::Welcome to J's Table Christ Church::

人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。 ルカの福音書13:29

クリスマス礼拝のご案内


jeis
百合ヶ丘に場所を移したわたしたちはクリスマス礼拝を下記の通りおこないます。

日 時 :12月25日(日) 14:30-16:30
場 所 :百合ヶ丘 星ビル5F(アクセス

特別ゲスト :ペテロさん(イエスの一番弟子)
*クリスマス特別演劇でお楽しみください♪

軽食をご用意しております。

入場無料・自由献金

みなさまのお越しをお待ちしております。
どなたでもお気軽においでください。

J’s Tableキリスト教会

教会は、キリストに焦点を当てています

2011116

ヨハネの黙示録19~20節 「教会は、キリストに焦点を当てています」

アリ牧師

 

1、ヨハネの自己紹介(9~11節)

先日ある方が「教会は行かなければならない(・・・・)」と言っているのを聞きました。クリスチャンになると、教会には「行かなくてはならない」と考える人が多いようです。私はその人に、なぜ教会に行かなければいけないのかと尋ねてみました。その方はどうやら、儀式として教会に行かなければいけないと考えているようでした。私たちは教会に行くのではなく、キリストを信じた上で教会に行けるようになるのです。イエス・キリストを信じなければ、私たちにとって教会は無意味です。なぜなら教会はキリストの体だからです。

黙示録を読むと、教会の焦点はイエス・キリストだということがわかります。この黙示録を通してここでは、教会のありがたさがどこにあるのか、一人ひとりの信徒がどのように守られ、支えられているのかについて考えてみましょう。

 

9節に「私ヨハネは」という自己紹介があります。ただし「私はヨハネです、よろしくお願いします」ということではありません。この自己紹介には、誰から発せられた話なのかをはっきり明示する目的があると同時に、ヨハネがここで「あなたがたとはキリストによっての兄弟にされている」という関係性を示す狙いがあります。イエス様を信じるものとするなら、あなたがたもその兄弟なのです。つまり私たちは誰かの特別な努力によって集まっているわけではなく、みなキリストによって集まっているのです。これが教会の第一のポイントです。

 

「あなたがたとともに」味わうものとしてまず苦難があります。苦難のなかにはイエス・キリストにあって御国と忍耐があります。ヨハネはイエス・キリストの教えを広めようとしたために、罪人としてパトモス島に送られる罰を受けました。しかし彼は「神の言葉と、イエスのあかしのゆえに」このパトモス島にいると言い切ります。自分の現状を苦しみとして捉えているのではなく、神の言葉を聞くチャンスと捉えていたのです。

この島でヨハネは「大きな声」を聞く不思議な体験をします。神の声を聞く主の日を迎え、御霊を感じたからでした。主の日というのは礼拝するための日であり、ヨハネはこのときに「聖霊に満たされ」ました。感じるという言葉にはギリシャ語で「満たされている」という意味もあります。聖霊に満たされている主の日、そのときこそ一気に目の前にある島の苦しみが神様の舞台に変わり、私達も神様から啓示を受けるのです。

神様を礼拝し、聖霊に満たされているそのときこそ、神様はご自身の啓示を渡されます。礼拝の中で「ラッパの音のような大きな声」を聞いたということは、神の声をハッキリ聞いたということです。

 

2、啓示(1216節)

以上のように、満たされるということは神の声が聞こえるということです。そこでヨハネが最初に見たものは七つの燭台でした。七つの金の燭台は七つの教会、すなわちすべての教会を表します(七は完全数)。1216節ではヨハネが啓示として見たものが挙げられています。

「燭台の真ん中」には「人の子」がいました。これはイエス・キリストがその中心におられるということです。ですから教会に行く理由も、その中心におられるイエス・キリストに会いに行くためだということになります。教会は兄弟姉妹と共に集まり、一緒にイエス様を見つめるところでもあります。

