子どもたちの成長に一喜一憂しながら、毎日を過ごしています。この時に動く感情は、誰でも同じかと言えば、かなり異なっています。
 例えば、思い通りに動いたとしても、「できて当たり前」と思っていれば、あまり感情は出てきません。しかし、「できたことが素晴らしい。」と思っていると感情が動きます。

 このことから、「素晴らしいと感じる。」か、「当たり前と感じる」かは、できたこととは無関係だということがわかります。つまり、自分が身に付けた価値観で出来事を価値判断していることになります。

 子どもの側に立つと、状況はちょっと違ってきます。

 できるようになるまでに、様々な努力をします。できないと思った時に、何とかしようと知恵を絞ります。真似をしてでも、何とかしようと頑張ります。
時々できない時があると、不安も感じます。その不安を乗り越えながら、できたと自信がもてるまで、頑張り続けます。
 そして、心から「できた」と思った時に、「先生できたよ。」と声をかけます。
 先生にも認めてもらいたいのです。先生からの温かい言葉をかけてもらいたいのです。そして、それを自信につなげたいのです。ひょっとすると、先生は、学級の仲間にその頑張りを紹介してくれるかもしれないという気持ちもあるかもしれません。もし、それが叶えば、学級の仲間からもほめてもらえるのです。

 そのチャンスが「先生できたよ。」の一言に隠されています。

 そのチャンスを受け止めた教師が、もし「できて当たり前」ととらえていたとしたら、褒めることも、仲間に紹介することもありません。

 これを受け止めた子どもは、どんな気持ちになるのでしょう。「できたと思ったけど、ダメなのかな。」「どうすれば、先生はほめてくれるのだろう。」となり、できたことへの喜びが一瞬にして消えてしまいます。

 逆に、もし、「できたことが素晴らしい。」ととらえている教師ならば、きっと褒めるでしょう。うれしさのあまり、学級の仲間にもその喜びを伝えるのではないでしょうか。

 受け止め方次第で、子どもが生かされたり、殺されたりするのです。

 ほんの些細な教師の反応が、子どもに大きな影響を与えています。

 育てる側の価値観次第で、どのようにでも子どもは育ちます。