『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想
―― 変化の思想・「無常」・「変易」・運命観・中論 など ――
「つれづれなるままに、日くらし、硯〔すずり〕にむかひて、
心にうつりゆくよしなき事を、そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ 。」
吉田兼好〔けんこう〕・『徒然草』の、シンプルな冒頭(序段)の文章です。
中学・高校で 誰もが習い親しんだものです。中味・段のいくつかもご存知かと思います。
兼好法師は、当代の優れた僧侶・歌人であり教養人でありました。
歴史的に、中国の儒学は 専らインテリ〔知識人〕である聖職者に学ばれ、
彼らの思想のみなもとを形成いたしました。
『徒然草』の思想的・文学的バックグラウンド〔背景〕を形成するものの中心として、
仏教典籍以外に、国文学(平安朝)和歌・物語と漢籍(中国の古典)があげられます。
漢籍では、儒学の四書五経、とりわけ『論語』の影響がきわめて大きいといえます。
私は、『徒然草』を研究・講義する折も多いので、
今回 私流に、儒学・易学思想の視点からこれを観てまとめてみたいと思います。
( ※ 原文の読みがなは、現代かなづかいで表記しておきました。 )
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鎌倉時代、中世の開幕は、貴族が社会の中心の座を譲り、武家の時代が到来したことを意味しました。
この新しく、激動と混乱の時代も、元寇を契機として急速に幕府の力が衰えてゆき、
南北朝の動乱の時代へと向かってゆきます。
吉田兼好が生き 『徒然草』 を著したのは、こういう時代変化と社会不安の時期だったのです。
『徒然草』は、清少納言の 『枕草子〔まくらのそうし〕』 と並び 随筆文学の双璧とされ、
また鴨長明〔かものちょうめい〕の 『方丈記〔ほうじょうき〕』 と共に
この時代を代表する隠者文学の金字塔です。
以下において、この 『徒然草』 の中に表されている兼好の世界観・人間認識について
いくつかの段ごとに具体的に考察してみましょう。
そして、『徒然草』に共通する観方・思想的基盤について論じてみたいと思います。
【第7段】 “あだし野の露きゆる時なく”
兼好の特色が非常に良く表れていると思われます。
まず、和歌(和文)と漢籍の影響があげられます。
「あだし野の露きゆる時なく ――― 」 (『新古今集』、『拾遺集』など)、
「かげろふの夕べを待ち」 (『淮南子〔えなんじ〕』)、
「夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし」 (『荘子』)、
「命長ければ辱〔はじ〕多し」 ( 同上 )、
「夕べの陽に子孫を愛して」 (『白氏文集〔はくしもんじゅう〕』)
等などからの引用が推測されます。
そして、思想的には無常観・仏教的無常観がベースになっています。
「煙立つ」 と 「立ち去る(死ぬ)」 ことをかけており、
「 ――― 世はさだめなきこそ、いみじけれ。」
「もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。」 と。
この世は不定であるからこそすばらしいという無常の肯定と、
この世の深い情趣もわからなくなって生に執着する老人に対する慨嘆です。
この段は、多分にネガティブ(否定的)で仏教的・情趣的な感じがします。
後述しますが、私には、兼好の無常観はもっと中国源流思想としての、
易の変化の思想としてプラスイメージで展開されていくように思っています。
【第50段】 “応長の比〔ころ〕、伊勢の国より”
不安な時代(流行病 = 疫病) には、あやしげな流行がつきものですが、
この段の(女の)鬼の噂もそれです。
流言に右往左往する人の姿、
群集心理に足をすくわれる人間の弱点が生き生きと描かれています。
さて、俗人はともかく。
遁世している兼好にとってはどうであったでしょうか。
「 遯〔とん〕 」(※易卦 「天山遯」) として達観し 人々を愚かしく想っているか、
というとそうでもありません。
彼は虚実を確認するように人を走らせます。
自らは現場に赴かないのです。
そして、虚言の生態についていろいろ合点してゆきます。
この理性的抑制と感性的好奇心とのバランスが特徴的です。
兼好の世俗とのかかわりの姿勢、世俗とのスタンス・距離感を示す好例でしょう。
ちなみに、高齢社会が進展する現代(21世紀初頭) において、
このような隠者のあり方は、一つの有力な示唆を与えてくれるような気がしています。
【第51段】 “亀山殿〔かめやまどの〕の御池〔みいけ〕に”
ここでは、水車を例にスペシャリスト(専門家)に対する肯定・賛嘆がなされています。
「萬〔よろず〕にその道を知れる者は、やんごとなきものなり。」
人間の有限・相対性を確認した上で、人間を肯定的に捉える考え方がみられます。
私は、この人間肯定の姿勢が、運命( = 無常 ) を宿命的にではなく
