儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2009年07月

中庸の美

「中庸の美」 ――― 美・変化と統一・陰と陽・中庸 ―――

■ はじめに    ―― 美しさとは! ――

“真・善・美”という言葉があります。
まことに・よく・うつくしく 生きるということを要約している言葉です。

別の表現をすれば、儒学・人間学で“”とも言えましょうし、
進展する高齢社会にあって 福祉・医療の分野では“ウエルネス”という概念でも捉えられるかと思います。

そして、それが形(かたち、象〔しょう〕)を伴うものとしては、
”という表現をとることが出来るということでしょう。

さて、その美しさというものは“(感じる)人の心の中それぞれに(相対的に)あるもの”ではありますけれども、
やはり美しいものは美しい のです。

以前 「うまいものはうまい」 というTVコマーシャルがあったかと記憶しています。
食べ物でも、好みはあれども人の一般的(全般的)嗜好〔しこう〕判断はあるということです。

より多数にとっての美しさとは何か、つまり“美の原理”というものを しっかりと押さえておきませんと、
流行や個人的嗜好・興味に流されたり、枝葉にとらわれたりして、本質( =不易)から離れていくことになってしまいます。

今回は、美しさとは何か ―― 美の思想・原理を、西洋思想と東洋思想の視点から考えてみたいと思います。

芸術・美術・デザイン ・・・ 美の創造演出に携わる方には、特にご参考頂けたらと思います。


■ 美の思想 1    ―― 変化 と 統一 ――

美しさは、“変化( Variety ; バラエティー)と 統一Unity ; ユニティー)”の中にあります。

“変化の中の統一、統一の中の変化”を形作ることが、美の創造です。

西洋では、“統一と調和( harmony ; ハーモニー)”、
“美とは 多様性の統一を表すことにある (古代ギリシア)”、
“複雑さの中の秩序性( Order in complexity )”などと表現されています。
調和を“対比と共通性”で捉えることも唱えられています。

東洋思想においても(儒学・易学の源流思想ということでもありますが)、
陰陽相対(待)論の “”を“統一”、“”を“変化”の要素と考えてもよいでしょう。

東洋において、思想的源流である易学は、“変化の学”、変化に対応してゆく学です。
『易経〔えききょう〕』の英訳は、“変化の書 ( The Book of Changes )”といいます。

幾何学図形で、一例を挙げてみましょう。
円(丸)は「陽」、角(方)は「陰」ですが、円と楕円の組み合わせ(重ね)は、
統一感・まとまり感はありますが、変化に乏しく おもしろみにかけます。

円と四角の組み合わせは、変化と統一、陽と陰が 相半ばして一般に“ホド〔程〕よい”調和です。 図1がそれです。

また、円と三角の組み合わせは、変化に富みますが まとまり感は難しい・・・といった具合です。

ちなみに、人生や社会もまた しかりで、波瀾万丈の変化ばかりでも困るし、
平々凡々とあまりに安定しっぱなしでも寂しいものがあるかと思います。―― それは ともかく。

こころみに、造詣美の原則 を図示してみると、 図2のように表せるかと思います。

“美”をコーディネートするということは、“変化(陽) と 統一(陰)”の“サジ加減”をする、といったところでしょうか。

なお、現実・具体的な事柄を 少し付言しておきましょう。

公共性の強い空間(医療・教育・官公庁など)につきましては、
基本的には、統一の要素 = 陰 の要素が強いのが良く、
“統一の中の変化”を志向するのが良いと思います。

実際の建造物の 内外の色彩を、商業空間や住宅空間と比べてみるとよくわかるでしょう。

また、近年、福祉高齢社会の進展の中でバリアフリー
〔 障壁除去 ;段差・暗部をなくしたり、手すりやスロープをつけるなど〕空間が工夫されています。

これは、“陰の気(部分・要素)をなくし 陽の気(部分・要素)に変える”こと、
と表現することができると私は考えています。
 

図解



■ 美の思想 2    ―― 中庸 ――

東洋思想特有の言葉であり、儒学(易)思想の根本概念が “中庸〔ちゅよう〕” です。

中庸の徳といいますのは、過・不足 の両極端を廃して“ホド〔程〕”よく あんばい〔塩梅〕する、
中和”することです。

中論」は、仏教や神道〔しんとう〕の思想にもあり、ギリシア哲学にもありますから 半ば普遍的なものとも言えましょう。

中庸を 美の学として、西洋的に表現しますと、
統一の要素 ユニティー 〔 Unity 〕と同義に扱われたり、包含するものとして扱われる 
バランスBalance 〕”の概念が一番近いのではないかと思います。

