儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2010年03月

第二十八回 定例講習 (2010年2月28日)

孝経 ( 喪親章 第18 )  執筆中

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論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔1〕 )

§.はじめに

孔子門下を儒家思想・教学の本流から眺めれば、顔回と曽子を最初に取り扱うのが良いかと思います。が、『論語』を偉大な 社会・人生哲学の日常座右の書としてみる時、子路と子貢とはその双璧といって良いと思います。個性の鮮烈さ、パワー(影響力)において、孔門3.000人中で東西両横綱でしょう。実際、『論語』に最も多く登場するのが子路と子貢です。(後述の)『史記』・「仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝」においても最も字数が多いのは子貢、そして子路の順です。

さて、子貢(BC.520〜BC.456)は字〔あざな〕です。姓は端木、名は賜〔し〕。衛〔えい〕の出身で裕福な商人の出とされています。四科(十哲)では、宰与〔さいよ〕と共に「言語」に分類されています。孔子との年齢差は、31歳。

孔門随一の“徳人”が俊英・顔回なら、孔門随一の“才人・器量人”が子貢でしょう。口達者でクールな切れ者。そして特筆すべきは、商才あり利財に優れ、社会的にも(実業家として)発展いたしました。清貧の門人の多い中、リッチ・Rich!な存在です。孔子とその大学校(※史上初の私立大学校ともいえましょう)を、経済的にも強力にバックアップしたと思われます。今でいう理事長的存在(?)であったのかも知れません。そのような、社会的評価・認知度もあってでしょう、“孔子以上(の人物)”と取り沙汰されもし、その風評を子貢自身が打ち消すという場面が幾度も『論語』に登場します。

なお、孔子の没後中心的門人たちは(最長の服喪期間である)3年の喪に服しました。子貢は一人、更に3年喪に服し墓を守ったと伝わっています。

 

――― ここで一言を呈しておきたいと思います。

日本は、今、経済しかない国です。もともと、広い国土も豊かな天然資源もありません。“人”と“経済”しかありません。その“人”と“経済”も、実に心もとないものに堕しています。私は、常々易卦の「地火明夷」の状態へと進行していると感じています。

“経済大国日本”、“21世紀は日本の時代”などといわれた、虚栄の時代も一時はありました。エコノミック・アニマル(はてはエロティック・アニマル)と蔑称されて数十年にもなります。金権亡者・拝金主義・唯物(モノ)的価値観 ・・・ 現今はもっとひどい状態に堕〔お〕ちています。かつて、開国・維新期、“東洋の徳”・善き日本人像として、世界から 「敬」されたものは歴史の彼方に消滅・忘却されています。“古き善きもの”となり果ててしまいました。

現在(2009)、「100年に1度の不況」などと、絵空事がまことしやかに報じられウワついている社会・経済状況です。平成の御世、日本経済と経済人のあり方、その未来が問われています。

明治期、「右手に算盤〔ソロバン〕、左手に『論語』」をモットーに 500余の会社を設立して近代日本経済の発展に貢献した 渋沢栄一氏。昭和期、“天(道)”に学び「経営の神様」と呼ばれた“君子型実業家”・松下幸之助氏をはじめ立志伝中の人々等々。近い過去に、お手本とすべき経済人はいます。

今こそ、(資本主義)経済の発展と儒学との連関について真剣に学ぶ時です。これが次代を啓〔ひら〕く “キー〔鍵〕”となりましょう。

子貢は、『論語』における“経済人(経済的人間)”です。経綸・経営に関わる多くの人にとって、子貢の文言は珠玉の示唆と道標〔みちびき〕になると思います。 ―― まずは、子貢に学べ!です。

 

○ “端木賜〔たんぼくし〕は衛の人、字は子貢、孔子より少〔わか〕きこと三十一歳。子貢は利口 巧辞なり。孔子常に其の弁を黜〔しりぞ〕く。 | 問うて曰く、「汝と回と孰〔いず〕れか愈〔まさ〕れる」と。対えて曰く、「賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を 聞いて以て二を知る」と。 | 陳子禽〔ちんしきん〕子貢に問いて曰く、「仲尼は焉〔いずく〕にか学べる」と。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして、人に在り。賢なる者はその大なる者を識〔しる〕し、賢ならざる者はその小なる者を識す。文武の道有らざること莫〔な〕し。夫子焉にか学ばざらん。而〔しこう〕して亦た何の常の師か之れ有らん」と。” 
( 『史記』・仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝 第7 )

《 大 意 》
端木賜は衛国の人で、字は子貢、孔子より三十一歳年少でした。子貢は口達者で言葉巧みでした。孔子はよくその多弁をたしなめたものです。
孔子が(ある時)、子貢に尋ねました。「お前と顔回とではどちらが優秀だろうかね」と。子貢はお答えして言いました。「わたしなど、どうして顔回を望めましょう(及べましょう)。回は一を聞いて十を(全体を)さとりますが、わたしはせいぜい一を聞いて二がわかる程度です。」と。
(またある時)陳子禽が子貢に「仲尼(=孔子)はどこで学んだのですか」と尋ねました。子貢は言いました。「周の文王〔ぶんのう〕・武王の道(礼楽の伝統)は、まだ廃れきってはいないで、人びとの中に伝わっています。賢く優れた人はその大事なところを覚えていますし、賢くなく優れていない人でもその小さい枝葉の部分は覚えています。文王・武王の道のないところはないのです。ですから、孔先生は、どこへいっても誰からでも学ばれました。別にきまった(特定の)師などはなかったのです」と。

