儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2009年09月

世界史にみる理想的人間

世界史にみる理想的人間
    

――― 調和の美・普遍的人間(万能の天才)・“個の闊歩する時代”・
  スペシャリスト・君子・中庸の徳・文質彬彬・『代表的日本人』 ほか ―――

 

 “人間の意識が社会の在り方を決定するのではなく、社会の在り方が人間の意識を決定する” と、かつてマルクス〔Marx, K.〕が述べました。

社会・経済の在り方が、その時代の人間像、理想的人間=指導者〔リーダー〕を決定するというのは、一面の真理かも知れません。

確かに、新しい時代には新しいモラルが生まれてきます。
しかしながら、私は、こういった西洋の(人間不在の)唯物的思想には少々疑問を感じてまいりました。

変化・無常(「変易」)の世界にあってこそ、また「不易」・変わらぬもの、「一〔いつ〕」なるものの価値が尊いのです。

ことに、人間の未来像(未来の人間のあるべき姿、志向する社会像)を考える上では重要です。
これは、人間が社会・世界を創っていくという視点です。

現在の我国は、国民・民族共通の“ものさし”・“コンパス”〔道標/みちしるべ〕をなくして彷徨〔さまよ〕うがごとき有様です。

志向する社会像もなく、「蒙〔もう〕」として混迷をきわめています。

先導すべき肝腎要〔かなめ〕のリーダーそのものが、不在の時代です。
その場、その時を取り繕うがごとき政治・社会に感じられます。

今回は(マクロ)な視点で、理想的人間像、リーダー像を概観してみたいと思います。
「温故知新」で、歴史の過去と対話することで、未来を展望する よすがとしたいと思います。

 

古代ギリシア(Greek: BC.5世紀ごろ全盛)において、西洋古典文化が見事に開花いたしました。
西洋文化の源流〔みなもと〕です。

ギリシア(&ローマ)が、目指したものは「調和の美」です。
理想的人間像は、肉体も精神(知性)も感性も優れた、バランスの取れた人間です。

従って、リーダーとしての理想的政治家像も、「哲人」(知性)であり同時に「鉄人」(肉体)であり、
加えて音楽・文学・美術などを嗜む粋人〔すいじん〕でもあったわけです。

(欧)中世(Middle Ages: 8世紀〜)は、天へのあこがれ、「神(信仰)の時代」です。
そこに、人間は不在です。 人間・文化は死に絶え「暗黒時代」と呼ばれます。

その、一度死んだ人間が復活・再生するのが、ルネサンス(Renaissance: 文芸復興/14−16世紀)。
近代への幕開けです。

それは、「世界と人間の発見」(Burckhard: 〔ヤコブ・ブルクハルト〕)つまり、大航海の時代(地理上の発見)とヒユーマニズム(人間中心主義:人間を尊重するという今ではあたりまえのこと)です。

更に、ギリシア・ローマ古典文化の復活に当時の東方文化という新しいものを加えました。

ルネサンスの人間像は、「普遍的人間」〔ウオーモウニベルサーレ〕です。
レオナルド・ダ・ビンチやアルベルティーが、万能の天才としてよく知られています。

今風に言えば、マルチ人間といったところでしょうか? 
ルネサンスは、人間そして芸術(家)が偉大であった時代です。

ところで、(イタリアルネサンス発祥の地)フィレンツェは、なぜルネサンスを生んだのでしょう?
(そして、なぜ日本では平和で経済的に繁栄しているのにルネサンスが起こらないのでしょうか?)

―― 私が想いますに、メジチ家(政・財界のドン)があつく芸術・芸術家を保護したからです。
それはまた、そうせざるを得なかったフィレンツェ市民の要請があったからだと想います。

つまり、当時のフィレンツェ市民の民度が高かったのが大きな要因=契機であったと想います。

文芸復興と並行して、宗教改革も進展してゆきます。
当時のイタリア(半島)は群雄割拠の戦乱の時代ですが、
人間精神においては素晴らしく輝いた時代であったと感じています。

やがて、誕生した資本主義社会は、産業革命を経て本格的に確立し、
世界大戦を経験し曲折しつつ進展してまいりました。

今、世界は国際化時代の様相を呈しています。
それは、I.T革命を経て脱工業化社会〔Post Industrial Society〕とも
高度情報化社会とも形容される社会です。

現代は、一言に要せば、“(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕する時代です。

多岐の専門分野に分かれ、価値観も多様化してまいりました。
その人間像は、良くいえば“スペシャリスト〔専門家〕”です。

我国、早大の “一芸入試” はその1つの事例でしょう。
スポーツなり芸能なり、1つ(一部)の能力に秀でたものがヒーローとして脚光を浴びるのです。

専らマス・メディアによって脚光を浴びた専門家は、リーダー(議員・首長)にもなってゆきます。

しかし私には、その現代の人間像は、一部の能力に偏向し全体的調和を失った“いびつ”特殊な人間像に思えます。

やがて、その“ひずみ”が顕〔あら〕わになってくるのではないでしょうか。

近未来の理想像は、人間(・社会)全体の「調和の美」を再生すべきです。
精神と肉体、才と徳、右脳と左脳 ・・・・の調和・均衡〔Balance・バランス〕を、人間の全体性の中に取り戻すべきだと思います

そして、この“バランス”は、東洋流にいえば、陰陽のバランス=中庸・中庸の徳ということに他ならないのです。


[ 参考・研究 ]

次の小論は、私が学生時代に、(西洋)社会経済史の視点から人間像を要説したものの一部です。
少し専門的ですが、参考に付け加えておきます。

(文章表現は、平易に書き直してあります。また、現在〔‘09〕の状況から若干「注」を加えて補いました。)

◆◇◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇◆

“manse” 〔マンス(仏)〕という語があります。
“耕作者が封建支配の下で自立の生活を続けている場”の意味です。

すなわち、住むための家であり、土地であり、(相続)財産であり、
そして近代においては、《職業(注1) そのもののことです。

  ※ 注1) 現在、非正規雇用(フリーター・派遣・パートなど)の拡大、
        慢性化と不況を背景に失職・失業が社会問題化しています。
        為政者・国民自身が《職業》というもののあり方について真剣に考える時です。

  cf. 東洋思想では、定まった財産収入・一定の生業職業のことを指す言葉として
      “恒産〔こうさん〕”があります。 
      恒産恒心:「恒産なきものは恒心なし。」(『孟子』梁恵王)
       ・・・経済と道徳の密接な関係を説いています。


「古代」は、一部の者が、富を独りじめした奴隷制社会でした。
それに対して、「中世」における人間像・社会秩序ともうしますのは、
まさに、この住むに足る家を持ち、働くに足る土地があり、
かかる“定住と安定”を大切にして、営々と子々孫々繋〔つな〕げようとするものであったのです。

そんな社会の均衡が、14世紀半ばころから崩れてきます。
黒死病〔=ペスト〕による人口激減、海上航路発見、価格〔商業〕革命などが、激動の時代を招来いたしました。

新たに「農業資本家」、「商人」が、登場いたします。
社会の秩序から、そして土地から、はじき出されて《浮遊〔ふゆう〕》が発生するのです。
新人類”の登場です!