また、心理学的にも中庸は用いられています。
例えば、ヴント( W.Wundt ; 心理学の祖 )の快適性についての“中庸説”は、
刺激強度が適当であるときに最も快適であることをいったものです。

さて、この中庸は、ともすると 単純・浅薄に、中央・平均と捉えられがちです。
先の図2でいうと、変化と統一の要素の 相半ばする点と考えられがちですが、そうではありません。

中庸には、もっと深意があります。

中庸を理解するために、例として“棒ばかり〔秤〕”について述べてみましょう。
図3にモデル図を描いてみました。

学生諸君は、“はかり”といえば 針で数字を表示するものしかご存知ないでしょう。
理科で、分銅をのせて(減らして)左右のバランスをとる“天秤〔てんびん〕”はご存知でしょう。

(今中年の)私の幼少のころは、行商の人が 魚や野菜などを各家庭に売り歩いていました。
その重さを量る道具として 棒ばかり を持っていました。
重さを量るやりかたを、幼心にかすかに覚えています。

棒(秤竿〔はかりざお〕)の上に、重さを表示する目盛りが刻まれています。
片方よりにヒモの持ち手(逆三角形で示しています)があり、図では右側にはかるモノをのせる秤皿が 固定されてついています。

この皿に、例えば 魚をのせます。
反対の端には、おもり(分銅)を引っ掛けます。
はかるモノは、重さが異なりますので おもりの(重さではなく)位置を調節して、
棒の水平を実現します。

その水平になった時、棒の目盛りを読むと重さがわかるという仕組みです。
棒ばかりは、“てこの原理”の応用で秤皿のモノと おもりとのバランスをとります。

支点である 持ち手を動かしても、おもりを動かしても原理的には同じですが、
おもりを動かして棒を水平にしたのだと思います。

この おもり(の動き)にあたるものが、中庸を示していると考えられます。

つまり、はかるモノ( = 状況、価値基準など)が変化すれば 中庸 は動きます。
中庸の深意は、この 動的概念 にあります。

※ ちなみに、“はかりめ”という言葉(魚)をご存知でしょうか?
関東(千葉県南半部)では、“あなご”のことを“はかりめ”というそうです。
その棒状の形状の側面に、はかりの“め”のような模様があることに由来しているとのことです。
興のある名前です。

私は、学生に 中庸の概念を身近に考えさせる時に、よくテストの成績を具体例にあげて問いかけ話します。

テストといえば、学生・保護者は よく“平均点”を知って基準にしたがります。
100点満点のテストで、中庸の目標点数は 学年平均点や中央(値)点のことではありません。

各個々人によって、その能力や志向によって、60 点のこともあれば、80 点のこともあれば、
40 点(欠点でない)のこともある・・・ということです。

大学受験生にしても、志望大学・各部によって ホドよい点数(学力)は、異なってきますでしょう。

中庸の美を、私なりに定義すると、 
「状況・変化に対応した動的な バランス〔 Valance: 均衡 〕」 といったところでしょうか。

中庸の考え方は、全陰と全陽をその両端と考え、陰陽の動的バランスの中にあるべき姿 (美) があるとするものです。

これは、非常に深く 妙なもので、芸術美においても 人生においても、普遍的な「一〔いつ〕なるものであると思っています。

棒ばかり



■ おわりにかえて

結局、“変化と統一”と“中庸”は、その根柢においての意味は同じで、
表現形式が、東西によってニュアンスを異にしているのかも知れません。

西洋(的)の美と 東洋(的)の美・日本の美 を考える時、
私はいつも一つの古代のロマンチックな事例を想います。

古代ギリシア建築美の粋 パルテノン神殿( BC.5世紀 ) の
柱のふくらみ = エンタシス〔 entasis: 堂々として見える 〕と
日本の法隆寺金堂(7世紀、670年消失?、その後再建)のそれは、
(1) 古代ギリシアと日本で、同じく建築デザインの天才が考え出したのか? 
(2) 1000年余りの時を経て、ギリシアから日本にはるばると伝わったのか?
ということです。

