儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その6

こちらは、前の記事の続きです。

参 考 / 研 究

・・・ ≪ 『大学』・明明徳 ≫

○ 古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。 欲者、先。 欲誠其意者、先致其知。致知在格物。

■ 古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉〔ととの〕う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しゅうす。其の心を正しゅうせんと欲する者は、先ず其の意〔こころばせ〕を誠〔まこと〕にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格〔ただ/いた・る〕すに在り。

The ancients who wished to illustrate illustrious virtue throughout the empire, 
first ordered well their own States.  Wishing to order well their 
States,they first regulated their families.Wishing to regulate their families,
they first cultivated their persons.Wishing to cultivate their persons,
they first rectified their hearts.  Wishing to rectify their hearts, they first 
sought to be sincere in their thoughts. Wishing to be sincere in their 
thoughts, they first extended to the utmost their knowledge.

*八条目: 格物 → 致知 → 誠意 → 正心 → 修身 → 斉家 → 治国 → 平天下 

*八条目: 平天下 → 治国 → 斉家 → 修身 → 正心 → 誠意 → 致知 → 格物 

cf.野田佳彦総理、所信表明演説(‘11.9)にて、“和と中庸の政治”を標榜〔ひょうぼう〕し、“正心誠意”(『大学』)の言葉についても語られました。

 

 POINT! (by.たかね)

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★51&10章(重複): 「玄徳」  ―― これが、神秘の「徳〔ちから〕」とよばれる

「 道生之、徳畜之、長之育之、、亭之毒之、養之覆之。生而不有、 為而不恃、長而不宰,
是謂 玄徳。」

*This is called the Mysterious Power.(A.Waley adj. p.153 ) 

*Such is called the mysterious virtue. (D.C.Lau adj. p.14 )

 

コギト(我想う)

《 黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕 と 儒学の「素」〔そ/しろ=白〕 》 

 

――  略  ――

 


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その5

こちらは、前の記事の続きです。

研 究

【玄】 → ≪ 「明徳」 と 「玄徳」 ≫

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.103‐105引用)・・・ 〈 無限に根ざした有限は玄妙である 〉

「 そこで人間の徳で申しますと、老子や黄老派は徳の事を 玄徳 と言う。徳とは万物を包容し育成する力であります。それは無限であると言うので玄徳と言うのであります。

これを儒家の方では 明徳  補注)と言う。

玄徳が外に発揚したもの、つまり無から有に出たものが明であります。

儒家は明徳を常に力説する。

老子は、明徳では惜しい。それは限定であるから、宜しく玄徳でなければならない、こういって補うのであります。

われわれの明徳が玄徳に根ざしておれば良い。これがほんとうの明徳であります。

遊離して背〔そむ〕いて来ると、明徳はやがて明徳でなくなってしまう。

昧徳〔まいとく〕になってしまう。」

 

「そこで、教育で申しますと、小学校教育、義務教育というものは何処までも本体を徳育におかなければいけないのであります。

徳育から枝葉を伸ばし、幹を太らせ、実を育てるように、専門学校・大学で色々の知識・技術を教える。

これが正しい学校体系・教育体系であります。

処がろくろく人間としての徳の教育もせずに、小学校の時から妙な異端邪説、下劣な悪習慣をつけて、そのまま大学まで行ってしまうなどは、全くそれを殺してしまうのでありますから、人間を暗愚にしてしまう。

ここに今日の教育の非常な危険があるわけであります。

 

特に国民教育に携わる教師は、最も徳とか道とかの分かる人でなければならないのに、そういう肝腎なことを忘れてしまって、せいぜい上級学校の入学試験に及第者の一人でも多く出すことを最良の如く考えて、無闇につめ込み教育をやる。

