儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

豚児・愚息の 「英国留学体験の記」

豚児・愚息の 「英国留学体験の記」

――― 荊妻豚児/愚妻・愚息/弱冠/ロンドン大学・オックスフォード大学/
“マルタ”/「さね〔核/実〕」/伊勢の「尋常研修会」/孔子“空白の15年”/
【風地観☴☷】卦/「観光」〔国の光を観る〕/“壺中天”≒アナザースカイ/
日本と日本人のアイデンティティー/「学び〔学而〕」て「立つ〔而立〕」/
「世界の光」・「日本国の光」  ―――

《 はじめに 》 

唐土〔もろこし〕では、妻子のことを謙遜の言葉で「荊妻豚児〔けいさいとんじ〕」ともいいます。

いくら“へりくだり”とはいえ、「荊〔いばら〕」の妻に「豚」の子の表現は過激に感じます。注) 

我が国の愚妻・愚息〔ぐさい・ぐそく〕あたりの謙遜表現は、
ホド〔程〕を得てよろしいように感じます。

尤〔もっと〕も、こちらの語も、何でもかんでも言葉を否定しているご時世、
今時〔いま〕はほとんど使われません。

さて、我が愚息・徳義は、小学生の砌〔みぎり〕から当真儒協会の児童部・
「パール・キッズ・スクール」〔Pearl Kids School:童学草舎〕の会長を務めてまいりました。

当会や他の団体で、『易経』の講義・講演を務めたりいたしました。
(ex. ’06.6 「易と動物」・日本易学協会大阪府支部)

長じて現在、大学生をやっております。

2015(平成27)年、20歳〔はたち〕の人生の節目〔ふしめ〕の年、
春期に早稲田大学から英国・ロンドン大学〔“University College London”〕に留学いたしました。

続いて夏期に、改めて渡英、オックスフォード大学〔“Oxford University”〕に留学いたしました。 

―― 弱冠〔じゃっかん:20歳〕にして世界の光を観たわけです

この“英国留学の記”が、昨年(‘16、H.28年) 「論語普及会」の会誌『論語の友』に、
三月〔みつき〕3回にわたって連載されました。

今回それを掲載したいと思います。

ただし、会誌編集字数の関係でカットしていた部分の文章は、元原稿通りに再現加筆しました

これで、荒削りではありますが、小文学作品になっているかと思います。

また、登場人物名は無記名に改め、掲載された写真は一部省略しました。

なお参考までに、専用語と思われる英語(カタカナ)表記には日本語の意味を、
漢字表記には読み仮名を私が添えておきました。

――― なお、後日談として付言しておきますと。

愚息は、英国留学から帰国後の昨年(‘16、H.28年)は、
欧州・ロシア・エジプト中近東・中国アジア諸地域の十カ国余りに遊学しました。

今年(’17、H.29年)は、春季に、英語・語学力強化のため
地中海の“マルタ”に留学しています。

“マルタ”は、古代ローマの時代からカルタゴが支配した地で地中海貿易によって繁栄しました。

現在は、英語留学先として知る人ぞ知る“穴場”であり、地中海の楽園でもあります。

二ヶ月ほどで、イタリア・スイスに立ち寄ってからタイ経由で帰国する予定です。

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注)
「荊妻」=「イバラの妻」は、トゲトゲしい怒りっぽい妻の意ではありません。
故事は、後漢時代。
梁鴻〔りょうこう〕の妻・孟光〔もうこう〕が、「イバラ」のかんざしをさした事に由来します。
「荊人」・「荊婦」とも。
なお、「イバラ」は、易の【坎☵】の象〔しょう〕です。

 

【 英国留学体験の記 】  ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


「吾、弱冠(二十歳)にて世界を観る」

―― 英国/ロンドン大学・オックスフオード大学 留学体験の記 ――

盧 徳義 (早稲田大学在学中/20歳)

《 プロローグ〔序〕 》

子どもの頃の善〔よ〕き感化というものは、「さね〔核/実〕」となって、
やがて長じて発芽し時を得て花開くものである

私においても然〔しか〕りで、小学生の頃からの善き「学び」が養分を得て、
今時〔いま〕弱冠(20歳)の人生の節目に英国留学という精華を得たのである。

小学生の頃、父に付き添われて「論語普及会」「関西師友協会」に学ばせてもらっていた。

I.S.先生や M.Y.先生の謦咳〔けいがい〕に接し、
また他の多くの先生方の薫陶を受けた。

小5生の頃、会の宴席(「洗心講座」)で「教育勅語」を暗誦披露させていただいたことは
今でも記憶に鮮明である

とりわけ、小4生から毎年参加させてもらった伊勢の「尋常〔じんじょう〕研修会」は、
私の「さね」を形成するに大いに与〔あずか〕っていると思う

その折に学んだ『孝経』も、後に全文を暗記し私の精神的糧〔かて〕となっている。

お世話になった M.先生、 T.M.先生、 Y.M.先生方や I.先生の孫娘さん、
父の友人の T.T.さんなどを、懐かしくもありがたく思い出している。

今回、Y.先生のお声かけを得て、近況報告も兼ねて私の英国留学記をまとめた。

「紳士〔ジェントルマン〕」の国への大和〔やまと〕の「士〔もののふ〕」の遊学の記である。

なお、表題について付言しておく。

『論語』にある「志学〔しがく〕(15)・而立〔じりつ〕(30)・不惑〔ふわく〕(40)・
知命〔ちめい〕(50)・耳順〔じじゅん〕(60)・従心〔じゅうしん〕(70)」
は、
孔子が自身の生涯を回顧して語ったもので、年齢を表す語としてよく知られている。

