“3月14日”。
巷間 [ちまた] では ホワイトデーと称して、2月14日のセント・バレンタインデーのお返しの品を送る日となっています。平和にして、商魂たくましい限りです。
私が、ここで思い想うのは、それではなく 1868年の3月14日のことです。
何の日かご存じでしょうか?
戊辰 [ぼしん] 戦争の中、官軍参謀 西郷 南州 [なんしゅう] (隆盛・たかもり)と、幕府代表 勝 海舟 [かいしゅう] (義邦・よしくに)の会談によって、江戸城の無血開城が実現した日です。
翌15日には、官軍 江戸総攻撃の手はずとなっていました。
一大決戦となれば、江戸は火の海となり多くの死傷者が出たでしょう。
以後の日本史は“明治維新”と称されるような優れた変革が実現したかどうか疑問です。
世界史に誇れる“維新”が実現したのは、西郷と勝という2大巨星の人物によるところが大であったと思われます。共に極貧の中に学び、自らを高めて文武に秀でました。
この敵対する2人の英傑のリーダー像を考えてみましょう。
西郷は徳が才に勝った人です。
主君、島津 斉彬 [なりあきら] 公が評しているように、君子(仁者)であり“情の人”でした。
一方 勝は、才が徳に勝った人であったといえましょう。
そうした、陰・陽タイプの差はあるものの、両者は共に大儒学者・佐藤 一斎 [いっさい] の教えに学ぶ者であったのです。
佐藤 一斎は、かつて小泉元首相が訪中の時に、
「春風を以って人に接し、秋霜を以って自ら粛 [つつし] む」 との言葉を書いたことでも、
ご存じの方も多いと思います。
西郷は、一般には そのカリスマ性ばかりが印象強いようですが、儒学的教養人でもありました。
佐藤 一斎の『言志四録』四冊から101カ条をピックアップして常時愛読していました。
勝も 佐藤 一斎の弟子 佐久間 象山 [しょうざん] に学んでおりますから、孫弟子とも言えましょう。
共通の師を持つ儒学的教養人の2人が進歩的(進化的)役割を果たして“維新”を実現したとも言えましょう。
立場は敵同士でも 「一」 [いつ] なるものを持って、お互いに良く理解・尊敬し合っていたと思われます。
西郷は、明治政府樹立後、西南戦争で賊軍の汚名を着せられ死にます。
後年、勝は、西郷の名誉回復に力を尽くし、「西郷隆盛 留魂碑」に西郷を讃える詩文を書きます。
「――――― 府下(=江戸)百万の生霊をして 塗炭 [とたん] に陥 [おちい] らしめず
ああ君よく我を知り 而 [しこう] して君を知る 亦 [また] 我に若 [し] くは莫 [な] し
明治12年6月 勝 海舟」
ところで西郷は、大久保 利通 [としみち] ・木戸 孝允 [たかよし] と共に
“明治維新の三傑” と呼ばれます。
幕府側にも“幕末の三舟 [さんしゅう] ”と呼ばれる大人 [たいじん] がいます。
勝 海舟 ・ 山岡 鉄舟 [てっしゅう] ・ 高橋 泥舟 [でいしゅう] の三人がそれです。
勝 海舟は、かつて木造軍艦「咸臨丸 [かんりんまる] 」で 初めて太平洋横断に成功(1860)もし、明治政府では参議 兼 海軍卿、枢密顧問官 等の要職で活躍します。
山岡 鉄舟は、勝――西郷 会談の実現にも裏面で大きな役割を示します。
NHKの大河ドラマ“篤姫”(‘08)にあったように、篤姫の尽力もあったかも知れませんが、山岡 鉄舟の会談実現のための直接的働きかけは歴史的事実として大なるものがありました。
“維新”の後は、明治天皇の教育係に力を尽くします。
さて、この両 “舟” の名声に対して、高橋 泥舟の名はご存じでない方も多いのではないでしょうか。
故 安岡 正篤 [まさひろ] 先生が、高橋 泥舟を歴史の陰に隠れた立派な武士道を生きた人物として、正しく評価して紹介されています。 ( 『日本精神の研究』 ・国士の風 3 参照 )
泥舟は、鉄舟の師であり同時に義兄弟(泥舟の妹の夫が鉄舟)です。
慶喜 [よしのぶ] 公を恭順させ、江戸城無血開城を実現し、幕末の日本を危機から救ったのを 勝 海舟 一人の功績のように、一般でも学校教育でも扱われています。
しかし、功績の第一人者は泥舟といわねばなりません。
勝 海舟は閉居中で家に留まっている立場でした。
泥舟は最後まで慶喜公に従い、そのゆく末を見届けると、あえて要職につくことなく、きっぱりと引退・隠遁 [いんとん] いたします。
「泥舟」・“どろふね”という号 [ごう] がその高潔を良く示しています。
( 「かちかち山」の狸の話から、世に出てもすぐに沈んでしまうの意)
易卦に 「水沢節 [すいたくせつ] 」というのがあります。
節義・節操なく、出処進退のだらしない現代。 この泥舟の生き方には敬意学ぶ所、大ではないでしょうか。
安岡先生は「無名で有力であれ」と言っておられました。
真のリーダー [指導者] は、歴史の陽の目をみる人ばかりでなく 陰に隠れた人の中にもあるのではないでしょうか。
この泥舟の生き方とは対照的に、幕臣であったにもかかわらず、明治政府に仕え要職を得た者も多くいました。
その代表・典型である勝 海舟と 榎本 武揚 [えのもと たけあき] に対し、福沢 諭吉は、明治政府になったら表舞台から引っ込むべきではないかと その進退を問います。
(後年、『痩我慢 [やせがまん] の説』を出版)
勝 一人のみ答えていうには、「行蔵 [こうぞう] は我に存す」と。
自分の行動や考え方は自分自身が知っているとの意です。勝の弟子となった坂本 竜馬も同じように言っていました。
勝には勝の信念があってのことだったのでしょう。
「行蔵」とは出処進退のことです。
「出」では、PTAの役員・委員のなり手にも困る現状。
「退」では、政・官・財界を問わず各界で責任をとらず、見苦しい辞任劇を演じている現今。
易卦に「天山遯 [てんざんとん] 」があり「時と興 [とも] に行うなり」と書かれています。
出処進退、とりわけ退くことが人間の価値を決める大切なことではないでしょうか?
また、国家社会の“リーダー”というものを考えてみますと、歴史の陽(目立つ)部分にのみいるのではないということを心せねばなりません。
そして陽にしろ陰にしろ、現在の日本に真のリーダーがどれほどいるのでしょうか?
“たそがれ”の幕府側にも“三舟”をはじめ大人が多くいました。
倒幕側には次代の人材がきら星の如くいました。
今の日本の政府与党、そして野党にも 才徳の大人は一体どれほどいるのでしょうか?
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