2010年12月26日

永田駿介のブログ<125>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

お知らせ:

<JTT情報局:「永田駿介のブログ」は本年(平成22年)もって休載とします>
 
別途、筆者の個人のブログ、そのタイトルは回想」と「夢想」またチョイ「真面目」なブログについては引き続き掲載を続けております。(クリックするとページが変わります)
どうぞ、是非一度お立ち寄りください。   
                     
この個人ブログアドレスは下記のとうりです。
 
(いずれか一方をクリック下さい。また先にブログ<121>にてお願い致しました手順をもちまして、ご案内のチョイ「真面目」なブログのトップページのアドレスを「お気に入り」に登録頂ければ幸甚に存じます)
 
                    永田駿介拝
 

 



2010年12月12日

永田駿介のブログ<123>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

918b0071.jpg 
<元ホクレン会長の訃報に接し>
 
11月29日の新聞に元ホクレン会長 藤野貞雄氏(83歳)の訃(ふ)報が報じられた。
 
「ホクレン」(北海道農業協同組合連合会)とは北海道内各地区ごとの農業協同組合(単協という)の上部組織のことである。
 
筆者が氏との出会いをえたのは氏が富良野農業協同組合長当時のことである(確かS60年過ぎ頃だと思う)。
 
また、富良野(現・ふらの)農協ついては、いち早く先進農業を推進し、農作物の多角経営・低温流通などに実績を築いている農協として、北海道内外からも広く注目されていたようだ。
このことは、筆者は産業界に身を置く立場であるが、当時はたまたま北海道に赴任中(S59~63年)であったため、農業界の様子も多少は聞き知っていたのである。
 
この頃、地元商社の一人から富良野農協が”バイオ農業のパートナー探し”をしているという話がもたらされたのである。
勿論、この話は藤野組合長の意向を受けての話であろう。
 
また、当時のIHIでは未だ社内技術研究所の一隅で、将来テーマである宇宙関連プロジェクトの一環として「宇宙バイオ」に関する基礎研究を行なっていたようだ。
その手始めとして、研究所としはまず現状の”植物バイオ”を手掛け始めたところであった。
 
早速、この話を研究所につなぐと、IHIのバイオを一層深化させていくためにも、よきチャンスであると捉えバイオの技術協力協定を締結すよう社内的にも賛意も得たのである。
 
S63年、両者の技術協力協定書が成立の運びとなり、この協定書の署名人は藤野富良野農協組合長/当時の仲田IHI技術研究所長であった。(上写真:技術協力協定書の調印式)
 
この頃までは、戦後の経済拡大の勢いはまだ続いており、当時の各分野の業界の間では盛んに異業種間との合併や連合体の結成が進んでいた。
 
DSC00389従って、この技術提携を契機として、その後、両者が折半出資する「バイオ新会社・”株)イフジーン”」をH2年3月に設立するに至ったわけである。
 
勿論、その役員メンバーにはこのプロジェクトの推進者である藤野組合長が社長が兼任されることになり、両者からそれぞれ同数の取締役が選出された(筆者もその一員として名を連ねた)。
(上:アスパラ現物を説明、藤野会長)
新会社の主営業品は組織培養(バイオ)による”ウイルスフリー(無菌の)アスパラガス幼苗の作出”ほか”植物バイオ商品の生産・販売”であった。
 
また同時に、「異業種合体(農業と重工業)によるバイオ会社の設立」という見出しが全国紙や地方紙、業界紙などの紙面を飾った。
 
アスパラこのためIHIサイドも、この新会社における毎年の株主総会や取締役会などの会合では、従来馴染みのなかった農業界の特殊事情などをお伺する機会が得られた。
(左:圃場のアスパラガス)
また同時に農業に従事され、自然や大地と真剣に勝負されておられる、富良野農協出身の取締役の方々よりも多大な薫陶をうけたことを大変有難く思った。
 
なお、藤野組合長はこの後間もなくH2年より(前述の)単協の上部組織であるホクレン会長職に転任され、その後3期9年間当該要職に就かれていた。
 
従って、この間、この折半出資になる合弁会社イフジーン社の社長はこの時点よりホクレン会長による兼任職となったわけである。
(なお、この合弁会社イフジーン社は約10年間有効な経営がなされたのち、その役割を終えて、この会社は清算した)
 
今日、氏の訃報に接するにつけ、当時の思い出と共に、この時のバイオ学習本に記載あった植物の「分化全能性」(この能力を利用したものが、組織培養技術でもある)という専門用語が頻繁に目にとまっていたことを思い出し、この植物の不思議さを、いま更ながらにいろいろと思い出してきた。
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注)筆者個人ブログとは掲載写真などに違いがあります。
ご確認ください。
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                    (永田駿介記)


2010年11月24日

永田駿介のブログ<122>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

4fa4fa41.jpg<鎌倉大仏など> 
 
去る11月14日にはAPEC横浜首脳会議などは全日程が終了したという。
とくに、この会議中に行われた日・中、日・露の二国間のミーティングは友好的な雰囲気は全くなかったと重ねて報道されているが、これでは将来に大変不安を感じる。
(左:鎌倉大仏)
これに引き換え、その当日午後にテレビなどで観るオバマ大統領の鎌倉大仏への訪問は、一服の明るいニュースでもあった。
 
オバマ茶この大仏は鎌倉長谷の高徳院の本尊でもある。
また、この大仏は、筆者にとっては別の意味で若い頃から大層”印象深い”ものをもっていた。
(左:オバマ大統領大仏訪問)
筆者がはじめて鎌倉大仏を訪れたのは、たしか中学生の頃の郊外授業の時だったと思う。
 
たまたま、その時の中学校担任が国語の先生であり、与謝野晶子の大ファンであったと記憶する。
 
日頃の授業でも、生徒が学習に飽きてくると、これは先生の好きな晶子の歌集だとして黒板に与謝野晶子の短歌などを書き連ねた。
 
その年頃の筆者には、これらの歌心などは理解できないものも多かったと思う。
しかし鎌倉の大仏を歌った下記の歌は不思議にその発想や比喩が面白いと感じていた。
そして見学した時に観たその仏像の印象が、この歌により不思議な輝きをもってきたように少年の心には感じていた。
 
「鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男におわす夏木立かな」
(御仏として仏像(神格)化されてますが、この仏教の開祖であるお釈迦(牟尼)さまは・・・)
 
大統領の訪問のニュースで、今更にこの歌を想い出した訳だ。
 
歌人晶子についてもう少し・・
 
第二次大戦後まもなくの反戦思想にピッタリの詩歌として、この当時は大変もてはやされていたが、晶子の下記のこの詩歌も先生は黒板に書き連ねていた。
 
アキコー4もちろん、「ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、・・・親は刀(ヤイバ)をにぎらせて 人を殺せと おしえしや・・・」(戦場に派遣された弟を想うー反戦歌)
(左:与謝野晶子像ー南海線堺駅)
さすが、下のこの短歌は当時の中学生の授業としてふさわしくないと、黒板に書くことは躊躇(ためら)ったに違いない。
 
「やは肌の あつき血潮に ふれもみで さびしからずや 道を説く君」
 
だいたい、空想家とは便利なものだ。
 
オバマ大統領が鎌倉大仏の前で、抹茶アイスクリームを食している短いテレビ画像から、いろいろな回想やら空想が錯綜して来るようだ。
 
毎度のことながら、この回想やら空想の世界に、ひとたび入ったらどうにも止りそうにない。
酔っ払った時のように戯言(ざれごと)も連発してしまう。
 
今回も、頭の中には記載したい回想ごとや空想ごとが浮かんで来たが・・ひとまず、ここで打ち止めにしよう。 
          ↓クリック
)筆者個人ブログ「永田駿介のブログ」にも本題のブログの掲載はありますが、本文関連写真をテスト的に多めに掲載してあります。ご覧(クリック)下さい。                                
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2010年11月15日

永田駿介のブログ<121>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

 mmm<いも焼酎の3M>
かって、このブログで「いも焼酎の3M」をとりあげたと思うが、その折はそれらの写真と”3M”と呼ばれる銘柄の紹介だけに留まったように記憶している。
今回はもう一度、その同時試飲の感想などを記述してみよう。
 
ついでながら、その背景ともいえる筆者の飲酒暦にも触れてみたい。
よく世間で言う”のん兵衛”の一人であることに何ら変わりないと思う。

すなわち、筆者が本格的に飲酒を始めたのは、会社勤めをするようになり、サラリーで飲めるようになってからだ。およそ50年以上前になるだろう。
 
学生時代もよく飲み歩いたが、いわゆる行き当たりバッタリの飲酒行動であって、一度にどのくらいの量を飲んでいたのか、ほとんど記憶にない。
 
それにしても、これらの期間を通して、わが肝臓器を通過し、解毒したアルコールの総量はどのくらいになるだろうか。一度は反省方々考えてみたい。
 
現在の飲酒量から推察してみる。
 
25度焼酎(アルコール比率25%)の月間飲酒量は1.8ℓ(一升)瓶6本である。 (とくに休肝日は設けていない)
これを計算すると 0.25×1.8ℓ×6本×12か月=32.4ℓ(年間アルコール摂取量)
32.4ℓ×50年=1,620ℓ+α=概算2,000ℓと推定する。 (α=学生時代ほか)

ドラム缶これをドラム缶(200ℓ)ベースで換算すると10本分に相当する量である。
すなわち、これだけのアルコール量が筆者の偉大なる肝臓を通過したことになる。
 
この総量に己自身が驚く一方、あの拡大時代などは、営業に名をかりてバーやクラブで午前さまの連チャン時代のウワバミ(過飲)量は勿論計算に入っていない
また、基礎数字でもある32.4ℓ(年間摂取量)は年齢的にも年ごとに縮小しているため、いわゆる現在の数値は、まさにミニマムの基礎数字であることを認めざるを得ないと思う。
 
会社の設計部門の亡き大先輩が、たまたま社内パーティで薄い水割りのウヰスキーを、スイスイと水でも飲むように飲んでいる、若かった頃の筆者を見て、こんなことを話してくれた。
「私の友人の中でも、結局大酒のみは皆早死にしているんだナァ〜、これは絶対に間違いないょ」
 
