儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2009年11月

安岡正篤著・『易と人生哲学』 

安岡正篤著・『易と人生哲学』 (致知出版社)
 ――― 「縁尋機妙」/易の三義・六義/命・数/易は陰陽・中の学/五行思想/
運命・宿命・立命/真易と俗易/「易に通ずるものは占わず」 etc. ―――
 
《 はじめに ・・・ 「縁尋機妙」な出合い 》

縁尋機妙」※注) という至言があります。本との出合いも、また「機妙」です。
それは、間接的に(古の)大人・賢人・碩学との出合いでもあるからです。

「機妙」は、人にせよ本にせよ、それあること、それを感ずることがある事自体、
けだし人生の幸といって良いのではないでしょうか。

私のこの本の内表紙裏に、次のように自書してあります。
“易学を修め、斯道をもって世に尽くさんと志している自分にとって、
この本との出合いは意義深いものであった。
「五十にして天命を知る」で、まさに天の啓示のごとくであった。 ―― 平成十五年 夏しるす ”

私の“50歳”の年。
ちょうど「人生50年」の節目であり、敬愛する父が早世した齢でもありました。
何より、自分のこれからの人生に深思し、惑い憂慮していた時期でした。

易学については、当時で既に20年ほど独学自修いたしておりました。
偶々〔たまたま〕、易学関連の書籍目録の中に、(当時は)この一冊だけ安岡正篤氏の本がありました。

何とはなしに、不思議と「易」を冠するタイトル名に魅かれて手に入れました。
これが、私の“安岡本”との出合い、そして儒学・東洋思想との深刻な発火となりました。

※注) 「縁尋機妙」:良い縁が更に良い縁を尋ねて発展していくことは、
何とも人智を超えて神妙なものがある ということ。
聞説〔きくならく〕、安岡先生はよく「縁」というものを大切に、と言われていたそうです。

そして、何とはなしに読み進むうちに、 
「キョ伯玉 行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す。」 
(『淮南子〔えなんじ〕』) についての箇所がありました。

実をいうと、“独学の盲点”でもあるかのように、この文言はその時初めて知りました。

私は、50の歳に奇〔く〕しくも、この言葉・この本に出合ったわけです。
今にして思えば、この出合いは、私の後年の人生を方向・決定づけました。
まさに、天の恵み・導き・啓示(さし示し)です。

この貴重・機妙な出合いにより、徒労とも思い込みそうであった
自分の“人生(半生)のリセット”・“洗心(心のクリーニング)”を果たしました。

カッコよくいえば、己〔おの〕が人生を「中した」(アウフヘーベン/止揚・揚棄)のだと考えています。

「五十」(歳)は、孔子の「知命」、キョ伯玉の「知非」でありました。※注) 
また、孔子は、
○「五十もって易を学べば、またもって大過なかるべし。」(P.26引用) / (『論語』・述而第7)
と述べています。

私にとりましては、人生の「節」〔水沢節の卦/節目・契機〕となりました。
そして、易学=儒学=東洋源流思想の修養と啓蒙普及をライフワークとしようと思い想うにいたるのです。

そうして、60にして60「化成」すべく (その間の時間的短さは密度・内容で補って)奮励し、
人生の“つじつま”(バランスシート)を合わせたいと考え願っています。

※ 注) 人生50年(寿命)の時代から、平均年齢50歳の時代となってまいりました。
実際には、孔子やキョ伯玉の時代の50歳は、現代の70〜80歳(後期高齢者?)
にも相当するであろうことは心しておかねばなりません。


《 安岡正篤氏の易に関する本 》

 安岡正篤氏(M.31〔1898〕−S.58〔1983〕)は、陽明学の権威・
歴代総理の指南役・終戦の詔勅を書かれた・「平成」の元号命名に与〔あずか〕られた、
等々で世に知られます。

しかし、私は、その思想の学際性・深さ、その懐〔ふところ〕の広さから、
昭和を代表する東洋思想の泰斗〔たいと〕(研究と人間の育成に従事)と、
漠〔ばく〕たる表現で紹介するほうが当を得ているように思っています。

安岡先生の、非常に多くの著作・講録全体からすれば、直接易に関する印刷物は限られます。

現在(‘09)までのところ、以下のものが主だったものかと思います。
 → →
1) 『易学入門』 (明徳出版社) S.35(‘60).11.10    
2) 『易学のしおり』 (関西師友協会) H.6(‘96).6.20
3) 『易と人生哲学』 (致知出版社) S.63(‘88).9.30
4) 『易とは何か ―― 易と健康・上 ―― 』 
     (株式会社 ディー・シー・エス出版局) H.13(‘01).1.20
5) 『養心養生を楽しむ ―― 易と健康・下 ―― 』 
     (株式会社 ディー・シー・エス出版局) H.13(‘01).3.20                      
6) 『易経講座』 (致知出版社) H.20(‘08).4.29


1)『易学入門』は、安岡先生が、手ずから執筆されたものです。
“入門”のタイトルとは、うらはらに、格調高く専門性が強いものです。
まったくの初学者からは、難解とも言われているようです。
(講義テープを聴くと)ご自身も、「入門といってもいろいろだ。一の鳥居もあれば二の鳥居もあってだね・・・」 などと笑いながら応えられていたようです。※注1) 
易を本格的に学ぶには、座右の書として手元に置いておきたい名著です。

※注1) 余事ながら、先だって生徒を引率して、奈良・春日大社・東大寺(共に世界遺産登録)に行ってまいりました。 檜・原板16枚を張り立って円柱としている「一の鳥居」(1063、平安)から大社前の「二の鳥居」をくぐってゆきながら、ちょうどこの言葉が思い出されました。
安岡先生は“鳥居を持ち出して、うまいこと表現したものだナ”と私〔ひそか〕に想ったところです。

※注2) 本書については、私 高根が関西師友協会・「篤教講座」(H.20.6.15)で研究発表いたしました。

2)『易学のしおり』 は、安岡先生の易経講義(第1回、S.33.3〜)の謄写印刷(ガリ版)講録をワープロ編集したものです。安岡先生60歳の頃の講義です
『易学入門』が著わされる直前(2年前)の講義資料で、改めて読み返すにつけても、時代を超えて貴重な講録冊子だと思います。
冒頭の項目を少し紹介しておくと。

