「中庸の美」 ――― 美・変化と統一・陰と陽・中庸 ―――
■ はじめに ―― 美しさとは! ――
“真・善・美”という言葉があります。
まことに・よく・うつくしく 生きるということを要約している言葉です。
別の表現をすれば、儒学・人間学で“徳”とも言えましょうし、
進展する高齢社会にあって 福祉・医療の分野では“ウエルネス”という概念でも捉えられるかと思います。
そして、それが形(かたち、象〔しょう〕)を伴うものとしては、
“美”という表現をとることが出来るということでしょう。
さて、その美しさというものは“(感じる)人の心の中それぞれに(相対的に)あるもの”ではありますけれども、
やはり美しいものは美しい のです。
以前 「うまいものはうまい」 というTVコマーシャルがあったかと記憶しています。
食べ物でも、好みはあれども人の一般的(全般的)嗜好〔しこう〕判断はあるということです。
より多数にとっての美しさとは何か、つまり“美の原理”というものを しっかりと押さえておきませんと、
流行や個人的嗜好・興味に流されたり、枝葉にとらわれたりして、本質( =不易)から離れていくことになってしまいます。
今回は、美しさとは何か ―― 美の思想・原理を、西洋思想と東洋思想の視点から考えてみたいと思います。
芸術・美術・デザイン ・・・ 美の創造演出に携わる方には、特にご参考頂けたらと思います。
■ 美の思想 1 ―― 変化 と 統一 ――
美しさは、“変化( Variety ; バラエティー)と 統一( Unity ; ユニティー)”の中にあります。
“変化の中の統一、統一の中の変化”を形作ることが、美の創造です。
西洋では、“統一と調和( harmony ; ハーモニー)”、
“美とは 多様性の統一を表すことにある (古代ギリシア)”、
“複雑さの中の秩序性( Order in complexity )”などと表現されています。
調和を“対比と共通性”で捉えることも唱えられています。
東洋思想においても(儒学・易学の源流思想ということでもありますが)、
陰陽相対(待)論の “陰”を“統一”、“陽”を“変化”の要素と考えてもよいでしょう。
東洋において、思想的源流である易学は、“変化の学”、変化に対応してゆく学です。
『易経〔えききょう〕』の英訳は、“変化の書 ( The Book of Changes )”といいます。
幾何学図形で、一例を挙げてみましょう。
円(丸)は「陽」、角(方)は「陰」ですが、円と楕円の組み合わせ(重ね)は、
統一感・まとまり感はありますが、変化に乏しく おもしろみにかけます。
円と四角の組み合わせは、変化と統一、陽と陰が 相半ばして一般に“ホド〔程〕よい”調和です。 図1がそれです。
また、円と三角の組み合わせは、変化に富みますが まとまり感は難しい・・・といった具合です。
ちなみに、人生や社会もまた しかりで、波瀾万丈の変化ばかりでも困るし、
平々凡々とあまりに安定しっぱなしでも寂しいものがあるかと思います。―― それは ともかく。
こころみに、造詣美の原則 を図示してみると、 図2のように表せるかと思います。
“美”をコーディネートするということは、“変化(陽) と 統一(陰)”の“サジ加減”をする、といったところでしょうか。
なお、現実・具体的な事柄を 少し付言しておきましょう。
公共性の強い空間(医療・教育・官公庁など)につきましては、
基本的には、統一の要素 = 陰 の要素が強いのが良く、
“統一の中の変化”を志向するのが良いと思います。
実際の建造物の 内外の色彩を、商業空間や住宅空間と比べてみるとよくわかるでしょう。
また、近年、福祉高齢社会の進展の中でバリアフリー
〔 障壁除去 ;段差・暗部をなくしたり、手すりやスロープをつけるなど〕空間が工夫されています。
これは、“陰の気(部分・要素)をなくし 陽の気(部分・要素)に変える”こと、
と表現することができると私は考えています。
■ 美の思想 2 ―― 中庸 ――
東洋思想特有の言葉であり、儒学(易)思想の根本概念が “中庸〔ちゅよう〕” です。
中庸の徳といいますのは、過・不足 の両極端を廃して“ホド〔程〕”よく あんばい〔塩梅〕する、
“中和”することです。
「中論」は、仏教や神道〔しんとう〕の思想にもあり、ギリシア哲学にもありますから 半ば普遍的なものとも言えましょう。
中庸を 美の学として、西洋的に表現しますと、
統一の要素 ユニティー 〔 Unity 〕と同義に扱われたり、包含するものとして扱われる
“バランス〔 Balance 〕”の概念が一番近いのではないかと思います。
