或いは五年かそこらだった可能性もあるだろう。

対劉表戦争の結果

魯粛の進言に基づいて進められた、孫権の対劉表戦争はどういった結果になったであろう。

これが時系列で整理されている呉主伝を見てみることにしよう。

八年、権西伐黄祖、破其舟軍、惟城未克、而山寇復動。還過豫章、使呂範平鄱陽、程普討楽安、太史慈領海昏、韓当、周泰、呂蒙等為劇県令長。

九年、権弟丹楊太守翊為左右所害、以従兄瑜代翊。

十年、権使賀斉討上饒、分為建平県。

十二年、西征黄祖、虜其人民而還。

十三年春、権復征黄祖、祖先遣舟兵拒軍、都尉呂蒙破其前鋒、而淩統、董襲等尽鋭攻之、遂屠其城。祖挺身亡走、騎士馮則追梟其首、虜其男女数万口。

呉主伝で述べられている建安八年、十二年、十三年の戦いの他、周瑜伝に載せられる十一年に行われた麻屯、保屯への攻撃がある。

十一年の戦いは呉主伝に記載がないが、凌統伝によれば孫権自らも攻撃に加わり、保屯を落とした時点で孫権が帰還し、その後の攻撃を周瑜、孫瑜、そして凌統らが担ったという流れである。

孫権黄祖戦

いずれの戦いにおいても、敵軍を破って帰還していたり、その人民をさらって帰還したりということに留まり、黄祖側の拠点を確保したような記述はない。

ただし、邾を守備していた甘寧が孫権に寝返り、胡綜が鄂の長を務めていたことを考慮すると、鄂か邾までは進出を果たしていたことが窺える。ただし、鄂を得た時期は建安十一年から十三年の内、いつ頃のことなのかは不明である。

いずれにせよ、長江沿いの侵攻は人的資源以外の具体的な戦果があまり見られないような状況だったと言える。

麻屯や保屯は沙羨近傍にあり、そこへの攻撃自体は建安四年にも行われたことが太史慈伝から分かる。また、建安十三年に至っても、夏口周辺が戦場となっていたことを考慮すると、勢力圏の大幅な前進は無かったことが分かるのである。

また、長江沿いの対黄祖戦の他に、長沙方面でも戦いが行われていたことは、太史慈伝に見える。

太史慈が海昏において豫章の守備を任された頃、劉表側の将である劉磐は、豫章の艾や西安を攻撃するくらいには東進をしている。それが、黄忠伝では、黄忠が劉磐と共に攸県を守ったと書かれる。

また、周瑜らが南郡を破った後、彼の奉邑として下雋、漢昌、瀏陽、州陵が定められている。下雋、漢昌、瀏陽の三県は、豫章と長沙の間にある山地の、長沙側出口に当たる。

攸県は、廬陵から長沙、桂陽に抜ける際の要衝である。

これらの事柄は、孫権が豫章、廬陵方面より長沙を蚕食し、劉表が湘水の線まで勢力を後退させられていたことを示唆している。

長沙勢力境界

孫権は、江夏、長沙の二方面に侵攻し、江夏は勝利を重ねたものの勢力は拡大しきれず、長沙は明白な勝利は見えないものの、劉表が地歩を失っていることが見て取れる。

ただし、そこに到達するまでに、建安八年より六年かかっている。

孫権は戦争目的を達し得たか否か

さて、孫権の対劉表戦争を振り返って考えるに、彼らがその目的を達し得たと言えるのであろうか。

これは、漸進的に達しつつあったものの、曹操の南征までに体制を整えることができず、時間切れとなった、という評価となる。

劉表に対しては敗北とは言い難いが、曹操に対抗しうる状態まで運べなかった以上は、その目的を満足はできなかったと言わざるを得ない。

戦争の目的が江夏や長沙を蚕食することではなく、曹操に対抗するという遠大なものであり、江夏攻撃等はその端緒に過ぎないからである。

なお、孫権の長沙沿いの攻撃が不十分な戦果しか得られなかったことについては、その原因を別途解説することとする。

参考史料

陳寿 『三国志』 (武帝紀、黄忠伝、孫策伝、呉主伝、太史慈伝、周瑜伝、魯粛伝、甘寧伝、凌統伝)