胃弱の者に、栄養と称して、暴飲暴食をさせるのと同じことで、直ちに胃潰瘍を起こしてしまう。

これが進むと、胃潰瘍なら手術も出来るが、こればっかりはどうにもならない、最後は、人格破壊者、精神病者になってしまう。

現に現代文明の悲惨な実例は、精神病者、人格破壊者、青少年時代からの非行犯罪者の激増であります。

そういうことを考えて来ると、今日の時代は実にまちがいだらけであります。

それが如何に間違っておるかということの確信は、やはりこういう学問をしないとなかなか得ることが出来ないのであります。」

補注) cf.『大学』の三綱領(「明明徳・在親民・在止於至善」) の1です。
「大学の道は明徳を明らかにするに在り」 (安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収・「政教の原理『大学』新講」p.143引用)
以下、「明徳」:(同上書pp.144-146引用)について。

 

「 これが外国訳になると実に面白い。

レッグの大学訳などを読むと、to illustrate illust-rious virtue と書いてある。

ピカピカする徳ピカピカさせるのでは落第である。

もっと深い意味があるわけで、紀平正美先生は明という徳、明そのものが一つの徳だと言う

では、一体徳とは何ぞ。

こうなると少しも前へ進まないが、この種の講義はこれでいいのだと思う。」

 

「 兎に角、 とは宇宙生命より得たるものを言うので、人間は勿論一切のものは徳のためにある。

徳は得であります

それには種々あって、欲もあれば良心もある。

すべてを含んで徳というのであるが、その得た本質的なるものを特に徳と言う。

そして、われわれの徳の発生する本源、己を包容し超越している大生命をと言う。

 

だから要するにとは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以〔ゆえん〕のもの、これなくして宇宙も人生も存在することが出来ない、その本質的なものが道で、それが人間に発して徳となる。

これを結んで道徳と言う。 補注) 

従ってその中に宗教も道徳も政治も皆含まっている。

非常に内包の広いの広い外延〔がいえん〕の広い言葉である。

 

そのわれわれの徳には種々の相があるが、その一つに意識というものがある。

われわれの意識される分野は極く少しで、例えば光といっても赤・橙・黄・緑・青・藍・紫等の七色の色閾〔いき〕しか受け取れない。

然し光そのものは無限である。

われわれのこの意識の世界が所謂〔いわゆる〕明徳でありますが、その根柢には自覚されない無限の分野がある。

老子はこれを玄徳と言っている

 

海面にでている氷山の下には、それの八倍のものが沈んでいるという。

丁度それと同じで、有の世界、明の世界の下には潜在している徳、即ち無意識の世界がある。

これを無の世界と言うと誤解をまねくので、無・虚という言葉を使いながら、道家ではよく  という字を使う

 

然し、儒の教は自己を修め人を治める現実の学問で、勿論玄徳の世界を無視するものではないが、兎に角、そのよって立つ基礎は意識にのぼり、感覚で捉える世界、知性・理性によって把握する世界、即ち明徳の世界である

その明徳が何であるかを解明するのが明明徳である。

※補注) 老子の「道」と「徳」については、(§ 51章 )参照のこと


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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大難解・老子講  『老子道徳経』  ●道=無 その4

こちらは、前の記事の続きです。

 【故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。】

*Truly, ‘Only he that rids himself forever of desire can see the 
Secret Essences’;
He that has never rid himself of desire can see only the Outcomes.
(A.Waley  adj. p.141)

*Hence always rid yourself of desires in order to observe its 
secrets;
But always allow yourself to have desires in order to observe its  manifestations.
(D.C.Lau adj. p.6)

*Only one who is eternally free from earthly passions can apprehend 
its spiritual essence; he who is ever clogged by passions can see no 
more than its outer form.
(Kitamura adj. p.6)

 

・「故」: 『老子』には、「故に」・「是を以て」という、上節をうけて次の clouse を導く接続詞が多用されています。「故に」は、“ゆえに”と“まことに”(「固に」同じ)の2つの意味があります。

・「妙」: Deep mystery /玄妙不可思議の理。深淵でわかりにくいもの。 「妙」と「玄」とは関連しています。(後述)   ex. 「玄妙」・「幽玄」 ・・・