「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた」とは神様と私たちとの関係を表します。「足までたれた衣」を着るのは祭司です。祭司は各民族の名前を入れた金の帯を胸にいつも付けています。祭司が金の帯をいつもつけているように、神様は私たちのことをいつも覚えておられ、あなたからから決して目を離さないというメッセージがあるのです。「わたしはアルファであり、私はオメガである。見よ、私は世の終わりまで決してあなたを見捨てることはない。」と神様は胸に張って訴えられておられます。

「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く」にある「白」はきよさや敬虔、知恵を表します。神様は一つ一つの出来事や経験を通して、私たちにはきよい知恵を与えようとされています。その知恵は、決して中途半端な知恵ではなく、最高の知恵です。それは神ご自身を私たちに表しています。

「目は燃える炎」とは、神様の目に見えないものは一つもないということです。へブル人の手紙413節にも「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」とあります。神様は髪の毛の一本一本にいたるまで、あなたの全てをご覧になっています。

「炉で精錬され」た「足」とは裁きのしるしを表します。生まれながらの罪だけでなく、今までしてきたことも裁かれますが、それは神様がただ責めるだけではなく、私たちを迎え入られることも覚えたいと思います。

「口から鋭い両刃の剣」とはどんな方向でも切れる神様の言葉を表しています。神様の言葉を聞いたときに心にぐっと刺さった感覚を感じたことがないでしょうか。それは自分の罪に気付いた証しです。神様の御言葉は責めるためにあるのではなく、回復のためにあります。

「その声は大水の音のよう」と「顔は強く照り輝く太陽のよう」とは神様の栄光と誉れを表します。それほどまでにイエス様が偉大であるということです。

 

3、解釈(17~20節)

「それで私はこの方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」

あまりにも偉大なイエス様の前に立ったヨハネは圧倒されて言葉をなくし、そして倒れました。神の偉大さと栄光によって、彼は腰を抜かしたのです。

 

イエス様の右手

ユダヤ人社会において左手は不浄の手とされていたので、きれいなものを持つときにユダヤ人はいつも右手を使いました。そのため右手はきよいもの、また力あるものとみなされていました。ここにあるイエス様の「右手」とは、腰を抜かしたヨハネを、神様の力が慰めて立たせるようにしたということです。

「恐れるな、私は最初であり、最後である」とは一言で安心しなさいということです。私たちは自分の人生の方向性を見失うことがあります。しかし神様の右手が私たちの上にあり、その手が回復へと導いてくださいます。

その神様が『わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また死とハデスとのかぎを持っている。』とおっしゃいます。いつまでも生きている神が私たちと共におられます。そのような方に包まれて、私たちはいつも声をかけられています。このことをヨハネが黙示録を通して私たちにはっきりと伝えています。

 

『そこであなたの見たこと、今あること、こののちに起こることを書きしるせ』

だからこそこの黙示録を読むときの鍵が19節に隠されていることがわかります。すっかり意識を取り戻し、その足でしっかり立ったそのときに、ヨハネは何かを記さなければならなかったのです。これが黙示録です。これまで起こったこともあれば、今起こっていること、またこれから起ころうとすることもあり、それらすべてを「書きしるせ」と神様はおっしゃいます。というのもこれから伝えることはすべて真実だからです。

 

イエス様の手の上には七つの星があり、教会は一つ一つの上に神様の天使があります。キリストご自身が自分で教会の中に入っているのではなく、キリストの天使によって教会が守られ、支えられています。

私たちが成長し、神様の輝きを心から賛美できるようになるためにも、私たちの周りで働く天使を見てください。主の日では神を礼拝し、御言葉をしっかり味わいながら、御霊に満たされましょう。神様の声を聞き、どれほど自分が神様に包まれ守られて、そして生かされているのかを感じてください。これから起こる黙示録の出来事を是非一緒に読み味わいましょう。

神様はただあなたがたを裁くだけのお方ではなく、絶対的なお方です。私たちはそのことを自覚するだけにとどまらず、神様を必要としている人たちにも声をかけ、そのことを伝える必要があると確信します。一言お祈りましょう。

常にいまし、昔いまし、後に来られる方

20111030

黙示録14~8「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」

アリ牧師

 