「第1講・1序論: 
イ.易学の独習は困難である  
ロ.西洋に於て盛んに研究されている  
ハ.易は東洋に於ける教学の源泉である  
ニ.易を学ぶについての心構え  
ホ.天とはマクロコスミィックの世界からミクロコスミィックの世界に及ぶ無限のものである ・・・ etc.」

3)『易と人生哲学』以下は、講録本です。
安岡先生が、初心者・一般者を対象に講義・講演されたものを、後年(没後)、関係諸氏のご尽力で本に整えられて世に出されたものです。
語り口調で、内容も簡にして明、非常にわかり易いものです。
概して、思想・哲学(形而上学)といったものは、その道を極めた碩学・大家が語ると、非常にシンプルで解り易いものです。
「易の三義」の「易簡〔いかん=簡易:真理はシンプルなものであること〕」 です。
その実、大した内容でもないのに、やたら難解な語句を弄〔もてあそ〕び、結局何をいっているのかわからない、ということは世の中にままあります。
これらの本(講義)は、私の知る限り、最も易簡な易の手ほどき本です。
3)『易と人生哲学』は、S.63に第1刷発行され、私が入手した時(H.15)には既に16刷を重ねています。
近畿日本鉄道株式会社の懇請により、S.41以来14年間にわたり同社幹部社員に講義されたもののうち、「易と人生哲学」のテーマでS.52.5〜S.54.1までの間に講じられた10講です。

※注2) 本書については、私の門下生:嬉納禄子〔きなさちこ〕女史が真儒協会定例講習(H.19.12.23)で研究発表いたしました。 《レジュメ後述》

4)『易とは何か ―― 易と健康・上 ―― 』 は、安岡先生が毎夏臨講された日光の田母沢〔たもざわ〕会館での「政経・易学」(S.50.8)と
S.52.9〜54.7の間の全国師友協会の照心講座「易経活学」をベースとして、「易の哲学」(S.41.5〜9)・「不如会〔ふじょかい〕」 易経(S.50.10〜11,51.3〜6)の講話の中から適宜抄出してまとめられたものです。
( 同書 P.278参照 )

 ※注) 本書については、私 高根が関西師友協会・「篤教講座」(H.17.4.17)で研究発表(64卦要約題句の概観)いたしました。

5)『養心養生を楽しむ ―― 易と健康・下 ―― 』 は、日光の田母沢会館における 4回の連続講座の筆録です。
4日間にわたり「心を養う」・「徳を養う」・「身を養う」・「生を養う」のテーマについて詳説されたものです。
<付>として、「貝原益軒の養生訓」講議が加えられています。

 ※注) 本書については、嬉納禄子 女史が関西師友協会・「篤教講座」(H.18.10.15)で研究発表、真儒協会定例講習(H.19.8.26)ほかでも発表・講演いたしました。

6)『易経講座』 は、伊與田覺先生がまとめられた、前掲 易経講義・「易学のしおり」が、知致出版社各位のご尽力により装いも新たに刊行されたものです。

ご子息正泰氏のまえがき、伊與田先生の手による脚注や「懐想五十年」の寄稿、発行人 藤尾秀昭氏のあとがきも加わり、名文文飾、立派に甦って世に出たばかりです。

 

《 『易と人生哲学』 の魅力 》
 
さて、この本は、不思議な本です。不思議な魅力を持っています。
煌〔きら〕めく宝石が、びっしりと詰め込まれている宝石箱を芒たる光の中でで覗くような感じです。

初学一般者対象の講録の本書は、平易な言葉で簡にして明に表現され、活字も大きく分量も多くありません。にも拘らず、何度も何度も繰り返し読んでも、また歳月を経て読み返しても、そのたびに新鮮に感じられます。

今、私自身、一通りは易を修得したかナ と思って(一応)専門家の立場で、
(この執筆のため)読み返すにつけても、新たな意味あいや感動があります。

表紙は、変わらぬ馴染んだものなのに、中身の文言は熟成されたワインのように芳香を発しています。
深長重厚な魅力を感じ、改めて驚いています。

このような感じの本で連想するのは、『論語』です
『論語』も、繰り返し読むにつけても、古くて新鮮な魅力が甦ります

「言霊〔ことだま〕」ということばがありますが、一言に要せば、“神〔しん〕なる魂が入っている”、
“赤心〔せきしん〕なる血が通っている”
という感があります。

―― 運命観(運命・宿命・立命)/陰陽相対(待)の理法/命・数・中/五行思想/
易の三義・六義/仁・愛・(慈)悲/干支の真義/易理と64卦それぞれの契機〔モメント〕/
真易と俗易/八観・六験・学問修養の九段階 ・・・・まさに言霊の宝庫です。

そして、その不思議な魅力は、著者 安岡正篤先生の人間的魅力の投影ということでもありましょう。

「無名で有力であれ」とおっしゃられていた安岡先生の人柄が偲ばれます。

加えますに、私なりに少々この不思議な魅力の理由を考えてみました。

1) 内容の重厚・豊饒〔ほうじょう〕さ : 安岡先生の“学際性”が加味されながら、易・東洋源流思想の本〔もと〕・要〔かなめ〕が豊富に咀嚼〔そしゃく〕整理されて、易簡(簡明シンプル)に盛り込まれている点。

2) (著者の)講師・教師としての優秀さ : 一般的でない難解な形而上学の概念をわかり易〔やす〕く噛み砕いて、“翻訳・意訳”するように易〔やさ〕しく、親が子に教え諭すように講じられている点。

3) 易学・易思想の至れるもの : 私のいう“易の二重性〔二属性〕”(辞〔じ:文言〕と象〔しょう/かたち:表象・象意〕、易本文と十翼〔じゅうよく〕、右脳思考と左脳思考)が、悟られた境地で円通自在に描かれている点。そうして、東洋2000年〜3000年来の英知が現代の光をあてられて活学されている点。

