2011918

旧約聖書 イザヤ書618節 「勇 気」

アリ牧師

 

「勇気とは、祈りをとなえる恐怖心のことである」という言葉をカール・バルトという人が残しています。イザヤ書を読むとき私はいつもこの言葉を思い出します。そのイザヤ書6章1節で「ウジヤ王が死んだ」と書いてあります。ウジヤ王が死んだ年に「私は高くあげられ、幻をはっきり見た」ということです。

ウジヤ王はとても良い王様でした。当時ユダヤの地はイスラエルとユダとの二つの国に分かれていました。イスラエルの方はすでに偶像礼拝に満ち、堕落した国となっていましたが、片やユダの方にはまことの神を見上げ、色々な実を結ばせる王がいました。その王こそがウジヤ王だったのです。

ウジヤ王は神の心をしっかり教える指導者でした。その指導者が死んだのでユダでは大変な混乱が起きました。イスラエルのように自分たちも偶像の方に走っていくのではないかと恐れる人たちが現れたからです。

イエス様が亡くなったときも、絶望したマリアたちがすぐにお墓へ行き、ずっと泣いていました。自分たちのことを愛し、ずっと導いてくれた大好きなイエス様が十字架の上で死んでしまったからです。

このように人間は、何かが終わることによって絶望することがあります。その時に私たちは勇気を失い、迷いが生じてしまいます。しかしイエス様は自らの死後に栄光の復活を果たしました。ウジヤ王が死んだとき、イザヤは復活を果たすイエス様のような幻をきっと見たのでしょう。そのときイザヤの目には、今まで見たことも聞いたこともない栄光に満ちた生き物たちが映っていました。

 

●勇気に関する4つの真理

 

1、勇気は内面の戦いから始まる

その生き物たちは「聖なる、聖なる万物の主」(3節)と叫びます。これは軍的な言葉です。「聖なる!聖なる!」という感じです。偉大で聖なる神の前で、イザヤの足は震え始めます。それは罪人である自分の内面を見たからでした。このように勇気というものはまず内面の闘いから始まります。

勇気を失うと私たちは外の方ばかりを見てしまいます。自分自身よりも自分の外を見てしまい、そこでついつい決断してしまいます。そうすることによって「今まではこうだった、だからこうなる」という体験に縛られるのです。

無論イザヤにもそういう気持ちはあったはずです。けれども聖なる方を見たときに、彼自身の内面の中で闘いが始まりました。自分の弱さや自分の罪を見つめるには勇気が必要ですが、そんなところを見ようとする人はなかなかいません。自分で自分の枠を作り、その枠に自分をはめて縛ることが多いのです。

私の友達がある女性を好きになりました。友達はその女性のことが好きなのに告白する勇気がありませんでした。私が友達に告白できない理由を聞いてみたところ、友達は「こんなにも美しく優しい彼女を自分は守れる自信がない」と答えました。勇気を持って答えてくれた友達に感動した私は「その気持ちを正直に、彼女に伝えてみたら?」と提案しました。その友達も今では結婚して子供もいます。どうやらその提案は功を奏したようです。

 

2、勇気とは、物事を平易にすることではなく、正しくすることである

平易ではなくて、正しくすることである。勇気は、恐怖心を抱いていないことではなく、恐れていることをすること。

自分がおそれているからこそ、何かをすることが勇気です。イザヤはただ単純に神を怖がっていた訳ではなく、尊敬して畏れたのです。自分が罪人だという自覚があった彼は、きよい方の前に立ったとき、その方に従わないまま歩んでいる自らの姿に気づきました。このとき自分はこの方を尊敬しているのだと確信し、この方を通して人生を歩みたいと改めて決意しました。これが勇気です。

私たちの人生のなかで恐怖から来るものはいっぱいあります。だからといって最初から自分は何もしないのだと宣言してはいけません。むしろ恐怖があるからこそ行動を起こして何かをすることが重要です。

5節には「そこで私は言った。『ああ、私はもう駄目だ。私はくちびるの汚れたもので、くちびるのけがれた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」とあります。このときの彼の心境は「ああ、もうすぐ自分は死んでしまうのだ・・・」という絶望感でいっぱいでした。なぜなら神様の顔を見た者は必ず死ぬと信じられていたからです。