 

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 4 】 

 

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易経   (  by 「十翼」 序卦伝 [3]  )

 

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第二十七回 定例講習 (2010年1月24日) 後編

前編の続きです。

易経  ( 立筮演習 ) & ( 年頭筮の解説 )

1) 年頭にあたり、“ことはじめ”として、全員(10名)で一斉に立筮いたしました。筮竹または8面サイによる略筮で、易的(占的)は形式的なものとして「明日の天気?」といたしました。
得卦は、2人の同卦(爻は違います)を除いて皆異なりました。が、その判断(天候の如何=雨)はほとんど同じでした。実際、(同一地域の)明日の天気が人によって異なればおかしいということになります。 これを“異卦同占”といい易筮解釈の妙の一つです。易筮解釈は、要は、その得卦をいかに自分が解釈・判断し活かしてゆくかが大切なのです

2) 昨年末宿題にしておきました、恒例の年筮(卦と解釈)の発表と検討解説をいたしました。昨年は、筮法として略筮法一辺倒でしたが、学習が進み、今年は中筮法によるものがほとんどでした。一般に、是非の判断のように“YES−NO”の明確なものには略筮法が、内容を深くいろいろな角度から検討するものには中筮法が適しているといえます。

A.中筮法学習のおさらいもかねて、その解釈のPoint!を改めてまとめておきます。

B.「主爻」が解釈のPoint!の1つとなりますので、64卦の主爻を一覧にまとめて、掲載しておきます。

C.参考教材として、講師(嬉納・高根)の年筮についてレジュメを掲載しておきます。



A.

 ★ 中筮(による年筮)解釈の Point!
   1.動爻(乾・坤)の 数・陰陽・位置(時期)
   2.2つ以上ある小成卦(八卦)の象意
   3.主爻の小成卦(八卦)の象意
   4.一年間を2カ月ごとに6分割(6爻に相当)させる


B.「主爻」

● 主爻 (卦主) ・・・ 卦の中で主となる爻、小成卦にも大成卦にもあります
A.小成卦の主爻 : 乾・坤は中爻、他の 6卦は陰陽の一爻しかない爻
B.大成卦の主爻 : 
    1)【定卦主】(主卦の主爻) ―― 6爻の中で最も徳があり
       時・位を得ている爻、多くは5爻の尊位
  ★2)【成卦主】(成卦の主爻) ―― その卦の意義・成因を示すような爻。
       例えば、「復」は、「坤」の初爻に一陽が復ってきた象。
       「�皇」は、「乾」の初爻に一陰が伏入した象
  ★通常主爻といえば成卦主をさします。一卦中に2つある場合もあります中筮法では、
    専ら成卦主を活用すると良いです。

成卦主

C.講師の‘10 「年筮」 レジュメ紹介

●  嬉納〔きな〕   ―― “筮竹” による 「中筮」

《 得 卦 》
      (初爻より) 「 1坤 ・2坎 ・3巽 ・4乾 ・5兌 ・6震 
               (1陰 ・2陽 ・3陰 ・4陽 ・5陰 ・6陽) 」

・ 得卦 「火水未済」〔64〕 → 初爻・4爻変にて変卦 「山沢損」〔41〕


《 卦 意 》 (※ 詳しくは高根「易経64卦解説奥義/同 要説版」参照のこと)

・ 「未済」は、未完成 最終の卦=人生に完成はない、 無終の道=循環・無始無終、 
「物に本末あり、事に終始あり。」 (『大学』 始終ではない)
    英語の「卒業」“Commencement ; コメンスメント”は、始まりの意
    “花落ちて実結ぶの意”(白蛾) :後に楽しみあり ―― 中論
    ―― 6爻全てが、陰陽逆で正位を得ていない。
    下卦の中爻の陰位には陽爻が、上卦の中爻の陽位には陰爻が位置している。
    しかし、全て正応・正比。     

・ 「損」は、へらす。 “損益の卦”、上経の“泰否の卦”と好一対、賓卦「益」、
「遜」にも通じへりくだり奉仕する、 “損して得とれ”、 “ Give and Take ”
  ―― まず与える 易は損が先、 正しい投資

    ――  地天泰であったものが、3爻の一陽を減らして上爻に益した象。
    即ち、内損して外を益した象。 
    外、私の心を去って動ぜず(艮山)、内、悦んで(兌沢)修養努力する象。

《 解 釈 》

・ 「未済」は、未完成の卦ですが、互卦が「水火既済」〔63〕(完成・有終の道/美)であるように完成への可能性を蔵しています。それは、先天卦「天地否」〔12〕(天地交流せず、閉塞)を考えてみても、その互卦「風山漸」〔53〕(継続の吉、学に進むに循々として已むことなかれ)、先々が「地天泰」〔11〕(天地交流し、安泰)というペアで捉えられるもので同様といえます。
実際、私の昨年の学習活動は、研究活動・執筆活動をはじめどれも未完成のままです。今年は、しっかりと完成への道を目指したいと思います。