などです。

これらは、易の深奥に到達した人、(宗教的にいえば)悟りの境地にある人ならではのもの。
余人(他の本)のなかなか及ばぬ処といえましょう。


《 真易・俗易 / 「易に通ずるものは占わず」 》

儒学・儒者に真儒」と「俗儒」の語があります。※注) 
安岡先生は、易にも真易」と「俗易」があることを明示されています。

この両者を明確に峻別して提言している点が、本書の優れた内容的特徴になっていると思われます。
「俗易」とは、“アテもの”として“大衆化”した通俗的な易(占)を指しています。

※注)中江藤樹の文献にみられた言葉です。私の“真儒協会”命名の1つの契機〔モメント〕にもなっています。

畢竟〔ひっきょう〕するに、「真易」は、一言 、「易に通ずるものは占わず」 と言えます。 

「占う必要がないという見識になって初めて易学をやったといえるのであります。
これは易学をやる者の忘れてはならないひとつの根本問題です。
易学をやるということは、占を学ぶのではなく、占う必要のない知恵を得る、
思索、決断力を養うということであります。」 (P.209引用)

「易に通ずるものは占わず」は、本来 荀子〔じゅんし〕の言葉です。
その深意を現代の光に照らしてまとめると、 
第1 に俗易(アテもの)ではない、真易であること。 
第2 にいつまでも占っているようでは進歩がないではないかということ
ここに易学の、学の学たるゆえんがあるのだ、と安岡先生は強調されているのだと思います。 

私があえて 第3 に加えれば、易に通じてもいないのに占わない(占えない)のもまた困りものです。

私の言葉で真易・深意をまとめてみますと。―― 易学は、俗易“アテもの”占に堕し、
迷妄にして、人間思想・人生哲学を失ったものでは困ります。
また、いつまでも(易)占に頼り続けたのでは進歩がありません。

逆に、易占の象〔しょう〕・変化の要素がなければ、易学は“易”のないただの“学”にすぎません。

易(占/筮〔ぜ〕)と(人間)学とが、中庸・中和し、
その二重性・融合の中に易学(『易経』)の“奇(跡の)書”たるゆえんがあるのだと、私は思っております


《 結びにかえて ―― 易なかりせば・・・ 》

易学思想は東洋の英知、五経の筆頭『易経』は東洋の“奇(跡の)書”。
東洋のバイブル『論語』と共に儒学遺産の双璧と、私は思っております。

今時の日本人は、己が持っている貴重なものに気が付かないで、
むしろ他所〔よそ〕=外国で正当に評価され尊ばれています。
情けなきことではあります。

「昔から、東洋哲学をやる人が結局どこへいくかと申しますとほとんど易経に到達いたします。
従って易経に首を突っ込むと一生ものだというぐらい学問の中では面白い、
面白いといっては語弊がありますが、小にしてはわれわれの人生から、
大にしては国家、人類の運命まで考えることができるたいへんな学問であります。」 (P.81引用)

易を修めると“窮する(行き詰まる)”ということがありません。
“易に通ずる者は占わずして窮せず”(高根)です。

私が思いますに、『易経』の辞(言葉・文)は、苦しい(大凶)時もあきらめずに頑張って途を開け、
と励ましとその方途を示してくれます。

また、良い(大吉)時も調子に乗らず自らを慎んで、
大人〔たいじん:立派な人〕に相談して事を運べと戒めています。

陰極まれば陽、陽極まれば陰の循環変化・立命の理を説いてくれます。

安岡先生は、「易を学ばなければ、自分自身どうなっていたか分からないことを折にふれて感ずることがある。」 と述懐しておられたそうです。

私も、立場や程度の差こそあれ、同じ感をもっております。
その易と後半生への確かな“元〔もとはじまり〕”となった契機がこの本との出合いです。

大いなる変化・変転は、かくさりげなく訪れるものかな、と追憶〔おも〕っているところです。

そして、私も精進・修養を重ね、「化成」して、易・人生をかく語り、講じ、著わしたいものと思っているところです。
 

《 『易と人生哲学』を読んで 》

この本の、具体的内容概観・紹介につきましては、
第6回 真儒協会定例講習 (H.19.12.23 )での、私の門下生:嬉納禄子〔きなさちこ〕女史の研究発表があります。
そのレジュメを転載併記しておきますので、ご参考ください。

――――    ――――――-    ―――--

【 『易と人生哲学』を読んで ――― 嬉納禄子 】

東洋思想家としてご高名な安岡正篤先生が、昭和52年5月から昭和54年1月までの間に、
近畿日本鉄道株式会社の幹部社員に対して 講演されたものです。

晩年の安岡先生が、一般の方、易を始めて学ぶ人のために、
わかりやすく 易と人生哲学の本質を見事に講じられています。

『淮南子〔えなんじ〕』という書物に、「キョ伯玉、行年五十にして、四十九の非を知る。」と書いています。

この本は、春秋戦国時代から漢代にかけての話をまとめた百科全書のような本です。
この中に登場する、キョ伯玉〔きょはくぎょく〕という人は 孔子がたいへん尊敬していた衛〔えい〕の国の賢大夫です。

その名言が これです。
その意味は、今までの四十九年の人生が間違っていたと認識して、
五十歳で人生を“リセット”したということです。なかなか出来ないことです。

そして、「六十にして、六十化す。」と続きます。
つまり、今までの人生が全部駄目だったと認めたうえで、
そこから 自己改造して進歩向上させていくことが出来るものなのです。

そのためには、「易」の根本義を正しく理解していなければならないのです。
「易」とは、「立命」の学問です。 
「五十もって易を学べば、またもって大過なかるべし」 と『論語』にあります。