有難い言葉を頂いていた。
必ず「今日は、もう飲むのはこれでお仕舞」という身体からのアラームは必ずある筈。
このアラームには素直でありたいと願うばかりだ。 
 
さて、いも焼酎の3Mの話である。
それぞれ入手の難しい銘柄である。
時々、別個に試飲することはあったが、たまたま、この銘柄が一度に揃う機会をもった。
 
「森伊蔵」はJAL国際線の機内販売みやげ、「魔王」と「村尾」は鹿児島市に転勤中の後輩よりプレゼントされたもの、いずれも頭文字が”M”であることから”いも焼酎の3M”というそうである。
いずれも開栓の機会がなく、そのチャンスを待っていたのである。
 
たまたま、先日鹿児島市の後輩の来訪をチャンスに、なかなか飲み較べる機会もないので、この際一気に開栓することとした。
 
いつも本人が好んでいる、水と氷の比率で、別室で作った三種の焼酎が別々に配られた。
各人、嗜好度別に左からコップを配置したあと、銘柄が告げられた。
 
筆者:村尾、森伊蔵、魔王   後輩:魔王、村尾、森伊蔵
 ↓クリックして下さい


2010年10月29日

永田駿介のブログ<120>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

  <ブログ考◆
      
Cマーク前回<119 笋砲読者は自分流にブログの記述を楽しむためには自分流にブログ掲載写真を選択する必要があると思う。
勿論、自前のスナップ写真の利用は優先だが、ブログのテーマが浅く、広く、多方面に及んでしまっているため、実際にはスナップ写真だけでカバー出来るものではない。
 
実際の運用面では、インターネット上のホームページなどに用いられている写真の多くを利用対象とさせていただいている。
 
選択された写真はブログ記載文の視覚的な説明役となっている一方、筆者自身もこの写真からまた新しいイメージを膨らませ、それらを自身の過去の記憶や体験、乏しい知識や想像力などと結びつけた、ブログテーマ選びができることがまた楽しい。
 
従って、広大なネット上からこの関連写真探しの難しさ、奥深さに直面することはしばしばである。
 
この写真探しで、いつも頭から離れないのは、使用させて頂きたいと思う写真著作者のお考えであろう。
 
明らかに著作者に使用許可を求めている場合や複製禁止の但し書きなどある場合はその利用は控えるが、問題はその写真のルーツの不明なものや掲載文体の全部に目を通すことを省略してしまう場合など、写真著作者の意図をつい見落としている可能性がある。
 
いずれにせよ、ブログテーマに完全にヒットする気に入りの写真が見付かった場合などは当該ブログには是非使いたいし、また次の発想の源泉ともしたい。
 
fb777e1b.jpgこの想いが高まれば高まるほど、万一のアクシデント(著作権、肖像権侵害クレームなど)の発生も予想されるであろう。
勝手ながら、その場合はあくまで個人の善意であること、非営利の趣味(道楽)の一環であるとしてお許しをお願いしなければならないと思っている。(個人的ブログを志向するわけ)
 
これまで、原稿段階でブログ投稿を見合わせていた写真、付属文章なども若干だが、手元に残ったままでいる。
 
現在、筆者が危惧していることは、万一筆者が流用した写真などに対して権利者からのクレームが筆者個人にでなく、ブログ投稿先であるブログサイトへのクレームに転換することである。
企業・jtt社主のご好意により、jtt社のブログサイトへの投稿便宜供与を頂いているからには、筆者の「勇み足」は厳に慎むべきと思考いたしています。
 
実は、これは筆者が以前より密かに上記のクレームの可能性あることの危惧は抱いていました。
 
従って、自発的に前回ブログ<119>より、クレームの可能性ある写真掲載は個人の責任であると存じ「筆者自身の個人ブログサイト」の運用を始めております。
永田駿介のブログ(個人ブログサイト)をクリックして下さい。↑(クリックください)
 
またブログアドレスはhttp://blog.livedoor.jp/suruga_y5_dion_ne_jp/です。(クリック下さい)↑
いずれも同じく筆者の最新記載ブログサイト「永田駿介のブログ」のトップページが開きます。
 
当該ブログサイト(表題:J T T情報局)へのブログ投稿(掲載写真)は厳に公開であるもの、権利者の同意あるものに今後十分の配慮いたしたく存じます。
 
                  (永田駿介記)


2010年10月12日

永田駿介のブログ<119>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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<筆者のブログ考>
      
兼好法師の著になる「徒然草」は日本の三大随筆(枕草子、方丈記、徒然草)の一つといわれ、いまでは小学校の教科書にも採り上げられているという。
(左:国会図書館図書館所蔵・写本;徒然草)
筆者の年代ではその序(段)文は中学生の国語(古文)の時間に初めて接した文章であり、以後、本文(243段)のうち選択的に何段かを高校時代や受験勉強の一環として、繰り返し履修したものだ。

だが、不思議なことにいまでは、その記述内容はおろか、その文脈などもほとんど覚えていない。
 
だだ、下記の序段文に関しては正確でないせよ、丁度、好みの曲の歌詞でも口ずさむ程度の記憶があるのが不思議なくらいだ。
 
兼好法師いわく、”つれづれなるままに、日くらし硯(すずり)にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
(小学館刊・日本古典文学全集参照)
(左:兼好法師坐像絵)
ついでながら、この序段文についても同全集本にある現代語訳と校注も同様に転載します。
 
なすこともない所在なさ(すなわち、閑暇で孤独な、ものさびしい心境であること)にまかせて、終日、硯に向かって、心に浮かんでは消えてゆく、とりとめもないことを、何ということもなく書きつけいると、我ながらあやしくも、もの狂おしい気持ちがすることではある
 
筆者は現在まで3年8か月間(H7年2月より)、単なる筆者の随想をブログという形式でパソコンに向かい書き連らねてきた。
 
もちろん、あやしくも、物狂おしい心境にもなっていないし、むしろそれを楽しんでいた。
 
筆者は自分のブログを四コマ漫画の形式のように、文字(本文)と写真の組み合わせであるため、格好な写真を探すことに結構時間を掛けてきた積もりである。
ときにスナップ写真の撮影を楽しんでいるといった方がよいのかも知れない。
 
また、この労を惜しむようでは、筆者流のブログを書く意味がないのではないかと思う。
 
実際に人が書いたブログでも、内容そのものに大いに興味がある場合は別として、視覚(一目で)でどんなことが書いてあるのか、予想がつくことが大変望ましいと思う。
 
筆者自身、読む立場では、文字だけのブログはなかなか読む気にならないことも事実だ。
 
漫画は絵面によって引き込まれるように、写真の爽快さ、清新さ、珍奇さ、色ポサなどを文章のストーリーに合わせるよう工夫すること自体、また楽しい。
 
ただ、これを楽しんでいると、気に入った写真が見付かった時、その写真への興味から、予定にないストーリーのイメージが浮かんで来て、あらぬ方向に文章の方が進んでしまう(ブログ<116>5枚目の写真などはそのいい例である)。
 
最近のもう一例として、ブログ<117>の冒頭、屋外でパンプスを直す女性の写真から「二つの足指痛」として、失礼ながら若い女性もホルモンバランスが乱れると「痛風」の可能性もあるという情報を思い出すヒントとなったわけである。
 
先にも記載したが、社会的にも全く無名な筆者が己の姓名を題字としたブログサイトを持つこと自体、大変僭越なことであり、また見方を変えれば大層滑稽なことだと承知しています。
 
また、たまに貴方の”ブログアドレス”は、と問われることがあります。
筆者のフルネームを漢字で検索してください」と答えています。
 
SEOある特定のウェブサイトが検索結果の上位に表示される手法として、IT用語ではSEOと略称するそうだ。
 
SEOの単純な方法として「検索するワード」をより太字で、繰り返し、回数を多く使うように教えられています。
そして早い時期からそれを実施しています。
(左:SEO解説書・西村文宏著)
お陰さまで、この3年8か月間でブログへのアクセス件数は3000回を超えております。有難うございます。
 
永田駿介のブログ(ここをクリックいただくと新規の筆者の個人ブログサイトが開きます)
 
       本文へご意見・ご質問:suruga@y5.dion.ne.jp
                   (永田駿介記)


2010年09月26日

永田駿介のブログ<118>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

3f2d22ec.jpg <健康志向◆檻押
(痛風とゴルフ)
前回のブログには「二つの足指痛」を記述したが、その「一つ」である「痛風」と呼ばれる関節(足指)痛は人の体内に過剰に存在する「尿酸」という物質が原因であることは前回ブログでも記載した。

では、この尿酸は一体、どのような物質だろうか。

およそ、人体は約60兆個の細胞で構成されているというが、その人体は常に新陳代謝によって新しい細胞に生まれ変わっているという。細胞が生まれ変わる時には、その中にある遺伝子も同時に新しく生まれ変わるそうである。(左上:尿酸のフロー)

「尿酸」とは細胞の中にある遺伝子の構成物質である「核酸」が新しい細胞に生まれ変わる時にできる物質であるという。
言い換えれば生命を維持するための新陳代謝によって生まれる”廃棄物”ともいえるだろう。

通常尿酸の2/3は腎臓より尿に排出され、1/3腸管から便に混じって排泄されるそうだ。

健康な人の体内の尿酸の量は1200mg前後で、これは体内で合成される尿酸や、食物から取り込まれた尿酸をすべて含んでいる数字だそうだ。
このうち500〜1000mgが毎日、新陳代謝よって新しくなり、一定のバランスか保っているという。

痛風の偏光顕微鏡像この代謝に異常があると、尿酸が過剰に生産されたり、うまく排泄されなくなって、体内には尿酸がどんどん溜まってしまうそうだ。

それが血液中に溶け込んで尿酸値は上昇し、結局関節などに蓄積されるという。
(左:尿酸塩の結晶・顕微鏡写真)
関節などに溜まった尿酸は、「尿酸ナトリウム」という「結晶」とな
るそうだ。

この結晶は体の中では異物として認識され、白血球の攻撃対象となるため、これが痛風の原因になるという。(主婦の友社刊 小田原雅人著「痛風」を参照した)

ごく最近のことである。

花みどりJR立川駅から徒歩で15分ぐらいの処に国立昭和記念公園があり、その一隅に「花みどり文化センター」という、いわゆる各種催し物の展示場(イベントホール)がある。
 
