金融機関は当然、過去に事故歴があるのだろうと推測するから事前審査が通らない。ほしい物件があっても買えないことがある。旦那さんが働いているのに、奥さん名義でローンを組んで買うようなときにも何故だと疑われる。金融機関というのは絶えず誰かに評価を与えて、生かしたり殺したりするところがある。表現を変えれば、人を人とも思わないところがあるということになる。
金融とは足りないところに資金を融通することが仕事のはずだが、個人事業主など、少し売り上げを落としただけで、資金を回収しようとする。雨が降ったら傘を取り上げるのは今に始まったことでもないだろう。職業柄、あまり、銀行員と占い師は好きではない。人を操ろうとするからだ。
学校を出て、初めて社会に出て、濃紺のスーツにエンジのネクタイ、髪を撫でつけ、大きな声で挨拶する若者のとき。学校の一日目と同じで、みんな静かで優しくて、胸が躍るような気分があったろう。それから、数年も経ずして、住宅ローン審査で撥ねられるようなことになったらつらかろうな。
家はある意味、切羽詰まって買うモノだ。思い切って買う。勇気を出して買付を書いて、精一杯交渉して買うモノだ。数年前に、携帯電話の支払いが遅延していたり、カード払いをうっかりして、期日が過ぎているのに口座への入金を忘れたとか、家族に事故情報があって、同居して電話番号で引っかかったとか、そんな理由でも審査で落ちるが、なんの履歴もない、スーパーホワイトは金融機関がまるでこの世に存在しないかのような対応を取ることもある。
銀行の融資担当者が、不動産業者を回っては、属性だとか、スコアリングだとか、人を堕とし込む魔法の言葉を言いふらすようなこともあった。言葉の出さないで身振り手振りで、それとなく伝えてくる銀行員もいた。人にはそれぞれ人生があり、節目節目で資金が必要になる。手の平を返すような冷淡な対応を気の毒にと思うお客さんもいた。罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、人生の一時期、うまくいかないときもある。
都市銀行に入って、リテールの個人融資に回されることは不本意なんだと聞いたこともあるが、所詮はカネ貸しだし、所詮はただの人だと言うに過ぎないが、わけのわからない裏付けのないプライドを持つ融資担当者もいるな。個人情報を格付けしたりして、人を見下すような一面はある。もちろん、銀行員に何とか頼み込んで助けてもらったこともある。どうしてもほしい家を手に入れて喜んでいた若夫婦もいた。
仕事をしていて、何かに腹を立てることがあるが、それでも数字は残さないといけない。会社のためでなく自分のためだ。周囲にはそれなりの敬意を払わせるようにしないと生き残ることはできない。努力が必ずしも日の目を見るとは限らないが、宝くじでも当たらない限りは大金を得る可能性はないわけだから、朝、一番遅く来て、夜、一番早く帰っていては信用も評価も下がるし、せっかくのスキルも役に立つ場所を失う。
今、役に立つからスキルの意味がある。評価というものはむつかしく、単純に給与や役職やデスクの大きさばかりでは測れない。何の役職についていなくても、敬意を受けるものもいる。若者は時間を無駄にし、ベテランは経験を無駄にする。我慢が足りないと思う。今に限ったことではないが、どうも春になると人が辞めて出ていく光景を見る。残った者も、このままでいいのかとガードレールのない道に放り出された気分になることもある。若い頃、末路哀れは覚悟の前だと言われたことを思いだす。
1994年(平成6年)に公開された映画「集団左遷」は、毎年一度は見る映画だ。バブル崩壊を契機に大量のリストラのために、首都圏特販部という、いわば首切り部屋に放り込まれた50人の営業担当者たち。生き残りをかけた闘いを描いた不動産会社の話だ。「カネがないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗を出せ」と言うようなセリフもあった。映画は時代背景を映し出す鏡だ。今、見たところだが、何とも懐かしい映画だ。
1990年台も不動産の営業担当者たちは、それなりに問題を抱え、それなりに悩んでいた。その他大勢の立場であっても、それなりに難しい決断をしてきた。家族に重荷を背負わせたこともあったろう。・・それは、これからも続いていく。30年前も悩んでいた、新しい悩みはない。因みに、この映画には、柴田恭兵、中村敦夫、津川雅彦、高島礼子が出演している。「生き残るか死ぬか、誰が決めるのか。会社じゃないぞ。キミたち一人一人が、自分で決めるんだ。」。・・その通りだと思う。