しかし、これは孔子の時代の年齢ですので、現代の平均寿命 八十歳を超えていることを基準にすれば、七十歳〜八十歳に相当する年齢になると思います。

中年以降、それまでの人生経験を活かして、本当の意味での勉強が出来ます。
それで、ますます勉強をするようになります。

そのようにして始めて、大した過ちのない人生が送れるのではないでしょうか。
これは、たいへん味わい深い言葉だと思います。

易学とは、運命に関する宿命観(変えられない・あきらめ)を打破して、
常に 新たに立命(自分で主体的に自分の運命を創造していく)してゆくことです。

「しかし本来は、あくまでも立命 ―― 自分で自分の運命を創造していくということが本筋なので、
真の易学は、宿命の学問ではなく立命の学問であります。」

次に、“易の三義”である 「変易」・「不易」・「簡易」 について述べられています。

変易とは、変化・変わるもの。
不易とは、変わらないもの ―― 例えば人間のあるべき姿、仁・義の徳です。 
簡易〔かんえき〕とは、シンプルということ 
―― 例えば 郵便局の「簡易〔かんい〕」保険は、医師の診断なしで 自己申告で簡単に入れます。

さて、『易経』は、「乾為天」から「火水未済」まで 64の卦で構成されています。

第一番目の卦である「乾為天」には、大象〔たいしょう〕伝に 「天行健なり、君子自強息〔や〕まず」 と書いてあります。

これは、天のあるべき姿は剛健で、君子 = 立派な人は 自ら努力して休むことがないという意味です。

最後 64番目の「火水未済」は、
 「既済と全く反対であります。無終でありますから、これで無限に循環するわけであります。」 

このように、易経 64卦の各卦について、簡明にわかりやすくポイントを概説しておられます。

そして、安岡先生は、本来の学問としての「易学」と 通俗的な意味での「占易」とを、
明確に区別されています。

「易といえば占うものだと考えておるのは、それはまだ易学を知っておらぬからでありまして、
本当に易学を知れば、占うということはいらなくなります。
自分で判断して自分で決定ができます。
そういう意味で申しますと、易学というものは占う必要のなくなる学問であるということになります。
本当の学問と通俗のいわゆる常識というものとは非常に違うものであります。」

このことは、命学・卜学〔ぼくがく〕・相学・心理鑑定と「易学」の全般を秩序立てて学んでいる私にとって非常に感銘を受けました。
目からウロコが落ちた感じです。

結局これは、「易に通ずるものは占わず」 という言葉に要約されます。
私も 易学鑑定のイベントや街占〔がいせん〕の体験がありますので、なおさら重く受け止めているところです。

易学は、「」と「」と「」の学問です。
中論」とは、陰と陽の異質なものを 統合(止揚・中す 〔アウフヘーベン〕)して新しいものを生み出すことです。

例えば、会社(陰・正)と労働組合(陽・反)は、相対立する立場です。
両者が正しく交渉・「折衷〔せっちゅう〕」して、統一・統合をはかれば(止揚・中す)、
つまり 不況の中でもその会社や社員の進歩・発展(合)が実現するのです。

易の学問を修めてゆけば、窮することなく、占う必要もなくなるのです。 
―― これが、安岡先生のお立場です。

最後に、安岡先生が 次のように述べられていることについて申し上げます。
「 易は永遠の真理であり人間の最も貴重な実践哲学といってもよろしい。
ところが大変難しい。手ほどきが大事であります。
その手ほどきも、変な手ほどきをされると浮かばれない。正しい手ほどきがいる。」

私自身のことを 振り返ってみますと。
“たかね易学鑑定研究所”で、四柱推命・気学・各種相学を一通り学び、
いよいよ易学(易経)の学習を始めたころ、
師匠であります高根秀人年先生(現・真儒協会会長)からこの本を読むように薦められ、
感銘をもって読みました。

私は、高根先生から 易学の良い「手ほどき」を受けました。
また、この本を始めとする著書を通して、間接的に安岡先生の「手ほどき」を受けることが出来たと思っています。

良い先生、良い本に恵まれて、最初難解・不安であった「易経」も 今ではおもしろみを感じるまでになりました。
―― 私の易学との出合い・入門は、非常にラッキーでした。

『易と人生哲学』は、このように思い出深い愛読書です。
今に至るまで数年間、何度も何度も くり返し読んでいます。
まるで『論語』のように読むたびに、新たに考えさせられることが多くあります。

易の本質である中論は、自らの変化発展の理論です。
私は、運のなさや 能力のなさのせいにしてあきらめることなく、
自強不息〔じきょうふそく〕」 でしっかりと 「立命」してゆきたいと 改めて思っております。
 
                                            以 上 


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第二十四回 定例講習 (2009年10月25日) 後編


前の記事(前編)の続きです。


易経   ( by 『易経』事始 Vol.2 ) & ( by 「十翼」 )

§.易の思想的基盤・背景 (東洋源流思想)  【 ―(5) 】

C. 陰陽相対〔相待〕論(陰陽二元論)・・・続き

● 食品

  • 魚一般〔   〕と トビ魚(   ) *相対論的思考
  • 鮭(   )、蟹(   )、鮟鱇〔アンコウ〕(   ) 伏陽・伏陰の思考
  • バナナ〔   〕、パパイヤ〔   〕、パイナップル〔   〕

    cf.消化酵素 ―― ダイコン(土大根、つちおおね):アミラーゼ、プチアリン(デンプン分解酵素) /パイナップル:パパイン(タンパク質分解酵素)

  • 春の茄子〔なす〕(   )と 秋の茄子〔   〕

    cf.「秋茄子は嫁に食わすな」

  • 日本酒(   )、ワイン〔   〕、ウメボシ〔   〕

    cf.「うめぼし弁当・茶ずけ」=中和

  • ごはん(米・コメ)(   )と パン(   ) 

    cf.「パンを食べると ・・・ 」・「コメウを食べると・・・ 」=パンもコメも同じデンプン

  • 鍋料理(   )と サシミ・すし〔   〕 *寒暖・温度感による思考

 

● その他

  • 奇数(   )と 偶数〔   〕、

    ex. 九( )と六〔 〕 :(整数・生数・成数)

  • 天照大御神〔あまてらすおおみかみ=太陽神女神・伊勢神宮〕(    )と 月読命〔つくよみのみこと〕〔   〕
  • “おみくじ”の大吉(   )―― 中吉(「中」) ―― 小吉〔   〕
  • タテ〔経糸〕〔   〕と ヨコ〔緯糸〕(   )

    ※動くかどうか・どちらが重要化か

  • 和琴《ヨコ弦》と 竪琴《ハープ、タテ弦》

    cf.琴=臥龍の形・龍舌・竜頭・龍甲

 

 研究  ――― 【家相】

  • 「鬼門〔きもん〕」〔   〕と 日当たりや風通しの良い南方位や東方位(   )
  • 「表(おもて/男)鬼門」〔   〕と 「裏(うら/女)鬼門」〔   〕=どちらも陰
  • バリアフリー〔障壁除去〕空間・住宅」(段差をなくす、カドをなくす、暗部をなくす)
    ――― 結局は「陰」の部分を「陽」にすること?!