ボランティアで、ここを視察に訪れたときのことである。
 
この折、視察に訪れたのは三名(筆者も含む)は、みな会社勤めを終えた後は余暇の使い方の一つとしてボランティア団体などに参加している。
 
この三名の属している団体は「エコ」や「リサイクル」などに資するテーマなどを企画、立案する、いわゆる非営利活動に携わっている。
 
だが、日頃からけっこう雑用仕事は多いが、ときには「昔とった杵づか」である営業活動を伴う仕事にも参加していた。
 
三名はみな元気で気力もあり、とても(現役)OBであるとは思えないと思う。
実際にはこの三名の年齢差は10歳未満の高年チームであるが、筆者は年齢的には中位にある。
 
不思議なもので、高年者は高年者なりに相手方に体力的なコンプレックスを感じることは、けっこう愉快なことではない。
 
なかでも、筆者より二歳ほど年上の先輩より、かなり体力的に劣っていることを実感させられてしまう時は大変ショックでもある。
 
花みどり地図例えば、前記の立川駅より街の中の歩道路を歩き、このセンターまでの間には4〜5箇所の信号機があったように思う。
(左:花みどり文化センターへ15分)
筆者が前記の二名と同時に歩き出しても(青信号に変わったあと)、話しながら歩く二人から徐々に遅れ始めて、次の赤信号で立ち止まっている時間帯ではとても追いつくことは出来そうにない。
 
時折、二人は不思議そうに、うしろを振り返る。
 
筆者にとっては釧路アクシデント(前ブログ<116>参照下さい)以来、日頃よりかなりスロースピードで歩くことに慣れているからである。
また、前を歩いている二人は、現在も彼らなりに余暇でゴルフプレイを楽しんでいるようだ。
 
ご存知の通り、ゴルフプレーヤーはとくに後組のプレーヤーに迷惑を掛けないように迅速に行動し、スロープレーを極力戒めるものだ。
(下:家の近場にある河川敷:川崎リバーサイドゴルフ場)
リバーサイド上述の視察日は丁度、筆者が突然の痛風に襲われたすぐあとで、歩行スピードが一層遅くなっているときのことでもあった。
 
「歩行こそ健康の原点である」というとおり、当時は、あの広いゴルフ場を左右に走るように移動していたのだ(ミスショットが多いためである)。
 
あの時代のことを思い浮かべながら再度、このブログの記載と共に、是非この近隣のゴルフ場に於いてゴルフ現場への復帰を果たしたいと願っている。
 
    本文へご意見・ご質問:suruga@y5.dion.ne.jp

             (永田駿介記)


2010年09月12日

永田駿介のブログ<117>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

794b45f7.jpg <健康志向◆治院
 (二つの足指痛)
 
「痛風」という関節(とくに足の親指)の痛む病気のことを聞いたこと、或いは、体験されたことおありでしょうか。
(左:彼女は二つの足指痛のうちどちら?)
風が吹いても痛いといわれるほどに、その痛さは格別だという・・。
 
ひと昔前には「帝王病」とか「ぜいたく病」などといわれ、豊かな生活の代償であるかのようにいわれていたそうだ。
 
反対に質素な生活をしていれば、まず罹らない病気だという。
 
また、痛風患者の99%が男性であることも特徴だそうだ。
女性にこの患者がごく少ないのは、「女性ホルモン」が深くそれに関係しているからだという。
 
すなわち、女性ホルモンは、痛風の原因物質である体内の「尿酸」の排泄をスムーズにする働きがあるので、男性よりも女性は尿酸値が一般に低いといわれている。
しかし、女性も高年になると女性ホルモンの分泌が次第に低下し、この病気に罹る可能性もでてくるそうだ。
 
また、最近のストレスの多い社会では、ホルモンバランスを崩す女性が増えているため、まだ若いのに痛風を発症する女性が増加しているという。
 
外反母趾ーAそのほかに、とくにハイヒールを長時間履いている女性の足指に異常な痛みを伴うそうだ。
その「外反母趾(がいはんぼし)」が痛みの原因となるという。 

外反母趾とは、親指が変形して、小指の方へ曲がってしまう状態をいう。
身体の中心線から見て、親指が外側に曲がってしまうために、それを「外反母趾」と呼ばれるそうだ。

一般的には、パンプスやハイヒールなど爪先が極端に細く、足にぴったりした靴を履くことが原因であると言われているようだ。

はいひーるーBすなわち、女性の靴はファッション性が高いものが多く、足先を保護する機能が低いことによるそうだ。
それにもかかわらず、女性はそうした靴を選択してしまう傾向にあるのが現実のようだ。

また、近年の社会環境の変化から立ったままの仕事が増えたことも原因としてあげられているという。

実は筆者自身も本年の初め不意に自身の左足の親指(付け根部が中心)が窮屈なビジネスシューズの中で、これまでに経験したことのないような、熱っぽい左足の親指の痛みを感じた。
 
早速内科医院で受診すると、壮年期の肉食好みの人によく出現する「痛風」が筆者の場合は高年期になって初めて発症したという。
 
投薬された若干の鎮痛剤の服用でひとまず痛みは治まったが、今春の連休中はとくに暖かったので(極力避けるように言われていた)ビールの飲みすぎのせいか、ふたたび痛風が襲ってきた。
 
痛風の経験者のお方ならお解かりのことと思いますが、「尿酸」の血液検査の基準値は各<mg/dl>で(男性は3.8〜7.0)、(女性は2.5〜7.0)とある。
 
筆者の年初のデータでは(H22.2.22)の測定値:8.0/dl すでに基準値をオーバーしていた。
 
生ビール二度目の疼痛のあと、原因である尿酸値を下げる投薬(ザイロリック)を受けたところ一か月後には、尿酸値は5.8 mg/dlに低下した。
 
残念ながら、この最新の測定値を知らされたのがごく最近で、本年の猛暑には(禁飲中の)ビールでは己の身体を労(いた)わることができなかった。
<この項つづく>
            (永田駿介記)
  本文へご意見・ご質問:suruga@y5.dion.ne.jp

        


2010年08月31日

永田駿介のブログ<116>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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<これ奇なるが故にー2>
上記の後編の掲載を引き続き予定していましたが、都合により若干の猶予を頂き後日の掲載と致したく思います。(筆者拝)
 
<健康志向> 
筆者が北海道に赴任し(前ブログ<88〜>参照下さい)、仕事の都合で札幌ー釧路間を頻繁に往復していた頃のことである。
(左:T・駅前ホテル)
釧路駅前にあるホテル正面のガラスドア(自動)に顔面から激突してしまった。
 
その時は一階ホテルロビーで予約したレンターカーの到着を待っていたところである。   
 
車が到着したことが告げられると、かなりの急ぎ足で正面へと向かい、ドアは開いているままと思い込んで、分厚い透明ガラスのドアに激しく衝突したわけである。
 
そのまま、仰向けに卒倒し、瞬間、気を失ったと思う。
すぐにホテルマネージャーと街の労災病院に駆けつけたが、レントゲン検査では脳損傷は認められず、とりあえず安堵したわけである。
 
c003-1また、担当医師より「右目の周りが黒くなるので急いで冷やす」こと、「後日、ムチ打ち症がでる危険性がある」ことが告げられた。
(左:釧路労災病院)
事実、間もなく、ボクサーがストレートパンチをうけたように、右目上部は一面紫色に変色しはじめた。
 
直ちに、釧路で常宿としているホテルに戻り、地下の居酒屋(炉端焼き)に氷を貰いにいくと、筆者の形相を見て開店前のママは仰天した(いつもカウンターで陽気に振舞っている筆者の変わりように)。
 
心配したママは氷嚢と木製のハンガーなどを手配してくれた。
一晩中患部を冷やした結果、大事には至らず、翌日の客先との打ち合わせには無事出席できた。
 
この定宿のホテルに上記のような医療具などの常備あるはずがなく、ママさんが個人負担して求めたのかも知れない。
 
それには後日に気づいたが、ついぞ今日までそのままになってしまった。
ご壮健であられるならば何らか謝意を表わしたい、当ブログにでもコメント下さい。
(なお、このホテルはその後、経営が変わったと聞く)
 
このように、右目の周りの内出血はことなきを得たが、以降、筆者を悩ませたのは右手先の痺れと、首の回転痛である。
 
勿論、整形医院で幾度となく牽引機により首筋の「牽引」を行なったが、その都度、症状は改善するが、決して恒久的なものではなかった。
 
河川ゴルフ元来、運動・スポーツなど不得意な筆者にとっては、この受傷を契機としてゴルフやサイクリングなどの唯一の楽しみを縁遠いものとしてしまった。
(左:川原打ち放しゴルフ練習場)
とくに近くの川原での打ち放しのゴルフ練習場でのトレーニングは精神衛生面からも有効なものの一つであった。
 
一つの肉体的のマエナスは次々とマエナス現象を惹起し、年齢を重ねることも加わって、更にこの現象に拍車が加わる。
 
この現象の連鎖にストップを掛けるため、いまではマッサージ師の元にしげく通って、すっかり固まってしまった筋肉ほぐしから始めている。
 
不思議なものである、肉体の一部の筋肉が剛直すると、血液の循環が阻害されるのか、次の器官に悪影響を及ぼすらしい。
 
特に足の安定性、その運び(歩行)こそ”健康”の原点であると再認識した。
すなわち、歩行の安定性は上半身全体の安定性に基づくもの、とくに腰部の安定性が重要であるようだ。
 
われわれの五体は常に”もちつ”、”もたれつ”、互いにかばい合って、それなりに精一杯の機能を発揮していることを今更に納得できたような気がする。
 
現在は日々、己の肉体の改善に注力している次第である。
 
getimage従って、日常生活の中でも、健康志向にとって地下鉄の長い階段こそ格好のトレーニング場でもある。
(左:大江戸線・国立競技場駅)
だが、地下鉄の急勾配の階段も”飛ぶように”、”跳ねるように”上り下りする元気な若者だちがいる。
 
それを横目に一歩一歩を踏みしめるように、ゆっくりと上り下りする中高令者だっているのだ。
 
だが、ゆっくり歩く階段だって、とってもいいことがあるんだ!
 
ブラご承知の通り、いま街の若い女の子の間には胸の「谷間ブーム」があることはご存知でしょう。
 
よろしきブラジャーも開発されているとか(寄せてあげて谷間を作り、その造形美の妖しいこと)。
 
殿方殿ょ、階段を下りる時はとくに危険です。
安全のため、視線を足下に落とし、一歩一歩足元を確かめながら下りてください。
 
上り階段の人影が自然に視界に入るように、なるべく上り側(がわ)の近くを下りましょう。
 
階段は急であるほどいい、下向きの視界の中に突然と「妖しい谷間」が丁度”山頂”から見下ろすように眺望できます。
今の季節が”眺望”のベストシーズンですよ!
 