ところで、土地をすべての基盤におこうと努め続けたフランスに対して(注2)
イギリスでは、土地は利潤の手段にすぎませんでした。

従って、資本主義は、イギリスにおいて典型的進展を示すことになります。
“enclosure”〔エンクロジャー〕(注3)は、共同利用・共有財産的性格にクサビを打ち込み、私有財産に転化させました。

人々は、土地という共通の基盤を失ってしまい、
“1つの国民”は複数の国民になってしまったのです。(注4)

  ※ 注2) 当時の農業(中心主義)国フランスの思想に学び、
        これからの我国の「農業」を再考する時だと思います。

  ※ 注3) 「囲い込み運動」 ―― 「羊が人間を喰う」(トマス・モア):
        毛織物工業の原料羊毛生産のため、農民を土地から追い出して、
        土地を囲い込み羊を飼育しました。

  ※ 注4) 現代日本は、格差社会が進展しています。
        共通のモノサシ(社会的基準・規範)も失い、個々バラバラです。
 

新しい時代には、それに見合った新しいモラル〔倫理・道徳〕が生まれてきます。

中世カトリック教会の清貧を中心としたモラルは、宗教改革によって、利潤獲得・富の蓄積が神の栄光を表わすものであるという、プロテスタンティズムの職業倫理へと変わってゆきます。(注5)

そして更に、理性と自由を基調とする近代市民社会の倫理が形成されてゆくのです。

「中世」という時代は、全体のために規制を受け、個が犠牲になっていました。
それがルネサンスを経て、国家・全体が薄れたものとなって、
“個(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕する時代”が始まって来るのです。

  ※ 注5) Weber,Max. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 1904−05 :
        ウェーバーは、プロテスタンティズムの職業倫理(召命/Beruf, Calling)が、
        資本主義(産業資本)形成・発達の推進力となったと主張しました。


さて、産業革命を経て、時代は商業から生産へ、更に消費へと移ってゆきます。

現代は、民主社会とも工業化社会とも高度情報化社会とも、
さまざまに形容されている社会です。(注6) 

それは、経済史の視点から表現すると、
「高い席にいる人々」に譲歩してもらって「安い席にいる人々」を引き上げよう、(注7) 
中産(間)階級という“1つの国民”・“同じものを食べる国民”を
再び実現しようとしている社会
と言えるかもしれません。

  ※ 注6) 現代の社会には、福祉・高齢社会の要素が加わります。

  ※ 注7) 「高い席にいる人は貨幣〔かね〕を出せ。安い席にいる人は拍手を送れ。」
        という文言があります。


現在、“manse”を中心とした中世以来の社会秩序は、そのモラルと共に全く異なったものに変貌しています。

清貧・節約の考え方は生産・蓄積に、更に消費・奢侈〔しゃし:ぜいたく〕へ!(注8) 
勤勉は怠惰へ!

多様な価値が肯定される現代社会。

我々は、この新たな秩序の中で、新しいモラルの未来像を模索してゆかなければならないのです。

  ※ 注8) 日本は戦後、かつて倹約は美徳であったものが一転、
        消費は美徳と変わり“使い捨て文化”と言われてまいりました。

        現在(‘09麻生内閣)の経済政策・不況対策の根本も、
        ドンドン“無駄使いしろ”(消費需要を高める)というものです。

        どこかおかしくありませんか?
          
                        ( 高根 秀人年、「経済史における人間」 )
 
◆◇◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇◆


さて、東洋に目を転じてみましょう。 

東洋の理想的人間像は、“(聖人) ― 君子 ― 大人〔たいじん〕” といった儒学的理想像といえましょう。

儒学は、古代中国に起源し、春秋・戦国時代 「孔子」(BC.551〔BC.552〕?−BC.479)によって開かれ、漢代(7代武帝:在BC.141−BC.87)に国教〔国の教え/国教化〕となりました。

以後、2000余年来、この儒学は中国にとどまらず、
朝鮮・日本などアジア国家社会の秩序となり、
思想・文化のみなもととなり、また人生の良きみちびきとなりました。
(真儒協会HP.“儒学年表”参照のこと) → http://jugaku.net/jugaku/history.htm

儒学の“君子”に代称される理想的人間像・指導者(為政者)像を一言に要せば、
徳望のある人、中庸の徳のある人、であるといえます。

その原点を、具体的に、東洋のバイブル『論語』 に温〔たず〕ねてみると。

○「子曰く、君子は器〔き〕ならず。」 (為政第2−12)

器物は、用途が1つ決まっていますが、
人格の完成した人=君子は、限定されることなく、
広汎〔ひろ〕く自由に、何事にでも対応できるということです。

君子は、特化・偏することなく一能一芸を守らぬものということです。

弟子の子貢〔しこう〕の問いに対して、
「女〔なんじ〕は器なり。」(公治長第5−4)と答える場面もあります。

子貢は、どこに出しても恥ずかしくない有用な人材ですが、
器物としての限界がある、君子には今一歩及ばないということでしょうか。

 一方、孔子自身は多能・多才の(聖人)君子です。
ルネサンスの理想的人間像“普遍的人間”でもあったといえましょう。

けれども孔子は、君子は多能を恥じると言っています。

「吾れ少〔わか〕くして賤〔いや〕し。故に*ヒ事に多能なり。
君子、多ならんや、多ならざるなり。」 (子罕第9−6)

孔子は、その苦労の生い立ちから様々の技能を身につけました。
孔子は、自分はつまらないことがいろいろできるが、
君子はいろいろするものではないよ と言っているのです。

多能に対する評価は、我国にも“器用貧乏”などという言葉もあります。
私も器用な性〔たち〕で、前半生“マルチ人間”と言われたりもしました。

しかし、多事を手掛けて才能を分化・“分散”させてしまったことを、少々後悔しています。

もっとも、以上のことは、「*ヒ事」〔つまらないこと〕についてのことです。
また、私は孔子自身の多能多才についての「謙遜」も差し引いて考えるべきかと思っています。

○ 「子曰く、質、文に勝てば則ち野〔や〕。 文、質に勝てば則ち史〔し〕。
文質彬彬〔ひんぴん〕として然る後に君子なり。」 (雍也第6−18)
 
真の君子像を、「文質彬彬」と表現しています。
「質」=誠実・質朴といった生地・素地が、
「文」=外面のあや・かざりより過ぎれば粗野な野人です。

逆に文が質に過ぎれば(軽薄なる)文書係のようになります。

文と質が、うまく融け合って調和してこそ、はじめて人格の完成した君子となるのです。

「知性/智」と「野性/素」の融合調和
これ以上の理想的人間像の表現はないでしょう。
これは、別言すれば、“調和(バランス)の美”であり、“中庸の美”でもありましょう。

