1

 月曜日の午後3時、友人のカメラマンの池内と喫茶店でお茶を飲んでいるときだった。おれのスマホが鳴った。スマホの画面には「TR商事」と表示されていた。おれは、おっと思った。この会社名を見るのが、実に久しぶりだったからだ。 
「お世話になっております。TR商事、広報担当の後藤と申します。弊社の社内報の件でご相談が……」
 後藤さんはこう言った。
「2008年に社内報の原稿執筆をお願いしましたが、また、ご協力いただければと……」 
 後藤さんの言う通り、たしかにおれは2008年、TR商事の社長に就任したばかりの木下社長にインタビューをしてその原稿を書いた。その5年だか6年く らい前にもインタビュー記事を書いたのだが、そのときの相手は木下社長の前任者の中山社長だった。そして、その5年だか6年くらい前には、中山社長の前任 者の友成社長にインタビューをしている。
 この会社は、何に年号か社内報を出していて、その記事の執筆や編集は社内のスタッフがやっている。が、新社長就任号は社外にも広く配るので、そのときだ け、おれのような外部のライターにインタビュー記事の作成を依頼する。おれのところに連絡が来たということは、また社長が替わったのだろう。
「前回、弊社代表のインタビューをお願いしましたが、またお願いできればと思ってお電話いたしました……」
「その節はお世話になりました。社長さんのインタビューですね。ぜひ、やらせてください」 
 おれはそう答え、目の前でボーッとタバコをふかしている池内に「仕事だ」と言った。池内は慌ててバッグから手帳を取り出し、「今週なら水曜か木曜。来週なら火曜か水曜」と言った。 
 おれは後藤さんにそう伝え、電話を切った。数分後、後藤さんから電話があった。 
「では、水曜日の3時でお願いします」
「わかりました。水曜日の3時にカメラマンをつれて伺います」
 電話を切ると、「どういう仕事だ?」と池内が言った。
「社内報の仕事だ。TR商事という総合商社だ。創業は1970年、従業員は約300人、主な品目は大豆、小麦、木材。これが中心だけど、石油、天然ガス、 レアメタルなんかも扱っている。本社は市ヶ谷で、大阪と福岡に支社があって、カリフォルニアと上海とモスクワに拠点がある」 
「おまえ、詳しいな」
 感心した、という顔で池内が言った。
「社長がそう言ってたんだ」
「えっ?」
「おれは三回、この会社の社長さんにインタビューをしてるんだよ。それで、覚えちゃったんだよ」 
「なるほど。それで、おれは何をすればいいんだ?」
「おれは新社長にインタビューをして、会社の方針とか、抱負とかを語ってもらい、それをまとめる。おまえはインタビューに同行して、社内報に載せる写真を撮る」
「わかった。で、三回やったって言ったけど、前は誰が撮ったんだ?」 
「前は、たしか吉田さんだ」
 おれは4つ年上のカメラマンの名前を出した。
「今回は吉田さんじゃなくていいのか?」
「いいんじゃないの。前、吉田さんに頼んだのは、たまたま吉田さんと飲んでいるときにこの会社から電話があったからだ。その前はたしか武田さんに頼んだけ ど、そのときも同じだ。武田さんと飲んでいるときに電話があった。その前は小竹さんだったかな。よく覚えてないけど、一緒にメシを食っているときに電話が あったんだと思う」 
 おれがそう言うと、池内は目を見開いてこう言った。
「そうだったのか。カメラマンってそうやって決まるのか。おれ、三十年近くこの仕事をやってるけど、はじめて知った。そういうもんなんだ。そうやって決まるんだ」 
 池内は「そうか。そうだったのか」とさかんに頷き、感心していた。
 そんな池内を見て、おれは前にこの会社に行ったときのことを思い出した。