どちらにせよ、ロマンです。 ―― それはさておき。

古代ギリシアが到達した美の世界も、古代中国が到達した美の世界も
みなもとにおいて同じということでしょう。

西洋(人)の美も、東洋(人)の美も、人間という根柢においては同一です。
ただ、そこには やはり文化・民族・風土の差といったものもあります。

次の機会には、西洋と東洋 また日本の一にして異なるものを考えてみたいと思います。



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“パンをもらった少年” に想う

“パンをもらった少年” に想う
       ── “小公女セーラ”・仁愛〔思いやり〕・“兆し”を読む など ──

幼少年期、純朴で夭〔わか〕い精神(頭脳)のころの読書というものは、
長じても鮮明に憶えているものです。

私の場合も、今から40年以上も前の、それも一度しか読んでいない
(子供のころは、本は一度しか読まず次の本に移ったものです)本なのに、
そのあらすじや主人公の名前・イメージや場面などが、
あたかも自分の体験であるかのように心に刻まれています。

小学生の中学年のころでしょうか。
母が、豊かでない財布を工面して、毎月一冊ずつ発刊配本される
“少年少女世界の名作文学”(全50巻)を買ってくれました。

魅せられるように、文字をたどり、さし絵を楽しみに想像をふくらませたものです。

その第一回配本(?)であったかのようにも思いますが、
アメリカ編・バーネット女史( Frances Hodgson Burnett )の 
『小公子』( Little Lord Fauntleroy )・セドリック少年の物話、
『小公女』( A little princess )・セーラ・クルーの物語をよく、好んで憶えています。

私は、『小公子』のほうが印象強いのですが、
今時の若者、少年・少女には、TVアニメーションの影響でしょうか、
“小公女セーラ”のほうがよく知られているようですね。

その、“小公女セーラ”で、今でも文字どうり眼前によみがえるシーンがあります。
どうしてそこを印象強く憶えているのか、理由などはわかりませんが。


《 ・・・・ セーラは、虐待されてごはんも食べさせてもらえず、
ロンドンの雪の中を何度もお使いにやられます。
パン屋の前の水たまりで 4ペンス銀貨を拾います。
店先には、飢え死にしかけの、こじきの女の子が座っていました。
セーラはパン屋のおかみさんに、お金の落とし主をたずねて後、
そのアドバイスに従って 4ペンスでパンを買うことにします。

1ペンスの干しぶどう入り甘パンを 4つ (想像するに甘パンは、小さいもので
1・2個でお腹のふくれるようなものではないようですね)
おかみさんは、おまけしてくれて6つ くれます。

セーラは、神様がお恵み下さったパン(4ペンス)の一部を、こじきの女の子に与えたのです。

私は、よく生徒に「あなたがただったら、この状況でいくつあげますか?」と尋ねます。

セーラは、まずその女の子にパンの1つを与えます。
その貪り食う様子に、今度は3つ取り出して渡します。

結局、ふるえる手で 5つ めのパンを渡します。

1つ残った甘パンで、セーラはどうにかその日の自分の命をつなぐのです。

パン屋のおかみさんは、その様子を見ていて、そのこじきの女の子を暖かい店内に入れてやり、
パンをいくつもらったかの話を聞きます。

そして、今後いつでも(お腹がすいた時には)セーラに代わってパンをあげよう、というのです。 》


仁愛とその感化ですね。洋の東西は問いません。
理屈なしで、幼少年・少女にとって、心の糧となる物語の一場面だといつも想っています。


さて、英(米)少女に対して日本の少年ということではありませんが、
“パンをもらった日本の少年”の話を述べたいと思います。

これは、本の物語ではなく、ノンフィクション〔実話〕です。
日本人以上に日本通〔つう〕で、日本を愛し理解していてくれている識者である
米の実業家の講演の中で聞いた話です。

数年前の講演ですが、私の脳裏にいつも鮮明に象〔かた〕どられています。

昭和20年(1945)、終戦 ーー敗戦。我国は民族の滅亡すら危ぶまれる程に、
人間を失い、国土は焦土化し、米軍に占領されました。

その後10年で、「もはや戦後ではない」(1956・経済白書、同年“神武景気”)というまでの、
奇跡的復興を成し遂げ経済的発展をいたします。

そして、更なる高度成長期へと入っていくわけです。
(’59岩戸景気、’64オリンピック景気、’66ベトナム戦争特需、’68いざなぎ景気 ・・・)