今日のテーマ『常にいまし、昔いまし、後に来られる方』に注目してみましょう。

手紙の書き出しで「誰が書いているのか」や「誰に対して書かれているのか」をはっきりさせることは、ギリシャ人やヘブル人にとって大切な習慣でした。

しかしこの「誰」の部分が具体的に明示できない場合もありました。それはその手紙の筆者が女性の場合です。女性や奴隷の立場があまりにも低かった当時、彼らが自分たちの名前を手紙で書き残すことは許されていませんでした。そのため、筆者が不明であることもしばしばありました。

 

黙示録ではギリシャ語が巧みに使用されてありながら、ヘブル語が霊的に組みこまれています。『ヨハネからアジヤにある七つの教会へ』(4)の中で、ことさら「7」という数字が強調されています。「7」は「完全」を表しているので、「7つの教会」といえばそのまますべての教会を指します。そしてこの7つの教会それぞれにあらゆる可能性が隠されているのです。

だから黙示録は、実際に書かれたその時だけのメッセージではありません。すべての教会に対して発せられ、普遍的な意味を持つメッセージなのです。

 

恵みと平安があなた方の上にあるように

ここで「恵みと平安が私たちの上にあるように」という祈りの言葉が含まれています。というのも、この「恵みと平安」が三位一体の神(父なる神、聖なる神、子なる神)から与えられたものだからです。

 私たちには、生まれる前からすでに神様の恵みが用意されています。そして私たちが、その恵みの中で生かされ、恵みによって神様に迎えられています。それが私たちの立場であり、アイデンティティです。だからこそ私たちは胸を張って生きることができます。

この三位一体の計画の中に、絶対的な恵みと平安があります。そもそも3という数字は絶対的なものを表します。イエス様はゲツセマネで3度も祈り、3日目に復活しました。魚に食べられたヨナも3日目に助け出されました。三位一体は、絶対的な恵みと平安が私たちに起こることを教えているのです。

 

1、父なる神から:常にいまし。昔いまし。そして後に来られる方から

すべての計画が天のお父さまの中にあることを表しています。この記述は一見すると、単に時間のことを記しているように読めます。ところがギリシャ語で読んでみると、むしろ時間の区切りというものはすでになく、神様がいつまでもそこにおられることだとわかります。すべての計画はその神様の中にあります。

「後に来られる」は、単純に未来のことを意味するわけではありません。「必ず答えに来るよ、片付けに来るよ」という神様からのメッセージです。それはまた「必ず終わらせる時が来るよ、さばきの時が来るよ」というメッセージでもあります。

 

2、聖なる神から:その御座の前におられる七つの御霊から、

ここに「七つの御霊」とあります。絶対的な聖霊さまの働きが、色々な視点から様々な人たちを通して語られるということです。聖霊さまは、一つの方法、一つの形で働きかけるわけではありません。あらゆる人を用いながら色々な方法を通して聖霊さまは私たちに語ってくださいます。

 

3、子なる神から:忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから

「地上の王たち」とあるので、イエス・キリストの権威は、ユダヤ人だけに限定されるのではなく、異邦人も含めたすべての人に及んでいることがわかります。イエス・キリストの栄光がすべての人にあるようにとの祈りがここで込められています。

 

キリストに栄光と力がとこしえにあるように。(56節)

これまで見てきたとおり、私たちは神様の栄光の中に存在します。この栄光が私たちの前でどのように現われるかについて考えたとき、この56節から次の3つのことがわかります。

 

 1、私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち

まず神様は私たちを愛しておられるということです。愛は実体であって説明ではありません。「愛しているよ」という言葉をただ発しただけでは何にもなりません。「愛している」ということは「誰かのために自分自身を捧げる」ということであり、「私はあなたのために死んでもいいよ」と伝えることなのです。イエス様はそのような愛を、ご自身がわざわざ犠牲を払ってまで私たちに教えてくださっています。