これらの語が私たちに訴えるものは、これらを受け取る各々の年齢によって異なるであろう。

『論語』の成立から2500年余りが経過した現在、私は「温故知新」の名のもとに、
平成の世を生きる自分なりの今時〔いま〕のあり方を考えることが必要だと感じ、
このように題した。

 《 英国留学の記 》

平成27(2015)年の2月・3月に、弱冠の私は英国留学を果たした。

かつては伊藤博文夏目漱石が、最近では小泉純一郎などの数多〔あまた〕の著名人が学んだ
ロンドン大学のユニバーシティカレッジに、である。

同年8月には、言わずと知れた、イギリス最古の伝統を誇る〔起源は12世紀〕
名門オックスフォード大学のハートフォードカレッジに留学した。

このカレッジは、世界的政治学者のトーマス=ホッブスの母校でもある。

なぜ、私が二度にも及ぶ渡英を決意したのか? 

そこには大学生ならではのミーハー〔周りにすぐ同調する〕な気持からではなく、
山口・萩が生んだ二人の高潔な士の存在への想いがあったからなのである。

吉田松陰と高杉晋作の二人がそれである。

松下村塾の師である吉田松陰はペリーの黒船に乗り込み渡しようとし、
弟子の高杉晋作は隣国の清〔しん〕で「太平天国の乱」を実際に目の当たりにし、
自分の人生観そのものに変革をもたらしているのである。

幕末の激動の時代においても、志あるものは世界を目指したというのに、
況〔いわん〕や平成の青年においてをや、である。

自分も、何としても異国の“光”を観てみたいと切望したが故にであった

―― 想うに、今時〔いま〕、このような考えを持つに至ったのは、
少年時代に学んだ古典・先哲の教えの潜在的ベース〔基盤〕があったからに違いない

例えば、小学高学年の頃、 T.T. 先生の講座(「青年立志塾」)で、
吉田松陰・高杉東行〔とうぎょう〕(晋作)・楠正成・宮本武蔵などを
安岡正篤先生のテキストを底本に学んだ。

(※この安岡先生の名著・『日本精神の研究』は、いま英訳でも出版されており、
改めて英文で愛読している)

また、 M.T. 先生の講座(「古典活学講座」)では『論語』を中心に中国古典思想を学んだ。

「機妙」にも両先生は、私の所属している大学(早大)の大先輩ということになるに至っている。

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 (1) ロンドン大学へ

私にとって初めての留学先となったのが、
“University of London 〔ロンドン大学/以下UCL〕”であった。

私の20歳の誕生日から3日が過ぎた2月の22日、眠い目を擦〔こす〕りながら始発に乗り、
漠然とした不安感と期待感とのアンビバレンス〔相反する感情〕を
一際〔ひときわ〕大きなスーツケースに詰め込んで、私は羽田空港へ向かった。

それから大凡〔おおよそ〕12時間後には、私は遂に夢にまでみた
「七つの海を股に掛けた大英帝国」の土を踏んだのである。

イギリスに入国し、ヒースロー空港からバスに一時間ほど揺られ
ロンドン市内に到着した。

着いてからの3日間は、何とも言えない疲労感で何も手につかなかった。

だが4日めの午後、現地留学生との交流の中で日本人学生の宴もたけなわとなり、
皆で物見遊山〔ものみゆさん〕に「繰り出す」ことにした。

“UCL”「大英博物館」の裏手にあり、その立地条件は英国随一と言えるであろう

そこで、私たちは歩いて街を散策することにしたのだが、
不慣れな海外の街を歩くことはそう簡単ではない。

紆余曲折〔うよきょくせつ〕している間に日も暮れてしまっていた。

そして、ディケンズの “Christmas Carol 〔クリスマス キャロル〕”さながらに、
ロンドンの街は一瞬にして「霧の都」に姿を変えた。

その光景は、まるで不意に人気のない街角から「切り裂きジャック」
「シャーロック=ホームズ」が飛び出してきそうであった。

街を漂白する中で、私はある種の恍惚感すら覚えたほどの魅力を感じた。

その後、私たちは夢心地にテムズ川沿いを歩き、ロンドンの夜景を堪能したのであった。

特に、観光名所でもある “London Eye 〔ロンドン・アイ:観覧車〕” からの大パノラマ〔見晴らし〕は
なんとも名状しがたいエキセントリック〔極端に変わっている〕な景色であり、
その時の感激と胸の高鳴りは今でも鮮明に覚えている。

明くる日から、ロンドン観光に味をしめた私は、授業も早々に、
沢山〔たくさん〕の場所を訪れたのであった。

「大英博物館」・「BBC」・「バッキンガム宮殿」・「ロンドン橋」などの有名どころはもちろん、
シャーロック=ホームズの舞台となった「ベイカーストリート」「コベントガーデン」
さらに週末にはウィンブルドンハリーポッターのスタジオツアーなど、
数え挙げればきりがない程である。

その全てが私の期待を大きく超える感動を与えてくれるものであった。 

私にとって、仲間と遊び回り、ひたすらカメラ越しに皆で肩を組むのも
大学生としての至極〔しごく:この上ないこと〕の喜びではあった。

その一方で、一人群れを離れ異国の地を流離〔さすら〕うのも、
これまたなんともいえないセンチメンタル〔感傷的〕な漢〔おとこ〕の悦びであった。

自分好みの甘くメロウな〔豊かで美しい〕 “R & B”を聴きながら、
偏西風に身を委ねながらの漫〔そぞ〕ろ歩きはたまらなく、
体の奥底から湧き上がってくるとてつもない自尊心を体温の上昇というカタチで
フィジカルに〔物理的/肉体的作用のように〕感じた。