また、心理学的にも中庸は用いられています。
例えば、ヴント( W.Wundt ; 心理学の祖 )の快適性についての“中庸説”は、
刺激強度が適当であるときに最も快適であることをいったものです。
さて、この中庸は、ともすると 単純・浅薄に、中央・平均と捉えられがちです。
先の図2でいうと、変化と統一の要素の 相半ばする点と考えられがちですが、そうではありません。
中庸には、もっと深意があります。
中庸を理解するために、例として“棒ばかり〔秤〕”について述べてみましょう。
図3にモデル図を描いてみました。
学生諸君は、“はかり”といえば 針で数字を表示するものしかご存知ないでしょう。
理科で、分銅をのせて(減らして)左右のバランスをとる“天秤〔てんびん〕”はご存知でしょう。
(今中年の)私の幼少のころは、行商の人が 魚や野菜などを各家庭に売り歩いていました。
その重さを量る道具として 棒ばかり を持っていました。
重さを量るやりかたを、幼心にかすかに覚えています。
棒(秤竿〔はかりざお〕)の上に、重さを表示する目盛りが刻まれています。
片方よりにヒモの持ち手(逆三角形で示しています)があり、図では右側にはかるモノをのせる秤皿が 固定されてついています。
この皿に、例えば 魚をのせます。
反対の端には、おもり(分銅)を引っ掛けます。
はかるモノは、重さが異なりますので おもりの(重さではなく)位置を調節して、
棒の水平を実現します。
その水平になった時、棒の目盛りを読むと重さがわかるという仕組みです。
棒ばかりは、“てこの原理”の応用で秤皿のモノと おもりとのバランスをとります。
支点である 持ち手を動かしても、おもりを動かしても原理的には同じですが、
おもりを動かして棒を水平にしたのだと思います。
この おもり(の動き)にあたるものが、中庸を示していると考えられます。
つまり、はかるモノ( = 状況、価値基準など)が変化すれば 中庸 は動きます。
中庸の深意は、この 動的概念 にあります。
※ ちなみに、“はかりめ”という言葉(魚)をご存知でしょうか?
関東(千葉県南半部)では、“あなご”のことを“はかりめ”というそうです。
その棒状の形状の側面に、はかりの“め”のような模様があることに由来しているとのことです。
興のある名前です。
私は、学生に 中庸の概念を身近に考えさせる時に、よくテストの成績を具体例にあげて問いかけ話します。
テストといえば、学生・保護者は よく“平均点”を知って基準にしたがります。
100点満点のテストで、中庸の目標点数は 学年平均点や中央(値)点のことではありません。
各個々人によって、その能力や志向によって、60 点のこともあれば、80 点のこともあれば、
40 点(欠点でない)のこともある・・・ということです。
大学受験生にしても、志望大学・各部によって ホドよい点数(学力)は、異なってきますでしょう。
中庸の美を、私なりに定義すると、
「状況・変化に対応した動的な バランス〔 Valance: 均衡 〕」 といったところでしょうか。
中庸の考え方は、全陰と全陽をその両端と考え、陰陽の動的バランスの中にあるべき姿 (美) があるとするものです。
これは、非常に深く 妙なもので、芸術美においても 人生においても、普遍的な「一〔いつ〕なるものであると思っています。
■ おわりにかえて
結局、“変化と統一”と“中庸”は、その根柢においての意味は同じで、
表現形式が、東西によってニュアンスを異にしているのかも知れません。
西洋(的)の美と 東洋(的)の美・日本の美 を考える時、
私はいつも一つの古代のロマンチックな事例を想います。
古代ギリシア建築美の粋 パルテノン神殿( BC.5世紀 ) の
柱のふくらみ = エンタシス〔 entasis: 堂々として見える 〕と
日本の法隆寺金堂(7世紀、670年消失?、その後再建)のそれは、
(1) 古代ギリシアと日本で、同じく建築デザインの天才が考え出したのか?
(2) 1000年余りの時を経て、ギリシアから日本にはるばると伝わったのか?
ということです。
どちらにせよ、ロマンです。 ―― それはさておき。
古代ギリシアが到達した美の世界も、古代中国が到達した美の世界も
みなもとにおいて同じということでしょう。
西洋(人)の美も、東洋(人)の美も、人間という根柢においては同一です。
ただ、そこには やはり文化・民族・風土の差といったものもあります。
次の機会には、西洋と東洋 また日本の一にして異なるものを考えてみたいと思います。
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