「その血によって私たちを罪から解き放ち」をギリシャ語で読むと、その血の中で私たちを洗っているということです。だからそこには「あなたの罪は一つも残っていない、全くきれいだよ」というメッセージも含まれており、私たちはイエス・キリストの血によって救われていると理解できるのです。

 

2、私たちを王国とし

神様は私たちに生きる力や判断できる力まで与えて下さっているということです。「イエス・キリストの御名によって」と祈るとき、イエス様の権威が与えられていることをぜひ知ってください。強く信じて祈りましょう。

 

 3、ご自分の父である神のために祭司(さいし)としてくださった方である。

祭司は、罪びとを神様の前につなげるパイプ役を担います。それも権威あるパイプです。「あなたは最善最高のつなげる人だ」と黙示録は教えています。

 

見よ、来られる(7節~8節)

 

見よ、彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼の故に嘆く。しかり。

「雲に乗ってこられる」とは、イエス様がすべての人を見渡すということです。「突き刺した者」とは十字架に掛けられたイエス様を実際に槍で突き刺した人物に限定しているわけではなく、イエス様を裏切った者全般を指します。

たとえイエス様を信じていても、まるで槍を突き刺すようにイエス様を裏切ってしまう人が、この世の中にはたくさんいます。ユダがその代表ですが、もしかするとそれは自分自身かもしれません。イエス・キリストから離れて自己中心に生きる人はみな「突き刺す人」なのです。

このイエス様が「来られる」時に「突き刺す」人たちは苦しくなります。ここに「嘆く」という言葉があるのはそういう意味です。 

イエス様が「来られる」と聞いて、救われているみなさんなら喜ぶと思います。ただもし自分の家族が救われていなかったらどうでしょうか。私たちの家族が苦しい涙を流して泣くことになります。だからこそ私たちは真剣に忠実に考え、忠実に祈り、イエス様がいらっしゃる時が少しでも遅くなるようにと祈る必要があるのです。

しかしイエス様は必ず来られます。「しかり」とあるので必ずそうなるのです。

 

常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」

「アルファ」と「オメガ」とは、それぞれ最初と最後という意味です。この世の初めであり、この世の終わりでもあるという意味です。イエス様が最初であり最後です。

最初の言葉を語ったのは神ご自身です。神様による最初の言葉によって、人類が創造されました。そしてイエス・キリストによる一つの言葉で多くの人たちが救われました。最初の言葉が神であり、最後の言葉も神です。最初の行動も神であり、最後の行動も神です。

大事なことは、必ず終わりが来るということです。主はすべての支配者であり、すべての上に物事を決めるお方です。イエス様は必ず来られます。ですから私たちの祈りとこれからの活動がどれほど大切かがわかります。

その私たちが活動するために、私たちが今どこにいるかを知る必要があります。私たちが何をすべきかを考えることではありません。私たちは三位一体の神による、絶対的な力の恵みと平安に包まれていることを知りましょう。そして神の栄光はこの私たちにもあります。この神の栄光を、今度は誰に渡す必要があるかを思いながら、どうか祈る心を持ち続けてください。

祈りましょう。

【重要】12月から礼拝場所が変わります

 
12月から礼拝場所と時間が変わります。
 
12月4日の礼拝より、下記の場所で礼拝を行います。
 
礼拝時間: 毎週日曜日午後3時~4時半
場   所: 215-0011 川崎市麻生区百合丘1-19-2 星ビル5F
アクセス:小田原小田急線「百合丘駅」南口より徒歩3
お問い合わせ:牧師アリまで 080(6583)0215
 
【12月の礼拝予定】
12月  4日  百合丘
12月11日  南足柄(合同礼拝;下記参照)
12月18日  百合丘
12月25日  百合丘(クリスマス礼拝)
 
※なお、12月11日の礼拝は下記の場所で合同礼拝を行いますので
百合丘での礼拝はありません。
日 時:12月11日㈰ 10:30~12:00
場 所:南足柄キリスト福音教会(参加自由・入場無料・席上献金あり)
    〒250-0105 神奈川県南足柄市関本987-6
    ℡             0465-74-5962      
アクセス:大雄山線「大雄山駅」より徒歩8分
     小田原小田急線「新松田駅」よりバスで15分「南足柄郵便局前」下車