・ 「未済」は、64番目の最終卦です。しかしながら、易には終わりはありません。循環、また新たな始まりです。学問・人生もまた然りです。
安岡正篤先生は、 『易と健康(上) ―― 易とはなにか』 の中で、 「未済はまた新たな咸を体することであり、乾を始めることでもある。かくして、ずっと限りなく循環していく。無始無終であり、無限の循環は尽きることがない。」と述べておられます。
儒学の勉強・普及活動を、初心に立ち返って、自らを励まして頑張らなければならないと思っています。

・ 上卦「離火」、下卦「坎水」です。今年の前半(1〜6月)の「坎」は私が、一白水性・水性人でもあり易学儒学の学業研究と解したいと思います。後半(7〜12月)の「離」は、智的活動=執筆、“学術・発表”と解したいと思います。昨年の年筮得卦(中筮)の「離為火」も「離」を2つ重ねた卦でした。

・ 主爻(成卦主) →2爻=「坎」(1〜2月)、中爻(定卦主) →5爻=「兌」(10〜11月) 
(※ 初爻及び初爻変が、高根と同じ。主爻「坎」=水 が、高根と同じ。→ 後述 )

・ 初爻の「坤」は、陰から陽に変転し(1・2月)、 4爻の「乾」は、陽から陰に変転する(7・8月)という大きな動きがあり、「損」卦に変化します。これは、意義ある自己投資の卦だと思います。つまり、学習関連活動・業績のための投資 ―― 労力・時間・貨幣〔かね〕の投資かと解しました。

 

●  高根  ―― “擲銭法〔てきせんほう〕”(100円玉3枚)による 「中筮」

《 得 卦 》
      (初爻より) 「 1坤 ・2離 ・3兌 ・4艮 ・5坎 ・6離 
               (1陰 ・2陰 ・3陰 ・4陽 ・5陽 ・6陰) 」

・ 得卦 「沢地萃」〔45〕 → 初爻変にて変卦 「沢雷随」〔17〕

《 卦 意 》 (※ 高根 前掲書参照のこと)

・ 「萃」は、“人やモノがあつまる。冠婚葬祭。万民・人心あつまる。 選挙吉。”
象からみると、坤地の上に兌沢で、地に秋の収穫の潤沢があり、悦び・豊作の象。沢水が地上にあつまって万物を潤します。 ―― “エジプトはナイルの賜物”(ヘロドトス)

・ 「随」は、“時にしたがい、事にしたがい、人にしたがう”。動くことが、時のよろしきに適〔かな〕うこと、中道(正道)を得ること。


《 解 釈 》

・ 昨年年筮は「坎為水・上爻」でしたが、今年は「沢地萃」です。「「萃は聚〔あつ〕まる」(序卦伝) ですので、人的交流・経済的状況の豊かな年とすることができそうです。冠婚葬祭も身内にありそうです。選挙(今夏に参議院選挙、来春には統一地方選挙)についても、私は別の顔として府議会議員(民主党)後援会の幹事長の要職にもありますので、選挙吉にて人的交流多しは、大いに予想されることです。
収穫の豊かさ悦びは、真儒協会講習をはじめ“学修・研究内容の充実とその成果”としたいと思います。
専門的に拡げ少々付言しておきますと。先天卦〔48〕「水風井」(恵みの井戸、易道家の良卦、男女恋人・・・の意)、互卦〔53〕「風山漸」(次第にすすむ、継続の吉、正婚・・・の意)。含みとして、自らの想い思いへの参考といたします。

・ 具体的には、初爻、変爻にて「随」に之〔ゆ〕きますので、この 1・2月早々にちょっとした動きがあるかもしれません。“臨機応変”に“したがって”対応したいと思います。
前半(下卦/1〜6月)、「坤」にて研究・学業の統合整理。後半(上卦/7〜12月)は、「兌」にて社交・悦び・収穫。「離」が 2つあり智的活動、特に執筆を重視。年末(上爻/11〜12月)には、出版物のメドが立てれるようにコツコツと精励せねばと思います。4爻(7〜8月)の「艮」のカベは、乗り越えるべき障壁、チャレンジすべき山とみました。
主爻に要注意です。「萃」は、定卦主も成卦主も 5爻(9・10月)で「」です。昨年 年筮が「坎為水・上爻」で、今年も引き続き「坎」=水 に縁があるわけです。「坎」は、体調・病気・ストレス。また人的陥穽〔かんせい〕・中傷です。人が萃〔あつ〕まれば、悪人・小人に対する注意対策も必要というものです。しかし、基本的には、私自身が「水」の人(九性・一白水性)ですので、「坎」を“儒学・易学”と“移動の吉”と捉えたいと思います。

◆ 【 補 説 】   

◎ 夫婦・家族・同チーム・スタッフ ・・など、運勢共同関係である場合が少なくありません。私と嬉納先生とは、真儒協会、たかね研究所をはじめ、他の諸々の会での活動で行動を同じくしています。してみると、年筮得卦に共通の部分があって然るべきです。あるいは、共通部分を読み取ることで判断がより確かなものとなるはずです。
例えば、今年の年筮得卦。立筮の日時・用具・場所も全く異なり、得卦も異なっています。にもかかわらず、両得卦を併せてみると、不思議と共通点がみられます。その不思議点を少々指摘してみましょう。
まず、2人とも九性は一白水性であることを確認しておきましょう。五行思想での「水」は、九性学では一白水性のみですので、2人が水性を共にする確率は 9×9=81 分の1です(3人だと243分の1)。 そして、年筮得卦について。
1) 初爻及び初爻変( 1月・2月/坤 → 乾 )が同じ
2) 高根「萃」の主爻(成卦主)は 5爻、嬉納「未済」の主爻は 
   2爻で共に「坎=水」で同じ