不慣れな土地な為〔ため〕に、目的地に行くには自ずと誰かに道を尋ねなければならず、
そこで必死に英語を使い異国の人々とカンバセーション〔会話〕をする中で得たものは
かけがえのないものであった

日本にはない彼らの陽気で気さくな対応は、自分が生きていることを自覚させてくれるもので、
まるで映画のワンシーンのようであった。

「一日の中に四季がある」、と言われるロンドンの空模様

心なしか日本よりも日の流れをはやく感じさせ、
いつしかエキセントリック〔風変わり〕に感じた組積造〔そせきぞう〕にも見慣れてしまい、
私にとって、もうすでにその景色は
ノスタルジック〔故郷を懐かしみ恋しがる〕なものになっていたのである。

そしてそれと同時に、帰国の日が迫っていた。

気がつけば、不安をこれでもかというくらい詰め込んでいたトランクも
土産〔みやげ〕でいっぱいになり、撮った写真の枚数も何千にも膨らんでいたのである。

このイギリスの景色を目に焼き付けておかなければならない! 

あと少しで、日本に帰らなければならないのだ。

そのことを思うととても胸が苦しくなった。

帰国後、私は所属していた体育会系クラブの、自衛隊との合同合宿のために
習志野〔ならしの〕の第一空挺団へ間髪入れずに直行しなければならず、
この街を、そしてこの国を恋しく思う気持ちは誰よりも強かったのである。

あと少しで、この古〔いにしえ〕の街並も、風も匂いも、空気も温度も、
一瞬にして私の目の前から奪われてしまう。

やり残したことは何だろう? まだ間に合うのか? 

一つだけでもいいからやり遂げてみたい。

だからこの瞬間を、もっと強烈にもっと鮮やかに、
言葉や理屈ではなくて五感で受け止めなければならないのだ! 

―― ミュージカルを観終わった静寂の帰り道、
街灯が照らす心なしか大きな建物の影を逃れるように歩きながらそう強く思った。

そして案の定、「その時」は残酷なまでにすぐやってきた。

惜別〔せきべつ〕式を終え、皆で食事をして歓談し、
思い残すことなくロンドン大学の学生でいられる時間をめいっぱい味わった。

だけれども、いくら話しても話足らず、伝えたいことも伝えきれず、
確かめたいことも確かめきれず、
そして気がついたころにはもう、私はまるで振り出しに戻ったように
ヒースロー空港のイスに座っていた。

そうして私は、どうすることも出来ずベルトコンベアに流されていく荷物ででもあるかのように、
システマティック〔組織的〕に飛行機に積まれていった。

しかし、いざ羽田に着いたら何とも言えない開放感と安堵感に包まれた。

それと同時に、もっと多くを学ばなければならないと閃〔ひらめ〕いたのである

もう一度イギリスに行かなければならない、
そんな気がして夕空に滲〔にじ〕むジェットの赤いランプをぼぉーと眺め続けた。

 

(2) オックスフォード大学へ

ロンドン大学留学から帰国してからの大学生活は、
それまで以上に非常に忙しく新鮮な毎日であった。

そんな、てんやわんやの毎日でも留学で育〔はぐく〕んだ友情は揺るぎなく、
交流は続いていた。

そして、私が再度渡英することへの思いもまた決して変わることがなかったのである。

桜花とともに、あっという間に春は風に乗ってゆき、涼しげな季節がやってきた。

その頃には、夏期留学プログラムの募集が私の手元に届いており、
いよいよ二度目の渡英を算段する運びとなった。 

―― そして、私は “Oxford University 〔オックスフォード大学〕”
留学することを勝ち取った
のだ。

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夏の気まぐれな甘い風にさらわれることもなく、
日本の気怠〔けだる〕い夏も早々に切り上げ、
私は再びイギリスへと向かったのである。

イギリスの夏は日本で言う11月くらいの気温で、
相変わらずのはっきりしない曇った空模様だった。

懐かしく感じた。

ヒースロー空港からバスで2時間、
私は学園都市オックスフォードにやってきた。

その街並みはかつてロンドンで観たものとは違い、
たいそう落ち着いたものだった。

寮のすぐそばをテムズ川が滔々〔とうとう〕と流れ、
そのそばにはアヒルやカルガモ、樹の上にはリスが優雅に暮らしていた。

そして、ハブと呼ばれる酒場もたくさんあり、
川を望みながら酒を楽しめるようになっていた。

オックスフォードのメイン図書館(“ラドクリフカメラ”)の真正面に位置する
ハートフォードカレッジはとても趣き深く、
美しく茂る植物やレトロ〔復古調〕窓ガラスがとても特徴的で、
中庭を吹き抜けるやさしい風がとても心地よかった。

スーツに着替え、写真を撮りウェルカムパーティー〔歓迎の宴〕として
アフタヌーンティー〔午後の紅茶〕を楽しんだ。

英国式紅茶はたいそう美味しい

イギリスの水は日本のものとは違い、随分と硬質なため、
紅茶にはうってつけなのである。

ネイビーブルー〔イギリス海軍の制服の紺色〕のストライプ
〔しま模様〕入りのスーツに、薄青色のワイシャツの腕をまくり、
細めの光沢ある群青〔ぐんじょう〕色のネクタイつけて、
私は気どるように紅茶を楽しんだ。