朝鮮戦争による特需景気(1950〜)など、(我国経済にとっては)ラッキーな面もあるにせよ、
驚異的復興が実現されたには違いありません。

その復興を、昭和20年の荒廃の中で一体誰が予測し得たでしょうか?
誰も、その時点では思いもよらなかったでしょう。
が、しかし、そこに、後の日本の復興を確信していた一人のアメリカ人がいたという話です。


《 ーー 当時、都市部では誰もが食べるものに事欠く状況でした。
多くの幼少年たちは、その日の食べ物もないほどに貧しく、
米兵にあわれみを乞うたり、盗みなどの犯罪で命をつなぐ場面もめずらしくないことでした。

こんな敗戦直後の世の中での、ある幼いくつみがきの少年が話の主人公です。

ある一人のアメリカ人が、くつをみがいてもらいました。
少年の受け答え・態度を立派で健気に思ったようです。

感じる処あって、家に帰って、大きな食パン(当時は貴重でたいへんなご馳走!)に、
ご丁寧にも中にたっぷりとジャム・バターを練りこんで、戻ってそれをその少年にあげようとしたそうです。

そうすると、その少年、まだ幼く貧しい生活のその少年は、言いました。
「(くつみがき)のお貨幣〔かね〕は、ちゃんと頂いていますから、受け取れません。」と。

そのアメリカ人は、感心しながらも、無理にもとっておくように言います。
ようやく少年は、それではと感謝して受け取りました。

“衣食足らずとも礼節を知る”ですね。

腹ペコだろうから、さぞかしすぐにパクつくかと思いきや、
そのパンを一口も食べずに包んでしまい込みます。

いぶかしく思ってわけを尋ねると、
「ぼくには、小さい妹がいます。お腹をすかせて待っています。
このパンは、その妹に持って帰ってやるんです。」 と答えました。

そのアメリカ人は、確信して思ったそうです。
この国(日本)は、こんな荒廃の中でも、こんな幼い少年ですら立派なこころを持っている。
(この子たちがやがて成人し、この国を支えてゆく)

きっとこの国は、優れた復興をなしとげるだろう、と。 》


これは、(西洋の宗教=キリスト教的 愛ではなく)日本(儒学)の道徳です。

礼節仁愛の教えが、幼い少年に廃〔すた〕れず残っていたのです。


ーー 私は、この話で2つの意味で感銘を受けております。

まず1つは、東洋・日本の古き良き“道徳”です。

“戦後、日本はモノで栄えココロで滅ぶ”ともいわれています。

モノ(物質的)の貧しさは、目に見えて皮相的・表面的で解決もはかりやすいでしょう。

それに対してココロ(精神的)の貧しさは、体の内部をむしばむガンのように、目に見えず重大です。
命とりともなりましょう。

かつて、マザーテレサが来日したとき
「この国は、モノは豊かだけれどもココロは貧しい」と評したという話があります。

豊かさの中の貧困 (物質的 リッチ〔Rich〕の中の精神的・物質的 プアー〔Poor〕)”
が問われて久しいものがあります。

21世紀が、“こころの時代”・“癒しの時代”といわれるのもこの“貧しさ”ゆえです。

敗戦後、60余年が経ちました。
私にも、現代の日本は、かつての“東洋の道徳”、“日本の美徳”を忘れた
非常に貧しい国に思われます。

この“パンをもらった少年”ですら持っていた徳は、いったいどこへ行ったのでしょうか? 

いま、“美しい日本(=美しい徳・美しい人格ある国)”は失われ、
背徳に満ちた蒙〔くら〕い時代が深まりつつあります。


もう1つは、そのアメリカ人が、はるか先の未来の復興を明らかに確信(予測)したという点です。

『易経』に、 「〔き〕とは動の微〔び〕にして、吉凶の先ず見〔あらわ〕るるものなり。
君子は幾を見て作〔た〕つ。 ・・・・・ 君子は微を知りて彰〔あや/しょう〕を知り、
柔を知りて剛を知る。万夫の望みなり。」 (「繋辞下伝・5章」) とあります。


」とは、物事が(大きく動き)変化する前に先んじて現れる、わずかな兆し・兆候(微)です。
目に見えないものですから察する、つまり、心眼・直感で“観る”のです。

君子は、未来を察知し、そのわずかな兆しを明らかにし、
そして機敏に変化に対応して行動してゆくのです。
それが、万人が頼りとして待ち望んでいるところなのです。

変化の“兆し”(機微)を読みとり、それを活かして行う(知行合一)が学道の真意であり、
とりわけリーダー〔指導者〕の真面目でしょう。

“兆し”を読めぬ、“兆し”を読み誤るリーダーしか持てない人々はとても不幸です。
変化に対応できなければ、窮することになりましょう。

今の社会 ──政・財・官・教育・文化のリーダーに、“兆し”を読めている人が一体どれ程いるでしょうか? 

