2010年03月09日

自分なりの”学習法”を確立する、それが大事なんだがなあ・・・

 以前にもこのブログでも書いたことがあるが、高校1年の2学期ごろ、英語の先生が「英英辞典を使えば、英語の実力は格段につく。」と話してくれたことがあった。

 なるほど、と思った。早速貧乏な親に無理を言って金を出してもらい、英英辞典を毎日のように通っていた本屋さんで注文した。

 何日か後に(確か開隆堂出版の)英英辞典が届き、欣こび勇んで家にもって帰り・・・。早速その英英辞典を使って、英語の予習を始めた・・・が、チンプンカンプン。まるで歯が立たない。

 英英辞典を使いこなす実力”未だし”だったというわけである。どうしようかと思った。親に無理言って買って貰った手前、そのまま放置するわけにはいかない。もう少し実力がつくまで本箱の飾りにしておく、そんなわけには絶対いかない、そう思いつめたものである。

 どうすべきか・・・、あれこれ考えて、素晴らしいアイデアが思い浮かんだ。

 知らない単語や熟語をいきなり英英辞典で引くのは無理だが、意味のよく分かっている単語を英語ではどう説明するか、そういう使い方ができるはずだ。

 早速やってみた。たとえば中1でも知っている”boy”。これを英語ではどう説明しているか。(今そのときの開隆堂のものが残っているはずもないから、止むを得ず、パソコン打っている机からたまたま手の届くところにあった”LONGMAN HANDY LEARNER’S DICTIONNARY OF AMERICAN ENGLISH”を繰ってみると)”young male person”となっている。

 高1でも”young”なら分かるはず。でも”male”が分からなかったとしよう。そんな時は、これもよく知っている”girl”に当たってみる。すると”young female person”となっている。

 ここまで分かればしめたもの。あっ、そうか、”young person”で若い人。だったら”male”は”男”、”female”は”女”。

 念のために”male””female”にそれぞれ当たってみる。”male”は”of the sex that does not give birth”。”female”は”of the sex that produces young”。なるほどなるほど・・・。”male”は「出生をなすことのない性の」、”female”は「子供を生産する性の」。

 こうやって英語の世界はどんどん拡がっていく。おもしろいほど拡がっていく。また間違いなく実力もついてくる。しかも類推することの楽しみ、大げさな言い方をすれば、仮説検証の楽しみを味わいながら・・・。

 とにかく知っている単語を片っ端から英英辞典で引いてみる。

 ”cloud”はどうだろう?”white or gray mass floating in the sky which is formed from very small of drops of water(大変細かな水滴から形成された空に浮かんでいる白色または灰色のかたまり)”、なるほどなるほど。

 ”research”は?”advannced and detailed study,to find out new facts(より高度のまた詳細なスタディ、新事実を見つけ出すための)”。

 こうやって知ってる単語をどんどん英英辞典で当たっていけば、それだけで所謂”英語の実力”がついていくんだから、こんなありがたい話はない。

 なお手に負えない時には、あまりストイックになる必要はない。適当に英和辞典のお世話にもなればよいことをあえて付け加えておこう。

 それにしても何でこういう学習法があることを多くの英語の教師は生徒たちに伝えないのか、不思議でしょうがない。重箱の隅つついたようなこまかなことをぐちゃぐちゃ言うんじゃなくって、こうやったらかってに学習は進むものだよ、そういう提言・指導をなぜしないのか。

 多分多くの教師は英英辞典に馴染みがないんじゃないかなあ。

 さて高1の2学期の頃、英英辞典の魅力に取り付かれた私は、放課後よく学校の図書室へ行って、そこにあった”OXFORD ENGLISH DICTIONARY”を眺めて楽しんだものだ。

 そんなある時、実に奇妙な単語に出くわした。その単語、とにかくスペルが長いのだ。”floccinaucinihilipilification”勘定してみるとなんと29文字ある。

 意味がまた気に入った。(当時の私の英語力で訳したものだから、正確かどうかは保障の限りではないが)”金銀財宝等価値あるものを価値無きものと見做すこと。金銭を蔑視すること”。

 私はこのブログでもしょっちゅう銭・金を貶しているが、よほど臍もつむじも曲がっているのだろう、子どもの頃から人がありがたがる銭・金をありがたいものと思ったことがないのだ。

 しょっちゅう金には困っているが、だからと言って金を稼ぐために目の色変えて何かに取り組むというのが全く性に合わないものだから、女房殿には大変迷惑をかけている。(その女房殿に言わせると、一銭にもならないことには目の色変えて取り組む”変な人”、ということになるらしい。「”変な人”でどうもすみませんねえ・・・」)