主からの特別な祝福

20111023

新約聖書 黙示録113節 「主からの特別な祝福」

アリ牧師

 

1、イエス・キリストの黙示

黙示録を書いたのは弟子の中でも一番若いヨハネです。彼は他の弟子たちと同様、迫害の中にあっても福音を伝え続け、その結果パトモス島に流されました。当時その島に送られることは死んだも同然と考えられていました。しかしヨハネはその島で直接神様と会い、啓示を受けました。最も厳しい状況の中で、神様がヨハネの前に現れたのです。神ご自身の栄光とその人格は、ヨハネを通して多くのリーダーたちにも伝えられ、やがてすべての教会(7つの教会)に行き渡ります。

黙示とは、色々な場面に隠されている神様からの啓示です。私たちは神様を直接知ることや表現することはできません。しかし神様は、ご自身の存在や栄光、そしてその力を私たちに示されることがあります。それが黙示です。

 その黙示録の最初に書かれてあるのは『イエス・キリストの黙示』です。ヨハネの黙示ではありません。この点が重要です。イエス・キリストご自身が、ヨハネのところに現れようとしています。

ここでまず覚えたいことは、黙示録が預言だということです。

次に、黙示が神様ご自身を支配者として表していることです。「わたしはこの世を創造した偉大な神である」と、神様は私たちに語りかけてくださいます。これが黙示です。

そして3つ目に、黙示録は手紙であることです。神様は、あらゆる方法や道徳的な考え、霊的な支えをこの手紙を通して私たちに用意されました。この3つのテーマを覚えましょう。

 

2、すぐに起こる(スピード)という意味

ではこのイエス・キリストの黙示は私たちにどのように現されているでしょうか。11節に『これはすぐに起こるはずのことを、そのしもべたちに示すため、神はキリストにお与えになったものである。そしてキリストはそのみ使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった』とあります。

三位一体という言葉を使うとき、父なる神、御子のキリスト、聖霊、それぞれがどのような働きをしたかが問題となります。ここでは「神がキリストにお与えになった」とあるので、父なる神はすべての計画を備えるアーティストであり、御子のキリストは父からそのアートを渡され実行する者となります。そしてその実行されたものを守るのが聖霊の働きです。

アートを渡されるイエス様には必ず天使、つまり遣わす人がいます。父なる神がアーティストで、御子イエス・キリストが実行者なら、御使いはイエス様の言葉を運んで渡す布告者です。御使いはヨハネにイエス様の言葉を渡しました。

その言葉のはじめに「すぐに起こるはず」とあります。ただここで伝えているのは、この時点から実際に事が起こるまでの時間的長短ではなく、事が起こった後に続くアクションの速さです。ひとたびこういう事が起きると、後の展開があっという間だということです。

イエス様が御言葉を伝えてから二千年もの月日が経過したいま、起こるべきものに私たちはだいぶ近づいていると考えられます。もちろんいつ起こるかはわかりません。しかしひとたび起こってしまうとあっという間なのです。

 

3、示す

2節には『ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち彼の見たすべての事をあかしした』とあります。「あかし」とはイエス・キリストの人格から幕が取り払われることです。

教会では礼拝やメッセージのほかに人々の交わりがあります。交わりの輪の中で、キリストは私たちの隣人を覆い隠してきた幕を取り除き、証しが示されます。キリストが隣人の中に働きかけたとき、私たちはキリストの恵みを味わい、神様によって用意されている祝福を確信するのです。

ひとりひとりの中に同じイエス様がいます。私たちの中におられる聖霊と同じ聖霊さまが隣人の中にもおられます。それぞれの中にいる聖霊さまが、どれも同じ働き方をするわけではありません。しかし交わりや証しを通してイエス様の恵みを示します。