 2 

 十年近く前のことだからよく覚えてないのだが、2008年の5月か6月だったと思う。おれはカメラマンの吉田さんとTR商事に行き、新社長の木下さんか ら約1時間、TR商事の現状、課題、新体制の意味、新事業への抱負などについて聞いた。そのインタビューが終わり、秘書の女性がもってきたお茶を飲んでい るときだった。
 木下社長は浮かない顔でおれにこう言った。
「いかがでしたか。やはり、私の話は面白味に欠けますか」 
「とんでもない。ビジョンや方針が明確で、原稿にしやすいです」 
「そうですか……」 
 木下社長はテーブルの上に置いてあった、昔の社内報のページをめくりながらこう言った。
「この、前回の中山社長のインタビューもご担当されたんですよね」 
「ええ」
「中山さんの話は面白かったでしょう。中山さんは、なんていうか、エンターテイナーでしてね。とにかく話が面白い。うちでは月曜日に朝礼をやるんですが、毎週、爆笑の渦ですよ。接待も上手くて、絶対にお客さんを退屈させない。中山さんはそういう人でした」 
 おれは前回、中山前社長にインタビューしたときのことを思い出した。木下社長の言う通り、中山前社長は話術の達人だった。時間を忘れさせる人だった。が、その反面、話にまとまりがなく、原稿にするには苦労した。 
 木下社長は、ふうと溜息をついてこう言った。
「私は中山さんの後を継いで社長になったわけですが、面白い話なんてできません。今日もつまらない話をお聞かせして、申し訳なく思っています」
「そ、そんな」 
 おれは、企業のトップの話というのは、面白ければいいってものではない。だいたい、社内報に「笑い」を求める人なんていない。だから、そんなことは問題にならない、というような話をした。
「そう言っていただけると助かります。中山さんがあまりにも面白い人だったんで、比較されると困るな、と思っていたんですが、ホッとしましたよ」 
 木下社長はそういうとお茶をすすった。この日、はじめて木下社長の表情が緩んだ。吉田さんはすかさずシャッターを切った。 
 そんな吉田さんを見て木下社長は「ハハハ」と笑い、「すみません。今まで固い顔をしていましたか。どうぞ、撮ってください。笑いますから」と吉田さんに 笑顔を向けた。吉田さんは「いい表情です。どんどん笑ってください。ちょっと動いてみましょうか」などと言いながらシャッターを切った。木下社長は「手を 上げるんですね。はい。こういう感じでいいですか。体の向きを変える。視線はそのまま。どうですか。これでいいですか」などと言いながら吉田さんのリクエ ストに応えた。ポーズを取っているというよりも踊っているようだった。 
 そんな光景をみて秘書の女性がクスクスと笑った。おれも笑った。木下社長も大いに笑った。吉田さんは「よっしゃ」と言いながらシャッターを切り続けた。
「はい。OKです。ありがとうございました」 
 吉田さんがそう言うと、木下社長はネクタイを緩めた。 
「どうも、お疲れさまでした。ありがとうございました。ハハハ、私も疲れました」
 木下社長は秘書の女性にコーヒーを持ってくるように言い、彼女が部屋から出ると机の引き出しからタバコと小さな灰皿を出し、
「実はこの部屋は禁煙なんですけど、ちょっとくらいはいいでしょう。どうぞ、どうぞ」
 と、おれと吉田さんにもタバコをすすめた。
 木下社長は美味しそうにタバコをくゆらした。おれもすっかりくつろいだ気分になった。木下社長への印象も変わった。インタビューをしているときは「固い 人だな」と思ったが、ネクタイを緩めてタバコを吸う木下社長は親しみやすい人だった。この人なら社員からも慕われるだろう。おれはそう思った。
 木下社長は一息つくと、イタズラ小僧のような顔をしてこう言った。
「オフレコでよければ、一つ、面白い話をしますよ。さっき、私には面白い話なんてできない、と言いましたが、たぶん、この話は面白いですよ」
「ぜひ、お願いします」 
 おれと吉田さんは身を乗り出した。 