ところが次の6節には以下のみことばが続きます。「すると私のもとに、セラフィムの一人が飛んできたが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は私の口に触れて言った。『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」

怖さを感じているときや悩んでいるときに、自分の内面の闘いを口に出して告白すると神様の助けがすぐに訪れます。私達の口からすべてが私たちの中につながっています。この口こそが私たちの心を汚してしまうものですが、それをイエス様がきれいに洗ってくださいます。この6節でも燃えさかる炎がイザヤの口に触れ、彼の内面がきよめられました。彼は神の恵みを味わったのです。

 

3、勇気とはこの人についていこうという人々の確信をかきたてる

神様の恵みを受けた人は、この方についていこうという意思が生まれます。人を指導するには勇気が必要です。母として、妻として、夫として指導していくために勇気が必要です。かといって勇気は私たち自身が作るものではありません。私たちの中に住んでくださる聖霊さまによって私たちの勇気は生まれます。私たちは聖霊さまによって何でもできるのです。信じる者にできないことは一つもないと聖書は教えています。私たちは勇気を出して歩みましょう。 

「わたしが共にいるから強くあれ、雄々しくあれ」と神様はヨシュアに言います。これが私たちの勇気です。私たちの勇気は自分の知恵やわずかな経験によってではなく、私たちの中にある聖霊さまによって存在していることを忘れないでください。もしあなたの中で勇気が湧いたなら、私たちがイエス様についていったように、あなたについていきたいという思う人が必ず現れます。

 

4、勇気を持つと人生はもっと広がる。

イザヤは元々ただのユダヤ人男性でした。その彼が神様によって勇気づけられたとき、彼自身が生まれ変わり、あらゆる可能性が広がりました。私たちも神様からの勇気によって考えが豊かになるだけでなく、賜物が与えられ、多くの人たちと一緒にコミュニティーをつくることができます。神の子として人生が広がり、自分の存在もガラリと変わります。これが勇気というものです。

そもそも私たちが神様を信じるのは勇気を得るためです。「もう罪がゆるされたよ、安心しなさい」と主がおっしゃるのも私たちを前進させるためです。それだけでなく、「わたしは世の終わりまでいつでもあなたと共にいます」とも神様はおっしゃってくださいます。私たちは御霊によってすでに歩まされています。私たちは神様に勇気をもらいながら歩める存在です。そのことを意識しましょう。

 

●勇気を身につけるために

 

・恐怖と向き合う

まず恐怖と向き合って下さい。怖いことから逃げないで、しっかりチャンスをつかんで下さい。どんな恐怖でも私たちにとってはチャンスです。神様は私たちに必要な恐怖と合わせてくださいます。それは神様のみこころですから、私たちはその恐怖を知り、向かい合う必要があるのです。

 

・相手と対話する

あなたのそばにいるイエス様を想いながら相手と向かい合いましょう。相手と対話すること、つまりコミュニケーションをみなさんは日ごろからしていると思いますが、勇気というのは会話です。特に日本では、自分の思いを人に伝えないまま、いつまでも自分の中に溜め込む人が多いと感じています。溜めずに自分の思っていることをきちんと相手に伝えましょう。教会の中で誰かを見つけたら、その人に必ず自分の思いを伝えてください。ヤコブ書の中にも「互いのために祈りなさい」(5章16)とあります。対話するためです。

 

・大きな一歩を踏み出す

この一歩を神様は祝福してくださいます。この一歩をあなたが踏み出しさえすれば、あとは神様が何キロメートルも先に進ませてくださいます。あなたが踏み出すその一歩を神様は待っています。あなたの勇気を一歩だけ神様に見せてください。そうすればあなたの人生は大きく変わります。

今の私たちには会堂がありません。お金や場所の問題を考えると、私たちは確かに恐怖を感じます。では私たちの神様にとって、私たちに会堂を与えることは不可能なのでしょうか?そうではありません。神様は私たちを成長されるために、これらの恐怖を通して私たちに試練を与えてくださっているのです。この試練の中で神様が私たちにどうしてくださるのかを一緒に見ようではありませんか。そして神様がどのように私たちの心を変え、成長させてくださるかを、私たちの勇気と共にこれからも味わっていきましょう。

暫くの間黙とうしてください。