筆者はこれを街の、筆者なりの「借景」(ボロードビュー)と思っています。
大変失礼しました。
 
                  (永田駿介記)
           ご意見・ご質問:suruga@y5.dion.ne.jp


2010年08月18日

永田駿介のブログ<115>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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<これ奇なるが故にー1>
(”験”(げん)を担ぐ)
 
OL現役の方やその経験者の中には、中年の男性上司や先輩から、多分酔った宴会席などでこのような冗談をいわれた経験をお持ちでないだろうか?
 
「明日、マージャン(ほか賭け事など)大会があるんだ、ぜひ優勝したい。すまないけど縁起に君のを一本呉れない?」
 
「えっ、なんのことですか」と若いOLの多くは答えるというが、その一本の意味は案外大半は知っている筈だと聞く。
 
この”体毛伝説”は「子供を産む」という女性の神秘的な能力(霊力)にあやかって、(魔よけとなるほか)、”幸運に恵まれる”ものと信じられているそうだ。
 
縁起担ぐB「”験”(げん)を担ぐ」という言葉もある。
 
たとえば、極限まで鍛えたスポーツマンなどが勝負に天命を待つような折に、”験”(縁起)を担ぐようなものから、そこにユーモアがあって笑えるもの、うら哀しい話であるもの、また、お色気話に結びつくものなど「縁起担ぎ」は様々な機会で人の決断力を支配しているようである。
(左:新谷尚紀著、青春出版社刊)
また、人生の喜怒哀楽などの裏側に息づいているようでもあり、まさに人生イロイロの場で人の性(さが)が透けて見えるような気がしてならない。
 
そして、この”縁起”を気にしたり、”迷信”とかにとらわれること自体、本人の真剣さをヨソに世俗ではこれを「小話のネタ」とする場合も多いようだ。
 
筆者のブログ<110〜112>「七つの鳥居」などもその一例であろう。
 
昔、明治政府は日本の近代国家の確立を急ぎ、富国強兵のためには、徴兵制が敷かれた。 
男は満20歳になると兵役が義務付けられた。
すなわち徴兵検査が行われたわけである。

その後、戦局が拡大するにつれ、その年齢は19歳に引き下げられたという。
一定期間の実戦訓練の後、当時の若者の多くは、次々と異国の戦場に送り込まれたそうだ。
 
この当時の若者の多くは、困窮の戦時下にあって、わが身の青春時代も顧みず「クニ」のために命を捧げた、その悲劇を聞くのも新しい。
 
まだ二十歳そこそこの息子が軍役で出征し、戦場に赴くのは国ため、母国(銃後ともいう)の母はわが子の出征を祝い、決して悲しんではならない。(これが戦時訓であった)
 
武運長久母は出征前には初心(うぶ)なわが子の命運(武運長久)を祈って”お守り袋”を贈った。
(左:お守り袋)
異国の戦地でこの新兵さんは懐かしい故郷と恋しい母を偲んでいた。
 
そっと開けてみた”お守り袋”の中には命の守り札に一本の体毛が添えられていた。
 
この手の話は近代の戦記(兵隊もの)には数多くみられる。
 
それが、母親のものか、妻のものか、恋人のものか、情人のものか、それは戦記の内容によっても異なる。
 
すなわち、前記の”体毛伝説”の中には「命運」:すなわち敵の弾に当たらないという「縁起」があるという。
 
         <この節の後半につづく>
           (永田駿介記)
                 ご意見・ご質問:suruga@y5.dion.ne.jp
 


2010年07月27日

永田駿介のブログ<114>

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<これ奇なるが故に◆
 (三毛猫のオス) 
 
和歌山電鉄、貴志川線・貴志駅の駅長は三毛猫の「たま」(メス)であるという。
 
当地は、関西地区以外の人には地理的に疎いと思うが、JR大阪駅より阪和線・和歌山駅を径由して貴志川線に乗り換え,貴志駅(紀の川市)まで電車で2時間超ほどの行程のようだ。
(左:貴志駅長・「たま」)
三年ほど前から、このローカル線・貴志川線の終点「貴志駅」の駅長が制帽姿の三毛猫の「たま」で、観光誘致に一役かっている映像がよくテレビなどで紹介されていたので、「たま」の姿はご記憶ではないかと思う。
 
もともと、体毛に三色(白、黒、茶色)の色模様をもつ猫・「三毛猫」については、われわれ日本人にとっては大変馴染み深い猫だと思う。
 
何故なら、この日本の固有種でもある三毛猫は幸運を招くものと、古くから信じられていたようだ。
 
招き猫ー2例えば、置物の「招き猫」の場合、右手(前脚)を挙げている猫は”金運”を招き、左手(前脚)を挙げている猫は”人(客)”を招くという。
(左:右手を挙げる三毛の「招き猫」)
この招き猫は「三毛猫」であることが圧倒的に多く、いずれも幸運を招く縁起置物だという。
 
また、昔の船乗りの間には三毛猫を船に乗せていれば遭難しないという俗信があったそうだ。
 
事実、昔の日本の船乗りは、必ず船内に猫を飼っていたそうである。
このほか、「船と三毛猫」に関する逸話は数多く残っているという。
 
たとえば、航行中に猫が騒げば時化(しけ)になり、眠れば天候は穏やかだと信じられていたという。
すなわち、猫を見て天候を予測したわけである。
 
また、大時化(しけ)で方向がわからなくなった場合に、猫は
 「北の方」を向くと信じられており、磁石代わりにもなったらしい。
 
更に、「食料」や「積荷」をねずみから守るという重要な「役割」もあったという。
 
いずれにせよ、当時は三毛猫は船には欠かせない動物だったに違いない。
 
三毛-♂また、三毛猫のうち「オス」がとくに珍重されたという。
なぜなら、三毛猫の「オス」はほとんど生まれて来ないそうだ。
(左:街でみる三毛猫の「オス」だという)
この珍しい三毛猫の「オス」を乗せると、とくに船は遭難しないと船乗りたちは信じていたという。
 
従って、三毛猫の「オス」が生まれると争って高値をつけて買い求めようとしたらしい。
 
昭和の時代になってさえも三毛猫の「オス」が生まれると新聞記事になったほどという。
 
それくらい三毛猫の「オス」の存在は珍しく、大変めでたいことだったようだ。
 
言い換えると、三毛猫の場合は特別な場合を除き「メス」しか生まれて来ないということである。
 
専門家によれば、三毛猫の「オス」の生まれる確率は「六万匹のうち一匹くらい」だという。
 
この三毛猫の「オス」は希少価値ゆえに100〜150万円で取引されているらしい。
但し、この「オス」には「生殖能力」がないという。
 
世界的には生殖能力を有する三毛猫の「オス」もいるらしく、この場合は1000万円くらいの値がつくそうだ。
 
このように三毛猫の「オス」がめったに生まれない理由は遺伝学的には「伴性遺伝」の代表例として説明されており、遺伝学の教科書でも採り上げられているという。
 
この遺伝学的に三毛猫に「オス」が少ない理由が解明されたのは、比較的に新しく1960年代だそうだ。
 
三毛猫の「オス」の不思議について遺伝学上の解説が、ホームページ上のページ」にありますのでご覧いただきたい。        
     ↑(クリック下さい)
 
ミネー2ここで、現在、筆者の家で飼っている、もと野良猫のことを付け加えさせていただきたい。
 
十数年位前に、近所の公園から我が家に居ついてしまったオスの野良猫:「ノラ」(生後一年くらい?家族とは呼び名は違うが、筆者は”ノラ”呼んでいる。いまはいずれの呼び名でも返事する)である。
(左:くつろぐ「ノラ」)
この猫「ノラ」は”けんか”に大変弱い猫で、夜中に手負いの傷を負って帰ってくることしばしばであった。
 
”手負い傷”治療のため、動物病院より退院したのを契機に家のなかだけを生活圏とするように躾(しつ)けた。
 
そのためか、その後、この猫は大変長生きしており、現在も筆者夫婦と同居している。
 
先日、夏の休暇で後輩氏が我が家に立ち寄って、一杯やった時の話である。
 
普段、客人にはヨソヨソしいこの猫「ノラ」も、彼の猫好きが分かるらしく、珍らしく夕食に同席していた。
 
この猫は”シッポ”が短くて胴は長く太形のタイプで、雑種であろうが、いわゆる日本猫や和猫の典型を宿した種類の猫だと思う。
 
後輩氏が言うには、じゃぱにーずこの種の猫が日本に定着したのは、江戸時代の中頃くらいだという。
      ↓(クリック下さい)      この当時は「猫股(ネコマタ)伝説」(年老いた猫で、長いシッポがふたつに割れて化け猫になり、人を害する)の影響もあって、シッポの短い猫のほうが人に可愛がられたため、結果、増繁殖したらしい。
(左:J・ボブ テールの全姿)
戦後、この種の猫は米国に渡り大変愛され、「ジャパニーズ ボブ テール」と命名されたそうである。
 <この項つづく>
                      
                    (永田駿介記)
                                     ご意見・ご質問: suruga@y5.dion.ne.jp


2010年07月17日

永田駿介のブログ<113>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

<はじめに>

拙ブログに対しては大層ご好意ある”コメント”を時折にお寄せいただいております。
それは、ブログ内容についてのご質問のほか、ブログの”テーマ”選びに対するご希望やら、ご要望など様々です。

また年賀状の中には年一度ですが、ご感想などを付記いただき大変嬉しく拝見いたしております。
 
ブログテーマは全体的に筆者の”思い出話”ばかりが多いためか、肝心な”君の昔の武勇伝”が知りたいとか(そんなものないです)、また、しばしば”酒席の話題”に使っておりますなどと記されております。
 
ブログ記述の当人には「管理ページ」というものが別に提供されており、そこには昨日および本日に幾人の方から”アクセス”を頂いたかの数字(記録)のみが表示されています。
その毎日の”数字”の変化で、その時に採り上げた”テーマの内容”との関連で、そのブログテーマに関するご関心の程がある程度、押し計れる気がしております。
 
また、「やはりチョィエロイ話の方が面白いです」(酒席用にでしょう)などのご意見もいただいておりますが、この「チョィ」の程度が難しいところなんです。
 
生来、き真面目な筆者ですから、軟・硬テーマを織り交ぜて、「チョィ」のご要望にどれだけお答えできるか自信はありません。
 
 
                        筆者拝
 
<これ奇なるが故に 
 (うどんげの花)
         