主体的に(変えて)生きる積極的思想と“一貫(いつもって つらぬく)” するのではあるまいかと思っています。
【第60段】 “真乗院に、盛親僧都〔じょうしんそうず〕とて”
いもがしら 好きの曲者〔くせもの〕。
仁和寺〔にんなじ〕圏の説話にもとづいた一段です。
形式的には、主として“伝聞回想”の助動詞「けり」によって語られています。
そのことは、興味中心の収録ではなくて、
むしろ逆に、より兼好自身を語る個性的なものとなっていると考えられます。
盛親僧都 ―― この不思議にも常識を超え、人を食った高僧の自在なる言動を描き、
兼好にとって及びがたい境地としながら、至高なものとして示しています。
すなわち、「尋常〔よのつね〕ならぬさまなれども人に厭はれず、よろず許されけり。徳の至れりけるにや。」
と結びます。
私は、ここに兼好の老荘的境地を感じます。
「道は常に無為にして為さざるなし」「無為にして化す」(『老子』第37・57章)、
そして、茫洋〔ぼうよう〕としてつかみどころのない人「和光同塵〔わこうどうじん〕( 同 56章)
の人物のあり方に魅力を感じ、その機微を認識し、それでいて自分自身は至り尽くせぬ境地
と認めつつ書いているように思われるのです。
【第74段】 “蟻のごとくに集りて”
「蟻のごとくに集りて、 ―― 」
冒頭部は 『文選〔もんぜん〕』 からの影響が推測されます。
全文ほとんど対句表現で、漢文・漢文訓読体の緊張感と格調の高さが感じられます。
無常観は、この段では確信に満ち「生〔しょう〕を貪〔むさぼ〕り、利を求めてやむ時なし」 の人々を嘆じます。
老いと死は、速やかに来り、時々刻々 一瞬も休止しないのです。
「常住」(不滅・不変)を願って 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕を知らねばなり」と結んでいます。
【第91段】 “赤舌日〔しゃくぜちにち〕といふ事”
「赤舌日」という忌日を通じて兼好の運命観・人生観をうかがわせる段です。
日の吉凶は、現代(人)においても多くの影響を与えています。
平安の時代、ことに貴族たちの生活は ほとんど迷妄にしばられていて、
物忌〔ものいみ〕や方違〔ほうたがえ〕などで禍〔わざわい〕を避けようとしていました。
兼好は、吉日と凶日を選んだ行為の結果を統計的に論証して合理的批判を加えます。
そして 「無常」 「変易〔へんやく〕」、 人の心 「不定〔ふじょう〕」 の変化の理を説きます。
ここでいう 無常や不定には、当時隆盛であった鎌倉仏教の影響が考えられます。
変易については、私見ですが、当時の教養人・知識人である兼好は、儒学的素養があり、
易・『易経』の思想・哲学を持っていたと推測されます。
『易経』は、英訳の “ The Book of Changes ” が示すように変化の理であり、
その三義は 「変易〔へんえき〕」 ・ 「不易」 ・ 「易簡(簡易)」 です。
こうして兼好は、中世にあって、開かれた精神 「吉凶はひとによりて、日によらず」 と結びます。
つまり 宿命と運命を区別し、運命は人間が打開できることだと断じているのです。
注目すべきことです。
西洋思想において、ヘーゲル哲学も運命は その人の生き方により決定されるとしています。
【第92段】 “或人〔あるひと〕、弓射る事を習ふに”
弓術の師の洞察・教訓に基づいて、人間の心の裡〔うち〕に潜んでいる
「懈怠〔けだい〕の心」への省察を説いています。
兼好は師の言葉に同感して、「道を学する人」の覚悟を説き 無常観に及んでいます。
すなわち、前段において中世にあって開かれた精神 「吉凶は人によりて、日によらず」と結び、
運命はその人の生き方によって切り拓けるのだという積極的思想を展開しています。
そして 時についての考え方は、あとなどない、今をしっかり生きなさい ということでしょう。
結びの 「ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。」というのは、
一瞬一瞬 変化する時を大切にして変化に応ずる 「臨変応機」(変化に臨んで機智で応ず)
という事が言いたかったのではないでしょうか。
【第106段】 “高野証空上人〔こうやのしょうくうしょうにん〕”
上京途上、相手の不手際によって事故に遭った証空上人の怒りと始末を語る説話です。
博学ながら臨機応変の対応が出来ず、怒りで我を忘れた高僧がユーモラスに鮮やかに描き出されています。
私には、『論語』の一節
「顔回といふ者あり。学を好む。怒りを遷〔うつ〕さず。過〔あやま〕ちを、弐〔ふた〕たびせず。 ――― 」(擁也第6)
が連想されました。
結びの 「尊かりけるいさかひなるべし」は、仏教的学識や雄弁そのものは立派ですから「尊し」、
その一方的叱責であるとの意です。軽い皮肉であろうと思われます。
兼好は、おそらくこの上人を、子供が怒って後悔するがごとき “純” な人柄として
ほほえましく紹介しているのでしょう。
この段、無常の “変化” に対応出来なかったエピソードと捉えられるでしょう。