 

 参考  “たましい”を古代中国では「魂」〔こん〕と「魄」〔ぱく〕に分けて考えた

  • 「魂」:人の精神をつかさどる陽の生気
  • 「魄」:人の肉体をつかさどる陰の生気
    ―――― 人が死ぬと魂は離れて天上にのぼり、魄は地上にとどまる
      cf.( 『離魂記』 陳元祐 )

 

 考察  ――― 「をかし」 と 「あはれ

陽=「をかし」: 風情がある、興味がある、美しい(明るい感動、客観的・理性的
『枕草子』(清 少納言)は 、“をかしの文学”

陰=「あはれ」:しみじみとした趣がある、(深い感動、感情移入、主観的・感情的
『源氏物語』(紫 式部)は、“あはれの文学” (by.本居宣長)

 

§.「十翼」 : 雑 卦 伝  【 ― (2) 】

♪♪♪♪♪♪♪♪♪

( あお字下線字が韻 )♪

《 1.乾は剛、坤は。/ 2.比は楽しみ、師はう。/ 3.臨・観の義は、或いは与え、或いはむ。/ 4.屯は見〔あら〕われて(而も)、そのを失わず。蒙は雑にしてわる。/ 5.震はこるなり。艮はまるなり。/ 6.損益は盛衰のめなり。/ 7.大畜は時なり。无妄はいなり。/ 8.萃は聚〔あつ〕まりて、升はらざるなり。/ 9.謙は軽くして、豫はるなり。/ 10.噬嗑〔ゼイコウ〕は〔くら〕う。賁は无〔な〕きなり。/ 11.兌は見われて、巽は〔ふく・ふ〕するなり。/ 12.随は故〔こと〕无きなり。蟲は則ち飭〔ととの〕うるなり。/ 

13.剥は〔らん・ただるる〕なり。復は〔かえ・もど〕るなり。/ 14.晋は〔ひる〕なり。明夷は〔やぶ・そこな(わ)・ちゅう(する)〕るるなり。/ 15.井はじて、困は相〔あいあ〕うなり。// ♪♪

16.咸は速やかなるなり。恒は久しきなり。/ 17.渙はるるなり。節はまるなり。/ 18.解はなり。蹇は〔むずかし〕きなり。/ 19.睽〔ケイ〕はなり。家人はなり。/ 20.否・泰は其類を反するなり。/ 21.大壮は則ち止まり、遯は則ち退くなり。/ 22.大有は衆〔おお〕きなり。同人はしむなり。/

23.革は故〔ふる〕きを去るなり。鼎はしきを取るなり。/ 24.小過は過ぐるなり。中孚はなり。/ 25.豊は〔こ・こと・ふるき〕多きなり。親寡〔すくな〕きはなり。/ 26.離は上りて、坎はるなり。/ 27.小畜は寡きなり。履は〔お〕らざるなり。/ 28.需はまざるなり。訟はしまざるなり。/

 この章、錯簡と見て改める : 宋の蔡淵、元の呉澄、明の何楷 )

29.大過は顚〔くつが〕えるなり。頤は養うことしきなり。/ 30.既済はまるなり。未済は男〔だん〕のまるなり。/ 31.帰妹は女〔じょ〕のりなり。漸は女帰〔とつ〕ぐに男を待ちてくなり。/ 32.姤〔コウ〕は遇〔あ〕うなり。柔、に遇うなり。 夬は決なり。剛、を決するなり。 君子の道長じ、小人の道うるなり。 》 

 

大意・解説・研究

1.乾は剛、坤は

【対卦】 “陽・陰は、古くは“剛・柔”という表現でした

  • 乾は純陽(老陽)で卦徳は剛、坤は純陰で卦徳は柔順です。

2.比は楽しみ、師はう。

【反卦】 陽爻の位地が異なっているので、楽と憂に分かれます。

  • 比は比〔した〕しむの意ですから楽しみであり、師は師役〔しえき=いくさ、戦争〕の意ですから憂いを伴います。

3.臨・観の義は、或いは与え、或いはむ。

【反卦】

  • 臨〔のぞむ〕は、上から下への俯瞰・鳥瞰〔ふかん・ちょうかん:見下ろすこと〕であり、それを「あたえている」と解しています。
  • 観は逆に、人が下から上へ仰ぎみる仰瞰〔ぎょうかん〕であり、それを「もとめている」と解しています。

*徴税・収税とその社会配分・活用。「福祉国家」・「大きな政府」。

.屯は見〔あら〕われて(而も)、そのを失わず。蒙は雑にしてわる。

【反卦】  2陽4陰の卦

  • 屯は、

    1)下卦の震あるいは初爻の陽が動き始めます(胎動・蠢動)。それで見(現)れます。しかし、前方(上卦)に坎険があるので行きません。(進む時期をまっているのです)。それで、居処を失わないのです。

    2)初爻は、正位を得ているので、その居を失わないのです。

    3)「候〔きみ〕を建つるに利あり」(初爻辞)で君子が世に出ようとする時期だから、見われるといいます。しかし、その初爻は、どっしりとして動かず貞〔ただ〕しきに居るからその安んずる居処を失わないのです。

  • 蒙は、

    1)坎の中爻(2爻)の陽が、2つの陰の中に陥り雑〔まじ/交〕わって暗い。それが、上に艮が著〔あらわ/現〕れて蒙〔くら〕きが明らかになるの意。

    2)蒙卦の2陽(2爻・上爻)は、共に陰位にあり、陰陽が雑です。これは、「物相雑はる。故に文と曰ふ」(「繋辞下伝」第10章−2)とあるように、文明。ゆえに、著〔あき〕らかの意。