それまで誰にも言えなかった秘密でも、交わりの中では告白できることがあります。それは交わりを共にする人たちの中にイエス・キリストを見たときです。「その人」だから秘密が言えるのではありません。彼らの中のイエス様を見るので告白できるのです。ですから人間的な考えをもって人を見る必要はありません。その人の中におられるイエス様を探してみましょう。そうすれば人生がより一層まばゆい輝きを放ち、更に前進することでしょう。

 

4、御使い

「御使い」という言葉はギリシャ語で、人間に対しても使われます。ですから神様が私たちを「御使い」として使われることも十分あり得ます。神様は私たちを通してご自身の姿を示され、ご自身のメッセージを人々に渡そうとされているのです。

教会の中で悲しむ人を見たときには、ただ祈るだけでなく、その人に愛していると伝えてください。神様があなたに見せたこと、あらわしたことを、今度はあなたが伝えることによって、その人にキリストを持ち込んでください。神様は私たちひとりひとりを通して、色々なことをお互いに示そうとしているのです。

 

5、ヨハネはこの黙示を預言と呼ぶ

3節には『この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである』とあります。ヨハネははっきり「預言」と言い切っています。黙示は単に神様を表すことだけではなく、神の預言でもあります。すでに「時が近づいている」から「すぐ起こる」と知らせているのです。

 

6、時が近づいているからである

イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいている。」(マタイ福音書417節)とだけ伝えました。それ以上のメッセージは一切なくシンプルに呼びかけました。イエス様は預言されていることが必ず起こるから目を覚ましなさいと注意しているのです。それを聞いた人たちは後に指導者となりました。

ギリシャ語で「聞く」という言葉は「聞きながら知る」という意味です。聞いたことを真摯に受け止め、理解して心に留めることです。

みなさんには聞くだけでなく、心を留めて人々に伝える祝福が用意されています。黙示録は私たちにそのことを教えています。神様の目的の中であなたが選ばれ、あなたに神様が示されることだけではありません。今度はあなたを通して、その神様の祝福を多くの人々に伝える用意をしてほしいと思います。なぜならあなたの中にもイエス様がいるからです。伝えることで、あなた自身が祝福を受けるでしょう。逆説を言うなら、イエス様を伝えないことは、伝える相手が受けるべき祝福を、私たちが止めてしまうことと同じです。

以前私は倉庫でお客様の荷物を搬出する仕事をしていました。お客様からの注文に応じてどんどん荷物を搬出します。ところが注文が来ない荷物は放置されたままほこりをかぶっています。「注文がくればすぐに出せるのになあ」と思いながら、私はほこりをかぶった荷物をよく掃除したものです。

神様の倉庫には私たちの祝福がたくさんあります。あなたが伝えることで、その倉庫からあなたの届け先に祝福がどんどん出荷されます。これこそ神様が用意している黙示録です。

 

これが黙示録の始まりです。黙示録では確かに恐ろしい話が展開されます。しかし、まず始めに、どれほど私たちが偉大な神に愛され、どれほど神様が私たちにご自身を示したいか、どれほど神様によって私たちが生きてほしいかという想いが示されている、ということをぜひ覚えましょう。

私たちが特別な祝福を受けるために、あらゆる人が動いています。その祝福は具体的にはなかなかわかりません。ある人にとっては癒しかもしれません。またある人にとっては救いかもしれません。

私にとっては家族の救いがその一つでした。何年も前に、私は母国の家族に自分の信仰告白をしました。「キリストが本当の神です。迷った時にはこの方に頼るしかない」と伝えたのですが、このときは誰も私の話に耳を傾けようとはしませんでした。ところが後になって二人の姉が救われました。一人は洗礼も受けました。彼女の子供たちもすでに4人が救われています。不思議なことですが、これが私に対する主からの特別な祝福です。あなたにも必ず主からの特別な祝福が用意されているのです。

愛するみなさん、時は近いのです。ですから油断してはいけません。目をさまして下さい。このキリストを見つめることで、私たちはあらゆる面で解放されることを知ることができます。ですから交わりを大切にしましょう。交わりの中で神様があなたに現れます。