最後に、我国の理想的人間像を具体的に付け加えておきましょう。

日本の明治維新期(1868〜 )急激な近代化が進展し、
疾風怒濤〔しっぷうどとう〕のごとく西洋文化が流入する中で、
迷走する日本人の精神のルネサンス(再生・復活)を図った人達がいました。

その一人、内村鑑三は、2つの “J”(Jesusイエスと Japan 日本)を尊び生涯を捧げました。

第2の“J”・日本に対する自分の責務を果たすべく、
英文の名著 『代表的日本人』;“Representative Men of Japan (1908、M.41)” 
(旧本・「日本及び日本人」;“Japan and the Japanese (1894、M.27)”) を著しました。

そこに登場する、日本を代表する偉人達は、
それぞれの立場で理想的日本人の典型を持っているといえましょう。

それは、以下の5人です。 
1)西郷隆盛 ・・・ 新日本の創設者 ※維新の3傑 / 
2)上杉鷹山〔ようざん〕 ・・・ 封建領主 ※出羽米沢藩主、藩政改革、封建領主の理想像 /
3)二宮尊徳 ・・・ 農民聖者 ※幼名 金次郎 / 
4)中江藤樹 ・・・ 村の先生 ※日本陽明学の祖、近江聖人 / 
5)日蓮上人 ・・・ 仏僧 ※日蓮(法華)宗の開祖    *(※は高根補注)


世界史は、20世紀後半、ヨーロッパ(英仏)主導の世界から、
米ソ両大国主導に移っていきました。

それも過去のものとなり、21世紀の始め(2009)は“国際化の時代”を迎え、
中国の台頭・米中の主導時代が到来しようとしています。

このような世界の時勢の中で、今、かつての明治維新期のように、
日本と日本人のアイデンティティー〔自己同一性:自分は何であるか?〕が問われています。

日本の次代を担う人々の殆〔ほとん〕どは、
母語の日本語もあやふや(読めない・書けない・語れない)、
文化・歴史・伝統にも無頓着です。

それでいて、外国人から“Are you Japanese?”(あなたは日本人なんですか?)と問われれば、
“Yes.”(はいそうです。)と答える。
―― そんな、“在日日本人”とでも称されて皮肉られそうな人々が、どんどん増えています。

明治期にはあった、日本の古き良き“東洋の道徳”や“恥の文化”は過去のものとなり忘却のかなたに消えかけています。

「仁」・「義」は、死語となりました。
自国の言葉・文化・歴史をないがしろにし、
通路の片側〔かたがわ〕も満足に歩けない日本国民は、一体どこへ向かうのでしょうか?

敗戦後60余年、普及・蔓延し続けた欧米の文化がいたる所で歪〔ひずみ〕・綻〔ほころ〕びを呈してまいりました。

軌道修正が急務です。

忘れられてきた東洋的・儒学的人間像、指導者像を取り戻さなければなりません。

才徳美しく調和した、文質彬彬たる君子、
「信念と気節のある人々が、国民の指導者に輩出するほか日本を救う道はない」(『安岡正篤 一日一言』)のです。 

 
結びにあたり、20世紀を代表するイギリスの大歴史家
アーノルド・トインビー(Toynbee, A.J.)の言葉を引用しておきましょう。

氏が21世紀に要請される人間像について答えたものです。

「 ―― それは、21世紀には、大乗仏教で説くところの菩薩〔ぼさつ〕の精神を持った人間が要請されるのだ。」

つまり、他人〔ひと〕の痛み・悲しみ・苦しみを自分のものとして、他人のために尽くそうという、仏教で教える“菩薩の心”こそが21世紀に求められるという意味です。

要するに、“慈悲”=思いやりの心を持った人ということで、
これは儒学の語でいえば“”に同じです。

仁人”が理想像 ―― けだし、達見だと感じ入ります。

もっとも、(今現在)日本の次代を担う人々が、さてそのような要請に応えるだけの資質をお持ちかどうかは疑問ですが・・・。

                                        高根 秀人年


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第二十二回 定例講習 (2009年8月23日)

第二十二回 定例講習 (2009年8月)

孝経   (広要道章 第12 ― 《2》 )

( ―― 楽より善きは莫し。の続き )

“上〔かみ〕を安んじ民を治むるは、礼より善きは莫し。礼はのみ。 故に其の父を敬すれば、則ち子悦ぶ。その兄を敬すれば、則ち弟悦ぶ。その君を敬すれば、則ち臣悦ぶ。 ※注) 一人〔いちにん〕を敬して(而して)、千万人悦ぶ。敬する所の者は寡〔すくな〕くして(而して)、悦ぶ者は衆〔おお〕し。此れ之を〔此を之れ〕要道と謂うなり。”

《大意》
「上(指導的地位にある人=リーダー)を安泰にし、下(民衆・人々)を善く秩序立てて治めるには、礼義を教えるのが最もよいのです。その礼(の精神)は何かといえば、“”の一語に尽きます。
ですから、その上の地位・立場ある人がその父を敬えば、(下にいる人々の)子供は悦んでそれにならい従うでしょう。また上にいる人がその兄を敬えば、(下にいる人々の)弟は悦んでこれを見ならい、更に上にいる人が他の人君(指導者)を敬えば、天下の臣は悦んで服し従うでしょう。 ※注)
 このように、上に立つ者が(父・兄・君という)一人を尊敬することによって、千万者多くの人々が影響・感化されて悦び従うようになるのです。敬し尊ばれる者は少なく、悦び従う者は極めて多いわけです。これを要道(正道)といい、世の中を治めていく上でとても大切な考え()なのです。

・ 「敬」=孝の根本“愛と敬”。敬を「ウヤマウ」と読めば 広く他人を尊敬するの意、「ツツシム」と読めば 我が身を慎み守るの意。

・ 「礼者、敬而已矣」 ・・・「而已」は〜だけの限定、「矣」は断定の助字、2つを重ねた強い言い切りの形。

※注) 「一般に、他者が、その人の父を尊敬するとその子は悦ぶ.…」ともとれなくはありませんが、ここでは、上に立つ者・上の地位にある者が率先してお手本を示し教化するという儒学の考え方だと思います。 

 −−−−−

論語    ( 孔子の弟子たち ―― 顔回 〔2〕 )

§. 禅宗の碩学が、人間の4類型として、 

1. 「賢々〔かしこ かしこ〕」 
2. 「賢阿呆〔かしこ あほう〕」 
3. 「阿呆賢」 
4. 「阿呆阿呆」 

ということを言っておられます。(易の四象のようですね)

2.の「賢阿呆」は、本来は非常な賢人・大才にもかかわらず、一見したところ「愚の如く、魯の如し」で阿呆のように見えます。この賢〔さか〕しがらず偉ぶらない人間が、真の賢人・大才です。それが、孔子門下の圧巻〔あっかん〕・顔回と孔子の後継・曽子です。


4)  ―― 心の通じあう師弟

・ 「子、匡〔きょう〕に畏す。顔淵後〔おく〕る。子曰く、吾、女〔なんじ〕を以て死せりと為す。 曰く、子在〔いま〕す。回何ぞ敢えて死せん。」 (先進第11−23)