    3) 蒙は、啓蒙の意。始は蒙〔くら〕く稚拙で志定まらず、雑といいます。やがて、智の光で照らされるから著らかの意。

    4)「雑」の字を、「稚」の誤りとします。上爻の陽は、上卦艮の“少年”にして幼きもの。上にあるから著れるの意。

5.震はこるなり。艮はまるなり。

【反卦】

  • 震は、1陽が下に(初爻・はじめ)に起って伸びようとしている象(草木が伸びようとしている時)。動くの意です。
  • 艮は、1陽が上に(上爻・おわり)に止まっている象。ストップ〔止まる〕の意。

天道は、東方に起り(スタート・日の出)、東北に止まり(ストップ)ます

6.損益は盛衰のめなり。

【反卦】 ものごとの盛衰を示しています。
cf.でっぱり(艮山)とひっこみ(兌沢)

  • 損(よき投資)は、やがて極まって益を産みます。益もピークを過ぎれば損となります。株価・景気の変動も、また然りでこの循環ですね。
  • 艮は、1陽が上に(上爻・おわり)に止まっている象。ストップ〔止まる〕の意。

*下の人からみた場合を基準に述べています(民衆中心)。ですが、とどのつまり、上に立つ人が益しても下の人は益となりません。 会社も社員が豊かで力を持ちます(社員教育)。「労働力商品の再生産」(マルクス経済学)。民が富み豊かになって国もさかえます

7.大畜は時なり。无妄はいなり。

【反卦】

  • 大畜は、下卦陽(乾)の剛健はこれを止めること容易ではありません。が、然るべき時に止めなければなりません。そうすることで幸福が実現します。時が“肝腎要”であるので「時」と示しています。

    *「T.P.O 」が大切。「時中〔じちゅう〕」(君子、時に中す 『中庸』)

  • 无妄は、天真爛漫(私心なく誠実)の意ですが、天罰覿面〔てきめん〕の意でもあります。无妄は、道に適い・いつわりがないのに、思いもよらぬ災禍があることを教えています。ーー 偶然のいたずらありや?

    *現代〔いま〕の日本、何時冤罪になるやら、(自分は注意していても)何時交通事故に遭うやらわかったものではありません。

8.萃は聚〔あつ〕まりて、升はらざるなり。

【反卦】

  • 萃は、(自分のところに)人やモノが大いに聚〔あつ〕まります。
  • 升は(昇るに同じで)、上に升り進んで、もとのところには戻ってこないの意です。

*「升は来らざるなり」 :人間の出世・進化、科学技術の進歩などもそうありたいものですが・・・。退歩、忘却、“未来に向かって足早に後ずさりしているような現代”です。

9.謙は軽くして、豫はるなり。

【反卦】

  • 謙は、人にへりくだる、自分の身を軽い卑しいものとみなす態度です。大なる才能・財産を持った人は、頭(“稔ほど頭を垂れる稲穂かな!”)を低くし謙遜にの意。

    *身軽の良否 → “軽がるしい行動”の日本語訳はいかがなものでしょうか?
    頭を下げる/腰が低い → “腰が軽い・尻軽い”はダメ!

    cf.宴席での“おしゃく” → 出世し(てい)たら頭を下げ、お酌して回る。偉くもないのにお酌して回るのは “へつらい”ではないでしょうか。

    cf.「小公女セイラ」(TV.放映 '9〜'10)

  • 予は、景気がよく、悦びの極の意。 → 驕〔おご〕り怠けてしまう傾向にあります、注意しなさい!(上爻は予を極め「予〔よろこび〕に昏冥する」の象)

10.噬嗑〔ゼイコウ〕は〔くら〕う。賁は无〔な〕きなり。

【反卦】

  • 噬嗑は、開いた口の象です。口中の食物噛み砕いて咀嚼〔そしゃく〕、食すの意。食養生の意。
  • 賁は、身を飾る。それは、“白賁〔はくひ:白でかざる〕”を最上とします。つまり、無色・白・素をもって賁〔かざ〕るのです。文化の原則は知識・教養で身を飾ることです。

*配色・色彩調和において、「白」(と「黒」)はどの色とも調和します。

※ 注)朱子は、この2つは対にならないと指摘しています。 『周易折中』では、食は空腹を満たせば充分であり(美食を求めない)、衣服は無色・白地で充分(華美を求めない)で、対になるといいます。発想、おもしろいですね。 また、項安世(『玩辞』)は、食べるはモノが消えること、色が滅ぶは色无〔な〕し(=白)で相対する、と説いています。

11.兌は見われて、巽は〔ふく・ふ〕するなり。

【反卦】 1陰が上(外)か下(内)かの違い。

  • 兌の三画卦は、1陰が2陽の上に乗っかって現(=見)れています。人事にとれば、兌(悦)びは、顔面〔おもて〕に出ます。
  • 巽の三画卦は、逆に、1陰が2陽を承〔う〕けて下にあり、下から伏入する象です。人事にとれば、巽=謙遜 で小さくへりくだるの意です。
  • 以上、大成卦においても同様の意です。

12.随は故〔こと〕无きなり。蟲は則ち飭〔ととの〕うるなり。

【反卦】  

  • 随は、

    1)自ら「事〔こと〕」をなさずに、(時・事・人)に随〔したが〕う。

    2)動き〔震〕・悦ぶ〔兌〕のは、時の宜しきに随うので、一定の「事」にかかわらない/定見(一定の見識)がない。

    3)故=古旧・古いもの、随ってゆく時は古いもの(=古い自分、身につけているもの)を捨てなければ(新しいものが入らない)ことを教えています。

  • 蟲は、

    1)自ら進んで「事〔こと〕」を飭正〔きょくせい:整え治める、=整理〕するのです。

    2)事があり、それを修めないと壊れて救いようのない事態になるのです。

    *「事〔こと〕」 →虫が喰い破って破綻を生じる →それをうまく飭〔ととの〕える

13.剥は〔らん・ただるる〕なり。復は〔かえ・もど〕るなり。

【反卦】 1陽5陰卦のペア

  • 剥は、唯一の陽(上爻)が、爛熟の極みにあり、今まさに剥がれ落ちようとしている象意。
  • 復は、逆に、1陽が下(初爻)に戻り返ってきて、再生・復活〔ルネサンス〕する象意。