そして、神のことばとキリストの証しに耳を傾け、信仰に集中しましょう。そうすることで、自分の人生に主からの特別な祝福を味わうことが必ずできるでしょう。祝福はもう用意されています。

次なる祝福を期待してお祈りしましょう。

集中力

20111016

マタイ6章24節、ヘブル12章2節 「集中力」

アリ牧師

 

(二兎を追う者は一兎をも得ず)

 

マタイの福音書6章24節に「だれもふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。お金と神の両方に私たちが集中することは不可能です。たとえそうしようとしたところで、力が湧くこともなければ、神様の恵みを十分味わうこともありません。結局中途半端に終わるのです。

集中することは神様の働きであり、私たちの力ではありません。私たちの中にいる主ご自身、御霊ご自身が私たちを集中させてくださいます。

 

時間とエネルギーをどのように配分するか

 

強みに割り当てる

皆さんには強みがあります。ただ自分自身にある強みではありません。自分を愛し、自分を変えて下さる方がおられる、という強みです。

第一テモテの手紙1章12節に「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」とあります。イエス・キリストによって恵みが与えられたことを、パウロ自身が自分の強みとして認識していたことがわかります。

愛する皆さんの中にも主の恵みが与えられているので、パウロと同じような強みがあるはずです。その強みに私たちはいつも目を向けることが大切です。このことを私たちは忘れがちではないでしょうか。

イエス様を信じたと認めるだけでは不十分です。イエス様は私たちのために多くの犠牲を払われたばかりでなく、私たちに目を向けて集中してくださいました。このことを忘れたために、いかに自分自身の力で生きているかを誇示したり、他人の言動を真に受けて反応したりすることが多いのではないでしょうか。

集中する前に、もう一度自分の救いを思い出してください。自分の必要性や自分の持っている物を思い出してください。自分がどれほど神様に愛され、生かされているかを理解することができ、私たちの中で集中する力が身につくはずです。

 

新しいことに割り当てる

成長とは変化することです。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者」(第二コリント517)であるということです。あなたがイエス・キリストを信じれば~しなさい、とはどこにも書いていません。まず生まれ変わらなければ神の御国を味わうことができません。

私たちは「何をすべきか」と律法的に考えることがあります。ただ私たちは神の恵みに集中するわけなので、私たちが何をすべきかを考えることではなく、このキリストによって変わるかどうかが重要となります。イエス・キリストによって新しい思いや行動に出会うと、自分の持つスタイルすべてが変わり、自ずと新しいことが成し得るのです。

 

弱い点に割り当てる

自分でできないことは他にゆだね、頼っていくことです。自分の弱さを責めることではありません。ワンマンなリーダーは何もかも自分でしようとしますが、自分の弱さを見ていないので指導することはできません。本物の指導者は自分の弱さを知るからこそ神様にゆだねることができます。

パウロも自分の弱さを取り除きたいと願い、そのことで3度も祈りました。ところが彼は、取り除きたいとするこの弱さが、自分の手で触れるものではなく神様が入る場所だと悟ります。自分の弱さというものは、イエス・キリストのためのゲストルームであり、イエス・キリストご自身がとどまる部屋なのです。

 

集中力を失った時の対処法

 

日々キリストによって自分を向上させる

主イエス・キリストの内にあるなら、私たちは新しくされます。イエス様は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつまでも、あなたがたのそばにいます」(マタイ福音書2820節)と言われます。決してあなたを見捨てないと言われるイエス様こそ私たちにとって成長の原動力です。ですからどんどんレベルアップしましょう。

もし、明日も今日と同じ過ちを犯すなら、神様の御心に従って生きていることにはなりません。それは単に私たちが怠けているだけのことです。集中すれば必ず今の問題が見えるようになり、必ず明日への希望につながります。私たちはいつまでも同じ場所にとどまることはないのです。

 

