2007年04月

2007年04月17日

ある東京舌の焼酎日記<5>

そういえば私も幾つかの食品については”水”に多大のこだわりを持っている。
例えば私の好きな豆腐である。

その製法は不案内であるが、美味しい豆腐とは、それに似合う”大豆”、”うまい水”と”ニガリ”の合作であろう。

成型(固めた)した豆腐より、未成型のままスプーンで食する方が俄然美味しいと思った(”通<つう>”の料理屋自身が特別な加工したか不明だが)。

大豆の”うまみ”を水が引き出し、水がまずいと大豆の”うまみ”を極端に壊す。
すなわち、水は”引き立て役”であり"壊し屋”でもある。

原料とその似合いの水の選択として、共に地元産に限ると一部で云われるそうだが、これも仲々難しい面があようだ。 
                

                               (永田駿介記)



2007年04月15日

(文献、資料の調査、入手代行担当)永田 駿介プロフィール<そのー7>

実験でなく、あくまで大量生産が私たちへの使命である。しかも開花まで長期間を必要とするうえ、生命力の退化した自然界植物の再現である。そのため考えられる大量生産方式を同時平行的に実施する必要がある。ヤマユリ球根の切片を液体培養により小(クローン)球根の大量生産(大学開発工学部実験室と共同実施)の他、若手研究員の発案による、採取したヤマユリの種子を人工培地の中で発芽を促し、効率良く成苗の大量確保を図ることなど、大量生産へのアプローチを実施した。この間、行政サイドにも多大のご協力を頂いた。秋口にはヤマユリ種子の採取の他、すでに生育中の苗(2〜3年目)を現地環境に馴化するためヤマユリ(森林)公園内の空き地に仮植付け、生育を実施するなど復活作戦はその歩を進めていった。

2007年04月04日

(文献、資料の調査、入手担当)永田 駿介プロフィール<そのー6>

ヤマユリは組織培養(体細胞の一部からもとの個体復元のため直接発芽させる)により発芽、生育を促進し、低温処理による人工休眠打破で成長のサイクルを早めても開花までには、最短でも4年、自然界の場合は実生(種子)より発芽、開花に至るまでに6〜7年の歳月を必要とする、実に生長の遅い植物である。また耐病性にも難があるため、理想的には耐病性ある近親種との交配も選択肢の一つである.原種福島町のヤマユリとその近親種(花粉)との人工交配実施のため、若手研究員は現地に赴きヤブ蚊の襲来を受けながら1部の原種ヤマユリへの授粉作業を実施した。

2007年04月01日

中国での体験記(吉田稔)