いつの日か、英字新聞を片手にこんな風に紅茶を飲める毎日が来る気がする。

そんな願望が強めの直感を抱きながら、
私は現地の先生と話に花を咲かせたのである。

先生方に以前“UCL”(ロンドン大学)で学んできた話をすると、
自分も数年前まで勤めていたという先生や
甥が在学しているという先生がいらして、私自身たいそう沸き立った。

オックスフォードでの授業は“UCL”とそう違いはなかったが、
放課後の過ごし方はひと味違ったものだった。

学園都市であるオックスフォードは、
正直言って観光名所や遊び場はそう多くはない。だが、

その古き良き学園の街並みと美しく静かな自然の中で、
世界史に名を刻んだ多くの偉人達が
かつて私と同じ景色の中で学生時代を過ごしたのだと思えば、
はからずも胸が熱くなった

オックスフォードは、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』の作者などの
著名な卒業生を抱えているのとは別に、
ハリーポッターのロケ地としてのもう一つの顔をもっており、
それなりに観光客で賑わっていた。

私たちは、彼らにつられるように観光地を巡ったり、
川下りや森の小道や広々とした芝生の公園をのらりくらり流れ歩いた。

また、のんびりと買い物や食事をして、
街の人々とのコミュニケーションを楽しんだ。

オックスフォードには、“UCL”とは違って
数多くの日本の大学の一行が学びに来ており、
街でそれらしき人達を見つけては声をかけまわっていた。

不思議なもので、アジア系の人達はそれなりの人数で同じ街に暮らしていたが、
日本人を見分けるのは容易であった。

そしてその度に、「日本」への母国愛が募ってきて、
改めて自分が日本人であることに誇りと喜びを感じて、
心なしか優〔やさ〕しい気持ちになれたものだった

自分が父親になった時には、自分の子供への慈〔いつく〕しみには、
幼いうちから数多くの異国文化に触れさせ、
海をも渡り得る言葉を教えてやりたい。

だけれども、自分の大好きな「日出〔い〕づる大和〔やまとの〕国」で育ててやりたい。

その為には、自分たちグローバル〔国際的〕な世界に生きる若者が
細石の巌〔いわお〕となって、苔のむすまで灯火を絶やしてはならない
、と。

いつになくシリアス〔厳粛〕に考えた。

だがしかし、今はそれどころではなく、
極々〔ごくごく:このうえなく〕楽しむしかないと開き直り、
真っ昼間からスコッチを呷〔あお〕った。

「暖衣飽食」の“スローライフ〔安逸(あんいつ=のんき)な生活〕”な「時の流れ」は、
私に色々なことを教え、考えさせてくれた

日本よりも明らかに多国籍で、
さまざまな思想や文化背景をもつ人々が入り交じって暮らすこの国では、
日本以上に国際的緊張の影響を大きく受けるはずである。

昨今ニュースを賑わしているテロ事件にしても彼らの感じる脅威と、
日本の私たちのそれとはまるっきり違うものであろう。

オックスフォードの街は、ロンドンに比べればたいそう小さく感じられた。

そこで私は、毎週末ごとに遠出〔とおで〕を試みた。

一度訪れた国だけあって交通機関はお手のものであった。

ケンブリッジバースグリニッジカンタベリーなど
多くの地に足を運んだのである。

イギリスの郊外は何処〔どこ〕も独特で美しいものだった

時代と歴史の崇高さを感じさせる建築物に圧倒されつつも、
私はいつしか旅行先で出会った人々との会話を楽しむほどになっていた。

「テルマエ・ロマエ」で一躍脚光を浴びたバースであっただろうか。

露天の商人に
「やぁ、留学生かい?バースへようこそ。いい街だろ? どこから来たのさ?」
と尋ねられた。

そこで、私はオックスフォード(大学)に留学しており、
日本の大学では心理学や教育学を研究していると応〔こた〕えると、
彼〔か〕の氏はご自慢の“タコス”片手に 
「そりゃいい!! なら僕にとってはこれが君の言う心理学ってヤツかな?」 
と営業トークを披露し、道行く人々に営業をかけていた。

日本ではなかなか出会えない、海外の人々のそんな陽気な対応は、
生きていることを切〔せつ〕に実感させてくれるものであった。

それにしても、イギリスの酒は本当にうまい。

毎晩イギリスの酒に言葉通り酔いしれ、皆で話に花を咲かせ、
気持が乗ればウイスキーやジンを持って、放歌高吟〔ほうかこうぎん〕して
「紺碧の空」〔早大応援歌〕をなんども歌った。