黄祖出自考

黄祖

黄祖は、劉表に仕えて孫堅を討ち、江夏に鎮守して十年以上の間、孫氏の攻勢に耐えた人物である。

長きに亘り江夏という要衝を押さえていたにもかかわらず、どういった出自で、なぜ劉表に仕えることとなったのかは、史書に記されていない。

今回は、この黄祖がどういった出自を持ち、劉表政権でどういった立場であったのかを、数少ない材料から考えていくこととする。

黄祖の本貫

まずは、黄祖の本貫を推測していく。

本貫を推測する際に有効なのは、どの郡の太守となったかを見ることである。

後漢には、本貫を回避する法があるため、ある郡の太守となった人物は、その郡の人間ではない可能性が非常に高くなるのである。

後漢末においては例外も散見される。本郡の太守となった建寧の李恢、本州の刺史となった張既や李勝などである。しかしながら、例外は例外であるから、一般的には回避する原則に沿っていたと考えるべきである。

劉表政権において黄祖が就任したことが確認できるのは、江夏太守だけである。したがって、黄祖の官職からは、彼が江夏の人間でないということしか分からない。

そこで注目すべきなのが、黄祖の息子である黄射の存在である。

彼もまた劉表政権で郡太守に任じられているのである。

黄射は、詳細時期は不明であるが、劉表政権下で章陵太守となっている。

章陵郡は、劉表が南陽郡より分割して立てた郡であり、襄陽東方60kmの地にある章陵県より名を取っている。

したがって、黄祖の本貫として、江夏郡と、章陵郡の範囲は候補から外れるということである。

黄祖出自

では、章陵郡の範囲はどこになるのか。

武帝紀の建安二年の条に鍵がある。この年、曹操は張繍の降伏を受け入れて宛に入ったが、自身の浅慮から、その張繍の離反を招き、敗北して引き上げた。その際、南陽と章陵の諸県が曹操に背いたことが書かれている。

建安二年初頭の段階で章陵が分割されており、且つ、曹操の侵攻経路上にその範囲が含まれていたことになる。

同じく建安二年、曹操は再度の南征を行ったが、その時に撃ったのが、湖陽に拠っていた劉表の将、鄧済である。

また、曹操に先んじて南征の先鋒となっていた曹洪が攻めていた県が舞陽、舞陰、葉、堵陽、博望であった。

南陽、章陵の境界は、これらの間にあるということである。そして、こうした境界は自然地形による境界が定められることが多い。

恐らくは、淯水を境界としたのであろう。つまり、張繍に南陽を任せることで、残余の地域を劉表所属の郡として立てる必要が生じ、章陵郡が生まれたと考えられるのである。すなわち建安元年のことである。

さて、黄射が章陵太守だった頃、許より戻った禰衡が劉表に見えて礼遇されたが、二人は親密になったという。

禰衡が許を訪れたのは建安元年の二十四歳の時、死んだのは二年後の二十六歳の時である。

したがって、建安初期の、すなわち初代の章陵太守は黄射だった可能性が高い

劉表の入楚

黄祖は、初平二年に行われた孫堅の南征を防いだように、初期劉表集団において、既に存在感を示していた。

そのため、初期劉表集団を検討することは、黄祖の出自を考える材料となる。

劉表は、孫堅に殺された荊州刺史王叡の後任であり、董卓政権に任命された刺史であった。

董卓討伐を名目として兵を挙げた孫堅に、袁術が合流して南陽から魯陽にかけて勢力を広げている中での赴任であったため、彼は目立たぬよう単馬にて荊州に向かっている。

劉表が宜城に入った頃、中廬県の名族蒯越、蒯良、襄陽の名族蔡瑁らが合流している。

蒯越は豫州汝南郡から故郷の荊州に舞い戻っている。同族と思われる蒯良から連絡を受け、新たな刺史を支えるために官職を捨てて戻ったのだろう。

劉表集団は、まず襄陽南方の少数の名族が従うことで始まったのである。

その後に重鎮として現れるのが、南陽の人間であった。零陵、桂陽、長沙の太守を歴任した後に反乱を起こした張羨、治中従事となった鄧羲、別駕従事となった韓嵩など、いずれも南陽の人間である。

したがって、初期から参画した黄祖は、襄陽周辺か、南陽の人間である可能性が高い。

荊州の黄氏

さて、そもそも、荊州における著名な黄氏は、どこに分布しているのか。

この時代、最も有名なのは江夏安陸の黄氏である。三公となった黄琬を輩出している。しかし、黄祖が江夏安陸の黄氏でないことは、前述の通りである。

他には江夏黄氏の祖である江陵黄氏、南陽太守黄子廉を祖とし、黄蓋を輩出した零陵泉陵の黄氏である。

残念ながら、襄陽周辺にも、南陽にも、黄祖以前の時代では著名な黄氏はいない。

しかし、同時代には漢中王国の後将軍黄忠、光禄勲黄柱が、いずれも南陽の黄氏である。また、太守の子孫は、その任地に定住する例が散見されることを考えると、黄子廉を祖として南陽に残った黄氏が、黄忠や黄柱を輩出し、黄祖とも同族である可能性が大いにある。