《大意》
孔先生が、匡の土地で危険な目に遇われて警戒していた時、顔淵は孔子を見失って後れてしまいました。ようやく逢うことができたので、孔先生が喜んで 「わしは、お前が(匡人の手にかかって)死んだかと思ったよ。(よく生きていたなあ)」と、おっしゃいました。そうすると、顔淵は「先生がご無事でいらっしゃるのに、どうしてこの私が、軽々しく(匡人の手にかかって)死んだりいたしましょうか。」と答えました。


5)  ―― 顔回の見た孔子像

・ 「顔淵、キ然として嘆じて曰く、之を仰げば弥〔いよいよ〕高く、之を鑽〔き〕れば弥堅し。之を瞻〔み〕るに前に在り、忽焉〔こつえん〕として後〔しりえ〕に在り。夫子〔ふうし〕、循循然として善く人を誘〔いざな/みちび・く〕う。 ※我を博〔ひろ〕むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷〔や〕めんと欲するも能わず。既に吾が才を竭〔つく〕す。立つ所ありて卓爾〔たくじ〕たるが如し。これに従わんと欲すと雖も、由未〔よしな〕きのみ。」 (子罕第9−11)

《大意》
顔回が、“ああ”といかにも感に堪えないといった様子で言いました。「(孔先生は)仰げば仰ぐほど、いよいよ高くて到底及ぶべくもない、(タガネで金属を)切り込 めば切り込むほど、いよいよ堅くて歯が立たない。前方におられたかと思うと、ふいにまた後方におられる。そうして先生は、(身近におられて)順序よく巧みに人を導かれる。
学問(詩書礼楽の類)をもって、私を博〔ひろ〕め(古今の事理に広く)通じさせてくださり、そしてそれが散漫にならないように礼をもって引き締めてくださる。(そういう修養を)止めようと思っても止めることはできません。すでに私は、自分の才能を出し尽くして、先生について学んでまいりました。でも、やっと追いついたかな、と思うと、もう先生は私の及びもつかない高い所へ立っておいでです。何とかそこまでゆこうと思うのですがどうにもなりません。

※「我以文約我以」=「博文約礼」 ・・・ cf. 伊藤博文


6) ―― 顔回の死

・ 「顔淵死す。子曰く、噫〔ああ〕、天予〔わ〕れを喪〔ほろ〕ぼせり、天予を喪せり。」  (先進第11−9)

《大意》
顔淵が死にました。孔先生が、顔淵の死をひどく傷んでおっしゃるには「ああ、天はわしを喪ぼしたのだ。 天はわしを喪ぼしたのだ。」
※孔子は、顔回を後継としていたのに、死んでしまってもはや道を後世に伝えることができなくなったからです。
人も学問・教えも、後継者(受け継がれるもの)を得て、「永遠」・「不易」が実現するのだと思います。 

cf.”人間は遺伝子の乗り物”


7) ―― 孔子の顔回礼讃

・ 「哀公問う(て曰く)、弟子〔ていし〕、孰〔たれ〕か学を好むと為す。孔子対〔こた〕えて曰く、顔回なる者有り、学を好み、怒〔いか〕りを遷〔うつ〕さず、過ちを弐〔ふた〕たびせず。不幸、短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。」 (擁也第6−3)

《大意》
魯の哀公が、孔子に「お弟子の中で、誰が学問を好みますか。」とお尋ねになりました。 
孔先生が答えておっしゃるには、「顔回というものがおりました。学問を好み、怒りにまかせて他に八つ当たりするようなことはなく、過ちを再び繰り返すことがありませんでした。不幸にも、短い寿命で死んでしまって、今は(弟子の中に)おりません。この者の他には、(天下の人の中で)本当に学問好きという者を聞いたことがありません。」

※ 「学」=いうまでもなく、人間形成の学、人格完成の学、徳を修め学

※ 「短命」 ・・・顔回の死は『孔子家語』では、32歳。異説多く、41歳の説もあります。そうすると孔子71歳、最晩年の悲痛な言葉といえます。


8) ―― 曽子のみた顔回

・ 「曽子曰く、能を以て不能に問い、多きを以て寡〔すく〕なきに問い、有れども無きが若〔ごと〕く、実〔み〕つれども虚〔むな〕しきが若く、犯されても校〔むく〕いず。 昔者〔むかし/さきに〕、吾が友、嘗〔かつ〕て(或いはつねに)斯〔ここ〕に従事せり。」  (泰伯第8−5)

《大意》
曽子が言うには、「自分は才能がありながら ない者にたずね、知識・見聞豊かでいろいろ知っているのに それの乏しい者に問い、有っても無きがごとく、充実していながら空っぽのごとく、人から害を受けても(道に外れた侵害を受けても)仕返しをしない。昔、自分の学友(顔回)に、そういう(上記5つのこと)に努め励んだ者がいました。(でも、もうその人は死んでしまっていないのです。)

 −−−−−

本学    ( 『中庸』 4 )

● 経書・『中庸』 ―― 「中庸章句」 )

1) 孔子の孫・子思、『中庸』を著す

○ 「孔子鯉〔り〕を生む、字〔あざな〕は伯魚 伯魚年五十、孔子先だちて死す。伯魚、処ヤ〔きゅう〕を生む。字は子思、年六十二。曾〔かっ〕て宋に困しんで、子思中庸を作る。」 (『史記』・孔子世家)

・ 子思は、孔子存命中に生まれる。孔子の喪に喪主を務めたという。

   「子思の学は 蓋し曾子に出づ。」 (韓愈)
   「子思之を唱え、孟軻〔もうか〕之に和す。」 (荀子) 
              ・・・『中庸』と『孟子』は、多くの点で共通している。

☆ 【血縁】 孔子 ―― 鯉 ―― 子思 、
   【師弟】 孔子 ―― 曾子 ―― 子思 ―― 孟子


2) 『中庸』を著した理由

○ 「中庸は何の為にして作るや、子思子、道学の其の伝を失わんことを憂えて作るなり。」 (朱子・「中庸章句」序文)

老子一派の攻撃 VS 儒家の対抗

孔子の経典・『論語』・・・言行録、常識的・実践哲学の教学 
              → 形而上学(哲学)説の必要性  cf. 『易経』 

「子曰く、穏〔かく〕れたるを素〔もと〕め怪しきを行うは、後世述ぶるあらん。吾は之を為さず。」 (『中庸』・第11章)

不易」の論 ・・・ 孔子の学=中正平易・永久不変 → “中庸”と命名(中は中正にして過不足がないこと、庸は常の道=「恒」)
「惟〔こ〕れ精、惟れ一〔いつ〕、允〔まこと〕に厥〔そ〕の中を執れ。」〔允執厥中〕 (『書経』) ――「精」= purify 純化する、
「一」= simplify単純化する(いろいろの矛盾や相対・相剋を去って、新たに創造する) cf.「精一」の名