うどんげー1泊った宿屋の電灯の笠に、細い糸の先に白い球状なものが群がって付いているのを宿屋の主人に伝えたところ、「これは’メデタイ、メデタイ’”うどんげの花”が咲いている、といって食事も予想より豪華な献立にしてもらった上、宿賃もタダにしてくれた」。
(左:人はうどんげの花と云う)
これは、筆者が中学生の頃に近所の老人より聞いた話で、恐らく明治か、大正時代の旅先での思い出話であろう。
不意にこの老人のことが想い出されたので、kusakage1このテーマから始めてみたい。
 
今更、改めて調べてみたところ、この”うどんげ(優曇華)”とは仏教の経典の中にある「三千年に一度、花が咲くといわれる伝説上の植物」のことだという。
(左:アブラムシの側にうどんげの花)
この三千年に一度咲く”うどんげの花”を見ることは「きわめて稀なことに出会ったこと、まためったにないことなどのたとえ」として「うどんげの花」なる用語が用いられているそうだ。
 
例:「たまたま逢ふこそ ”うどんげの花”なれ」(広辞苑、大辞林より)
 
「優曇華」(うどんげ)とも書かれるこの植物。
 
実在の植物を示す場合、伝説上の植物を指す場合と昆虫の卵を指す場合とがあるという。
 
すなわち、実在の植物としては、インド・セイロン島などに分布している、クワ科イチジクの近縁種である高木を指すそうだ。
 
その果実は食用になるが、咲く花が外部から見えないために三千年に一度咲くなどとされた由縁であるという。
 
くさかげろうまた、われわれが”うどんげの花”と呼んでいるのは”クサカゲロウ”という昆虫の卵のことだという。
(左:クサカゲロウの成虫)
それは日常生活のなかでは夏場に草木・器物・天井などに稀に群がって付いていることがあり、細い糸状の柄の先端に卵が垂れ、花のように見えるため、これを俗に伝説上の”うどんげの花”と呼んでいるようだ。
 
自然界ではクサカゲロウはすべて肉食性で、アブラムシやハダニなどの小動物(害虫)を捕食するため、農業では「益虫」として価値が高いそうだ。
 
     <この項つづく>(永田駿介記)
            ご意見・ご質問:surura@y5.dion.ne.jp
 


2010年06月27日

永田駿介のブログ<112>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

佐和ー1<七つの鳥居>
筆者にとっての神田小川町の居酒屋Sは、この地域の再開発により、二度の店の移転あったが、その間、長いあいだの常連客の一人である。
(左:神田小川町の居酒屋S)
当店は頭初よりママ一人で切り盛りしているが、繁忙時間帯にはよくアルバイトの女性が手伝っていた。
 
前回のブログでも記載した通り、当時、この居酒屋の席で、たまたま、先輩営業マンと顔が合ったので、目下「お礼参り(願ほどき)」のため”七つの鳥居くぐり”を実施中であること、そして、すでに”六つ目の鳥居くぐり”まで終了していることを彼に報告した。
 
彼はすぐに「六つ目」で打ち止めにして、残る「一つ」を”割愛”する名()案を伝授してくれた(前ブログ参照下さい)。
 
この居酒屋のカウンター越しに、同店の若いアルバイト女性は、われわれ二人の間の”話題”を、どうも興味を持って聞いていたらしい。
 
当時、筆者は当店にはサントリーオールドのボトルをキープしていた。
ボトルが空になると、店側は新しいボトルを追加してくれ、あわせてキープ人の名前を記入してくれていた。
 
8c9fceea.jpgところがである、次の機会に当店に立ち寄った時に驚いた。

追加の新ボトルのラベルには筆者の”名前”でなく、”鳥居のマークに「6」の数字”が書き込まれたボトルがカウンターに出されて来た。
(左:デザインはアルバイトの女性)
以降、この「絵柄」が当店における筆者の”ロゴマーク”となってしまい、キープボトルにはこの”ロゴ”が長い間使われることになった。
 
国内各地の有力な「神社・仏閣」などは、先人が残してくれた歴史的な遺産として、修学旅行やその後の観光旅行などの折には必ず参詣する機会をもったものと思う。
 
しかし、特別な思い(”願掛け”や”心の安寧”のためなど)で参詣する経験は、意外と少ないのではあるまいか。

「苦しい時の神頼み」という言葉があるとおり、このような目的の参詣は多いより、少ない方が人生は平穏であるに違いない。
 
「触らぬ神に祟(たたり)なし」
人の弱さをたしなめた、先人の知恵であろう。
 
だだ、久しぶりに何かのはずみで参拝するような時、それが「神社」である場合は、そばに”参拝の作法”の説明板があるところはよいが、これがないと人は自信なげな「拍手(かしわで)」を打つことになる。
 
二礼 二拍手 一礼標準の形は「二礼(拝)、二拍手、一礼(拝)、」だという。
 
なお、観音像には観音経を唱え、合掌、納め札にお賽銭だときく。
 
また、しきりに神前で”合掌”をしたり、仏前に向かって”拍手の音”を響かせている情景に出会うことがある。
 
俗世の人目を気にすることなく、こころ(信心)問題であり、特別の流儀があるかも知れないが、自分流にやってとくに人に迷惑をかける事ではないだろう。
 
筆者、禁酒してまもなく、全快の”願掛け”に参拝する神社の推薦を先輩や同僚にお願いしたところ、新橋の「烏森神社」の記入が一番多かった(<七つの鳥居 篁仮伐爾気ぁ法
 
いくら仲間内で笑って談合したにせよ、目下、禁酒を悲しんでいる筆者にとっては、それは”ワルフザケ”の神社の推薦であった。
 
からす森口ー1からす森口ー2何故なら、この頃(20〜30年前)のこの付近(JR:新橋駅・烏森口付近)を良く知っている人ならお分かりのことと思う。
(左:昨今の烏森口街)
大衆酒場などが多く、退社後のサラリーマンらが集う盛り場として賑わっていた。
その後のビルラッシュなどで街の様相は一変している。

この神社に通じる駅裏の細道(参道)は、今日でも木造二階建ての小さな飲食店が並んでおり、その頃の面影が一部だが、まだ残っているようだ。

三軒あった”焼き鳥や”のうち一店の閉店が”匂いの細道”を一層寂しいものにしている。
 
当時、筆者が”願ほどき”の”七つ目”の鳥居くぐりにこの烏森神社を選んだのは、既に禁酒を解禁している安心感とあの時の”ワルフザケ”に対して”おとぼけ”で答えてやろうと、退社後の夕方の時間に参拝を選んだ訳である。
 
七つ目の鳥居くぐりの”割愛法”を勧めてくれたベテラン営業マンを含めた三人と新橋駅:烏森口駅前ビル(ニュー新橋ビル)ロビーで落ち合う約束をした。

ニュー新橋彼らはこのビル地下1Fにある小粋な居酒屋に誘われる積もりでいるだろう。
 
だが、このニュー新橋ビルの裏手には烏森神社に行く細道(参道)があり、その中程にかって数回通ったことのある”焼き鳥や”(立ち食い)の店があるので、すぐそこへに案内した。
(左:烏森神社位置;図左上)
清酒のコップ酒を何杯か飲んだあと、二次会に行く前にと、そこから更に20メートル程先にある烏森神社の鳥居を四人は同時にくぐった。
 
お賽銭用として一人に100円づつを配った。
 
烏森神社ー1「只今、”お礼参り”に四人で参りました」と御祭神に”心の中”で報告した。
 
一人を除いて、彼ら(かってこの神社の推薦人であった)はそのことを忘れてしまったらしい。

彼らはこの意味もよく理解しないままに、パン、パンと全員一緒に拍手を打った(きっと酔った勢いで、おタワムレしてる積もりなのだろう)。
 
「サァ、これから、銀座にでも唄いに行きますか!」

             <永田駿介記>
                 ご意見・ご質問:suruga@y5.dion.jp


2010年06月14日

永田駿介のブログ<111>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

肝臓模型ー1<七つの鳥居◆
七つの鳥居をくぐり、近隣の七つの神社に全快の”願掛け”を開始した。         

また一方、現実的には本社医務室の指導に従って肝臓の専門医の診察をうけるべく、知人より筆者の症例に見合った適任医師の紹介を受けた。
(左:人の肝臓模型)

早速、紹介された肝臓の専門医師は、地下鉄・千代田線で「根津権現」に”願掛け”に行く「根津駅」の次の駅「千駄木駅」で下車し、徒歩15分位の、都立駒込病院・肝臓内科の医師であった。

駒込病院ー2毎週に通う受診が始まったが、都度、血液検査を行うだけで肝臓の検査数値の推移で経過観察をするらしい。
(左:現在の都立駒込病院)
また、口数の少ない高齢の医師で、あまり患者への質問がないのが不思議なくらいである。
 
自分の病のことゆえ、短時間ながら肝臓病に関する資料などを読みあさり、はや”にわかドクター”になった積もりである。
 
家族も同僚もみな酒の飲みすぎの結果だと断言する。
また、私自身もそうだと思っている。
(だが医師の口からは一言も酒の飲みすぎだと言われていない。)
 
肝臓臓器内部の疾患は痛くも痒くもない、いわゆる”沈黙の臓器”だそうだ。
 
”にわかドクター”の新知識によれば、筆者の肝臓がアルコール性障害であるなら、なぜそれを表す指標である”γ(ガンマ)ーGTP”の数値が、現に正常値(30〜40)であるのかが不思議でならない。
 
なぜ医師は無口でいるのだろうか。

原因は経験上解っているので、血液検査の推移をただ見守っているのか、それならそう言ってくれればいいのに、折角、肝臓の名医として紹介されたのだから。
 
結局、毎週の検査値(GOT,GPT値)を折れ線グラフで描いているが、確かに目に見えてスローダウンしている。
 
禁酒して4か月目の頃には、グラフはゆるやかな水平線状態になり、ほぼ正常値の上限に近づいていた。
 
更に安全をみて6か月目に入ってから、うすい水割りのウイスキーを飲み、一人で祝った全快祝いは嬉しかった。
 
でも、禁酒中の酒席ではいろいろのことがあった。

「オレも肝臓の経験あるから大丈夫!、大丈夫!」
とビールに口をつけろと強制した愛すべき先輩はヨシとしよう。
 
このような場合を想定して酒席には必ずアルコール度数”0%”(当時は輸入品)のいわゆる「ノン・アルコールビール」をあらかじめ店に断って持ち込むことにしていた。
 
d9107_239_mono45445_pho01-m憎らしかったのは、筆者がチビリ、チビリ飲んでいるのが「ノン・アルコールビール」だと分かると
(左:現在のノン・アルコールビール)
「どんな味なのか、少し飲ませてくれない」
と乞われる。