“兆し”を読もうとする研鑽修養すら、どれ程の人が努めているでしょうか? 
いわんや、行いにおいてをやです。


結びとして加えますと。 国家・民族・社会の未来への“兆し”は、青少年の姿の中にあります。
教育は“100年の大計”、すべての本〔もと〕です。

近年、日常茶飯に人倫の荒廃・各界で各種の不祥事が驚きをもって報じられています。
教育の問題が、ようやく、少し正当に報じられるようになりました。

この現状に至っても、為政者は、「困ったものだ」・「遺憾なことだ」とコメントし、
評論家・識者(と称されている人々)は、原因をあれこれ複雑化・抽象化したりし、
メディアはどうでもいいような一般論で締めくくっています。

私は、ずい分前から、つまり今の子供の親が子供であった頃から、
“兆し”を読んで(当然の結果として)今の状況を確信していました。

“教育の貧困”、“こころの貧しさ”、“忘徳” がみなもとです
そして、その(結果)責任の所在も、真摯〔しんし〕に考えれば自明です。

唐土〔もろこし〕。いにしえの孔子は、長い諸国遍歴の後、
母国「魯〔ろ〕」に帰り子弟の育成に晩年の情熱を注ぎます。
( cf.孔子と弟子との年齢差 : 曾子 46歳、子貢 31歳、子夏 44歳、子張 48歳 ・・・) 

その若い弟子たちは、やがて『論語』も編集し“儒学”を国教となるまでに大成させていきます。

2500年余を経て、共産国中国では(文化大革命の孔子・儒学弾圧を一転して、北京オリンピックで)
儒学文化遺産を世界にアピールし、いま子供たちが熱心に『論語』を学んでいます。

─── 私は、日本は、“パンをもらった少年”を再び育ててゆかなければならないと思い想います。


                                  高根 秀人年


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「咸臨丸」 と 『蹇蹇録』


「咸臨丸」 と 『蹇蹇録』

――― 「咸 [かん] 」 ・ 「臨」 ・ 「賁 [ひ] 」 ・ 「蹇 [けん] 」 卦、条約改正

1853年6月3日、ペリー提督率いるアメリカ艦隊(黒船・軍艦4隻)が浦賀沖に来航。
翌年1月再来し(軍艦7隻)、日米和親条約が締結されました。

今年2009年は、その時から156年を数えるわけです。

1月には、“Change [変革] ” をとなえてオバマ新アメリカ大統領が就任いたしました。
昨年8月には北京オリンピックが開催され、中国も世界の舞台に躍進してまいりました。
対米関係を見すえてゆく大きな節目の時機ではないでしょうか。

1858年6月、日米修好通商条約を締結。
関税自主権なく、治外法権(領事裁判権)を認めた不平等条約でした。

1860年、この条約の批准 [ひじゅん] 書交換のための遣米使節に随行し、
太平洋横断に成功した幕府海軍の木造軍艦が 「咸臨丸 [かんりんまる] 」、
その艦長が勝海舟 (義邦:よしくに、海舟は号)です。

幕臣勝海舟は、当時、世界的視野を持って、大変化によく 「革 [かく] 」
(「沢火革」:故 [ふる] きを去って革 [あらた] める) を持って対応した傑材です。