◎ 易卦について、通常学習したり本に書いてあったりすることがらは、あくまで一般論です。実際、現実の得卦の解釈は、ケース・バイ・ケースに応じた特殊・個別的な判断です
  例えば、「坎」の象意を考えます時。1)病気がちの人・治療中の人にとっては“疾病”の意でしょう。 2)稼業が「特別な人?」にとっては“盗み”でしょう。逆に資産家の人にとっては“盗難”かも知れません。 3)私や嬉納先生のように、それらに(おそらくは)縁遠く、水性人にして智的偏った(特殊)学を「業」としているものには、儒学・易学の意(他に教職や法律関係)として考えることが、より自分に適っているというものでしょう。
  ですから、易卦で「坎為水」でも良しの判断、「地天泰」でも要注意の判断の場合もあるというものです。年筮は、個別・自分的なる道標・方針のための解釈をしなければなりません。 これが、活学・活易です。

                                          ( 以 上 )


                                         

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第二十七回 定例講習 (2010年1月24日) 前編

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孝経  ( 事君章 第17 )

 §.事君章(君に事〔つか〕うるの章)は、これまでが専ら上に立つ者の心得が説かれているのに対して、臣下としてのあるべき心得を説いています。第1章の「夫〔そ〕れ孝は、親に事うるに始まり、
君に事うるに中し、身を立つるに終わる。」に基づいています。

“子曰く、「※君子の上〔かみ〕に事〔つか〕うるや、進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過〔あやまち〕を補わんことを思う。 |その美を将順〔しょうじゅん〕し、その悪を匡救〔きょうきゅう〕す。故に上下能く相親しむなり。 |詩に云う、『※心に愛す。 遐〔なん〕ぞ謂〔つげ/いわ〕ざらん。中心之を蔵〔ぞう/よみ〕す。何〔いず〕れの日か之を忘れん』と。”

《大意》
孔先生がおっしゃいました。「智徳兼備(あるいは高位高官)の君子が、主君にお仕えするにあたっては、(役所に)登庁してはベストにまごころを尽くして仕えることを心に思えよ。退庁して一人になってからも、如何にすれば主君の過失欠点を補うことができるかに思いを巡らせよ。(四六時中、主君よかれしの事を思い考えよ。) | 主君の長所美点が大いに発揮できるように助け、それに従うようにせよ。主君に短所欠点があれば、それを正しその過ちを補い救うようにせよ。このようにしてこそ、主君と臣下との間は相互に親しむようになるのだ。 | 『詩経』 (小雅・隰桑〔しつそう〕之篇)にもあるではないか。『ほんとうに心の底から主君(相手)を敬愛しているのなら、どうして申し上げずに(諫めないで)居られましょうか。また、心の中に主君を思うまごころがあるのだから、いついかなる場合でも忘れることはないのです』 と。」


 ※「君子」: 君子には、概ね次の3つの意味があります。
        1)智徳が立派に身に付いた人 (知徳兼備の教養人)        
        2)そのような人物になろうと(学問修養に)志して努力している人
        3)高い地位にある人           ・・・ほか 為政者の意
     ここの場合、1)の智徳兼備の教養人 か 3)高位高官をさすと思われます。

 cf.君子 ←→ 小人〔しょうじん〕(徳の無い者、地位の低い者。君子の対義語の位置付けです。
  なお、東洋思想では 聖人 ー 君子 − 大人〔たいじん〕 − 小人 − 愚人 と
  類型立てています。

 ※「心平愛矣」: 
   1)“愛を心にす”とも読めますが、 2)「心」の字義を強めるために、
   倒置法の形を取ったと考えられます。“心に愛す”。

 ※「遐不謂矣」: 
   「遐」〔なんぞ/いずくんぞ〕は、 1)「何」の字と同音で古くは相通じていました。
   この場合「謂」は「告ぐ」の意。 2)「遐」を「遠」と解釈する立場では、
   「謂」は〔い〕うで “(退官して主君と離れても)遠しと謂わず” の意。
 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔3〕 )

6) 孔子に愛された子路 ―― 『孔子家語』にみられる子路の別の一面

○ 子路、孔子に見〔まみ〕えて曰く、「“重きを負ひて遠きを渉〔わた〕るときは、地を択ばずして休み、家貧しくして親老ゆるときは、禄を択ばずして仕ふ”と。昔者〔むかし〕、由や二親に事〔つか〕へし時、常に藜カク〔れいかく〕の実を食らひ、親の為に米を百里の外に負へり。 
親没して後、南のかた楚に遊ぶとき、従車百乗、積粟万鐘〔せきぞくばんしょう〕、シトネ〔しとね〕を累〔かさ〕ねて坐し、鼎〔かなえ〕を列ねて食らふ。藜カクを食らひて、親の為に米を負はんことを願ひ欲すれども、復た得べからざるなり。枯魚索〔なわ〕を銜〔ふく〕むとも、幾何〔いくばく〕か蠹〔と〕せざらんや。二親の寿、忽〔こつ〕として隙〔げき〕を過ぐるが若し」 と。
孔子曰く、「由や親に事ふるに、生事には力を尽くし、死事には思ひを尽くす者と謂ふべきなり」 と。