ほんの少しの積もりで渡したこの大事な、大事なビールを
「オレにも少し」、「オレにも」と次々と隣の人にこのビールが回ってしまう。

このビールしか飲めない筆者の飲み分はどんどんと少なくなってしまう訳である。
もっと持ってくればよかったとは、あとの祭り。
 
ただ、同じ席でお相伴してくれた店の女将が心配して、飲もうとする人ごとに「少しだけよ」、「少しだけよ」とわが事のように声を掛け続けてくれたことは今でも有難く覚えている。
 
全快祝いのあとは酒の席も次第に多くなった。
まもなく同僚の一人から有難いご忠告を受けた。

「”願掛け”した神様には必ずお礼参り(”願ほどき”というらしい)が必要ですよ。お礼を欠くと病気はブリかえすそうです!」
 
「うム〜そうかも知れない。お礼参りに行きますか・・」
 
今度は三ヶ月間近くをかけて、"願ほどき"の参拝はすでに6つ目の鳥居くぐり終っていた。
残りはあと1で”願ほどき”の終了である。
 
この頃、20年来の行きつけの神田小川町近くの居酒屋に立ち寄った。
すでに別グループが一杯やっており、その中に筆者に今回の”願ほどき”を勧めたベテラン営業マンが加わっていた。
 
「”願ほどき”の”中抜き”ができる、いい方法を教えましょうか」
ベテラン氏は小声で囁いてくれた。
 
「女性のマタくぐりをするんですよ。すればその一回分は免除になりますから!」
 
もともと、”女性自身”のことを隠語の世界では「観音様」とも呼ぶことは筆者も承知していた。
わらしべ長者-a(左絵:わらしべ長者・・クリックください)
すなわち、仏様(観音様)は、この愚かしい人間たちにもひとしく”慈悲と哀れみ”の施しを与えてくれるのだという。

この”慈悲心”とこの”隠語”とを巧みに混淆させた”言い伝え”でないか、とうすうすには感じていた。
<この項つづく>
                      
       (永田駿介記)
                         ご意見・ご質問: suruga@y5.dion.ne.jp


2010年05月28日

永田駿介のブログ<110>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

283f359c.jpg
<七つの鳥居 
どこの企業でも年に一度は、全社員を対象に定期健康診断が実施されるようだ。
(左:血液検査報告書)
その検診内容としては
胸部と胃のレントゲン検査および血液検査を中心に実施されている。
 
それらの検査結果で、健康上に疑問ありと診られた人は、(当社の場合は)直接、社内医務室より呼び出しを受けて直接医師より健康指導を受けることになっていた。

誰もが、己はまだまだ若く、至って壮健であると信じているものである。

ところがレントゲンに影が見えたり、血液検査の測定値に異常が認められる場合である。

医師より指導を受けた人の中には、全く予想だにしていなかった病気の疑いがありと指摘されることもあって、当人は大層仰天してしまう訳である。
 
筆者の場合であるが、従来より血圧値と中性脂肪では毎回のように警告マークが付記されていたため、今年もまた来たかぐらいの受け止め方であった。(勿論、会社医務室より毎月若干の降圧剤の投薬を受けていた)
 
S50年代半ばくらいの頃とだったと思う。

血液検査、今回の結果は違っていた。検査項目のうち肝臓機能障害を表す異常値が表示されていたからある。
 
指摘されて初めて関心をもって見る「GOT」「GPT」の文字、そしてそこには”200”、”180”なる数字が印字されていたのである。

当時の医務室の医師は普通に会話する様に、「肝臓が多少弱っていますね」

お酒は当分控えてください」の宣告である。

仕事がら飲酒の機会も多いうえ、毎晩の晩酌を楽しみにしている愛飲家にとっては正に「青天の霹靂」であった。
 
肝臓に関する本を読みあさった。
肝臓病経験者も訪ねた。
 
周りの同僚も驚いている。

あの男が急に酒を辞めたらしい。
 
諦めきれない、当時のノン・アルコールビールは外国製のみであり、大手リカーショップで販売されている情報にその店を訪ねた。
次の酒席用、宴会用に持参するためにまとめ買いもした。
 
昼休みの時間、同僚の一人が真顔でいい出した。

烏森神社「信心が足りないのでないの?昔から七つの鳥居をくぐり、七人の神様に回復の願掛けをすればきっと早く直るそうだよ」
(左:烏森神社)
周りの同僚も「そのとおりだ」「そのとおりだ」
と囃(はや)す。

「早く直ってくれないと、われわれも(飲み仲間がいなくて)困っているんだ」
 
「グットアイデアだけど・・・」

「どこの神社にお参りすればよいのか、候補の神社を皆で書き出してくれないか」
 
神田明神「本社(大手町)から昼休みの一時間以内だ」

営業で普段外歩きしている集団ゆえに神社名の書き出しも早い。
(左:神田明神)
候補とされた神社:烏森神社、神田明神、湯島天神、富岡八幡宮、花園神社、根津権現、水天宮、など
 
推薦理由(推定):
 
富岡八幡
烏森神社(新橋烏森口・参道にヤキトリ    
     屋もある;ワルフザケか)
         
神田明神(大手町の氏神様、受注祈願)
         
湯島天神(こどもの合格祈願に参拝した
      のか)     
         
富岡八幡宮(当時、会社の主力工場の側)
(左:富岡八幡宮)         
花園神社 (新宿盛り場の側)
 
根津権現(ツツジの時期だったか)
         
水天宮 (たれか安産祈願にいったか)
         
全て地下鉄が利用できる近距離の範囲であった。
 
一日も早く全快して早く酒を飲める健康に戻りたい。
全快とはGOT,GPTが正常値(40〜50)までに復帰することが目安である。
 
いよいよ七つの鳥居くぐり(宮参り)の願掛けを始めた。
人生話題づくりの行動もまた楽しいだろう。

さいわい都内の客先を訪問する機会に日頃恵まれていたため、迂回する道筋などを工夫し「全快の願掛け」は約一か月くらいで終了したと思う。

お賽銭はケチって、一神社ごとに百円にしたことは覚えている。
(但し、どのような順番で鳥居くぐりしたか、全く記憶にない)
 
花園神社園神社の鳥居をくぐり、参拝したときのことである。

しきりに神社正面と後ろの境内の20メートルくらいの間隔を小走りに往復を繰り返している二十歳後半の女性がいた。
(左:花園神社)
ブツブツと願かけごとを呟いているようだ。
 
いわゆる”お百度参り”だろうか。
 
場所柄(新宿区新宿5丁目)近くの繁華街の酒席で働く女性かと思えた。<この項つづく>
 
      ご意見・ご質問:suruga@y5.dion.ne.jp
             
            (永田駿介記)
       


2010年05月11日

永田駿介のブログ<109>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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<ラブリーミステイク◆
  (水洗トイレの今昔)
わが国とって20世紀とはまさにトイレ水洗化の世紀でもあったといってもよいそうだ。
 
それはトイレという排泄のため不潔を感じる空間を、まさに昨今のように衛生的で快適な空間へと、われわれの日常の生活そのものを変えたことによるという。
(左:前田裕子著、名古屋大学出版会)
これも近代のなした偉大なイノベーション(技術革新)の一つの成果であるとしている。
 
例えば、都内でも、筆者の住居のある城南地区の下水道化は比較的遅い方で、我が家のトイレ水洗化が施工されたのは多分S50年頃であったと記憶する。

地下の下水管埋設工事が完了し、各家庭ごとに道路わきに設置された汚水や家庭雑排水・雨水用のコンクリート枡(ます)より一斉に地下の下水管に流入する方式であった。
 
和式水洗ー1戦前、戦後を通じて家庭のトイレが糞尿貯留(汲み取り)方式から和式水洗式トイレに変更した時のあの清潔感やその安堵感は全く忘れられない。
(左:和式水洗トイレ)
それはトイレ糞尿貯留方式時のあの独特の臭気から解放された喜びでもあった。
 
わが家は一度和式水洗トイレに変わった後、約10年後には家屋そのものを建て変えた。
新築家屋では勿論、洋式トイレを採用した。

平成にになった頃には、当時流行のウォシュレットを洋式便槽に付設したが、この時は不思議とこのイノベーションの恩恵にあずかっているという意識はなかった。
 
ウォシュレットこんにち、成田に着く外国人は、まず、日本の水洗設備の綺麗さに驚くという。

そして昨今は、これが日本におけるクール(素敵な、かっこいい)なるものの一つに挙げられているという。
(左:温水洗浄便座付洋式トイレ)
また、いま都会の中で生活している人が、一番困ると考えることはガスや電気が止まるよりも断水して水洗トイレが使えなくなることだと真顔で心配するそうだ。
 
当時、水洗トイレの中心に位置している便槽などの陶磁器は、まさに日本の伝統産業であったという。

とくに幕末以降は洋食器の輸出需要に支えられ、中部地区を中心に栄えてきたという。
 
TOTO本社その主役は森村グループ企業であったが、その中で大倉孫兵衛親子が核となって、衛生陶器(浴室や便所の水周りに用いられる陶製の器具をいう)と水周り金具の国産化が進められて来たそうだ。
(左:TOTO本社ビル、北九州市)
これらが、現在の東洋陶器(TOTO)や伊奈陶器(INAX)へと発展したのだという。
 
更に、戦後の高度経済成長による住宅産業の発展と公共下水道の普及の中で腰掛式水洗トイレには電気設備が付加した、温水洗浄便座が商品化され「衛生の設備」から「快適空間」の創造へと変身を遂げたのだという。