・「徼」: Outer form /帰結や端〔はし〕・境界の意。形態・輪郭と解してもよいでしょう。形のないものは、外郭・境界がありませんから(「大方無隅」)。「后廚亮攣で、明白の意。「微妙な始源」に対する「末端の現象」。

※「妙」と「徼」が押韻しています。押韻の関係から、本来「名」か「形」であったものを「徼」にしたのかも知れません。

「 ―― 徼の字は、古来文字学者、老子学者によって色々と説のある問題の文字でありますが、結論を言えば、これは微の文字が置き換えられたと見るのが正しいようであります。」

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.102−103引用) 

・「欲」: desire/欲求の意でしょうが、「将」のように軽く未来の希望を示した語と考えられます。

 

 

 ◎【此両者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、 衆妙之門。

★☆ 第3段は、解説的に書き入れられたように感じます。したがって、この第4段は第2段に直接つながるように思われます。そして、末句の「玄之又玄、衆妙之門」8字が最重要 pointです。

*These two things issued from the same mould, but nevertheless 
are different in name.
This ‘same mould’ we can but call the Mystery,
Or rather the ‘Darker than any Mystery’,
The Doorway whence issued all Secret Essences.
(A.Waley  adj. p.141)

*These two are the same 
But diverge in name as they issue forth.
Bing the same they are called mysteries,
Mystery upon mystery − 
The gateway of the manifold secrets.
(D.C.Lau adj. p.6)

*As development takes place, it receives the different names. ――― 
But in their origin are one and the same.
(Kitamura adj. p.7)

 

・「此両者」: 「始」と「母」と、または「有」と「無」と。 /The spiritual and the material.
( ほか、「道」と「名」/「無名」と「有名」/「無欲」と「有欲」/「妙」と「徼」 )
「始〔はじめ〕にあれば始、終〔おわり〕にあれば母という」(王弼)

・「同出而異名」: 同じものから生まれ出て、例えば、首を「無・始」といい尾を「有・母」と称するようなものと思えば良いでしょう。“火のない所に煙は立たず”といいますが、薪に火がつきその火と煙の関係になぞらえるのも面白いと想います。

・「玄之又玄」: 「玄」は、見れども見えず聴けども聞こえずの“元気”。五感を超えた、霊妙にして神秘的なさまです。造化の神秘的エネルギー(暗黒エネルギー)老子の思想における特異なキーワードの一つです

「玄」のつく語は、暗く幽〔かす〕かで捉えどころのない「道」を暗示す言葉として多用されています。

ex.「玄徳」・「玄牝」・「玄同」・「玄通」・「玄覧」 ・・・ etc.

また、「玄」と「妙」は関連しています。 ex.「微妙にして玄通」 《15章》

妙 = 眇 ≒ 玄

玄は「無」、仏教の「空〔くう〕」です「空」と「無」は、「同出而異名」です

私は、黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕 と 儒学の「素」〔そ/しろ=白〕とが、(対照的に)良くその思想の本質を一文字で現わしていると考えています。

そして、「玄之又玄」は、玄の奥にまだ深奥があることの詩的表現です。

A mystery ―― the mystery of misteries.

★「衆妙之門」: 宇宙・造化の偉大なる作用の出口。(§6章) 「玄牝の門=女性生殖器」・「天地の根=生殖器」も同意です。生(産)み出すものであり、儒学・易学の「中〔ちゅう〕」であり神道の「産霊〔むすび〕」に通ずるものであると考えます

This identity of apparent opposites I call the profound,
the great deep, the open door of bewilderment.

♪「玄」と「門」が押韻しています。

cf.運命学にも、「鬼門〔きもん〕」=「起門〔きもん〕」=「生門〔きもん〕」という語・考え方があります。

★ 宇宙造化の門 : 衆妙之門 = 玄牝の門【女性生殖器】 = 天地の根【生殖器】
/ ≒「中」(易学) ・「産霊〔むすび〕」(神道)


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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