14.晋は〔ひる〕なり。明夷は〔やぶ・そこな(わ)・ちゅう(する)〕るるなり。

【反卦】 cf.高根流 日の4【5】卦 (升・晋・賁・明夷・【大有】)
太陽の位置が異なる: 晋は太陽が東より中天に上っていくことを示し、明夷は太陽が西に下がって没していくことを示します。

  • 晋は、地(坤)上の太陽(離)にて、太陽が地を照らしている象。地上(真上)の太陽なので昼。
  • 明夷は、地中の太陽。地(坤)中の太陽(離)にて、正しきものが 傷つけられ やぶられる。夜の象。正論の通らぬ時代。“暗黒時代” 。“君子の道閉ざされ、小人はびこる”。

    ※ 今の時代 = 徳のない時代、蒙〔くら〕い時代 (高根)

15.井はじて、困は相〔あいあ〕うなり。 // 

【反卦】  “通じる”かどうか?

  • 井は、井戸のこんこんと湧き出る水のように、

    1)広く万事が通ずる(事がスムースにはこびうまくゆく)の意。

    2)(尽きない水により)万物・万人を養って極まりないから、通じるの意。

    3)井戸は水が、(地下水の)水脈・水路を“通って湧き出る。〔高根〕

  • 困は、兌の下の坎で(池・ダムの水なし)水漏れ、涸渇〔こかつ〕状態となり通じないの意。
    「困は相遭う」とは、剛と柔=陽と陰 とが思いもよらず出合って、(陰が)相手(陽)を蔽〔おお〕ってしまいゆきずまって困窮するということです。 ・・・ 下卦・坎の 川=陽卦が、上卦の兌=陰卦に蔽われ塞がれて沢になっています。2爻の陽は、その上の2つの陰爻におおわれている。(坎の 3爻は、4爻と遭い塞がれて通じない。)

16.咸は速やかなるなり。恒は久しきなり。 // 

【反卦】 cf.愛情 4卦 (咸・恒・漸・帰妹)

  • 咸は、咸(感)じ応じあうこと、時間的に瞬時・刹那、速やかの意。
  • 恒は、長く(恒久・永久)不変の意です。

*『易経』本文は、咸卦(と恒卦)・31番目(32番目)から「下経」となります。雑卦伝でも、咸卦(と恒卦)は31番目(32番目)です。一つの区切りとして意識したものでしょうか。

17.渙はるるなり。節はまるなり。

【反卦】 

  • 渙は、水上の風の象で、渙散・飛び散る・離れ散ずるの意。
  • 節は、沢が水の流れを防いで水が止まっている(=ダム)の象。竹のふし。節度と節操を保って、止まるの意。

18.解はなり。蹇は〔むずかし〕きなり。

【反卦】 

  • 解は、

    1)問題が解決・氷解し、緩〔ゆる〕むの意。

    2)動いて(外卦・震)、険難(内卦・坎)から脱出できているので、緩やかな時勢であるとの意。

  • 蹇は、寒さで足止めストップの象。艱難にあって行き難〔なや〕むの意。時勢は、急難です。

19.睽〔ケイ〕はなり。家人はなり。

【反卦】 

  • 睽は、そねむ、水と火の象。家族が、背反して外を向いている、心は外(心外)、外に出ていく、の意。
  • 家人は、風と火。内(家の中)にあって、相親しみ心和して、よく治まっているの意。

20.否・泰は其類を反するなり。

【反卦】(兼・【対卦】) 3陰3陽のペアの代表、陰陽の相反。

  • 否と泰は、共に3陰3陽ですが、内外・表裏卦に位置を異にしています。従って、陰陽・天地・男女・彼我・過去未来 ・・・ すべてが、全く別のグループ〔類=陰陽〕・反対の関係にある、との意です。
  • 否は、「大往き小来たる」(卦辞)で、大(陽)が外に行き、小(陰)が内に来る。陰陽交流せず、八方塞がり、男女和合せずの意。
  • 泰は、「小往き大来たる」(卦辞)で、陽(天)は上り陰(地)は下がる。天地交流し、男女和合する。安泰・泰平。

21.大壮は則ち止まり、遯は則ち退くなり。

【反卦】 

  • 大壮は、陽(=大)の勢い壮んな猪突猛進(1〜4爻の4陽)を戒めて、止まることを教えています。
  • 遯は陽が衰え始めた(初・2爻)ので、君子は引退・隠棲して時節を待つことを教えています。

人あるべき姿を言っていると思います。〜すべきだ、〜であるべきだ、(命令)ということです。

22.大有は衆〔おお〕きなり。同人はしむなり。

【反卦】 1陰5陽のペアですが、1陰の位置が異なります。

  • 大有は、

    1)陰が5爻の君位にあり天下万民(衆民)の心服を得ている象。

    2)大〔おお〕いに有〔たも〕つで所有するものが大ですから衆(多)いといえます。

  • 同人は、

    1)陰柔が2爻の下位にあるので、友人仲間と親み合う象です。

    2)同人=人と和合するですから、親しむといえます。

23.革は故〔ふる〕きを去るなり。鼎はしきを取るなり。

【反卦】 「革・鼎」の両卦、破壊と建設をもって本来の革命は成就するのです。

  • 革は、「革命」(命〔めい〕が革〔あらた〕まる)の革で、古(故)きを去って改革すること、破壊することです。
  • 鼎は、生ものを煮て新しい料理を作る、新しいものを取り入れて創造すること、建設することです。

24.小過は過ぐるなり。中孚はなり。

【対卦】 上と下をひっくり返しても、相手からみても同じ(賓卦)。そこから、意味も小過は、やりすぎても物事を正そうとすること、中孚は、誠実であれば相手に通ずること、と考えることができます。

  • 小過は、すこしく(行き)過ぎていること。 4陰が上下卦の外にあり(2陽4陰)陰が陽に過ぎるの象、過度の意。
  • 中孚は、孚〔まこと・孚誠〕の意です。 2陰が内のあり信を虚〔むな〕しくする象(大離・空虚の象)。