そんな毎日は、素直〔すなお〕に楽しく嬉しかった。

しかしながら、オックスフォードでの生活も、
案の定〔じょう〕瞬〔またた〕く間に過ぎてゆき、
あっという間に帰国の日が近づいた。

目に見えるものも見えないものも、
忘れ物がないよう何度も確認してからイギリスを後にした


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《 エピローグ〔跋:ばつ〕 》

唐土〔もろこし〕の聖人〔孔子〕は、
嘗〔かっ〕て15歳〔学而〕と30歳〔而立〕のことを懐古して格言を残した。

その間の時期は空白である

ここに倭〔わ〕国〔=日本の太古称〕の空〔から〕け者〔よりどころのない者〕は
その挟間〔はざま〕に20歳の生き方を求め加えるとしよう。

―― ところで私は、幼少の砌〔みぎり〕、父から「易学」の手ほどきを受けた。

父の高弟〔こうてい〕の嬉納禄子〔きなさちこ〕先生にも
手塩にかけて導いていただいた。

英国留学の年(平成27年)は、干支〔えと〕「乙・未〔きのと・ひつじ〕」で、
易卦の【風地観〔ふうちかん〕】に相当する。

【観】卦は、「国の光を観る」(4爻〔こう〕)で
精神性重視・心眼で深く観るの意

奇〔く〕しくも「観光〔かんこう〕」の語源である。

想うに、「世界を観る」というのは、
何も単に物見遊山で海外旅行することではあるまい。

それは一言でいえば(※安岡正篤先生がよく言っておられたという)
「壷中〔こちゅう〕の天」、今風に言えば「アナザースカイ」を探すことである

それは空間的な世界だけではなく、
思想や文化においてもその「光を観る」ことなのである

私にとって今回の留学は、何かを体現し学ぼうとした境地が、
いつしか郷愁的な帰る場所となった。

そして、大英帝国の「光を観る」ことで、
幼〔おさな〕かりし頃から身につけてきた東洋思想や日本精神というものを
改めて認識した。

日本と日本人のアイデンティティー〔自分とは何か?〕が分かりかけた気がしている

私は、グローバルな時代に在って、「学び〔学而〕」て「立つ〔而立〕」ように、
この留学を嚆矢〔こうし:はじまり〕として、
ひたすら
「世界の光」を観続けて「日本国の光」を確認したいと思っている


( 以 上 )

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謹賀丁酉年 〔謹んで丁酉年を賀します〕 その4

《 干支の易学的観想 / 【火沢睽〔けい〕☲☱】・【天水訟☰☵】卦 》

次に(やや専門的になりますが)、十干・十二支の干支を
易の64卦にあてはめて(相当させて)解釈・検討してみたいと思います。
※( → 資料参照のこと )

昨年の干支、「丙・申」は【火天大有☲☰】卦(先天卦【天山遯☰☶】)でした。

大いに有〔たも〕つ、大いなるものを有〔たも〕つの意。

「仲(冲)天の太陽」の象で、豊かで盛運の時を現していました。

今年の「丁・酉」は【火沢睽〔けい〕☲☱】卦、先天卦は【天水訟☰☵】となります。

火沢睽】卦は、“そむ〔叛/背〕く”・“そね〔嫉〕む”。

背き離れるの意です

【☲】と【☱】の陰卦同士ですので、二女反目・女性同士の背反です。

【離☲】女と【兌☱】女ですから、姑〔しゅうとめ〕と嫁・正妻と愛人・
職場などのお局〔つぼね〕(=先輩)と新人などといったところでしょうか! 

また、火と水の背反です。

上卦の【離火】は燃えて上へ昇り、下卦の【兌沢】は流れて降り
乖〔そむ〕き離れる象です。

「睽〔ケイ〕」という文字そのものが、へんは「目」で離・陽の火、
右側は「癸」で陰の水で、火水の背反対立を表しています。

ちなみに、「背〔そむ〕く」という文字の「北」は、
二人の人間(「月(肉)」は人を意味します)が背中を向け合って
反目している象形です。

反対に【水地比☵☷】卦の「比〔した〕しむ」は、一人がもう一人の腰に
(後ろから)手をやって寄り添っている象形です。

しかしながら想いますに、“睽〔そむ〕くもの”・“相背反するもの”が、
必ずしも単に剋〔こく〕し合い損〔そこ〕ない合うというものではありません。

この卦の場合、中庸の徳をもって、2爻、5爻の中爻は相応じています

下卦【兌☱】の和親・和悦の態度をもって、
上卦【離☲】の明らかなもの(明智・明徳)に付き従っていくという
善〔よ〕い面でも捉えられます。

2爻の【陰】は、(主爻で)【離☲】の中爻ですから、最高の明智・明徳です。

【離☲】女と【兌☱】女は、相応〔そうおう〕し補い合ってもいます。

二女は、バランス〔中庸〕は保っているのです

また、火と水の背反についても。

五行思想では、水と火は相剋〔そうこく:ライバル関係〕です。 

が、易では(中論・弁証法的に)水と火の相対立するものを
止揚・揚棄〔=中、アウフヘーベン〕して、
価値の高い新しいものが生みだされると考えます。

(元来、天地万物は、みな矛盾するところがあります。)

相反し、剋し合ってそれで終わるものではありません。

例えば、水と火の協力によってお湯が沸き、
生米から美味しいごはんを炊くことができ、
料理が作れるというものです。

ところで、『易経』は、殷末衰微の時代社会を背景として、
賢徳の帝王・文王によって、古〔いにしえ〕の聖人が創った“象”をもとに
書かれた壮大な物語です! 

そこに物語られた文章=“辞〔じ〕”には、筆者によって巧みに隠された
(古代中国史上)実際のヒロイン〔女主人公〕の物語が織り込まれているのです。

私は、この女性の主人公を、女性の理想像ということで、
仮に“K女”/“KIMIKO”と呼んでいます。

“K女”は、殷の帝王(28代・太丁)の次男の妻でしたが
夫が戦死し未亡人になります。

そして、帝王の長男(奸未擦鵝諭Ц紊裡横溝紂δ覯機未討いい帖諭砲
妾〔しょう:=側室〕となります。

やがては、皇后に上りつめ、後の紂〔ちゅう〕王
(殷王朝最後の帝王・30代帝辛〔ていしん〕)を生むことになります。

火沢睽〔けい〕☲☱】卦は、この妾の“K女”(【兌☱】)と正妻(【離☲】)とが二女同居し、
反目・緊張し同時にバランスを保っている状況をよく表していると考えられます。

私の執筆中の「易経秘色〔ひそく〕」から、
以下にその部分のあらましを抜粋してご紹介しておきます。

☆参考資料  ≪ 盧:「易経秘色〔ひそく〕」 抜粋引用≫

一方“K女”からすれば、もともと若い上にも若返って再婚し、
皇帝となった長男【震☳】(=義理の兄)と相通ずることで
大きく運命が転換することとなりました。

地雷復☷☳】卦がそれです。

“一陽来復”、独〔ひと〕り服喪に過ごした冬の時代の終焉〔しゅうえん〕です。

【復】は冬至の卦ですが、 “K女”の人生は(冬の)陰が陽転していくのです!