【第155段】 “世に従はん人は”
非常に思索的・哲学的な中味の深い内容であると思われます。
前段では、仏教的無常観に基ずく兼好の主張が述べられています。
「機嫌」は 本来仏教用語で 「譏嫌」と書き、ここでは時期・ころあいの意です。
「ついで」も前段部二箇所はほぼ同じ意味です(後段では順序の意)。
「生・往・異・滅の移りかはる」(四相)
「猛〔たけ〕き河のみなぎり流るるが如し。しばしもとどこほらず、ただちに行ひゆくものなり。」
「真俗につけて(真諦・俗諦)」 と、相対的に緩急感ずる時間に沿って変化すること、
速やかに流れていくことを述べています。
時の流れを河の流れとのアナロジー〔類似〕で表現している所は、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。――― 」の 『方丈記』の書き出しを想起させます。
「必ず果し遂げんと思わんことは、機嫌をいふべからず。」
東洋における変化の源流思想は “易” です。
変化の思想(変易)は、哲学的に変わらぬものを前提としています。
この「不易」を含んだ変化の理を説いていると、私は理解しています。
後段は、具体例として時(四季)の運行と 生から死への必然(四苦)の対比が、
無常・変化の理で厳然と述べられています。
ここで特徴的なことは、変化が 内在的超出作用により 弁証法的な発展の論理で示されている点にあります。
「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、 ――― 。」
ヘーゲルの弁証法による 正(テーゼ)・ 反(アンチテーゼ)・ 合(ジンテーゼ) です。
そして、変化(死)は、必ずしも漸進的でなく飛躍的に実現されると説きます。
アウフヘーベン(止揚・楊棄 = 中す)です。
東洋流にいえば、儒・仏・道を貫く 「中論」 を展開しているといえるでしょう。
【第243段】 “八〔やつ〕になりし年”
「つれづれなるままに、 ――― 」で始まった 『徒然草』の終章。
この終章は構成上どのような意味を持っているのでしょうか。
内容は誰しもにありがちな、無邪気な親子の対話(テーマが仏なのは少々異)ですが、
兼好は 『徒然草』をそれなりの思い入れと文学的情熱を傾けて完成させたのであろうことをかんがえてみれば、
この段には深い意味が込められていると思われます。
それは兼好の世界観であり、また人間観なのです。
『徒然草』の中に、幼少年期の兼好が登場するのも 父(ト部兼顕〔うらべかねあき〕)が登場するのも、
これが最初で最後です。
ここで兼好が幼時から聡明で極めて論理的(形式論理的)であることがわかります。
この知性的特質が、成長して兼好の明晰鋭敏な思想を形成させたであろうことを うかがわせるのです。
ところで、『易経』は人生の シチュエーション〔 situation 〕を 64 の卦の辞象で表現した体系であり、
『徒然草』もまた 人生のシチュエーシヨンへの思索であります。
そこに、何らかのアナロジーを見出すことも可能でしょう。
易の 63番目の卦は「水火既済〔きさい〕」で、完成・成就の卦です。
64番目(最後)が「火水未済〔かすいみさい〕」未完成の卦です。
こうして、未完成を最後にもって来ることによって、易は窮することなく、
限りなく終りなく、(円のように) 循環するのです。
序段にある 「心にうつりゆく」は、時間的に 「移りゆく」ことでもあります。
人生も晩年である兼好は、亡き父を登場させ、自身の幼少年期を登場させ
その成長・発展を暗示します。
父 ― 子 ― 孫 といった世代の連続(仏教的輪廻〔りんね〕)を示しているように私には思われるのです。
無限に変化 − 循環(受け継がれ連続)するという意味での 「無常」 です。
以上、各段ごとに考察してまいりました。
結びに、兼好の思想に一貫するものをまとめておきましょう。
『徒然草』は 思想的には、一般に 仏教的無常観であるといわれています。
しかし、私は、兼好が 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕」(74段)と呼ぶものを、
東洋的 “変化〔へんか〕の思想” として捉えてみたいのです。
源流思想としての 易・『易経』の世界観・人間観です。
変化は同時に 「時」 の理でもあります。
序段の「心にうつりゆく」は、時間的遷移〔せんい〕でもあり、その遷移は中論(弁証法)的に捉えられます。
無限変化 ―― 進化循環するという意味においての 「無常」です。
従って兼好人間観・運命観は、陽性にして肯定的・主体的です。
つまり、宿命と運命を峻別し、運命は人間の力で打開できると信じています。
中世にあっては、注目すべきことではないでしょうか。
ヘーゲル哲学の運命観も同様であり、ここに近代精神の先駆を見ることも出来ると思います。
( 高根 秀人年 )
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