《大意》
 子路が孔先生にお目にかかって言いました。「(ことわざにもありますように)“重い荷物を背負って遠くへ行く時には、その場所を選ばずに休憩しますし、家が貧しくて親が年老いているときには、禄高をえり好みしないで仕官するものだ”といいます。以前、私が両親に仕えていた時は、(仕官できず貧しかったので)いつも、あかざと豆の粗食で暮らしていましたが、両親のためには米を100里も離れた遠い所から背負って来たものでした。
親が亡くなった後、南方の楚に行きました。そして、車100台を従え、貯えた穀物(扶持米〔ふちまい〕)は量りきれないない程で、敷物を何枚も重ねて座り、鼎(=ナベ)を並べて食事をするという豪華な暮らしぶりでした。(その時になって)粗末な食事をして、親のために遠く米を運んでいきたいと願っても、二度とできるものではありませんでした。 (ことわざにもありますように)魚の干物は、縄でぶら下げていてもいつの間にか腐ってしまう(久しく保つことは難しい)のです。両親の寿命は、走り過ぎる馬を戸の隙間から垣間見るように、あっという間に尽きてしまいました。」 と。
そこで孔先生は、「由よ、おまえは親に仕えるにあたって、存命中には出来る限りのことをして仕え、亡くなってからも哀慕の想いを尽くして仕えた者といえるね。」とおっしゃいました。
 (『新釈漢文大系・孔子家語』・巻第2 観思第8/明治書院 参照・部分引用)  

「白駒 隙を過ぐ」 =光陰矢の如し(時間や人生がたちまちのうちに過ぎること)

※子路の情味ある一面と、その孝心の篤さをたたえる孔子の想いが表れている一節です。私も、幼少のみぎり母から、「親孝行 したいときには(したい時分に) 親はなし」(他“いつまでも あると思うな 親とカネ”) の言葉を教えられました。馬齢を重ねて今、忸怩〔じくじ〕たるものがあります。
因〔ちな〕みに、高齢社会・当世気質〔かたぎ〕でこの川柳をもじって 「親孝行 したくないのに 親がいる」 との話を語られた上人〔しょうにん〕の講演を記憶しています。

研究

 私は、子路の人間像(と孔子の人間像)を『論語』そのものより、中島 敦の文学を通じて知りました。それは、中学時代にまで遡ります。青少年期の鮮烈な印象は、長じてなお忘れず、否むしろベースとなっているように思います。最後に、『弟子』 の冒頭と終わりの部分の一部を引用して結びたいと思います。

・・・・・・・  中島 敦 『弟子』 (旺文社文庫 引用)  ・・・・・・・

 魯の卞〔べん〕の遊侠の徒、仲由、字〔あざな〕は子路という者が、近ごろ賢者の噂も高い学匠・陬人〔すうひと〕孔丘を辱めてくれようものと思い立った。似而非〔えせ〕賢者何ほどのことやあらんと、蓬頭突鬢〔ほうとうとつびん〕・垂冠・短後〔たんこう〕の衣という服装〔いでたち〕で、左手に雄ケイ〔=鶏 けい/にわとり〕右手に牡豚を引っさげ、勢い猛に、孔丘が家を指して出かける。ケイを揺すり豚を奮い、かまびすしい脣吻〔しんぷん〕の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾〔みだ〕そうというのである。          ・・・・・  中 略  ・・・・・          顔を赧〔あか〕らめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えている様子だったが、急にケイと豚とをほうり出し、頭をたれて、「謹んで教えを受けん」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容〔すがた〕を見、その最初の一言を聞いた時、ただちにケイ豚の場違いであることを感じ、己とあまりにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。 ※高根 注)
 即日、子路は師弟の礼をとって孔子の門にはいった。

                 ――― 中 略 ―――

 子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。しだいに疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群衆は、この時ようやく旗幟〔きし〕を明らかにした。罵声が子路に向かて飛び、無数の石や棒が子路の身体に当たった。敵の戟〔ほこ〕の先端〔さき〕が頬をかすめた。纓〔えい〕(冠の紐)が断〔き〕れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとしいたとたんに、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸〔ほとばし〕り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素早く纓を結んだ。敵の刃の下で、まっ赤に血を浴びた子路が、最後の力を絞って絶叫する。
 「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 全身膾〔なます〕のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。

 魯にあってはるかに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴〔さい〕(子羔〔しこう〕)や、それ帰らん。由や死なん」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立〔ちょりつ〕瞑目することしばし、やがて潸然〔さんぜん〕として涙下った。子路の屍〔しかばね〕が 醢〔ししびしお〕※注) にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、塩はいっさい食膳に上さなかったということである。 

※原文注) 「ししびしお」は、肉などを塩づけにして製するもの。
         ここでは、人体を塩づけにする刑。

※高根・解説 注) 冒頭部:子路は会う前、孔子を「似而非〔えせ〕賢者何ほどのことやあらん」、と思っています。子路の案に相違して、孔子は青白いインテリではなく、堂々たる体格で(2m以上あったとも言われています)、腕っぷしも強く、剣の達人でもあります。
終わり部:刺客に切られた冠の紐を結び直して、“君子らしく” 死ぬシーン。これは、『春秋左氏伝』に 子路は「君子は死すとも冠を免〔ぬ〕がず」と言って死んだ、との記述が実在します。

                                         ( 子路 完 )