3) 『中庸』の世へのひろまり

・ 『大学』と同じく、『礼記』の一篇 → 宋初の二程子(程明道・伊川の兄弟)が独立の地位を与えて尊重する。 → 南宋の朱子、校訂し官学に採用(進士の試験必須文献とする)、中庸章句 ※日本でも最重要経典 (cf.朱子学文化圏の形成)


4) 本論 (宋朱子章句) ―― 中庸首章

○ 「子程子曰く、不偏(偏らざる)之を中と謂い、不易(易わらざる)之を庸と謂う。中は、天下の正道にして、庸は、天下の定理なり。此の篇、乃〔すなわ〕ち孔門伝授の心法にして、子思其の久しうして差〔たが〕わんことを恐る。故に之を書に筆して、以て孟子に授く。」 ( 序 )

○ 「の命ずる之を性と謂い、性に率〔したが〕う之を道と謂い、道を修むる之を教えと謂う。」 (第1章・冒頭)
・・・ 儒家の道は天に本づくものであって、古の先王らによる人為的作為的なものではない。 天=造化=宇宙根源の働き

○ 「喜怒哀楽の未だ発せざる、之をと謂う。発して皆節に中〔あた〕る、之を和と謂う。中は天下の大本〔たいほん〕なり、和は天下の達道なり、中和を致して天地位し、万物育す。」 (第1章)
・・・ 未発の中とは、“the whole”=全きものの意。

○ 「仲尼曰く、君子は中庸す、小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にしてす(時じく中る)。小人の中庸は、小人にして忌憚〔きたん〕する無きなり、と。」  (第2章)
・・・ 時中=どんな時・所にも応じて適中(その節度にかなって中正である)すること。「発して皆節に中る」に相当する。

 −−−−−

易経    ( by 『易経』事始 Vol. 2 )

§. 易の思想的基盤・背景 (東洋源流思想)  【 ―(3) 】

C. 陰陽相対〔相待〕論(陰陽二元論)
      ・・・ 易学に由来する。易は、陰陽の理法。
         明治期以降、陰陽(五行)説を軽視 ・・→  復権 

 陽とは ・・・ 発動分化、分化発展してゆく力 
                    ex.根→ 幹→ 枝→ 葉→花
          (能動的、攻撃的、昂進的状態に傾いているもの) cf.「わからぬ」

 陰とは ・・・ 統一し含蓄する力、分かれたものを統一し、
          それを根元に含蓄しようとする働き  
                    ex.花 ーー・・・→ 根 → 実   
          (受動的、防衛的、沈静的状態に傾いているもの)

※ 陰陽 =(戦国時代以前は)剛柔 といった・・→ 陰陽五行説となっていった

○ 「剛柔は、本を立つる者なり。変通は、時に趣く者なり。」(繋辞下伝)


● 「陰」の字と「陽」の字

霊気が覆うのが陰、発散しているのが陽

・ “こざとへん” を “阜”〔コウ・岡〕と解し南を明るく陽、北を暗く陰とする。
       ex. ・・・ 山陽道/ 山陰道

・ “こざとへん” を阜〔フ〕とよみ、神霊の昇降する様子。陰陽の初義は神様の前で執行される魂振りの神事

cf. “陽(あかり)”さん〔人名〕、“陽子”、“陽水”

      陰陽文字カット(甲骨文&金文) ―― 略

               と     


● 陰陽の理法ポイント

(1) 二元論(「微妙〜」はない)  (2) 相対(待)論  (3) ベクトル的概念


(1) 二元論 

乾坤天地、“転定(てんち)”、父母、大(陽)と小(陰)、〈大吉・中吉・小吉〉、
方(ほう・四角・陰)と円(えん・丸・陽)  ――“水は方円の器に従う”
イザナギノミコトとイザナミノミコト(『古事記』)、アダムとイブ(『旧訳聖書』)
   ex.― 秦の統一貨幣、日本の和同開珎〔ちん・ほう〕・富本銭、前方後円墳
        コンピューター(= 二進法、1と0、オンとオフ)、
        ライプニッツ  陽・・・1  陰・・・0 
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※補 ―― 中国人は対(つい)で考えます。「絶対」は、優れた対(ペアー)
   ex.? 「四声」・・・ 一声― やや高くのばすマー     mã 〔母〕 
                三声― 低く短いマァ            mâ 〔馬〕   
                二声― 高く急に上がるマァ      má 〔麻〕     
                 四声― 上から急に下がるマァ    mà 〔しかる〕 
 

(2) 相対論

―ex.1 父と母、親と子、息子と娘は、それぞれ《陽と陰》の関係。
      母と息子の関係は《陽と陰》。陰であった母は陽に、陽であった息子は陰に転じています。

―ex.2 梅干番茶(梅酸が胃中でアルカリ性に働く)や乳酸。

―ex.3 夫が陽(性)だと妻は陰(性)に、夫が陰(性)だと妻は陽(性)に働きます。〔“相互転換性”〕


(3) ベクトル =力と方向

―ex.  『古事記』“国産み”・・・右旋(左から回る)―陽(左目)
                    左旋(右から回る)―陰(右目)

※参考 【 陰陽哲学・思想 】

○「天は尊(たっと)く地は卑(いや)しくして、乾坤定まる。卑高以て陳(つら)なりて、貴賤位す・・・ 」 (繋辞上伝)

○「一陽一陰をこれ道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。」
(繋辞上伝) ―― 張載の気一元論と朱子の理気説、孟子の性善説    

○「子日く、乾坤は其れ易の門か。乾は陽物なり。坤は陰物なり。陰陽徳を合わせて剛柔体あり。以て天地の撰を体し、以て神明の徳に通ず。」 (繋辞下伝)    

○「初めに神は天と地を創造された」 (旧約聖書・創世記)


―― 〔生物学〕陰中の陽・陽中の陰、陰から陽へ
    
 
※考察 【 陰陽(中)思想の再考・復権 】

陰陽が乱れた現代・社会・・・母子・父子家庭、家庭サービスだけの父親(=母親が二人いるだけ)、 “敬(父)”と“愛(母)”の必要性

○「故に母には其の愛を取り、君には其の敬を取る。之を兼ぬる者は父なり。」
(孝経・士章第5)


※研究 【 バリアフリー〔障壁除去〕住宅・空間と陰陽 】

―ex.段差をなくす、角を丸める、暗部をなくす、スロープをつける・・・。
    要するに「陰」の部位を「陽」の部位に変えることです。 

 


§. 八卦の象意(おさらい)

● 八卦〔はっか/はっけ〕・八象〔はっしょう〕 (高根流)

 「八卦」・「八」 の言葉
“あたるも八卦、あたらぬも八卦”、“ハッケヨイ!ハッケヨイ!”、“八卦見”=易者、
“八俣〔やまた〕のおろち”・“大八島国”(『古事記』)、“口八丁、手八丁”、“八百万〔やおよろず〕”、“八百屋〔やおや〕” ・・・