 3

 木下社長は二本目のタバコに火をつけながら、こう言った。 
「社長がどうやって決まるかご存じですか?」
「いえ、会社勤めは3年くらいしか経験がないんで」
「そうですか。では、お話ししましょう。私が社長に選ばれたのは、面白い話ができないからなんですよ」 
「えっ?」
「へんな話ですよね。だけど、本当なんです。順を追って説明します」 
 木下社長の話はこうだ。
「私は二十三歳のとき、このTR商事に入ったのですが、そのときの社長は佐竹さんという人でした。佐竹さんは何をするにも根回しの上手な人で、その根回しの力でさまざまな難問を解決しました。 
 が、佐竹さんの次に社長に選ばれたのは、根回しなどまったくしないで、『四の五の言わずに、おれについて来い』というタイプの岡島さんでした。佐竹さん は根回し上手な人でしたが、その反面、リーダーシップに欠けた。それで、リーダーシップの固まりのような岡島さんが選ばれたのです。
 岡島さんの次に社長になったのは、学者タイプの友成さんでした。岡島さんにはリーダーシップがありましたが、直感に頼りすぎるところがあった。それで、 読みが外れて大失敗ということも。それで、後任には大学院も出ているインテリで、何よりもデータを重視する友成さんが選ばれたのです。
 友成さんの次が中山さんですが、中山さんが選ばれたのは、誰よりも性格が明るかったからです。友成さんは優秀な人でしたが、少し陰険なところがありましてね。それで、社内の雰囲気も暗かった。それで、陰険なところなど微塵もない中山さんが選ばれたんです。 
 そして、中山さんが引退して、私が社長になったのですが、私が選ばれたのは、堅物だからです。中山さんの時代は楽しかったんです。本当に。しかし、中山 さんにはアバウトなところがありましてね。それで、いろいろ、たがが緩んでしまった。それで、締まり屋で堅物の私が選ばれたわけです」 
 木下社長は、歴代社長が選ばれた理由をこう語った。おれは、木下さんの前の中山さんの前の友成さんの代からこの会社を知っているわけだが、はじめて中山 さんを見たときは、「えっ、前の社長と全然タイプが違う」と驚いたものだ。が、木下さんの話によると、タイプが違うからこそ中山さんが選ばれた、というこ とになる。
「なるほど。こう言っては失礼かもしれませんが、木下さんが新社長になられたのは、前の社長がまったく違うタイプの人だったからなんですね。前の社長がどういう人かで次の社長は決まるんですね」 
 木下さんは「その通り」と膝を打った。
「そうです。私が社長になれたのは、中山さんにアバウトという欠点があったからです。中山さんが社長になれたのは、友成さんに陰険という欠点があったから です。友成さんが社長になれたのは、岡島さんに、直感に頼りすぎる、という欠点があったからです。岡島さんが社長になれたのは、佐竹さんに、リーダーシッ プに欠ける、という欠点があったからです。前の社長の欠点が次の社長を決めるんです。
 こういうのは巡り合わせなんですよ。どんなに優秀でも、前に同じタイプの人がいたら社長にはなれないんです。逆に、私のような人間でも、前の社長次第で社長になれる。 
 それで、私は社長になった日から、ずっと考えているんです。私の欠点は何かと。それがわかれば、誰が次に社長になるのかわかりますからね。しかし、これ がなかなかわからない。たしかに私は堅物です。が、それは中山さんというスーパーアバウトな人がいたからそう見えるだけで、世間的には普通ですよ。それほ ど極端な堅物ではありません。それなりに恋愛をして結婚しましたし、酒も人並みに飲みますし、こうやってコソコソとタバコを吸ったりもしますから。
 自分で言うのもなんですが、私は可もなく不可もなく、という人間です。これといった長所もありませんが、これは困るという短所もない。たぶん、何かあるんだろうとは思いますが、思い当たることがないんです」