更にプライバシーが保護された快適な”癒し”の空間でもあることも主張されているようだ。
 
街のトイレが次第に和式から洋式(腰掛け式)便座へと換わって行った頃の話である。
 
また、その頃は世の中の景気を反映して、幾つもの銀座7〜8階建てのビルも全館が飲食業店を営業していた時代でもあった。
 
この時代は、ホステス達も平均的に若く、その経験も比較的浅い女性が多かったように思えた。
 
宵の口は、こっちは二次会の積もりだが、まだ店々は開店早々の時間でもある。

客の少ないこの時間帯はホステスの数の方が多いくらいだった。
この時間帯のことを「お茶をひく」(時間)というらしい。
 
こんな時は普段とは違った話題がでてくるようだ。
 
いま、はやりの腰掛け式(洋式)トイレの話である。
 
ある小柄のホステスが「わたし、あの高いおトイレ大嫌い」

「なぜ・・?」
メリーゴーランドE「足が床に着かないだもん」「・・・・」
 
「えっ、あんた反対向きに坐ってない、水のタンクの方に向って坐っていない?」

「アラッ〜間違って坐ってるの・・」
「ワッ〜恥ずかしい〜」
                (クリック下さい)
「まるで遊園地の”回転木馬(メリーゴランド)”に乗ってるみたいだナァ」
 
「それじゃ〜トイレの中では、きっと子供の頃を思い出しているんだね!」
 
                    (永田駿介記)
 


2010年04月25日

永田駿介のブログ<108>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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<ラブリーミステーク 
(和(邦)文タイプライター)
現今の会社や役所の職場の中では全く見ることの出来なくなったものの一つに”和文タイプライター”という日本独特の事務機器がある。(左:和文タイプライター)
恐らく今の若い人はその名前さえ承知してないであろう。

この日本独特の事務機器を理解するには、まず欧文タイプライターの文字数に比べるとこの和文タイプライターに用いる文字(日本語・漢字など)の数の違いに注目する必要がある。

欧文ではアルファベット26文字と、数字、記号だけなので50字余りの文字数で済むため、タイプライターの仕組みも比較的に簡単なものですむ筈である。

これに反して和文タイプライターを作るとなるとよく使う漢字だけで三千文字くらいはあり、「一つの文字は一つのキーで対応する」という欧文タイプライターの考えをそのまま採用することは不可能である。

活字これを解決するため、和文タイプライターはその機器の下部に置かれた活字箱に沢山の活字を並べて、目的の文字を機械の手でつまみ上げ、上部にある用紙に打ち付けるという方式を採用したが、いきおいその構造も複雑になるのは当然である。
(左:下部、活字箱の活字)
そして、戦前、戦後を通じて、この和文タイプライターの方式は変わらなかったという。
 
資料によると、この和文タイプライターは1915(大正4)年大阪で活版技術関係の仕事に携わっていた杉本京太氏の発明によるといわれ、その後60年以上の間、わが国の企業や行政機関では盛んに使用されてきたという。

しかし、欧文タイプに比べて、機構が複雑であるため、これを操作するには相当の熟練を必要とし、しかもこの機器の価格もかなり高価であったという。

やがて1980(昭和55)年の頃から欧文ワードプロセッサの機能に「かな漢字変換」機能が加わり、いわゆる「日本語ワードプロセッサ」が登場したため、この和文タイプライターは次第に姿を消していったそうだ。
 
従って、筆者はこの”和文タイプライター”時代の後期に就職し、新入社員としての時期を迎えていたことになる。

入社当時は、この和文タイプライターは操作が複雑であるために、12〜3名の専属の女子タイピストがこれに従事しており、社内には独立した”和文タイプ室”が設けられていた。

筆者は配属先としては営業部に在籍したが、先輩の営業マンはどうしても客先廻りなどに主力を注ぐため、新入社員は社内の事務作業に携わる機会が多く、いきおい事務作業の一環として和文タイプ室との接触も重要な業務の一つであった。

また当時は和文タイプは手書きの謄写版(とうしゃばん)と共に行政機関や企業が内外の関係者に配布する書類や連絡文書などの作成に威力を発揮していた時代でもある。
 
IMG_1312もとN大学体育会系応援団長(自称)だったという先輩Mさんが新入社員である筆者の営業指導員であった。
(左:応援団長イメージ)
やはり歓迎会や忘年会などの手締め拍子の音頭とりなどは中々堂にいっていた思う。
 
またM先輩は新入社員である筆者を呼ぶのに”君とか、オマエとも”いわず、いつも”ナアサン”と呼んでくれる気遣いの先輩でもあった。
 
ある日"ナアサンよ、これを読んでごらん”といって営業が工事の注文を取った後には必ず社内の関係部署向けに発行する、和文タイプ印刷の「製造命令書」の書類を示した。
 
タイピスト達はそれぞれに書き癖のある原稿を読みながら、一字、一字、活字文字を打ち込むという、大層神経を使う作業であったと思う。
普段、ミスタイプも多かったようだが、営業マンの原稿文字の書き違いのほうが遥かに多かったように思う。
 
文字の修正依頼に、若い女性の館(やかた)であるタイプ室に行くのはもっぱら新入社員の仕事でもある。
勿論、修正作業は手が掛かる上、誤読か、原稿の文字が悪筆なのか、若いタイピスト嬢とモメルことしばしばであった。
 
新入社員(男性)は原則として独身であることが武器で、若い彼女らの反撃も多少でも和わらぐであろうと、当時の先輩たちの知恵だったのだろう。
 
「ナアサンこれ直してもらってきて」と申し訳なさそうに、指導員の先輩よりタイプ室参りが依頼されたのである。
製造命令書にミスタイプがあるようだ。
 
われわれの取り扱い機種(製品)の一つは各種の製造工場向けの新設天井クレーンの製造であり、大型のものは数10トン〜数100トンクラスの品物の運搬作業に用いるクレーンの注文を受けていたのである。
 
それらの大型天井クレーンの中には軽作業用として数トン荷重の”チェンブロック”が内臓されいる場合があり、このチェンブロックなどはその専門メーカーから購入することが指定されることがあった。
これを”客先指定品”と称していた。
      (左キトーA:電動チェンブロック)
その専門メーカーの一つに当時の「鬼頭製作所」があった。その後、社名を「キトー」と変更したようだ。
 
製造命令書にはこの”客先指定品名”をしっかりと書き込まねばならない。

しかし出来上がってきた製造命令書のタイプ字は「鬼頭製作所」でなく「亀頭製作所」と印字されていた。
 
先輩は””を””に打ち直すように頼んで来いといっているのだ。
 
勇気をもって、若い女性の館(やかた)であるタイプ室にはいった。

「この書類、どなたがタイプしてくれましたか」
「私です」
 
普段は冗談ごとをいいながら彼女らに接する筈なのに、黙ったままの字を指差しして小声で
 
 
鬼D「これ””という字に直してくれますか」
「あらごめんなさい〜」
(気が付いたかもしれないな)
 (左:鬼イラスト)
 
横顔が白くスッキリとした、よく見掛ける若いタイピストであった。
こっちが緊張してしまった。
 
また”亀頭”と書いて「キトー」と呼ぶこともあるらしいと後日知った。

illust1216_thumbだが、先輩はそのときのタイプ室の様子を知りたかったのかも知れない。
(左:亀イラスト)

出先から電話があって何時ものように
「夕方一杯やろうや」

カメガシラ”と読んで、話題とした、この二人の俗物メが!

                    (永田駿介記)

 
 
 
 
 


2010年04月12日

永田駿介のブログ<107>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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<血液型(4)>
ブログ<100〜102>で<血液型(1〜3)>を記載したあと、引き続いて<血液型(4)>の記載を予定でいた。
(左:B型と飲もうーデザイン)
しかしその記載にはどうしても利用したいと思っていた筆者の個人資料が予想した場所には遂ぞ見付けることは出来なかった。

とうとう痺れを切らして、その次に予定するブログのテーマであった<糞尿譚>の記載を始めてしまい、昨今ブログ<106>の<糞尿譚(4)>まで書き続けた訳である。

不思議なものである、その間に毎年三月に提出が決められている税務署への確定申告書の作成を始めた途端、その申告書用の各種バウチャー(領収書など)の中からその資料が出てきたのである。

思い出すと、数ヶ月前に近々この資料を利用することになるとして、わざわざ三月の確定申告時点では必ず整理する筈の資料の中に入れ替えておいたのである。
その移し変えたことをすっかり忘れてしまい、もともとの場所を何回も探していたわけである。
 
従って、二か月以上の遅れとなった今回、<血液型(4)>をやっと記載することに相成った次第である。

筆者の血液型はB型であることは、すでに<血液型(1〜3)>の中で記載したが、筆者の親子関係では亡実母も、娘も同じくB型である。
また北海道在住の義母(妻の母)もB型であるという。
 
筆者が東京の自宅を取り壊し、新築した20年前のことである。祝いに駆けつけた義母と娘と三人並んで、あるポーズをとって写真を撮った。

三猿三猿ーB三人は共にB型であるばかりか、干支(えと)がみんな申(猿)年なのである。
(左:日光東照宮・三猿)
すなわち血液型:B型同士の「見ざる 言わざる 聞かざる・ 三猿像」のポーズをした訳である。

勿論、記念として当時流行の使い捨てカメラ(商品名:写ルンデス)に収めた積もりである。

残念なことに、このブログ記載日までにはこの時のネガも焼付け画像も見付かっていない。
 
毎度、古い話ばかりで恐縮です。
今回も筆者が30歳なかばの頃の話である。

当時はわが国の経済の拡大は急速に進んでおり、勤め先の企業も急成長して、企業合併などの結果、出身会社の異なる同僚が多く在籍していた時代である。

人事管理の立場からみればマクロ的にせよ、ミクロ的にも大変な時代であったろう。
 
社員教育このような企業環境のなかで、社員の中堅層を対象に一斉に「性格類型検査TI型」のテストが行われたのである。

記憶では、約100問前後の設問があり、時間制限が設けられ、各設問には即答せざるをえないような3〜5問の選択方式であった。

例えば、何色が好きですか:赤、白、紫、黄、黒の一問の選択である。この程度の軽い設問がイヤというほど次々とテストペーパーに印刷されていた。

ものの本によれば、性格類型とは、職務適性のうち態度的側面を性格類型として測定するのだという。

これはスイスの心理学者ユングが考案した分類を原型として、対象者の「興味や関心の方向」、「ものの見方」、「判断の仕方」、「環境との接し方」について測定をするテストであるという。

とにかく、職場において己の長所、短所をよく自覚して、長所と指摘を受けた点を伸ばし、短所は極力反省して自制を促がすためのアドバイスだと理解した。

後日、本人用として返された測定結果は会社人事部(上司)へ伝えられる測定結果は同じものでないと憶測する同僚などいて、受け止め方はさまざまであった。

筆者がB型であることと、この測定結果がどのような因果関係があるか分からないが、測定結果の内容は正直くすぐったい(こそばゆい)面が多かった。
内容は以下のようなものであった。(原文のまま)