1. 乾 【けん/】 (六白金性/星) : 父、全陽、剛健〔ドラゴン〕・虎・駿馬。

2. 兌 【だ/】  (七赤金性/星) : 少女、悦楽、角の長い動物・羊(象形から)
 ・ 流水「坎」の下をふさいでせき止めた象。
 ・ 陰が2陽の上に乗って悦んでいる象(肩車)。
 ・ 兌の字義 ・・・口を開いて顔にシワがある形から。
 ・ 「口」の意、口を開いて男心をそそる意。
                  cf.「天沢履」=“女子裸身の象

3. 離 【り/】  (九紫火性/星) : 中女、明智、蛍・雉・孔雀・かに・・・
 ・ 乾の中爻に1陰の太陽が麗〔つ〕く、南天に沖する太陽とも1陰を太陽の黒点ともとる。
 ・ 中虚(中爻の陰)からビン・鳥の巣、陰を柔として亀・かに・貝など
                  cf.「風沢中孚」=大離で “まこと、タマゴ”

4. 震 【しん/雷】 (三碧木性/星) : 長男、振動小龍・仔馬・音の出るもの(携帯電話・インターネット)・・・。
 ・ 1陽が2陰におさえられ怒気を発する(雷)、発奮の気・春雷、早春の2陰の冷たさを
   払い除こうと躍動する。

5. 巽 【そん/ (四緑木性/星) : 長(大)女、伏入、蛇・豚・蝶・トンボ・・・。
 ・ 乾の天に1陰が伏入(巽〔たつみ〕風)、寒気は陰で重いから下から入ってくる。
 ・ 画象は、座卓・和机・木製ベット・・・。

6. 坎 【かん/】 (一白水性/星) : 中(次)男、陥険・鼠・魚・・・。
 ・ 字は「土を欠く」 。 
 ・ 坤地に1陽の水が流れている。
     cf.算木の画象から → タテ「川」の字、「水」の字? 

7. 艮 【ごん/】 (八白土性/星) : 少年(男)、停止(ストップ)、犬・鹿・昆虫。
 ・ 画象は、大地(坤地)にそびえる山脈の尾根の象。 山、カベ。
 ・ 股を開いた象。
                    cf. 「地山謙」=“男子裸身の象

8. 坤 【こん/】 (二黒土性/星) : 母、全陰、柔順(牝)牛・豹・猫・・・。


                                         

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“空をとぶもの(飛行の機)”に想う

“空をとぶもの(飛行の機)”に想う
――― レオナルド・ダ・ビンチと飛行・翼・ほうき・ドラゴン/じゅうたん/ 
「乾為天」・龍と雲・羽衣/飛行機・ロケット・インターネット etc.―――


「鳥が、大きな鳥が、あのチェチェロ山で初飛行を行う。
それは世界を驚きで満たすだろう。すべての記述がそれで満たされるだろう。
この鳥の生まれた巣に永遠の栄光あれ。」  
(“レオナルド・ダ・ビンチの手記”にもとづく)

○ イタリア・リナシメント〔ルネサンス〕の3大天才、
普遍的人間〔ウォーモウニベルサーレ/万能の天才〕 のレオナルド・ダ・ビンチは、
一生涯飛ぶことを熱望しました。

この文は、レオナルドが自作の飛行機(=大きな鳥)の初飛行前日、
興奮に満ちて手記(日記)に書きとめていたものです。

初飛行の結果は、失敗・墜落。レオナルドの飛行研究は、大きく挫折します。

飛行の理論は、ほぼ完成していたといわれています。
が、いかんせん当時は動力がなく人力にたよらざるを得なかったので限界があったのです。

初飛行の実現は、はるか後のライト兄弟の飛行(1903.12.17)を待つことになります。

早く生まれすぎた“万能の天才”でした。
“原子力”という無限に近い動力を持つ現代に生まれていたら・・・とよく空想したりしたものです。

レオナルドは、以後、翼を固定して風に乗って飛ぶグライダーやヘリコプターを考案したりし続け、
飛ぶことに憧れ続けます。

「レオナルドは、飛ぶことを熱望した。
イカルスを第一の英雄といい、人間が全き知識(愛)を得る時、が生えるのだと考えた。
彼は、マキャベリの『君主論』にいう“半神半獣”の王にを添えているのだ。
人間が空を飛べる現代こそ、形而上学と自然科学との和解・調和が必要だ。
全き愛を得るその時、人類は、生命はむろん人間自身まで創造できるだろう。
きっと何時か。 神のように ・・・ 。」
 ( 高根秀人、高校時代の新聞掲載小論より )


※ レオナルドの手記(“鏡文字”で書かれている)をもとに書かれた文学、
メレジコフスキーの『先駆者〔せんくしゃ〕』は、一読お薦めです。
参考に、その一部を紹介しておきます。

「 『すべてを知る者はすべてを成就し得る。わたしはただ知ればよいのだ。
そうすればができねばならぬ。』 彼はこう考えた。 
――― 『あれ!もしわたしが成就できなくっても他の人ができる。
この精神は滅びることはできない。
そしてすべてを知り、さえかち得た人間は神のごとくなるであろう。』 彼はこう叫んだ。」
 ( 『先駆者』、旺文社文庫、PP.391−394 引用 )


さて、空を“飛び行く機(の手段や方法)”、飛ぶことへの人類の憧れには、
そこに託された文化や思想の章〔あや〕が読み取れて、興味深いものがあります。

そして、現代は空の時代
かつて人類が夢みた“飛行”、東洋思想では“龍(竜)”を技術的に手にいれた現代人は、
ここで文明と文化を考え直さなければなりません。

――― 今回は、西洋と東洋の“飛行の機”について想いをはせてみました。


《 西洋 》   ―― で ☆ 合理的・自力で飛ぶ

■ ヨーロッパ ・・・・・ 翼〔つばさ〕 / ほうき
『ギリシア神話』の世界でイカルス少年は、“ロウ”で出来た翼をつけて太陽に向かって飛びます。
太陽に近づき過ぎて、太陽の熱で翼が熔けて墜〔お〕ちてしまいますが、
空を初めて飛んだ勇気ある人間ということです。

ペガサス”〔天馬〕という、白馬で翼を持っていて天翔〔あまがけ〕る動物が登場します。
翼を持ったライオンのレリーフもどこかで見たかと思います。
ケンタウロスは、人間と馬が合体していますから、長所の合体・合成の思想があるのでしょうか。

いつのころか、起源は定かではないですが、
ドラゴン”〔西洋の竜〕がヨーロッパの空飛ぶ代表的想像上の動物です。
火も吐きますので、まさに「陽」性そのものです。

“翼をください”という、広く知られている名曲がありますが、
ヨーロッパでは空飛ぶ鳥の翼・羽を身につけて飛ぶことが共通しています。

何となくヨーロッパの合理性を表しているような気がします。

イカルス少年は、飛行の道具としての翼を身に着けたのですから、
ここに工夫するという人間の面目があるのでしょうか。

そして、自力で飛んでいます(自力本願)

また、飛行のための乗り物としては、
ギリシア神話に、太陽神アポロン〔The sun God, Appollo〕 の
太陽の2輪馬車”〔The Chariot of the sun〕 が登場します。

それは、“燃え盛る黄金の馬車で、
空を疾走するもの”〔It is a gold, flaming car and races through the sky.〕 です。

太陽・燃え盛る・天翔する・・・まさに(後述の)「陽」の極致の象〔しょう〕です。

次に、なぜか“ほうき”が飛行の具となっています。
映画・小説の“ハリー・ポッター”や宮崎アニメの“魔女の宅急便”などの作品でご存知かと思います。

“ほうき”は、特殊な乗り物だと思います。
魔女(魔男)は魔法のスペシャリストですから、
飛ぶパワーの源・秘密は、“ほうき”自体より魔女の霊力にあるのではないでしょうか?