結論として、黄祖は黄忠と同族であり、南陽の黄氏となる

劉表政権での黄祖の立ち位置

黄祖の本貫が南陽であるとして、どのようにして劉表に仕えたのだろうか。

それを推測するため、黄祖が劉表にどのように用いられたかを考えることとする。

黄祖は孫堅を迎撃する劉表の将として現れるのが最初であり、その後に江夏へと移って、十年以上に亘って東方の最前線にいた。また、その息子である黄射は、立てて間もない章陵の太守となり、対曹操の前線で戦うようになった。

劉表は、その領土の防衛を黄祖の一族に頼っていたと言えるのである。

黄祖を渠帥とする南陽黄氏の軍閥が、劉表に仕えてその主たる戦力となったということであろう。

黄忠もはじめ中郎将として劉表に仕え、対孫氏の前線である長沙を守っていた。中郎将というのは、後漢末の群雄割拠の時代にあって、部曲を伴って仕えた人物が任じられることが多い官職であり、彼もまた小軍閥を率いていた可能性がある。そうであれば、やはり黄祖とも連なり、南陽黄氏という一大勢力の一員だったと言えよう。

後漢末、戦乱によって秩序が失われたため、力のある一族は塢壁を築いて中に立て籠もり、小軍閥を形成するようになった。

許褚もまたそういった軍閥の一つであり、劉表が謀殺した江南の宗賊も、そういった勢力である。

南陽は黄巾の被害が大きかった場所であり、そうした小軍閥が形成されやすい土壌があった。南陽黄氏もまた、そうした流れの中で現れた小軍閥だったのであろう。

一方、孫堅が南陽を奪った時、江夏太守だった劉祥がそれに同調していたが、南陽の士民は太守を殺した孫堅と共に、この劉祥も怨んでおり、兵を挙げてこれを攻め殺した。

これは恐らく、劉表による南陽奪還の動きであろうが、この時に主役となったのが南陽人であり、かつての太守張咨の遺臣であろう。この当時、南陽人で、且つ南陽を奪還する力を持っていたと考えられるのが、劉表がその戦力を頼った黄祖らくらいしかない。

恐らく黄祖は、黄巾の乱による混迷を受けて形成された軍閥の長であり、時の太守張咨に仕えて反董卓の兵に加わろうとしていた勢力だったのであろう。

それが、孫堅の暴挙によって仕えるべき主君を失い、報復を願っていたところに劉表が現れたのである。そして、孫堅と敵対することになった劉表に協力して、その勢力伸長の立役者になると共に、因縁浅からぬ孫氏との戦いに明け暮れるようになったと考えられる。

参考史料

陳寿 『三国志』 (武帝紀、劉表伝、曹洪伝、荀彧伝、許褚伝、黄忠伝、劉巴伝、孫堅伝、黄蓋伝)

范曄 『後漢書』 (劉表伝、禰衡伝)

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初平二年~三年 襄陽の役

参考ツイート

初平二年~三年 襄陽の役

袁紹と公孫瓚が戦いを始め、関東諸将が互いに干戈を交えるようになると、孫堅は南の劉表を攻め、そこで戦死した。

この戦いは、三国の一角を担った孫氏の祖である孫堅が死んだ戦いであるが、史書に残る詳細に食い違いがあったり、経過がよくわからなかったりする。

今回は、この戦いについて検討を加えていくこととする。

戦いの背景

この戦いが勃発した直接的な原因は、なんと言っても袁紹の豫州攻撃である。

これによって、群雄たちは公孫瓚方と袁紹方に分かれて戦い合うことになり、袁紹側についた劉表と、公孫瓚側についた孫堅との間で戦いが生じることになったのである。

だが、実際には、それ以前からの、荊州を巡る孫堅と劉表の間の潜在的な対立があったのである。

劉表の入荊と孫堅の挙兵

事の起こりは、劉表が荊州刺史に任命されたこと、そしてそれを少し遡った、荊州における孫堅の行動にある。

蔡中郎集にある劉鎮南碑より、劉表が荊州に着任したのは永漢元年十一月であることがわかっている。

彼が荊州刺史となった理由は、前任者の王叡が死んだからであるが、その王叡を殺したのが、他ならぬ孫堅であった。

襄陽之役1

孫堅が挙兵してより袁術と合流するまでの経緯は、孫堅伝とその注釈に詳しい。

長沙太守であった孫堅は、まず荊州刺史王叡が所在する武陵郡漢寿に至ると、王叡と仲が悪かった武陵太守曹寅が偽作した檄文を理由に、王叡を殺してしまった。

そのまま北上して南陽に至ると、太守張咨が物資供給を渋ったという理由で、これも殺してしまった。

行く先々で刺史や太守を殺した孫堅は、荊州豫州境界の魯陽に至ると、都を脱出してきた袁術と合流し、ともに反董卓連合の一角を担うようになった。

また、この間を補完する内容が、劉表伝注釈の司馬彪「戦略」にある。

曰く、劉表が荊州に到達した当初、袁術が魯陽に駐屯し、南陽の軍が悉くその手中にあり、呉人の蘇代が長沙太守を領し、貝羽という人物が華容県の長となっており、各々が兵を擁して乱をなしていた。