後年(明治元、1868・3・14)官軍の江戸総攻撃に際し、西郷隆盛と会見し
江戸城無血開城を実現して、江戸を戦火から救うことになります。

なお、広く周知の坂本龍馬は彼の弟子にあたります。

龍馬が勝を斬ろうとして訪問し、その人物に魅了されて弟子入りしたいきさつは、
二人の人物像をよく示しているエピソードです。

さて、「咸臨丸」 の名は 『易経』 の 「沢山咸 [たくさんかん] 」 と
「地沢臨 [ちたくりん] 」の卦に由来しています。

「咸」 は“心”をつけて “感”とするとよくわかると思います。

感応(一瞬にして心が通うこと)のあらゆる作用を意味します。

『易経』 上経は、「乾 [けん] 」 ・ 「坤 [こん] 」 に始まり、
下経は 「咸」 と 「恒 [こう] 」に始まります。

象 [しょう、かたち] でみると、“沢” = 若い女性 と “山” = 若い男性、
男女の相思相愛です。

「咸」卦は、上経の 「水雷屯 [すいらいちゅん:創造、生みの苦しみ] 」 に相当します。

即ち、「むすび [産霊] 」 ・ 生み出すの意味です。

乾・坤の2卦が天地万物をつくるのと同じように、
咸・恒の2卦から人生全般のものごとが生まれ、発展してゆくのです。

また、互卦 [ごか=卦に含まれている意味] は、
「天風コウ [てんぷうこう:思わぬめぐり合い] 」 です。

実際、これより歴史の舞台上で 「速 [すみ] やかに」 (雑卦伝)
欧米文明との出合いが進展してゆくことになるのです。

他方、「臨」卦は、のぞみ見る、希望に燃えたスタート、対外活動力の卦。
すすむ ・ 発展 ・ 光明をあらわす 「大なるもの」 (序卦伝)なのです。

この 「臨」 は非常な尊敬の言葉であって、「臨席」 ・ 「光臨」 の熟語が出来ています。
その人が席に臨 [のぞ] むことで、回りが感化され厳粛なものとなることです。

ですから、臨席はお願いするもので、「私が臨席いたします」 はおかしい使い方です。

そして、更に席をめでたく偉大にする臨席が 「賁臨 [ひりん] 」です。

「賁」 は「山火賁 [さんかひ:あや、かざる] 」 からきており、
“文化の原則” は知識教養で身をかざることの意の卦です。

「ご賁臨を仰ぎます」 ――― そう言われるような人間になりたいものです。

「臨機応変 (危機に臨み変化に応ず) 」 の言葉は、時と場合によって適切に対応することです。

儒学 (=易学) の本質は “変化の思想” です。

“臨変応機 (変化に臨んで機知に応ず) ” もまた大切といえましょう。

ちなみに、「臨」卦の 「民を容 [い] れ保 [やす] んずること強 [かぎ] りなし」 (大象伝)から、
新撰組のスポンサーの若き会津藩主・京都守護職、松平容保 [かたもり] の名がつけられています。

また、象をみてみると 「臨」卦は、水辺より陸を臨む象であり、少女が母に随 [したが] う象です。

そして 「咸」 は、若い男性 (艮 [ごん] の象でしたが、「臨」 も大卦 [たいか] をみると
大震 [だいしん] の象で 「若い木」 の意味が読みとれます。
――― 咸臨丸の甲板には、明治維新の時代を築くニューリーダー達の若き姿があったのです。

即ち、後の明治の元勲初代総理大臣・伊藤博文 [ひろぶみ] (旧千円札中の人)、
『学問のすすめ』 を著し慶應義塾大学を創始する福澤諭吉 (現1万円札中の人)、
条約改正と 「鹿鳴館」 欧化主義政策に尽力する外相・井上馨 [かおる] 達です。

結びに、条約改正の視点から述べましょう。

この不平等条約を対等の関係に改正するために、これ以後涙ぐましい努力がなされます。

歴代外相 (寺島 ・ 井上 ・ 大隈 ・ 青木) ことごとく失敗、
陸奥宗光 [むつむねみつ] 外相に至って漸 [ようや] く部分改正を実現します。

現今、日本語の教養が軽薄となり 「蹇」 の読める人も、ましてや意味のわかる人もいなくなってまいりました。

『蹇蹇録 [けんけんろく] 』 は、陸奥宗光が後年著したものです。
日清戦争や三国干渉、条約改正交渉などを回顧した貴重な史料です。

「水山蹇 [すいざんけん] 」 は、3難卦の一つで、寒さに足が凍えて進めない・足止めストップの卦です。

蹇蹇は 「難 [むずかし・くるしむ] 」 (序・雑卦伝) と同時に忠義を尽くすさまでもあります。
一個人のためではなく、人のため国家社会のための献身尽力です。

即ち、「蹇」 卦の2爻 [こう] に 「躬 [み] 」 の故 [こと] に匪 [あ] らず」 と。
「蹇蹇匪躬 [けんけんひきゅう] 」 の語は、ここから出ています。

そして、条約改正は、小村寿太郎外相による、日露戦争 (今年は104年目) 勝利を背景とした交渉により
完全成功します。 (1911)

修好通商条約締結から実に53年目のことでした。


                                       高根 秀人年


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