ところが、この長男【震☳】の正妻が夫と“K女”との
親密な関係を嗅〔か〕ぎつけるところとなります。

火沢睽〔けい〕☲☱】卦は、この二女同居し反目・緊張バランスの状況を
よく表しています。

○「二女同居 其志不同行 説而麗乎明 柔進而上行 得中而應乎剛」

(二女同居して、その志は行いを同じくせず。
説〔よろこ/=悦〕びて明に麗〔つ〕き、柔進みて上行し、
中〔ちゅう〕を得て剛に應ず。)
(彖伝)

すなわち、下卦【兌☱】女は妾(=“K女”)、 上卦【離☲】は正妻
互体(3・4・5爻)の【坎☵】は夫(奸當覯機

2爻〜上爻は【離☲】と【離☲】で“目”と“目”、“睨み合い”。

「睽〔けい〕」の字“そむ・く”そのものが
「目」と「癸」=離・陽の「火」と陰の「水」です。

そして、下卦(内卦)の【兌☱】女は内に留まって悦び、
上卦(外卦)の
【離☲】女は、疎〔うと〕んぜられて外に行こうとしている象です

尤〔もっと〕も、反目ばかりで相互に剋〔こく〕し
損ない合うばかりのものでもありません。

中爻(九2と六5)において相応し補い合っています。

二女は、一時〔ひととき〕のバランスは保っているのです。

正妻と妾(“K女”)は、横目で睨み合いながらも
互いに慎むところもあったのでしょう。

ちなみに、夫からすれば、(【離☲】と【兌☱】)
【離☲】と【離☲】で二女が美しく着飾って並んでおり、
“両手に華”といったところでしょうか?! 

なお、【睽】は、女性同士の背反の卦ですが、
先天卦【天水訟】は男性同士の背反の卦
(=長男と戦死した次男との反目・争い)になるのは、
なんとも興味深いですね。

――― 中 略 ―――

その後の展開は、
【風天小畜☴☰】/【天沢履☰☱】/【地天泰☷☰】などに物語られています。

“K女”は男子を出産し、皇帝のお気に入りとなり、
喪服を脱ぎ捨て公然と后妃になるのです。

正妻を追い出し、この【震☳】・帝乙との間に3男子をもうけます。

長男・微子啓、次男・中衍〔えん〕、三男・受徳です。

この末子・受徳こそが、殷王朝最後の帝王30代・“紂王〔ちゅうおう〕 です。

image1_20170318

(by.盧)

 

☆参考資料  ≪ 盧:「『易経』64卦奥義・要説版」 pp.9・35・36 抜粋引用≫

38. 睽ケイ 【火沢けい】  は、そむく・異なる。
包卦(乾中に坎)

● 嫁と姑、二女反目。女性同士の背反 (先天卦「訟」は男性同士の背反)。
  「小事に吉なり」 (卦辞)

■ 1)二女反目
     姑〔しゅうとめ〕と嫁(離女と兌女)、
     下卦(内卦)の兌女は内に留まって悦び、
     上卦(外卦)の離女はうとんぜられて外に行こうとしている象。

  2)火と水で背反 
     上卦の離火は燃えて上へ昇り、下卦の兌沢は流れて降り、
     乖〔そむ〕き離れる象。

 ・中庸の徳をもって、2爻、5爻の中爻は相応じています。
  兌の和悦をもって、【離】の明徳付き従ってゆく、と捉えられます。

 cf.「睽ケイ」のへんは「目」で離・陽の火、右側は「癸」で陰の水。

 ○ 大象伝 ;
     「上に火、下に沢あるは睽〔ケイ〕なり。君子以て同じくして異なる。」

     (上卦に離火、下卦に兌沢があり、そむきあっています。
     この象のように、君子は その志すところは一〔いつ〕ですが、
     水火・陰陽のように表面的なものは同じではありません。
     大同の中の異なるもの、を知っておかねばなりません。)


6.訟【天水しょう】 は、うったえる
  遊魂8卦

 ● 訴訟・矛盾、男性同士(陽と陽)の背反、“天水違行”の形     
  ※「作事謀始」(大象) ・・・ 
     事業は始め、教育は幼少時代、を大切に。
     万事始めが肝腎!
  cf.「訴えてやる!」(TV“行列のできる法律相談室”) ・・・
     法的良悪と道徳的善悪は必ずしも同じではない。
     道義的・倫理的責任。 “法(法治主義)と道徳(徳治主義)”。

 ■ 上卦 乾天は上昇の性、下卦 坎水は下降の性 ・・・ (天水違行)
  1)“天水違い行くの象”(白蛾) ・・・ 
     水は低きに流れ、天はあくまで高く、背き進む象。
  2)乾は剛健にして上にあり、坎は苦しんで下にある象。
     そして、両者相争う象。

 ○ 大象伝 ;
     「天と水と違い行くは訟なり。君子以て事を作〔な〕すに始めを謀る。」

     (乾天は上昇し、坎水は下降し、両者は相違った行き方をして争いが起こる。
     この象に鑑みて、君子は、※ものごとが行き違い争いとならぬように、
     事をなすにあたって、始めをよくよく慎重に考慮するのです。)