そこで劉表は、単騎で宜城に入ると、中廬の蒯良、蒯越、襄陽の蔡瑁を招いて腹心とし、その後の方策を練ったのである。

劉表は蒯越の策に乗り、宗賊の渠帥を招いてその悉くを誅殺すると、その手勢を吸収した。そして、襄陽に拠っていた江夏の賊である張虎、陳生を説得して配下に加えると、江南を平らげることができたのである。

宗賊というのは、一族を中心として集まった賊であり、血縁と地縁によってまとまっている集団である。中原では許褚の塢などがそれに当たる。

孫堅が太守であったはずの長沙が、呉人である蘇代が領していたこと、江夏の賊が襄陽を占拠していたことが、この逸話の重要なところである。

孫堅もまた呉の人であること、江夏太守劉祥(劉巴父)が孫堅に協力していたことを考えると、蘇代、貝羽、張虎、陳生は、いずれも孫堅に与していた勢力であろう。

孫堅が道々で麾下に加えていった勢力の中に劉表は入っていき、それらの間を埋めるように荊州の統治を始めたのである。

孫堅からすれば、自分の勢力圏を荒らした人物に劉表は見え、劉表からすれば、荊州統治最大の障害に孫堅が見えていたのである。

袁紹によってもたらされた中原の混乱がきっかけとはいえ、両者が衝突するのは逃れられる運命だったと言えよう。

襄陽の役

先ほど述べたような状況を背景として、初平二年の末に、孫堅が劉表を攻撃する形で、両者の武力衝突が始まった。

英雄記では孫堅の死を初平四年正月としており、孫堅伝、後漢書孝献帝紀、後漢書袁術伝では初平三年のこととしている。また、孫策伝注釈の呉録が載せる孫策の上表、及びそこで裴松之が語ったところによると張璠漢紀と呉歴も、孫堅の死を初平二年としているという。恐らく、初平二年に劉表攻撃が始まり、実際に孫堅が死んだのが、初平三年の正月なのであろう。英雄記はまるまる一年誤って記載してしまったのだと思われる。

襄陽之役2

魯陽を出た孫堅は、まず新野に至って劉表の軍を撃ち破った。

襄陽之役3

そのままの勢いで淯水沿いを進んだ孫堅は、鄧城と樊城の間にある鄧塞で劉表の将黄祖を破ると、そのまま追撃して襄陽を包囲し始めたのである。

水経注によれば、沔水の襄陽付近では、東側が浅く、冬場の水の少ない時期であれば渡渉できるという。故に兵が交わる場所であり交湖と呼ばれている。孫堅の南進も冬であり、彼は水軍を伴っていなかったので、その渡河は襄陽東側、白沙から行われたのであろう。

孫堅の包囲が狭まる中、夜間、劉表は黄祖の軍を外に出して遊軍とした。

襄陽之役4

南方より援軍として呂公が到着すると、黄祖もまた軍を繰り出したが、孫堅の逆撃を受けて敗れた。

黄祖は襄陽南方の峴山に逃走し、孫堅はそのまま軽騎兵を以て追撃した。

黄祖を追撃しつつ、峴山を越えて呂公の後方を襲う企図があったのだろう。

襄陽之役5

深く追撃した孫堅は、竹木の間より放たれた黄祖兵の矢に当たったとも、呂公の兵が落とした石に当たったとも言われているが、とにかくも敵兵の反撃にあって戦死してしまう。

孫堅の戦死によって崩壊した孫堅軍は、襄陽攻略を諦めて撤退する。

孫堅・袁術連合の勢いは、この敗北によって失われ、袁術は南陽の民の反乱に遭い、荊州を離れ流浪することになるのである。

参考史料

陳寿 『三国志』 (劉表伝、劉巴伝、孫堅伝)

范曄 『後漢書』 (孝献帝紀、劉表伝、袁術伝)

袁宏 『後漢紀』 (孝献皇帝紀)

酈道元 『水経注』 (沔水)

顧祖禹 『読史方輿紀要』 (巻七十九)

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