 4 

 おれがここまで話をすると、池内は興奮した顔でこう言った。
「今の話を聞いて長年の謎が解けたよ。アメリカの大統領も同じだ。前の大統領の欠点が次の大統領を決めるんだ」 
 池内は若い頃、アメリカの通信社でカメラマンをやっていた男で、大統領選の取材も経験している。
「ジミー・カーターを覚えているか。南部出身の、農場主かなんかだった人」 
 カーターのことは覚えている。日本に来たときは新橋の焼き鳥屋に現れて話題になった人だ。
「そう。焼き鳥屋の似合うおっさんだった。気さくな人だった。が、アメリカの大統領としては華がなかった。それで、次は華のあるレーガンが選ばれた。レーガンはハリウッドの出身だからな、華なら十分にある。
 レーガンの時代は華やかだった。しかし、レーガノミクスでバンバン金を使ったんで双子の赤字ができた。それで、次は元CAIの長官のブッシュになった。アメリカは締まり屋を求めたんだ。 
 ブッシュの時代で冷戦は終わった。それで、アメリカは冷戦の終わりを象徴する顔を求めた。それで、ベトナム戦争で徴兵忌避をしたクリントンが選ばれた。冷戦が続いていたら、そんな過去を持つ男が大統領になることはなかっただろう。
 クリントンの次はブッシュ・ジュニアだが、ジュニアが選ばれたのは、ヒラリーや副大統領のゴアのエリートくささが鼻についたからだろう。それで、アメリカは若い頃、コカインをやったり、飲酒運転で逮捕されたりしたブッシュ・ジュニアを選んだんだ。 
 次にアメリカが選んだのはオバマだが、これは、白人の男はもう飽きた、ということだと思う。
 そして、トランプだ。ヒラリー優位で進んでいたのに、結果はトランプ。これは、白とか黒とか、男とか女とか、そんな問題はどうでもいい、みんな同じ穴の狢じゃないか。次は穴ごと吹っ飛ばすやつがいいとアメリカが思ったからだろう」
 池内はアメリカの歴代大統領が選ばれた理由をこう語った。たしかに、木下さんの話とそっくりだ。国でも企業でもトップはこうやって決まるのだろう。
「それにしても」 
 池内は指先でトントンとテーブルを叩きながらこう言った。 
「アメリカの問題はいいとして、気になるのは、TR商事の新しい社長がどんな人かだな。新しい社長は木下さんの欠点から生まれるわけだが、木下さんには欠点らしきものがない。いったい新社長はどういう人なんだろう」
 おれも同じことを考えていた。欠点がない、というのが木下さんの欠点ならば、欠点だらけの人が新社長になっているわけだが、そんな人間が社長になれるとも思えない。そもそも欠点のない人間がいるとも思えない。おそらく木下さんにも、本人の知らない欠点があるのだろう。 
 いずれにしても、新しい社長に会えばそれもわかる。おれと池内は「じゃあ、水曜日に」と言って別れた。

 5 

 水曜日、おれたちはTR商事を訪ねた。広報部の後藤さんが受付でおれたちを待っていた。インタビューと撮影は社長室でやるとのことだが、その前に、簡単に新社長の経歴を説明するとのことで、社長室の隣の応接室に通された。この段取りは前回、前々回、前々々回と同じだ。
 一頻り説明が終わると、後藤さんはこう言った。 
「新社長の太田は、前社長の木下と同じ総務の出身ですが、実は、同じ部署出身の同じタイプの社長が続くのは弊社としては異例でしてね」
 おれと池内は顔を見合わせた。「なんかへんだぞ」と。
 おれは率直にこう聞いた。
「今、同じタイプとおっしゃいましたが、性格的にも同じタイプなのでしょうか?」
「性格ですか?」 
「はい。御社の社長さんとお会いするのは今回で四回目になりますが、みなさん、タイプが違うなと思っていまして。それで、今度の社長さんのタイプも気になりましてね」
「そうですね。たしかに、木下と中山は真逆でしたね。中山とその前の友成も真逆です。そういう意味では、太田は木下と同じタイプかと思います。考え方も近いです」 
 おれと池内はまた顔を見合わせた。「どうもおかしい」と。
 後藤さんは、太田新社長は木下前社長と同じタイプの人間だという。が、そんなはずはない。同じタイプに見えても決定的な違いがあるはずだ。真逆な何かがあるはずだ。いったいそれは何なのか。 
 そんなことを考えていると、「どうも、どうも」と言いながら太田新社長が現れた。木下前社長のインタビューが載っている2008年の社内報を手にして。そして、あいさつが済むと、太田新社長は吉田さんが撮った木下社長の写真を見ながらこう言った。
「この、木下さんのインタビューも担当してくれたんですね。木下さんはすごい人でした。名君でした。経営手腕では歴代ナンバー1だと思います。ただ、社長 に就任した時期が悪かった。新体制が固まったと思ったらリーマンショックですからね。あれでうちは大打撃を受けました。それでも木下社長の元、全社一丸と なって頑張ったのですが、やっと立ち直ったと思ったら東日本大震災です。これでまた大打撃。そして、その後もタイの大洪水、中国の反日デモ、アルジェリア の襲撃事件、ウクライナの政変と続き、木下さんはその対応に追われました。そして、やっとこれからと思ったら、今度は保護主義の台頭。結局、ご自身のやり たかったことは何一つできませんでした。すごいビジョンをもった人だったのですが、就任した時期が悪かった。 
 その点、私はラッキーですよ。大きな問題は全部、木下さんが解決してくれて、危機管理の体制もつくってくれましたから。私は何の取り柄もない人間ですが、昔から運だけはいいんです。
 引き継ぎの時、木下さんにもこう言われました。おれには運がなかった。しかし、おまえにはそれがある。運を信じて頑張れ、と」