(INTJ型)
知的好奇心に富むタイプである。書物から知識を吸収する。
とくに想像力を刺激されることや、関心の深いことにたいしては鋭い直観力・洞察力をもち、自分の信じることを大胆にできる。
新しい考えや将来の可能性を重要視し、反面興味のないことには冷淡な態度をとったり、無視したりする面がある。
独立的で冷静である。分析的・批判的なものの見方をし、論理の展開のあいまいさを嫌う。
自分の目標に集中しすぎると、他人の感情を無視し冷たい印象をあたえやすい

                     (永田駿介記)

 

 

 



2010年03月25日

永田駿介のブログ<106>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

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桂川B<糞尿譚(4)> 
日本では、15〜16世紀のころには当時の首都であった京都はその都市機能が発展するに伴い、人口はますます集中、増加し、早急なる食糧の増産が迫られていた。

農作物の増収には牛馬の排泄物のほか人糞尿も有効利用が図られるようになった。(上:京都市南部を流れる桂川)

人口が増加すると人糞尿も更に大量に排出されるので、この処理のためにも肥料として活用し、作物の増産を図るというリサイクルが必要である。      
従って、この地おいて、このようなリサイクルシステムが必然的に確立していったことは前回ブログ<105>で記述した通りである。
 
これはいち早く近世の文明化を成就させていた当時の西欧の都市、パリやロンドンの町に比べても、都市環境衛生上からも遥かに優れた人糞尿の処理方法であり、同時代、わが国の誇りとしてよいリサイクル技術の確立といえるという。
 
%セーヌ川737すなわち17〜18世紀の頃までは豪華なパリの宮殿ですら、トイレという設備はなかったといわれており、人手によって処理され、下水溝を通じてセーヌ川に流されていたという。
ロンドンの場合も同様にテームス川を汚染していたと聞く。
(今日の、左側:セーヌ川、右側:テームス川)
このようにして人間は己の排泄物の処理には、ときに全知全霊を注ぎこれに対処してきたようである。
 
また、ときにこれを人に対する嫌がらせの小道具として使ったり、また戦(いくさ)の武器替わりに利用したという”歴史的な戦記”を聞いたことがある。
 
旧式トイレいわゆる、わが国の便所が水洗式になる以前は、便器の下側は全面筒(底)抜けになっているものが使用されていた。
そしてその地下部には甕壺やコンクリート枡がし尿の溜め槽として埋め込まれていた。
すなわち排便尿は一定期間ここに溜め置かれることになる。

従って、筒(底)抜け便器で用便の折に、つい身に付けていた大切なものを下の溜め槽にまで落としてしまうことがしばしばあるようだ。
それが単なる日用品であるなら諦めもするが、大事な貴重品の場合は問題である。
 
この話の最後は、上記の大事な貴重品などについて”人と汚物”の泣き笑いのエピソードである。
 
筆者が北海道に単身赴任していた頃の話である。
単身赴任者向けマンションの近くに、よく行く居酒屋があった。
とくにゴルフの出来ない冬季の休日には晩酌方々夕食のためによく通った。   

常連客の多い店であったが、いつも「社長、社長」と部下に呼ばれている黒いダウンジャケットの中年の常連客の一人が、いつも人なつこい態度で話しかけてくる。
気遣いのよい人で、筆者の酒や肴が途切れると、すぐに二人前の酒、肴を注文し、「召し上がって下さい」といって大変気前がいい。
 
決まって部下を早く帰して、筆者と世間話がしたいらしい。
”社長?”何をしてる会社なのか、と思っていた。
レッカー車や貨物車、バキューウム車を持っているようだ。(昔はバキューウム車専門業であったらしい)

バキュームAバキュームBある日、酔ったのであろう。いまは運送業だが、以前はし尿汲み取り業、すなわちバキューウム車数台の個人経営者で、いまは運送会社の社長であるようだ。
(左:バキュームカー)
以下はこの社長の個人経営者時代のお話である。

バキューウム車(汲み取り式便所や街の浄化槽からし尿を吸引する)により家庭のし尿を吸引して廻るうちに、事務所の方にはけたたましい電話が鳴るという。
女性の興奮した声で:「お便所に大事な指輪落としてしまった。幾らかかってもいいから見付け出して欲しい」

ダイヤ指輪また男性の怒鳴るような声で:「入れ歯を落としてしまった」などなど、こんな電話がよく掛かってくるそうだ。
(女性は意外とスカートの前ポケットに高価な指輪や形見品など簡単に入れてしまうらしい)
 
バキューウム車がホースで”し尿”を吸引する場合、吸引力が強いため、家庭の地下貯蔵壺や枡の底まで汚物を吸引することができる。
従って一切を吸引した後、車上の貯留タンクの中に入ると重いものほど底部へ沈殿するようだ。
従って、後日に見つけ易いという。
 
入れ歯B市内の各家庭と公共の施設である”し尿受入口”とを何回か往復した後、車上タンクの定期清掃日がやって来る。

自社のグランド(駐車場か)でバキューウム車のタンクの底に残った残滓を何回かバケツで掬い取り、土のグランドに丁寧にそれを撒く。

何故か、この定期日を近所の子供達は知っているらしく、大勢集まってくるそうだ。
勿論、その中に貴重品である指輪や形見品、入れ歯などなの”落とし主”も子供達の中に交じっている。
 
「おじさん、あすこに100円玉、あっちにも、ほら、こっちにも」
 
まるで子供たちにとっては宝探しのようであるという。
しかし子供達は手で指差しはするが、残滓には近寄ろうとしない。

結局、貴重品の結末について、どうなったかは聞いていない。
 
黄金文化・了ー失礼しました>   (永田駿介記)


2010年03月14日

永田駿介のブログ<105>(カテゴリ:焼酎日記のつづき)

平安京平安京ーB<糞尿譚(3)>
当日の講師(ブログ<103>参照下さい)は会場に集まっている一同にとくに伝えたかったのは、人間自身が排泄するこの不潔で厄介な汚物を過去の日本人は見事にリサイクル(再利用)し、有効活用をしていたことを強調したい様子であった。(上:平安京復元模型;1/1000)
 
平城京前回のブログ<104>では遠い昔、飛鳥時代後期には、当時の都(大津宮など)には、この汚物が堆積し(これが原因らしく)病疫の蔓延によって、しばしば「都換え」をする必要に迫られていたとした、この分野の研究者の意見を紹介した。
(左:「都換え」5回のうち4回目平城京復元)
(勿論、この短期間に5回の都換えのあと、水利・水運がよい平安京(京都)へ遷都した後は落ち着いて明治2年までの約1000年間、都はこの地で続いたことになる)
 
このように当時の「都換え」の主原因でもあったという(前出:鈴木一舟氏説)人糞尿の処理方法についても、次第にその技術が発達してきたという。
そしてそれが実用化したのは、その後の時代、すなわち鎌倉から室町時代にかけてであったそうだ。

しかし本格的な人糞尿のリサイクルシステムとして確立され始めたのは戦国時代からで、それは京都の町からはじまったという。

当時の平安京(京都)のように都市機能が発達してくると、当然人口の増加が起こり、食糧増産が必要にせまられたのである。
 
従って都市の住民と近郷の農家との間では頻繁に肥料となる人糞尿と農作物を取引する関係が出来上がっていったそうだ。

このようにして、人糞尿リサイクルシステムが形作られるに伴い、町のあちらこちらで、処構わず排便・排尿されていた糞尿が汲み取り式便所で行われるようになり、それら糞尿は集められて肥料として利用されたという。
 
すなわち、それらが都市の衛生環境の向上に大変貢献することになった訳である。
 
更に江戸時代の17世紀中頃の京都と江戸を比較してみると、京都の町の人口は約40万人位、すでに糞尿リサイクルシステムが確立しているのに対して、江戸の町の人口は約15万人位で、まだこのシステムは未確立であったという。
江戸はこの後、人口の増加により、ようやくこのシステムが確立するようになってきたそうだ。
 
このように都市は人糞尿の一大生産地であり、下肥(しもごえ・人糞尿を自然熟成させ肥料効果を一層高めるもの)の利用が日本の都市の発展には必要不可欠なのであったといえよう。

従って、当然、下肥は金銭で取引されるようになっていったという。
また、江戸市中の人糞尿や下肥は、水路、舟を使って近郊農村へと運ばれたそうだ。
このように下肥の利用こそ農業の生産力を増大させ、近郊農業の発展を促(うなが)したそうだ。

DSCF002711昭和20年代位まで、また、農業に本格的に化学肥料が普及するまでは、近郷の農地に行くと各所に大小(直径5〜10m位)の掘り込まれた穴をよく見かけた(これを「肥溜・こえだめ」と呼んだ)。
(左:「肥溜」跡と思われる)
そこで人糞尿を溜めて、自然熟成させると夏場では1〜2週間で窒素分や燐分などが熟成されるためである(冬場では1月間位かかった)。
特にこれは野菜などの肥料として有効に利用されてきたという。

このように、人糞尿(”し尿”ともいう)による”下肥作り”は農村の一つの景色でもあった。
 
しかし、この”し尿”が熟成(醗酵)する時の匂いはまた強烈である。
都会の子は、この匂いを「田舎の香水」と呼んでいた。
 
戦後、企業は生産設備を拡大し郊外の田園(農地)に次々と新工場を建設していった。
広い農地の間に工場が点在する風景であった。

田無工場跡筆者の勤務する会社も戦後、このような田園に、最先端の精密機器工場、組立工場を建設し、すでに操業を開始していた。
 
いま流に云うと防衛省の文官か武官かが、この新鋭工場の視察にやって来たときのことである。
(左:「肥溜」→精密機器工場→工場跡再開発・西東京市)
その日の前夜は春の雪がかなり降ったの日であった。
農道がよく確認できなかったようである。
公道より工場入口への一本の道(農道)は殆ど雪が覆っていたという。
その道(農道)の脇あった、昔ながらの「肥溜」もすっかり雪が覆っていたそうである。
 
客先に付き添いの社員も土地勘が良くなかったのだろう。
道脇の「肥溜」の存在を一瞬忘れたに違いない。

雪の道、三々五々、歩き易い処をそれぞれ歩いていたとき、突然、一人から大声が発せられた。

大切なお客先のお一人が「肥溜」に"はまって"しまったという。
しかし、この話は企業のなかでは長い間、丸秘になっていたと聞いていた。<この項つづく>
                   (永田駿介記)


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