私は、ふと“易・易筮”の霊妙な力が、筮竹〔ぜいちく〕や算木にあるのではなく
立筮・解釈する人の力量・徳性・人格による、ということを関連して想ったりしました。
 

《 イスラーム文化圏 》 ・・・・・ じゅうたん

 シェヘラザードが語ったとされている、
『アラビアンナイト〔Arabian Nights’ Entertainments 、千(夜)一夜物語 〕』の世界で登場するのが
“空飛ぶ じゅうたん”です。

船乗りシンドバットが、ロック鳥の足につかまって飛ぶのはまず普通の発想として、
“ペルシアじゅうたん”が飛ぶところがとてもエキゾチック〔異国情緒〕です。

アラビア・イスラーム地域の古名であるペルシア(アケメネス朝ペルシア)の名を冠して
(我国で)知られているものといえば、“じゅうたん”と“ネコ”くらいでしょう。

じゅうたんは、日常のインテリアでもあり、美術工芸品でもあります。
フラット〔平ら〕で、数人は座れ、乗り心地はバツグンでしょう。
しかも、収納は(丸めて)コンパクト ・・・。

宗教・文化の違いからか、私には“飛ぶもの”との発想が異質で、不可思議・マジカルな気がします。

中世イスラーム文化の優秀さは、あまり知られていませんでした。
が、イスラーム文化は、この文学のみならず、
化学・医学・哲学・数学・天文暦学・占星術などの偉大な発展がありました。

とりわけ、錬金術の研究により“ば化学〔chemistry〕”が発達しました。

今でも、“アルカリ〔alkali〕”・“アルコール〔alcohol〕”などの専用語が
アラビア語に由来することは、よく知られています。 
――― 当時のヨーロッパとは、まったく異なる発想で飛行が考えられ想い描かれても不思議はないのかも知れません。


《 東 洋 》   に乗って ☆ 右脳(ロマン)的、(雲に乗って)他力で飛ぶ

■ 中 国 ・・・・・ 龍(竜)・雲

「大いなる乾元、万物資〔と〕りて始む。すなわ〔及〕ち天を統〔す〕ぶ。
|雲行き雨施し、品物〔ひんぶつ〕形を流〔し〕く。」 (乾為天・彖伝)

《大意》
( 乾天の気である元の根源的なパワーは、何と偉大であることよ! 
天地〔宇宙〕間に存する万物は、みなこの元の気をもとにして始められているのです。
すなわち、天道の全てを統率、治めているのが乾元〔=乾徳〕なのです。(以上 元の解釈
| 乾のはたらきにより、水気は上って天の気の“雲”となって運行し、
雨を施して地上の万物を潤し、万物・万生物(品物)が形を成し現われて活動を始めるのです。
(以上 亨の解釈) )

東洋最古の“奇書”、儒学五経の筆頭である『易経』の冒頭、「乾為天」の彖伝〔たんでん〕です。
孔子が書いたともいわれる名文です。

この「乾」を、イメージ、シンボライズして創った動物が“龍”です。
東洋思想の源、陰陽(相対)思想での「陽」の極致です。
龍については、改めてお話したいと思いますので、今回は飛行の視点で少々。

本来、龍は具体的には、蛇が出世したものです。
蛇は(農耕社会において)、“水”の化身です。
従って、蛇=水は「陰」性のものです。

登龍門」という言葉をご存知ですか?
魚(陰性)が、瀧〔たき〕を登ってこの登龍門をくぐると龍に大変身・出世するというものです。

これを易学的に(6が陰の代表数、9が陽の代表数なので)、
“六六〔ろくろく〕転じて九九〔くく〕となる”と申します! それはさておき。

この龍は、“三棲〔さんせい〕”します。
地上に棲〔す〕み、水中に棲み、空中を飛びます。

「乾」の象〔しょう〕意が、動 ―― 飛ぶものなのです。
陸上・水中は良いとして、この“飛龍”は、どのようにして(手段・方法)飛ぶのでしょうか?

龍が翼なくして飛ぶのは、雲に乗っているからでしょう。
中国で“雲”は、飛ばすものなのでしょう。

「同声相応じ、同気相求む。 水は湿〔うるお〕えるに流れ、火は燥〔かわ〕けるに就〔つ〕く。
雲は龍に従い、風は虎に従う。」 (文言伝)

本来、水のものである龍には、同じく水である雲が従い、
威を奪う虎には風が従うという意味です。

ここには、五行〔ごぎょう〕思想の考え方がうかがわれます。
龍と雲は、同じく五行の「水〔すい〕」で「比和〔ひわ〕」の関係です。

加えて、中国仏教関連思想でも“雲”で飛びます。
おなじみの『西遊記』の孫悟空〔そん ごくう〕(斉天大聖〔せいてんたいせい〕)が、
空を飛べるのは、“觔斗雲〔きんと うん〕”に乗ってのことです。
言ってみれば、自家用飛行機ですね。

ちなみに、観音菩薩が放した“龍”(もと龍宮の王子)を変身させて“白馬”にし、
三蔵法師(=玄奘/げんじょう、実在の名僧です)の乗り物とします。
中国流にいえば“千里の馬”です。

龍も馬も「陽」物、易の「乾」の代表的象意です。また、白(色)も陽の色です。

話を戻しまして、このように、龍は雲によってその本来の面目姿・天翔ける“飛龍”となることができるわけです。
この寓意を、人間界にあてはめて考察して見たいと思います。

龍は、“人龍”。大人英傑・指導者(リーダー/エリート)です。
その人龍を飛ばせる、すなわち、創り育て押し上げるのは民衆です。

民衆は雲です。陰陽論的にいえば、民衆の支持・共鳴が、
本来陰性の龍を陽に転化させ(アウフヘーベン/止揚・中す)、
化成させる=飛ばせるのです

ここに陰陽の統一(合)が、実現します。

現代我国の間接民主制での為政者=政治家をみても、
後援者・支持者によって“選挙”で当選し、さらに大臣・宰相へと飛翔していくわけです。

雲が選挙・選挙民です。
そのこと自体は、良いとしましても、今の日本は、この雲の具合が問題のようです。

今時の政治家(小泉チルドレンや民主党新人、タレント議員・首長などの多く?)は、
龍自体は、たとえ土の龍(土龍=モグラ)であっても、
雲=“風(巽/そん)”によって当選することができます。
(だからといっても、陰の者が 陽のもの、飛龍に転化・化成できるでしょうか疑問です)。