 

《 結びにかえて 》

昨年は、従来まで研究・執筆に隠遁〔いんとん〕していたのを、
意識して少々、外向きの活動も再開し始めました。

長年の【陰】生活を【陽】に転じ反〔かえ〕ろうかと想ったわけです。

易卦でいえば、【地雷復☷☳】ですね。

今年の私の年筮〔ねんぜ〕は、【山火賁☶☲】の得卦で
(動爻:4爻坤の乾変、上爻乾の坤変)【雷火豊☳☲】に之〔ゆ〕くでした。
(*中筮/擲銭〔てきせん〕法によります)  

――これは、夕日の燦〔きら〕めき、晩年を賁〔かざ〕る・豊大の意です

新年早々1月10日には、下関商工会議所青年部に招聘〔しょうへい〕されて、
下関市で儒学の講演を行ってきました。
(テーマ:「――古〔いにしえ〕よりの教え『論語』に学ぶ―― 
仁=忠・恕/孔子一貫の道」) 

2月からも、「安岡正篤先生生誕120年/関西師友協会創立60周年記念大会」(2.25)
を始めとして各種行事に招かれており、
出来れし参加するつもりでおります。

ところで、人と会う機会が増えますと、
「お若く見えますね」とか「先生はお若いですから」などと、
まんざらお世辞ばかりでもなく(?)
褒〔ほ〕められる事が多くなってまいりました。
―― さりながら。

○「いつ見ても さてお若いと 口々に  褒〔ほ〕めそやさるる 歳ぞ悔しき」 
という狂歌が伝わっています。

「お若く見える」とは、すなわち歳をとったということの証〔あかし〕に他なりません・・・。

歳を重ねることは、悪いことではありません。
が、さりとて改めて「若いですね」と褒められると、
喜んでばかりもいられません。

気(精神)は、まだまだ若いつもりでいても、
“私も歳をとってしまったのだナァ”と感慨一入〔ひとしお〕、
人生の晩節を善く全うせねばと自らに言いきかせています。

○「子曰く、知者は水を楽しみ、者は山を楽しむ。
知者は動き、者は静かなり。知者は楽しみ、 者は寿〔いのちなが〕し。」

(雍也・第6)
と『論語』にあります。

孔子が73(74)歳で没したのも、当時の平均寿命を考えれば
極めて長寿といえましょう。

我が国の財界人に一例をとってみても、
明治の渋沢栄一氏(“右手に算盤、左手に『論語』”/“道徳経済合一説”)92才、
昭和の松下幸之助氏(“君子型経営者”/「経営の神様」)95才と長寿です。

私の身近でも、昨年末、『論語』などの古典講義を何度か受講させていただいていた、
お二人の仁徳〔じんとく〕ある老先生がご逝去〔せいきょ〕されました。

行年〔ぎょうねん〕、80歳と101歳でした。

 寿命は天命です。肉体上の疾病〔しっぺい〕もありますので、
「仁者は寿〔いのちなが〕し」の言葉のままに、ともゆきません。

私は、余生を一年一年貴重なものと認識して、
この一年、価値ある仕事を進め晩年を賁〔かざ〕ってゆかねばならない
改めて想っております。

( 以 上 )

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謹賀丁酉年 〔謹んで丁酉年を賀します〕 その3

謹賀丁酉年 〔謹んで丁酉年を賀します〕 その3

「鳥〔とり〕」のお話の結びに「鴻雁〔こうがん〕」について述べたいと想います。

「鴻雁」は、中国古典によく登場している鳥です。

例えば、秦末・陳勝の「燕雀安知鴻鵠之志哉」:
燕雀〔えんじゃく〕いずくんぞ鴻鵠〔こうこく〕の志を知らんや」。
(『史記』・陳渉世家) 

「燕」はツバメ「雀」はスズメ、「鴻」は大鳥「鵠」はコウノトリ
(あるいは鴻・鴻鵠で白鳥の意とも)。

小さな鳥=小人物は、大きな鳥=大人物の心を知り得ないという喩〔たと〕えです。

また、前漢の蘇武〔そぶ〕の故事から手紙・消息のことを
「雁書〔がんしょ〕」・「雁信」・「雁帠〔はく〕」・「雁の便り」・「雁のふみ」・
「雁の玉章〔たまづき〕」
などといいます。

故事は漢代・武帝の時代。

漢の使節蘇武が匈奴に幽〔とら〕えられました。

バイカル湖あたりに囚われている消息を、雁の足に手紙を付けて運ばせ、
奇しくもこれを中国の皇帝が射落として知ったということです。

日本の古典の世界でも、「雁」は主要です。

『万葉集』“雁”が詠〔よ〕まれている数は、
“ほととぎす”についで第2位といわれています。

平安女流文学・清少納言の『枕草子』に、
「まいて雁など連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。」
(「春はあけぼの」)
とあるのは、よく知られていますね。

もう一方の渡り鳥「燕」についても付言しておきますと。

「燕」も、古くから人間の生活に密接に関わり適応して生きてきております。

日本最古の物語・『竹取物語』に、
「燕」が人家の軒下で営巣している光景が描写されています。

ところで、中国最古の書・『易経〔えききょう〕』は、
東洋源流思想の英知であり
儒学経書(“五経〔ごきょう〕”)の筆頭です。

私は、“東洋のバイブル”が『論語』なら、
『易経』は“東洋の奇(跡)書”
と呼ぶに
相応〔ふさわ〕しいものであると考えております。

加えて『易経』は、古代におけるエンサイクロペディア〔百科事典〕であり、
万象の動植物が生き生きと登場しています。

その中で最も主たる動物(禽獣)が、「鴻雁」に他ならないのです。

以下にご紹介しておきたいと思います。

*『易経』にみる鳥 ・・・ 鴻〔こう〕・雁〔かり/がん〕について
( 『易経』の最も主たる禽獣・《鴻雁》 より抜粋再掲 )

『易経』に中で最も主たる動物(禽獣)、代表する動物(禽獣)というのは
何だとお思いでしょうか? 