25.豊は〔こ・こと・ふるき〕多きなり。親寡〔すくな〕きはなり。

【反卦】 

  • 1)漢語で「故人」=旧友 です(死んだ人ではありません)。故は故〔ふる〕意友人。人生、運勢景気の盛んなる時は、親せき・知人友人・他人までもが集まってきます。運勢景気の低落する時は、寄ってきた人達も去って行き、少なくなってくるものです。 ―― *今昔、哀しい人の世の常ですね。
  • 2)豊は、豊大であって勢い盛んですから、自ずと多事〔コト多し〕になります。
    反対に、(昔時の)旅は、孤独で親しみ合う人が少ないのです。(旅に出るとなると親しむ人も少なくなります。)

※注) 「旅」卦だけ卦名を下にしてあるのは、押韻の関係です。

26.離は上りて、坎はるなり。

【反卦】 

  • 三画卦・離は、離火です。火の性は、上へ炎上・燃え上がります。坎は、坎水です。水の性は、潤下、流水低きに下るの意です。これらは、重卦の離為火・坎為水にも同様です。

27.小畜は寡きなり。履は〔お〕らざるなり。

【反卦】 1陰5陽卦のペア。陰爻の位置悪く、[大有―同人]のようにはよくありません。

  • 小畜は、

    1)小(4爻の1つの陰)が多くの陽(5つの陰)を畜〔やしな〕おうとするのに力が足りないので寡とするの意。

    2)勢い弱く随ってくる人が少ないの意。

    3)4爻位を得て、下の3陽を止めようとしますが、陰柔にして力寡なく及ばないの意。

  • 履は3爻の1陰が位を得ず、5陽の間にあって安心して処〔お/居〕ることができない、(居処)落ち着かぬ意。

28.需はまざるなり。訟はしまざるなり。

【反卦】 

  • 需は時のよろしきを得ておらず、求め需〔ま〕ちて進みません。

    1)“密雲すれども雨降らず”で進みません。

    2)下卦 の剛健をもって進もうとしますが、前方に坎の陥険があって進めません。

  • 訟は、

    1)“天水違行の形”、行き違って親しまぬ意。

    2)訴訟・争いの意で、和やかならず親しみません。

29.大過は顛〔くつが〕えるなり。頤は養うことしきなり。

【対卦】 

  • 大過は、“棟木〔むなぎ〕たわむ”、棟(2・3・4・5爻)が陽で強すぎて支える柱や梁(初爻・上爻)が陰で弱い象、顛倒のおそれありの意。
  • 頤は、開けた口の象(下爻下顎、上爻上顎、歯2〜5爻)。食養生の象。自身の心身を養い、家族・社員を養い、郷土・国家を養うことは人の正しい道です

30.既済はまるなり。未済は男〔だん〕のまるなり。

【反卦】 (【対卦】)   3陰3陽 の正位・不正位

  • 既済は、

    1)すべてが、完成・成就したの意。それで安定している。

    2)3陰3陽 の 6つの爻すべてが正位を得ているから安定している。

  • 未済は、

    1)未完成、いまだことが成就しないの意。つまり、男の道=君子の道
    がいまだ定まっていないの意。

    2)3陰3陽 の 6つの爻すべてが不正位。3つの陽爻(男)が位を得ていないので、男の身の行き詰まりです。 3陰爻が、それぞれ陽爻の下にあって陽爻を承〔う〕けています。女(陰)が行き詰まることはないので、男(陽)の行き詰まりといえます。

    3)全爻、不正位に加えて、2爻が坎険の中から出られないので、「男の窮する」の意。

31.帰妹は女〔じょ〕のりなり。漸は女帰〔とつ〕ぐに男を待ちてくなり。

【反卦】 結婚・女の終わりと始め?

  • 帰妹は、嫁ぐことです。女は男の家に嫁ぎ、一生自分の落ち着く場所を得ることになるのですから、女の道は完成しおわるのです。

    * 現代では、結婚・嫁ぎをもって女性の終わり(終着点)と考えてはいけないと思います。“シンデレラ”は、結婚式で ジ・エンド ではなく“それからのシンデレラ”があるのです。1つの終わりは、同時にまた1つの新たなる始まりです。娘(独身)時代が終わるだけで、それは妻(夫婦)の時代・母の時代・家庭持ちの社会人の始まりでもあります。女性の道の完成ではなく、新たなる始まりなのです。(高根)

  • 漸は、今風にいえば正式・古風な見合い結婚のようなものです。女子が嫁ぐには、礼(婚儀式)の備があり、それを漸次進めて男子のリクエスト〔親迎の礼〕を待って行くことです。これは、結婚(妻・婦)の道の始めです。

    * 今は、男女平等ですから、婚儀において男女どちらが主導でもよいわけですが ・・・ ? (高根)

    ※ この「帰妹・漸」の捉え方として、現今は、帰妹は自由恋愛による結婚、漸は見合い・半見合による結婚と考えてもよいと思います。(高根)

32.姤〔コウ〕は遇〔あ〕うなり。柔、に遇うなり。 夬は決なり。剛、を決するなり。 君子の道長じ、小人の道うるなり。  

【反卦】

  • 姤〔コウ〕は、思いがけずして出合うの意です。1陰=柔 が始めて初爻に生じて、5陽=剛 に出合うのです。多淫・淫奔の意でもあります。
  • 夬は、逆に 5陽(剛)が伸長して、上爻の陰(柔)を決去、押し決〔き〕る、引き破ってしまう卦象です。
  • ですから、陰が陽に出合う姤卦は、小人の喜びを表し君子をその地位から遠ざけます。が、夬卦では、君子が小人を引き裂いて、君子の道がますます長じて(盛んになり)小人の道は憂え衰えてゆくことを説いています。

――― そして、夬卦の1陰が決去され尽くしますと、最初の純陽の乾卦に戻ります。人類の歴史は行き詰まることなく、再び始まります。「終始」 = 終りて始まる、という悠なる易学の循環の理がここに示されているのです

 

( 完 )

 

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