本学    【 干支・九性の知識 】

1) 運命学全般の諸概念を、私の長年の工夫・見解も加えて、一覧にまとめております。 諸事に、ご参照下さい。

運命学関連概念一覧

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● たかね易学研究所

2)今年の“干支・九性”について、【儒灯】・「謹賀庚寅年」の中に、ごあいさつも交えてまとめております。その当該部分を教材資料に用いて講義いたしました。 ――以下抜粋のとうり。


 

《 はじめに ・・・ 干支について 》

 明けて平成22年(2010)。 新年を皆様と迎えますこと、大慶でございます。

 今年の干支〔えと/かんし〕は、(トラではなく)「庚・寅〔かのえ・とら/こう・いん〕です。
干支は、十干〔じっかん〕(天干)と十二支(地支)です。
この、10 と 12 の組み合わせで、60 干支〔かんし〕の暦を作っていました。

 そして、十二支「寅」は、動物の「虎」とは専門的には直接関係ありません。
が、動物のイメージ・連想は、人口に膾炙〔かいしゃ〕しています。
干支を「今年のエトは、トラで ・・・ 」とメディアが薄々軽々と報じているところです。

また、干支は旧暦(太陰太陽暦:我国で明治維新期まで用いられました)
ですから、年始は 2月4日(立春)からで、2月3日(節分)までは、まだ「己・丑〔つちのと・うし/き(こ)・ちゅう〕です。

これらを確認した上で、今者〔いま〕の慣行に合わせて、一足先に「庚・寅」年のお話をしておきたいと思います。


《 庚・寅&八白土性の深意 》

 さて、今年の干支「庚・寅」には、どのような深意があり、どのように方向づけるとよいのでしょうか。

 「庚〔かのえ=金の兄/こう〕」には、おおよそ 1)継承・継続 2)償う 3)更新・奮起 の
3つの意味があります。
つまり、前年からのものを継続して、罪・汚れを払い清めて償うと共に、更新していくということです。

革命〔revolution〕に持ってい行かずに 進化〔evolution〕に持っていくということです。

 「寅〔とら/いん〕」。
字の真ん中は、手を合わせる・手を差し伸べる・協力することを表し、
下の“ハ”は人を象〔かたど〕っています。

つまり、志を同じくするものが手を取り合って助け合うの意です。
そこから、「同寅(=同僚)」、「寅亮(=助け合う)」、「寅清(=助け合って旧来の妨害・惰性などを排除してゆく)」といった熟語もあります。

 この2つを合してまとめると、前年のことを継承して一致協力、創造的に更新進展させる、といった意味になるかと思います。 

※(以上は、安岡正篤氏干支学によりました。
  『干支新話(安岡正篤先生講録)』・関西師友協会刊 参照)

 また、九性(星)気学で今年は、「八白〔はっぱく〕土性」にあたります。

これは、変化・改革・蓄積・相続・ストップ〔中止・停滞〕といった複雑な意味合いを持っています。

表面上安定した、遅滞・停滞した社会的ムードの中で、実直で辛抱強い対応が望まれます。
(国内外で)“政治(家)”が話題となり、経済(不況)の打開が図られる年と思われます。


《 干支・九性の易学的考察/「无妄」卦 》

 次に(やや専門的になりますが)、今年の干支・九性を易の64卦になおして(翻訳して)解釈・検討してみたいと思います。

 昨年の干支、己・丑は「坤為地〔こんいち〕」。(‘09.3月“儒灯”参照のこと) 
今年の庚・寅は、「天雷无妄〔てんらいむぼう/むもう〕」卦となります。

(以下、高根 「『易経』64卦奥義・要説版」/第15回 定例講習‘易経’No.25参照のこと)

 「无妄」卦は、精神性3卦の1つで、「无」=「無」で 妄〔みだ〕り無いの意、うそ・いつわりのないことです。

至誠、“無為自然”(老荘)の精神、“自然の運行”、神意に逆らえば天罰てきめん、“随神〔かんながら〕の道”(神道〔しんとう〕)といった意味です。

 「亨以、天之命也。(大いに亨りて以て正しきは、天の命なればなり」(彖伝) とあり、元号「大正」の出典ともなっています。

 象〔しょう/かたち〕でみてみますと、上卦 乾天の下に震雷で落雷の象。
「天地否〔てんちひ〕」(天地交流せず八方塞がり = 現代日本の閉塞〔へいそく〕感?)の初爻に外から1つの陽(剛健・明るく活動的なもの)が来て「无妄」となったと見ることが出来ます。

 一例を政界の動きに求めてみますと。昨年8月、「坤」・陰の閉塞感を破って、歴史的政権交代が実現し、民主党・鳩山内閣による政治がスタ−トしました。

高い支持率、世論の期待を担っての華々〔はなばな〕しいスタートです。
今年はその本格的展開(“正念場”?)で、政権の真価が問われる年です。
が、発足語3ヶ月余を経て、現今〔いま〕1月早々と、支持率は40%台に低下しています。

「无妄」卦の深意に学び慮〔おもんばか〕り、天意(民意?)逆らって天罰てきめんとならぬように、と、もし私がブレーンであれば説くところです。

為政者(指導者・リーダー)の立場にある皆さまのために、「无妄」卦・大象の引用解説を付け加えておきます。
   
○ 大象伝 ;
「天の下に雷行き、物与〔みな〕无妄なり(物ごとに无妄を与〔あた〕う)。先王以て茂〔さか〕んに時に対し万物を育う。」
(乾天の下に震雷が進み行く象が、无妄です。
つまり、天の健全な運行に従って、万物は生まれ生長・発展してゆくのです。
世界のあらゆるものが、この自然の法則・原理に従って運行しているのです。
古のよき王は、このことに鑑み、“天の時”に従い対応して、
しっかりと成すべきことを成し、万物万民の育成に努めたのです
。)


