「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」
 この言葉は、フランスの生化学者・細菌学者ルイ・パスツールの言葉です。

 観察  これは科学的態度の基本ですが、教え込みや単なる記憶に依存しやすい学びの形では受動的な認知の刺激にかたよりがちになります。観察力は、むしろ、そのような形の正反対の認知の態度そのもので、主体的な態度です。
 科学的な態度は、いつでも旺盛な好奇心をもって、探索的な態度で対象世界を眺めているものではないでしょうか。わたしたちはこどもたちには、神から与えられた旺盛な知的好奇心が潜在的な備わっているという信念(信仰と言い換えてもさしつかえ在りません)をもっていまが、この「ギフト」(天与の賜物)を現実に、引きだしてでき得る限り、最大限成長するように環境を整備してゆく。これが大人の責任だと信じています。

 さて、それでは、そのような環境とは?

 最近、わたしは、「セレンディピティ」という言葉が、わたしたちの目指しているモンテッソーリ教育のキーワードになると考えています。

 セレンディピティとは、実は造語で、ホレス・ウォルポール というイギリスの政治家・小説家が言い出したのがはじまりだそうです。

 以下はウィキペディアからのひ孫引き。
この私の発見は、私に言わせればまさに「セレンディピティ」です。このセレンディピティという言葉は、とても表現力に満ちた言葉です。この言葉を理解していただくには、へたに語の定義などするよりも、その物語を引用したほうがずっとよいでしょう。かつて私は『セレンディップの3人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。たとえば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?

 
61L+rBexmgL._SX345_BO1,204,203,200_

 
セレンディピティ(serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
                            ウィキペディアより

 パスツールがいみじくも語っているように、この「偶然」は、不断の探索行動やたえざる追求心、つまり「構えの心」があるところに生起するのでしょう。

 こういう「構えの心」を、わたしたちは、教育現場でもっと「身体化」したい。

 神さまが与えてくださった、すばらしい環境世界の不思議さを、こころ踊らせて感動し、みつめ、観察し、飽くことがない、こどもの好奇心、探究心を、大切に見守り祈ることがセレンディピティの「促進」につながるのではないか。
 いまは、そう考えているところです。