『易経』は、【乾・坤】の“”(ドラゴン)に始まり
“既済・未済”の“”に終わっています。

が、これらではありません。

【乾☰】の象〔しょう/かたち〕、“陽”の権化〔ごんげ〕としての
想像上の動物(=神獣)ですし、
“狐”は【坎☵】の象の動物というに過ぎません。 

それは、 鴻雁 〔こうがん/かり〕」です。

風山漸 ☴☶】卦は鴻が飛びすすみゆく物語になっています。

原文に出てくる「鴻」とは雁」のことです。

雷山小過 ☳☶】は、その卦象が「飛鳥」の形
(九三・九四が鳥の胴体で、上下の4陰が翼)です。

『易経』では、象を雁に取り、義を雁に仮ることは実に多いのです。

つまり、「鴻雁」のことをよく知らなければ
『易経』は、理解し難いということです。

では「鴻雁」 注1) が『易経』の最も主たる動物であるのは何故でしょうか? 

それは、雁を「候鳥」とも書くように、“渡り鳥”だからに違いありません。

「鴻雁」と入れ替わりの“渡り鳥”
「燕〔つばめ・つばくらめ・つばくろ/玄鳥・げんちょう〕」 注2) も同様です。

「鴻雁」・「燕」“陰陽=寒暖・季節”に随って去来するもので、
易は陰陽・変化の学であるからにほかなりません

「鴻雁」は、夏は白鳥などと同様にシベリア方面で過ごして繁殖し、
秋に北方から(冬鳥として)飛来して冬を過し、
春に再び北方へと帰って行きます。

燕と入れ代わりですね。

“七十二候”。

晩秋(10月上旬) 「鴻雁来〔こうがんきたる〕」 注3) 
中秋「玄鳥去〔げんちょう/つばくろさる〕」
晩春(4月上旬) 「鴻雁北〔こうがんかえる〕」・
「玄鳥至〔げんちょう/つばくろいたる〕」
、という季節があります。

「雁」・「雁渡る」は秋の季語、 「雁帰る」は春の季語です。

遥かな昔から中国・日本の人々は、この「鴻雁」の行き来に
情趣や季節の移り変わりを感じ、多くの文芸を育〔はぐく〕み
章〔あや〕なしてまいりました。

そして、この「鴻雁」の往来は、時月に随って、
行くも来るも一定、少しも誤ることがありません。

しかも、その群れをなし飛ぶ姿は列を整え順序正しく飛翔します。

この往来規律正しく、群れ飛ぶに秩序保っているところにこそ、
古来から注目され、 『易経』の最も主たる動物と位置付けられた
所以〔ゆえん〕のものがあるのではないでしょうか。

人間、殊〔こと〕に現代人には、大いに見習うべきものがあります!

注1) 
「鴻」〔こう〕は“ひしくい”〔菱食〕ともよみ大型のものを、
「雁」〔かり/鴈・候鳥〕は鳴き声からでた“ガン”の異名で
大型のものをさすともいわれています。
「カモ目カモ科の水鳥の総称。大きさは、カモより大きく、白鳥より小さい。
日本では、マガン・カリガネ・ヒシクイなどが生息し・・・・・。
家禽はガチョウ〔鵞鳥〕とよばれる。」(by.Wikipedia 抜粋)

注2) 
「玄」は“くろ”・“黒色”の意だからでしょうか?
「乙」・「乙鳥」で“つばめ”。「乙禽〔いっきん〕」。

注3) 
「来」は、古文では「来〔く〕」と
カ行変格活用(こ/き/く/くる/くれ/こ〔よ〕)で読みます。
が、漢文では「来〔きた〕る」と四段活用(ら/り/る/る/れ/れ)で扱い、
カ変は使いません。

 

現在の日本では、殊〔こと〕に都市部においては、
雁の姿を見かけることはなくなりました。

トンビ〔とび・鳶〕すら見かけなくなり、
あだ花のごとくカラス〔烏・鴉〕ばかりが繁殖しています。

若い人は、鷲〔わし〕も鷹〔たか〕も鳶〔とび〕も区別がつきません。

都心部には、スズメ〔雀〕やツバメ〔燕〕ですら
そこを(人間が定住していない)過疎の地として認識し、繁殖していませんね。

『易経』が、最も主たる動物として、象でも義でも重んじた「鴻雁」は、
自然界から姿をけそうとしています

そして、自然環境のことばかりではありません。

“中庸〔ちゅうよう〕”を欠き“衣食過ぎて、礼節を忘る” (盧)
がごとき今の平成日本の社会です!

「鴻雁」(の象と義)は、忘れかけている徳です。

今時〔いま〕、礼節と道義を取り戻さねばならないということは、
「鴻雁」に象〔かたち〕どられた『易経』の“理”と“情”を
取り戻さねばならないということなのです

 

《 干支の易学的観想 / 【火沢睽〔けい〕☲☱】・【天水訟☰☵】卦 》

次に(やや専門的になりますが)、十干・十二支の干支を
易の64卦にあてはめて(相当させて)解釈・検討してみたいと思います・・・

 

★この続きは、次の記事に掲載いたします。


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