 そして、今年の九性・「八白土性」を易学の八卦〔はっか/はっけ〕でいうと、
「艮〔ごん〕」であり「土〔ど〕」です。
64卦(重卦)では、「艮為山〔ごんいざん〕」が相当します。

 「艮」は、山・荒野の象〔しょう/かたち〕です。 
艮は止なり」(説卦伝)とありますように、止はストップ・畜止(たくわえ動かないこと)・停止・休止の意味です。

八卦「震」の逆で退く・遅れる・滞るの意味です。
また風水方位でいう“鬼門〔きもん/=気門・生門で陰陽の気の交替のときで元気・生気すべての気が生じます〕”( =丑寅〔うしとら〕)です。

 『論語』(擁也第6)に「仁者は山を楽しむ」、『大学』(第1段・1)に「至善に止まる/止する」とあります。

泰山・富士山のように、どっしりと落ち着きたいものです。

易経  ( 立筮演習 ) & ( 年頭筮の解説 )

1) 年頭にあたり、“ことはじめ”として、全員(10名)で一斉に立筮いたしました。筮竹または8面サイによる略筮で、易的(占的)は形式的なものとして「明日の天気?」といたしました。
得卦は、2人の同卦(爻は違います)を除いて皆異なりました。が、その判断(天候の如何=雨)はほとんど同じでした。実際、(同一地域の)明日の天気が人によって異なればおかしいということになります。 これを“異卦同占”といい易筮解釈の妙の一つです。易筮解釈は、要は、その得卦をいかに自分が解釈・判断し活かしてゆくかが大切なのです

2) 昨年末宿題にしておきました、恒例の年筮(卦と解釈)の発表と検討解説をいたしました。昨年は、筮法として略筮法一辺倒でしたが、学習が進み、今年は中筮法によるものがほとんどでした。一般に、是非の判断のように“YES−NO”の明確なものには略筮法が、内容を深くいろいろな角度から検討するものには中筮法が適しているといえます。



続きは、次の記事(後編)をご覧下さい




                                         

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「洗心」 と 「新」

「洗心」 と 「新」
   ───  洗心/知非/ “転石、苔を生ぜず”/「新」の元字/
日新・維新/止揚〔Aufheben:中す〕  ─── 


《 はじめに 》

 「洗心」〔心を洗う〕 ── いい言葉だと思います。
『易経』に由来します。(※後述) 

禅宗でも、よく用いられている言葉のように思います。
年の初めや人生の節目〔ふしめ〕に、気分を「新」〔あらた/リフレッシュ〕にするのに
似つかわしい言葉ですね。

 さて、(大阪に)“洗心講座”という学道の講座があります。
聞説〔きくならく〕、この講座は、碩学・故安岡正篤先生、遡れば古の聖賢に源を発し、
(安岡先生の高弟)伊與田覺先生が開設されて半世紀余りになります。(‘10.3現在 604回) 

まことに、易卦「雷風恒〔らいふうこう〕」の徳の偉大さと美です。
その「不易」は、まさに「知者は楽しみ、仁者は寿〔いのちなが〕し」
(『論語』・擁也第6−23)かと思います。 

 私は、「知命」・「知非」の年に安岡先生の著書と邂逅〔かいこう〕し、
書中の「キョ伯玉 行年五十にして四十九の非を知り、六十にして六十化す。」 ※補注) 
の文言に導かれるような機妙を感じながら、この講座を受講させていただきました。

ですから、もう 5年ほどになります。
月1回の半日集中講座で、古典・経書を中心に講じられています。
(‘10.3現在 「荀子」・「論語」・「詩経」・「中庸」) 

伊與田先生(95歳)はじめ 4人の碩学からの感化を受けながら、
貴重な自分自身のインプットをいたしております。

 この“洗心講座”、昨年11月に600回を数え、600回記念誌・『洗心』が発刊されました。

この記念誌に、私と私の門下生も投稿・掲載して頂きましたので、
今回その原稿の一部を交えて、「洗心」と「新」について述べてみたいと思います。

※ 補注)
“キョ伯玉”は、『論語』にも登場いたしますが、
孔子が尊敬してやまなかった衛〔えい〕の国の賢大夫です。
その名言が、これです。『淮南子〔えなんじ〕』という書物に書いてあります。
この本は、春秋戦国時代から漢代にかけての話をまとめた百科全書のような本です。

その意味は、(平均寿命50歳もない時代にあって)今までの49年の人生を全面否定して、
平たく私流に言えば50歳で“人生をリセット”した、ということです。
なかなか出来ないことではありませんか。

そして、リフレッシュして自己改造し進歩向上させ、
60になった時には60になっただけ進歩発展し、自己進化を遂げたという意味です。

現在高齢社会が進展し、我国の平均寿命も80歳を超えようとしています。
私達も、節目〔ふしめ〕節目に“人生をリセット”して、
“70にして70化す”、 “80にして80化す”、 “90にして90化す” ・・・ 
とありたいものです。