 まあそんな私だから、この”floccinaucinihilipilification”が余計気に入ったというわけである。

 さてその翌日(だったと思う)、「俺、こんな長い単語知ってるぞ」と長い単語をひけらかし合っていた”ご学友グループ”と一緒の時、この単語の話をした。

 その時のこと、別に必死になって覚える努力をしたわけでもなんでもないのに、すらすらっと書けちゃったのだ。”floccinauccinihilipilification”、すらすらっと書けちゃったのだ。我ながらびっくりしたものだ。(ついでに言っておけば、あれから60年経っているけど、今でもすらすらっと書けちゃうのであります。)

 話は違うが、中学2年ぐらいから私は私独自の英単語の記憶法を編み出してそれを実践していた。

 どんな方法?かと言えば、A4版ほどの藁半紙を八つ折にし、その八つ折の一番上の所に記憶すべき英単語、発音記号、そしてその意味を書いておく。

 そして口先でぶつぶつ呟くようにしながら、鉛筆で紙片が真っ黒になるまでその単語を何十回となく書きまくる。

 多くの感覚を動員して記憶すれば”記憶”は確実になり、忘れようとしても忘れない、そんな感じになるに違いない、という中学2年生の私なりの仮説に基づいてのことであった。

 多くの感覚って?それはですねえ、まず唇を小さく動かし、手で書きまくるわけだから、触覚はそれこそ120パーセント動員されているわけでしょう。

 そして小さく発音することによって聴覚も間違いなく働く。実際には声は出していないのだが、こうすることで、聴覚は働くものと確信していた。また当然のことながら視覚は、これも120パーセント働いている、というわけで、少なくとも三つの感覚を同時に働かせての”記憶法”。

 私はこのやり方が大いに気に入っていた。(なお残念ながら、嗅覚と味覚の二つの感覚を動員する方法には想到することは出来なかった・・・が。)

 さて件(くだん)の”floccinaucinihilipilification”に関しては、その記憶法はその時は未だ、試みていなかった。にもかかわらず、すらすらっと書けちゃったのだ。

 大きな感動を伴って接触した情報・知識は、覚えようと考えたり、覚えようと努力したりしなくても、かってに覚えられちゃうんだ、”記憶”は”努力”の函数なんかじゃないんだ、ということに気づかされたというわけだ。

 なおその後「大きな感動を伴って・・・」のところが「欣求して得られた情報・知識」に変わってはいるが・・・。

 こんな話を何年か前、私の活動拠点、伊賀市にある三重県立上野高校の音楽の先生(うら若き美女)に話したことがあった。

 そうそう、三・四十年前に大阪の紀伊国屋でOXFORDと久し振りでご対面したときには、この単語はもう出ていなかった、という話も付け加えて・・・。

 そしたらその三・四日後、その先生、こないだの英単語、うちの高校(所蔵)のOXFORDにはありましたよ、と言ってそのコピーを届けてくださったのだ。

 そのコピーが先日机の引き出しを片付けていたら出てきて・・・。おお、お懐かしや、と言うわけである。

 なおこの上野高校所蔵の”OXFORD”、出版時期がいつのものかは分からないが、私が曽て高校生の頃見たのよりはだいぶ新しいものと思われる。(私の高校生の頃と言えば、60年前、従って私の高校にあったOXFORDは70年も80年も前のものであったに違いない。)

 さて”floccinaucinihilipilification”に関しての上野高校所蔵のOXFORDの記述は”the action or habit of estimating as worthless”となっていて、金銭等に限っての”蔑視”ではなく、”蔑視”一般を意味するコトバのようだが、だとすると私はなぜあの時「金銀財宝等価値あるものを価値無きものと見做すこと、金銭を蔑視すること」と訳し、それが頭にこびりついているのか、また新たな”なぞ”が浮かび上がってきたというわけで、これを解明してからなどと考えると、まだ当分死ぬわけには行かないということになる。

 それはとも角、学校の先生などは「とにかく努力、努力・・・」
と何かと言えば”努力”強調する能無しが多いが、学習成果を上げようと思ったら、わけも分からず”努力”を傾注したりしても無意味、というよりも却って阻害要因にさえなってしまう。

 自分なりに”効果的学習法”を編み出す、そのことをお勧めしたいものだ。

 そして究極の学習法は、佛教用語の”欣求”、”欣こび求める”その姿勢を保ち続ければ、学習効果なんかひとりでに挙がっていく、そう強く申し上げて・・・

 本日の打ち止め。また明日・・・。
 

Posted by jpltms at 11:16│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

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