一方、いかに優れた人龍でも、ジバン・カンバン・カバンなく雲に乗れなければ空しく空を眺めるばかりです。

このような状態が蔓延〔まんえん〕した大衆民主政治を、“衆愚政治”といいます。

古代ギリシアの民主政治は、こうして滅んで行きました。

私には、日本の現状には、古代ギリシア、古代ローマの末期の退廃・自堕落に
非常に良く似たところがある
ように感じられます。

優れたリーダーを持てぬ国民ほど憐れなものはない、ということがわかっているのでしょうか。
今の日本は、優れたリーダーが不在です。
人龍とその龍を飛ばせる雲、の両方が問題ではないでしょうか。

―― 田舎育ちの私は、青年のころ初めて一人で飛行機に乗りました。
その時、飛行機で空を翔け、眼下に輝く雲を見た時の感動は生涯忘れられないものです。
まさに、“飛龍”を感じました。
その感動を再びしながら、以上の“龍と雲”のことを考え想いました。


■ 日 本 ・・・・・ 雲・羽衣

日本の思想文化は、中国から朝鮮を経て入ってきています。
飛ぶことにおいても、“龍”・“雲”が入ってきたと考えられます。

日本の歴史・神話である『古事記』・『日本書紀』に登場する神々も雲で移動すると考えられます。
神々の住まう高天原〔たかまのはら〕は、天上・雲上に浮んであるのでしょう。

あらゆる生命万物・徳の源である“太陽”についても、
『ギリシア神話』の太陽神アポロンは 当時の最速の乗り物=2輪馬車に乗って“おつとめ”を果たしたわけですが、
日本の太陽神(女神)の天照大御神〔アマテラスオオミカミ〕は雲で移動したのでしょう。

アマテラスの孫、ニニギの尊〔命/みこと〕の“天孫降臨”も雲で日向国・高千穂に天降ったのでしょう。
『竹取物語』のかぐや姫も、月の国への旅の乗り物は雲で行ったのでしょうね。

龍についても、ツメが3本に減ったくらい(本来中国では5本、朝鮮では4本)で、基本的に同じです。

これら “龍”・“雲”の思想的源は、中国の『易経』だと私は思っています。

それでも、より日本的に思える飛行の機が、“羽衣”〔はごろも〕です。
天女が身に着けている、長い布状の飛行衣です。

ルーツは中国だと思いますが、羽衣伝説、昔話は、多々広く語られ今に伝わっています。

個人的衣類、女性(陰)の優雅(※古語の“なまめかし”=優雅・優美)なところが、
日本人の感性によくあっているような気がしています。

日本仏教の思想も、悟空の“キント雲”と同じく“雲”で飛ぶようです。
仏徳のある人がお亡くなりになる時には、阿弥陀如来がじきじきに極楽浄土へのお迎えに、
紫(がかった)雲でやって来ると考えているようです。

例えば、栄華を極めた藤原道長(1016.摂政となる)は、
晩年出家し自分の屋敷のそばに寺を建立し8年ほど暮らし、
阿弥陀仏の手から引いた五色の糸をしっかりと握り、
念仏を唱〔とな〕えながらその62歳の生涯を終えた、と伝わっています。


◎ 結びに・現代の世界 ・・・・・ 飛行機・ロケット(ミサイル)=八卦「乾〔けん〕」の象
                     / インターネット=八卦「震〔しん〕」の象
 
易八卦「離」の象は、文化・文明です。

私が思い想いますに、文化・文明の源は、「火」と「石のカケラ」です。
サルのような我々の先祖の一匹が、勇気を出して、火を使い石のカケラを道具に使ったところから文明が始まります。

そして、心を耕して〔カルティベイト〕文化となります。

文明=火と道具 の発達は、残念ながら火器・武器としての破壊・殺戮の歴史でもあります。
ダビデ少年の“石つぶて”は → 弓矢となり、 
→ 鉄砲となり → 大砲となり、 ・・→ 核爆弾となりました。

飛行機は、ロケット・宇宙船に発展して宇宙をも飛び回りつつあります。
が、同時にミサイルとして大量殺戮兵器にもなっています。

そして、まことに残念ながら、
いつも常に、進んだ強い“武器”を持った者・国が勝ち生き残り、
支配してきたのは、世界史の歴然たる事実
です。

21世紀初頭極東の状勢は、北朝鮮でも核兵器を開発し、(日本やアメリカへの)ミサイルが、攻撃発射体勢にあります。

そのミサイルを迎撃ミサイルで打ち落とそう、という器用なことを論議したりしています。
その迎撃ミサイルを妨害したり打ち落とすミサイル ・・・・などと考えると
何がなんだか“わからぬ”(易学の言葉)話です。 “狂龍”だらけです。

先述のように八卦「乾」の象、陽の極致の象が「龍〔Dragon〕」です。
「飛龍、天に在り。」(乾・5爻)といった乾徳も、
「亢龍〔こうりゅう〕、悔有り。」(乾・上爻)になっています。

省みることなく猛進し、高きに昇り過ぎて神通力を失った龍。
進退窮まった龍。
私には、“愚龍”に思えます。

科学技術は両刃の剣です。

現在は、専ら文明(技術・モノ)ばかりで、文化(精神・心を耕すもの)の面が欠けています。

「陽」が過ぎて“わからなく”なっている現代。
「乾」の怖さ、“からまわり”です。
文明と文化を再考し、陽陰相携えてバランス(中庸の徳)を実現しなければならない時です。
 

――― 21世紀の現代は、まさに“空の時代”。

中国では、「空」のことを「天」といいます。 「乾」の象意は、天・飛翔です。

先端文明の中にあって、飛ぶものは、目に見えるロケットなどばかりではありません。
目に見えない龍も跋扈〔ばっこ〕してまいりました。

高度情報化社会が進展し、IT.〔Information Technology/情報技術〕革命を経て、
世界中のコンピューターがネットワークで結ばれるようになって来ました。

携帯電話をはじめ身のまわりのあらゆるものがコンピューターに組み込まれる
ユビキタス〔いたるところにあるの意(ラ)〕社会”が構築されつつあります。

「乾」の象意を人事にとれば、“父”。 その長男が「震」です。
息子の“小龍ですね。

お父さんのコピーでもあり、よく似ています。
目に見えない「震」=電磁波・インターネットという小龍です。

オゾン層が破壊され、温暖化が進み、酸性雨が降り・・・・ 退廃劣化した天地の間。

飛行機ばかりでなく、ミサイルやら物騒なもの“乾龍”が飛び交い、
目に見えぬインターネットやら“震龍”が千々〔ちじ〕の麻糸のように
駁雑〔ごたまぜ〕に行き交うようになってまいりました。
        
                                高根 秀人年


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