2011116

ヨハネの黙示録19~20節 「教会は、キリストに焦点を当てています」

アリ牧師

 

1、ヨハネの自己紹介(9~11節)

先日ある方が「教会は行かなければならない(・・・・)」と言っているのを聞きました。クリスチャンになると、教会には「行かなくてはならない」と考える人が多いようです。私はその人に、なぜ教会に行かなければいけないのかと尋ねてみました。その方はどうやら、儀式として教会に行かなければいけないと考えているようでした。私たちは教会に行くのではなく、キリストを信じた上で教会に行けるようになるのです。イエス・キリストを信じなければ、私たちにとって教会は無意味です。なぜなら教会はキリストの体だからです。

黙示録を読むと、教会の焦点はイエス・キリストだということがわかります。この黙示録を通してここでは、教会のありがたさがどこにあるのか、一人ひとりの信徒がどのように守られ、支えられているのかについて考えてみましょう。

 

9節に「私ヨハネは」という自己紹介があります。ただし「私はヨハネです、よろしくお願いします」ということではありません。この自己紹介には、誰から発せられた話なのかをはっきり明示する目的があると同時に、ヨハネがここで「あなたがたとはキリストによっての兄弟にされている」という関係性を示す狙いがあります。イエス様を信じるものとするなら、あなたがたもその兄弟なのです。つまり私たちは誰かの特別な努力によって集まっているわけではなく、みなキリストによって集まっているのです。これが教会の第一のポイントです。

 

「あなたがたとともに」味わうものとしてまず苦難があります。苦難のなかにはイエス・キリストにあって御国と忍耐があります。ヨハネはイエス・キリストの教えを広めようとしたために、罪人としてパトモス島に送られる罰を受けました。しかし彼は「神の言葉と、イエスのあかしのゆえに」このパトモス島にいると言い切ります。自分の現状を苦しみとして捉えているのではなく、神の言葉を聞くチャンスと捉えていたのです。

この島でヨハネは「大きな声」を聞く不思議な体験をします。神の声を聞く主の日を迎え、御霊を感じたからでした。主の日というのは礼拝するための日であり、ヨハネはこのときに「聖霊に満たされ」ました。感じるという言葉にはギリシャ語で「満たされている」という意味もあります。聖霊に満たされている主の日、そのときこそ一気に目の前にある島の苦しみが神様の舞台に変わり、私達も神様から啓示を受けるのです。

神様を礼拝し、聖霊に満たされているそのときこそ、神様はご自身の啓示を渡されます。礼拝の中で「ラッパの音のような大きな声」を聞いたということは、神の声をハッキリ聞いたということです。

 

2、啓示(1216節)

以上のように、満たされるということは神の声が聞こえるということです。そこでヨハネが最初に見たものは七つの燭台でした。七つの金の燭台は七つの教会、すなわちすべての教会を表します(七は完全数)。1216節ではヨハネが啓示として見たものが挙げられています。

「燭台の真ん中」には「人の子」がいました。これはイエス・キリストがその中心におられるということです。ですから教会に行く理由も、その中心におられるイエス・キリストに会いに行くためだということになります。教会は兄弟姉妹と共に集まり、一緒にイエス様を見つめるところでもあります。

「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた」とは神様と私たちとの関係を表します。「足までたれた衣」を着るのは祭司です。祭司は各民族の名前を入れた金の帯を胸にいつも付けています。祭司が金の帯をいつもつけているように、神様は私たちのことをいつも覚えておられ、あなたからから決して目を離さないというメッセージがあるのです。「わたしはアルファであり、私はオメガである。見よ、私は世の終わりまで決してあなたを見捨てることはない。」と神様は胸に張って訴えられておられます。

「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く」にある「白」はきよさや敬虔、知恵を表します。神様は一つ一つの出来事や経験を通して、私たちにはきよい知恵を与えようとされています。その知恵は、決して中途半端な知恵ではなく、最高の知恵です。それは神ご自身を私たちに表しています。

「目は燃える炎」とは、神様の目に見えないものは一つもないということです。へブル人の手紙413節にも「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」とあります。神様は髪の毛の一本一本にいたるまで、あなたの全てをご覧になっています。

「炉で精錬され」た「足」とは裁きのしるしを表します。生まれながらの罪だけでなく、今までしてきたことも裁かれますが、それは神様がただ責めるだけではなく、私たちを迎え入られることも覚えたいと思います。

「口から鋭い両刃の剣」とはどんな方向でも切れる神様の言葉を表しています。神様の言葉を聞いたときに心にぐっと刺さった感覚を感じたことがないでしょうか。それは自分の罪に気付いた証しです。神様の御言葉は責めるためにあるのではなく、回復のためにあります。

「その声は大水の音のよう」と「顔は強く照り輝く太陽のよう」とは神様の栄光と誉れを表します。それほどまでにイエス様が偉大であるということです。

 

3、解釈(17~20節)

「それで私はこの方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」

あまりにも偉大なイエス様の前に立ったヨハネは圧倒されて言葉をなくし、そして倒れました。神の偉大さと栄光によって、彼は腰を抜かしたのです。

 

イエス様の右手

ユダヤ人社会において左手は不浄の手とされていたので、きれいなものを持つときにユダヤ人はいつも右手を使いました。そのため右手はきよいもの、また力あるものとみなされていました。ここにあるイエス様の「右手」とは、腰を抜かしたヨハネを、神様の力が慰めて立たせるようにしたということです。

「恐れるな、私は最初であり、最後である」とは一言で安心しなさいということです。私たちは自分の人生の方向性を見失うことがあります。しかし神様の右手が私たちの上にあり、その手が回復へと導いてくださいます。

その神様が『わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また死とハデスとのかぎを持っている。』とおっしゃいます。いつまでも生きている神が私たちと共におられます。そのような方に包まれて、私たちはいつも声をかけられています。このことをヨハネが黙示録を通して私たちにはっきりと伝えています。

 

『そこであなたの見たこと、今あること、こののちに起こることを書きしるせ』

だからこそこの黙示録を読むときの鍵が19節に隠されていることがわかります。すっかり意識を取り戻し、その足でしっかり立ったそのときに、ヨハネは何かを記さなければならなかったのです。これが黙示録です。これまで起こったこともあれば、今起こっていること、またこれから起ころうとすることもあり、それらすべてを「書きしるせ」と神様はおっしゃいます。というのもこれから伝えることはすべて真実だからです。

 

イエス様の手の上には七つの星があり、教会は一つ一つの上に神様の天使があります。キリストご自身が自分で教会の中に入っているのではなく、キリストの天使によって教会が守られ、支えられています。

私たちが成長し、神様の輝きを心から賛美できるようになるためにも、私たちの周りで働く天使を見てください。主の日では神を礼拝し、御言葉をしっかり味わいながら、御霊に満たされましょう。神様の声を聞き、どれほど自分が神様に包まれ守られて、そして生かされているのかを感じてください。これから起こる黙示録の出来事を是非一緒に読み味わいましょう。

神様はただあなたがたを裁くだけのお方ではなく、絶対的なお方です。私たちはそのことを自覚するだけにとどまらず、神様を必要としている人たちにも声をかけ、そのことを伝える必要があると確信します。一言お祈りましょう。