自分の最優先事項に取組む

これは信仰の闘いです。信仰のために汗を流すことがあります。しかし私たちはそのために自分にとっての優先順位を見失うことがあります。伝道することなのか、それとも家族を見ることが大事なのか、と迷ってしまうことがあるかもしれません。テモテへの手紙の中でパウロが強調していることは、救われた人間がすぐに奉仕をすることではなく、自分の家族をまず整えていくことの大切さでした。奉仕したら神様が喜ぶと思うのはただの勘違いでしかありません。

確かに奉仕は素晴らしいことですが、それは神様にとっての最優先事項を守った上での話です。ですから時に奉仕には犠牲が必要になります。

 

強みを生かす

強みとは賜物です。強みは神様の栄光をあらわすだけではなく、あなたの集中力になります。たとえ苦しいことがあっても、強みを持ってさえいれば、乗り越える喜びを味わうことができます。

私たちにはそれぞれの現場というものがあり、心と力を合わせて一緒に働く同僚がいます。家族という現場にあっては自分の妻や旦那さんがあなたの同僚です。教会では隣に座っている人が祈りの同僚、時には奉仕の同僚にもなります。そこであなたの賜物と同僚の賜物が合わさると、豊かな実を結びます。

ローマ人への手紙1章12節で「あなたがたの間にいて、あなたがたと私とのお互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」とパウロは言っています。お互いの賜物を合わせていくことが大切です。

 

集中力を高めるために!

 

焦点を強みに移す

この教会が始まった時、数回にわたる礼拝場所の移動、イスの不足、様々な問題がありました。そんなときでも当時のスタッフが、ごく少数であるにもかかわらず、教会に集中してくれました。誰がいつ辞めてもおかしくない状況が続く中、やがて救われる人々や教会に戻ってくる人が現れました。そして協力者にも恵まれました。J’s Tableはこうして今に至ります。当初のスタッフたちが焦点を定めて集中的に祈ったことが、このように強みとして実ったのです。

 

弱い点を神とスタッフに任せる

もし自分に弱さがあるのなら、自分の代わりとして他の人にやらせてみることです。そのためにも自分の弱さを他の人に伝えてください。「私はこんな点が弱いので、支えてください」「私のこの弱さのために是非祈ってください」と頼んでみましょう。

 

自分のレベルをアップする(ビジョンを持つ)

イエス様を信じること、つまりイエス・キリストによって変わることは、私たちがまずビジョンを持ってそこに集中することです。ですからビジョンを持ちましょう。将来どんな会堂がほしいのか、どんな賛美をささげたいのか、どんな奉仕をささげたいのか、という具体的なビジョンを、どんどん神様のもとへ持っていきましょう。また、この国の中で自分は何ができるのかといった大きなビジョンまで持つこともできます。

私には、教会と教会を繋げる架け橋を作りたいというビジョンがあります。また宣教のために海外に事務所を構えたいというビジョンもあります。そこで豊かな関係とコミュニティーを作りたいと願っているのです。

自分に与えられたビジョンは神様にゆだねましょう。アーティストは神です。パウロはローマに自由人として行くことを願っていましたが、実際には囚人としてローマに行ったのです。どんな形であれ、結果として彼はローマに行くことができました。その形を作られたのは神です。

ビジョンを持つことで、私たちの人生には神様の形が必ず現れます。この神に集中してみましょう。そうすることによって自分の賜物、または自分のビジョンが必ず見えてくるはずです。集中しましょう。

集中して祈りたいと思います。黙とうしてください。

Profile
Pastor

牧師:アリ・レジャイアン

1969年イランで生まれる。生後半年で父親と死別、母親とも離れてストリートチャイルドの経験を持つ。イラン・イラク戦争従軍中にイエス・キリストを知り、来日後に受洗。91年に来日。98年JTJ宣教神学校卒業と同時に日本人と結婚する。小田原友愛キリスト教会の牧師として10年間働き、
現在はJ‘s Table(ジェイズ・テーブル)キリスト教会の牧師を務める。
特技はサッカーとレスリング。

著書「ありのままのアリ ~私の夫は、イラン人牧師~」
http://rejaeian.org/product.html

ありのままのアリ
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