さるやまさるぞう 

 この人とは前にもどこかで会っている。
 男と女は初対面だった。が、男の頭からはこの考えが離れなかった。
 どこで会ったのだろう?
 男は記憶を辿った。しかし、記憶の中に女はいない。記憶のどこを探しても、女の姿は見当たらない。しかし、前にも会っているという思いは強くなる一方だった。
 男は女に言った。
「前にも、どこかでお会いしませんでしたか?」
「いつ頃ですか?」
「わかりません。ずっと昔のような気もすれば、つい最近のような気もする」
 女は額に手を当て、机の上のグラスを凝視した。頭の中の何かを探しているという顔をして。
「わからない。覚えてない。でも、私もそう思っていたんです。どこかでお会いしたことがあるって」
「そうだったんですか。じゃあ、やっぱりどこかで会ってますよ。間違いない」
 男は女に自分の経歴を話した。いつどこで生まれ、何歳までどこにいて、最近はこういうところに出入りしている、と。
 女も自分の経歴を話した。しかし、二人の接点は見つからなかった。
「謎ですね」
「ほんと、絶対に会っているのに、どうして思い出せないんでしょう」
「もしかしたら……」
 男はこう言った。前に会ったのではなく、他の世界で会ったのかもしれない、と。
「他の世界……」
「いや、冗談ですよ」
「ううん、私もそんな風に思っていたところなんです。過去の世界ではなく、他の世界ではないかと」
「しかし、他の世界での出来事をこの世界でも覚えているって、あるんですかね」
 女は胸に手を当て、机の上のグラスを凝視した。胸の中の何かを探しているという顔をして。
「心の世界は繋がっている。私、そう思うんです」
 女にそう言われて、男はある詩の一節を思い出した。

 恋人とは、いつも心に思っている人

 男はこう思った。記憶の中にこの人はいない。しかし、心の中にはいる。他の世界でこの人は、おれの恋人だったのかもしれない。
 男は女に言った。
「他の世界では、どういう関係だったんでしょうね。ケンカとかしてなければいいけど」
 女は笑みを浮かべながら、こう言った。
「大ゲンカをして、会えなくなった、しょうがなく、この世界に来たのかもしれませんね」
「では、こっちの世界では、うまくやりましょう」
「私も、そうできればと思います」

さるやまさるぞう 

 雨の日の午後、男は池のある公園に行った。池の水面に雨が落ちる光景が見たくなったのだ。
 男は公園の中にある東屋を目指した。が、そこには先客がいた。赤いレインコートを着た女が東屋のベンチに腰を下ろし、池の水面に雨が落ちる光景を見ていた。
「あの東屋から見る景色が一番いい。声をかけて、一緒に座らせてもらうか」
 男はそう思った。が、声をかけるのはやめた。
「きっと、彼女は詩人だ。雨の日に池を見にくるのはたいてい詩人だ。詩人は孤独を好む。声をかけるのはよそう」
 男はそう思い、池の周りを半周し、東屋の向こう岸に回った。

 女は池の向こう岸に、傘を差し、じっと池を見ている男がいるのに気が付いた。
「公園の管理事務所の人かしら。それとも、池の生態系を調べている学者さんかな」
 女がそんなことを考えていると、作業着を着た初老の男が近づいてきた。
「こんにちは。今日はよく降りますね」
「こんにちは」
 男は管理事務所の備品修理係で、東屋の点検に来たのだ。
「あっ、本当だ。ここから漏れている。大丈夫でしたか?濡れませんでしたか?すぐ手配して、来週中には直しますからね」
「私は大丈夫です。でも、いつも雨の日は屋根の点検をするんですか?」
「いや、何日か前、ほら、向こう岸にいるあの人に言われたんです。屋根が壊れているよ、雨が降ったら見てくださいと。それで見に来たんです」
「あの人ですね。あの人、さっきからずっと池を見ていますけど、どういう方なんですか?」
「さあ、近所の方ですけど、詳しくは知りません。でも、きっと、詩人さんですよ。雨の日に池を見にくるのは、たいてい詩人さんです」

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