中国での体験
  今回の中国出張は恐らく生涯忘れる事の出来ない貴重な体験の連続であった。
3月4日成田を発った中国南方航空CZ630機は何事もなく朝鮮半島をソウル上空で横切りひたすら大連を目指して飛行を続けていた。春先に有り勝ちな悪気流のためか機体は時折大きく揺れていたがあまり気にはしていなかった。大連に近づくに従い揺れはひどくなり空港近くで突如着陸不能のアナウンスが流れ、青島空港への着陸が告げられた。
 青島には無事着陸したものの地上はすごい横風と冷たい寒気に思わず身震いをしながら待合室にて再出発に備え待機したが何のインフォーメイションもなく、同行のお客3名は中国訪問が初めてで不安と焦燥の中で落ち着かない。案内役の私も何の手がかりもなく心細くなすすべもない。取り敢えず大連の孫万良君に電話し、青島に降りた事を告げ大連の様子を聞いた。大連は雪と嵐で強風が吹き荒れ、空港、高速道路はすべて閉鎖、本日中は空港の閉鎖解除は見込みが立たないだろうとの事。何とか大連に行きたいので色々客を交えて相談したがタクシーは青島―北京―瀋陽―大連で道路の閉鎖がなければ30時間はかかるであろう、鉄道は乗り継ぎがはっきりしない、船は煙台―大連があるが調べてみると運行停止。孫君の意見では天候の回復を待って飛行機で移動するのが一番早く且安全であると言う。青島JTTの金君に電話したら突然の来訪でびっくりしすぐ迎えに空港に来たが同じ意見で彼の案内で青島のホテルに落ち着いた。
  翌3月5日は一番機が飛ぶであろうからと6時にはホテルで朝食を済ませ、空港に向った。空港は足止めをされた多くの客で混雑し、今か今かとアナウンスを待ったが結局飛行機が出たのは夜7時過ぎ、大連空港に到着し、孫君の出迎えでようやく落ち着きを取り戻した。これで一件落着と喜んだがこの後また恐ろしい事が発生したのである。
 3月6日からの仕事は順調に進んだ。強行軍ながら2日分の仕事を1日で消化し同行の客は翌7日一足先に帰国の途に付いた。小生は別の日本からのお客と合流し、これも予定通りの7日、8日の仕事を無事に消化する事が出来たのでホテルで別れの挨拶をし、翌9日小生だけが早朝に単身帰国をする事になった。
 実は出張前の日本にいる頃から胃の調子が何となく重苦しく胃薬を飲んでもあまり効果はなく早く医者に見てもらいたいと思いながら時間がなく今回の出張を迎えた。中国に来てからも出される料理にもあまり手をつけず、自制していた心算である。好きな酒も殆ど飲まなかった。
 9日早朝は大連空港まで孫君が送ってくれた。これで今回の出張は全部クリヤーした安心感からけだるい体を引きずりチャックイン、出国検査、安全検査を済ませて搭乗口ゲートに差し掛かった時、急に頭がぼやけて気分が悪くなり近くの椅子に座った途端、大量の吐血をして倒れてしまった。意識はあった。近くの人が通報したらしく1分もしない内に空港の救護医が駆けつけ血圧を計り、応急の点滴を開始した。危険、危険と日本語の言葉が耳に入り倒れた体を動かないように押さえつけ、すぐに担架に乗せられ空港入り口まで引き返し、救急車に乗せられ病院に向った。中国南方航空の職員が小生のパスポート、航空券を確認し病院まで付き添った。病院で問診を受ける傍ら、大連領事館の職員が駆けつけ日本家族への連絡、大連市内知人への連絡などの処理を引き受け、見事なチームプレーであった。急を聞いた孫君が駆けつけ病室に運ばれ、日本語の判る主治医が決まり本格的な治療が始まった。病院は大連市中心医院、大連では二番目に大きい病院との事であった。
 心電図、血圧、呼吸はすべてコンピューターで管理され、酸素吸入、点滴により体調の安定を待って胃カメラによる内視鏡検査が行われた。検査の結果はすぐに出た。胃潰瘍2期で直径1CM,深さ3CMの穴が胃の壁にあけられていた。もう少し遅ければ胃の壁を突き破り大変な事に為っていたとの事。更に大量吐血による貧血がひどく絶対安静、食べ物、飲み物一切不可を主治医から指示された。孫万良家族、孫昭民家族が次々に見舞いに訪れ、大きな生花を見舞いに頂いた。夜になっても孫万良君は付き添ったままで帰宅しない。朝まで付き添っていてくれた。後で判ったことであるが中国の病院では完全看護のシステムはなく、家族または付添い人が患者の身の回りの世話するしきたりになっているらしい。そのためか次の日も次の日も両家族が総出で交代で看護を受けた。トイレもベットの上、朝は温水をベットに運び洗面をさせる、夜は寝る前に体を蒸しタオルで綺麗にふき取る、時々気分はどうか、体温はどうか、点滴の様子を看護婦に知らせるなどきめ細かい
気配りに感謝の気持ちで一杯であった。丸二日後からおかゆが許された。これも両家族が家で作ってきて食べさせてくれた。白かゆ、黄かゆ、など暖かいのを大きな水筒の様な器にいれて持ってきてくれた。毎日主治医が病状を説明してくれ、数種類の点滴が繰り返された。うまく行けば4日後には退院できるとの説明をうけ、ほっとした。退院の日には病状の診断書を主治医から頂き、日本に帰国したら直ちに病院に行くように指示され、且日本で再度精密な検査をする様にとの意見が添えられた。
 今回は中国のきめ細かい救護体制と、中国人の家族以上の暖かい世話で命を取り留めた。倒れた時は血圧は46まで下がり適切な対応がなければ危なかったかもしれない。施設、体制の整った空港の中で倒れたのは幸運であったかもしれない。現地の新聞にはこれら一連の記事が報道されていた。現在は日本の医師の下で健康回復を最優先に取り組んでいる。
健康が如何に大切かを知らされる事件であった。





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