 

《 「洗心」に想いをよせて 》

 「顔(/面〔つら〕)を洗って出直せ!」という俗表現がありますが、
“心を洗って出直せ”と言いたくなるような時勢です。

顔の汚れは丁寧に洗い化粧しても、心の汚れには気をとめず、
徳は失くしても、いっかな探す気のない風潮です。

私は、これを“蒙(心の蒙〔くら〕い)の時代”と名付けました。
(真儒協会HP.儒学年表参照) 

21世紀初頭(‘10年)の我国は、“兆し・幾”を読み取れば、着実に
「未来に向かって足早に後ずさりしている」、徳が彷徨〔さまよ〕っている現状です

 さて、愚息が通う中学校(大阪市内)の校長室に「洗心」と書かれた軸が掛けられていました。

私は、乞われて(1年任期の)PTA副会長を2年間務めた関係で、
毎月一回以上はこの書語をかみしめました。

洗心講座でも、(毎月書き換えられる)能筆の案内書看板を観ておりますので、
「洗心」の2文字の言霊・書霊が脳裏に焼き付けられているような次第です。

 「洗心」の語は、『易経』(繋辞上伝・11章)の 「聖人以此洗心。退蔵於密。」
(聖人は此れを以て心を洗い、密に退蔵す)に由来します。

心の汚れを洗うこと、“克己”、“みそぎ〔禊〕”です。

大阪では、陽明学者の大塩中斎(平八郎)が、その私塾や著書の名称に
“洗心洞”を用いたことでも良く知られています。

実際、私なりに『易経』に学び、『論語』に学んでおりますと、
心が洗われるような想いがいたします。

 『易経』 “The Book of Changes” は、変化とその対応の学です。

東洋の源流思想であり儒学経書五経の筆頭、帝王(リーダー)の学です。

四書筆頭、「東洋のバイブル」が『論語』なら、
『易経』は“東洋の奇(跡)書”と呼びたく思っております。

 一昨年の我国の世相を表す漢字一字は、「」でした。
“We can change.”〔変革〕、を唱えたオバマ新大統領を誕生させたアメリカも、
北京オリンピック開催で世界のひのき舞台に上がった中国もまた然りです。

変化・無常は世の常、易にいう「変易」です。

私達は、その変化に善〔よ〕く対応してゆかなければなりません。
日新」・「維新」・「革新」であり、そして「化成」です

 転石、苔〔こけ〕を生ぜず。」
“A rolling stone gathers no moss.”
ということわざがありますが、
英・米でその意味が異なります。

 英流。本来イギリスのことわざです。
苔を良いものと考え(石の上にも三年で)、腰を落ち着けていなければ苔も生えない、との意味です。

英は静止社会で、転職も軽々しくはするなということです。

 米流。イギリスが植民してつくったアメリカでは意味が逆転します。

アメリカは、動的社会。苔を悪いものと考え「流れぬ水は、腐る」で、
いつもリフレシュ、転職するのは力のあるエリート(ヘッドハンティング)ということです。

私には、この英・米それぞれの解釈の違いが、
易では「変易・不易」と統合されているように感じています

 

《 「新」 の深意 》

 そして、昨年の世相を表す漢字一字が、「」でした。

1月にアメリカでは、民主党の史上初の黒人大統領オバマ氏の政権が誕生しましたが、
我国でも 8月(自民党から)民主党への政権交代が実現し、鳩山内閣が誕生いたしました。

この「新」なる大変化は、大きな期待(高支持率)をもって歓迎されました。

このおなじみの「新」について、考察してみたいと思います。

 ところで、“朝日新聞”(と産経新聞)の「新」という漢字が書けますか? と、
時に学生に書かせてみるのですが、これが全く正しくは書けません。

 “立”の下は “木”ではなく、ヨコ棒が2本あります。
この旧字が元字(本来の字)です。

“天下の朝日新聞ともあろうものが、新の字を間違えるとはケシカラン!”と文句をいってきて、
“これが本当なのです”と答えられたという笑話のような話を聞きましたが ・・・ 。

それはともかく。

 「新」の字は、“〔しん/かのと〕”+ “木”+ “斤” です。
斤=斧で、木=立ち木を切り、辛=労力を以て加工し、
新たな価値あるもの(道具や家など)を作るというのが原義です。

したがって、“立”の下は横棒 2本でなければなりません。

 ついでに、“シン”で「」〔おや〕も、「へん」は同様で
「つくり」“斤”の代わりに“見”を書いたものです。

子供のいない親は存在しません。
(子供が生まれて「親」となります。cf.子供が親をつくる) 

立ち木は子供です。
その 木=子供 を自分の生活を犠牲にして苦労して育ててゆく、
24時間 目を離さずに見守っている(とりわけ母)親の姿です。

 また、「」の字も元字は「トク(旧字)」で “目(をよこにしたもの)”と“心”の間に
“よこ一” が必要です。

“直”〔十と 目 と L〕 な“心”の意味だからです。

これらは、漢字改訂で、浅薄にも字義も考えず大切な一画を略してしまったということなのでしょう。


 では、この「新」の深意について、『大学』の文言から 2つ紹介しておきましよう。

○「湯の盤の銘に曰わく、苟〔まこと〕に、た、日々に新たに、又日に新たならんと 。」 
  ── “日進月歩”の日進でなく「日新」です。
  商(殷)朝を開いた英王、湯王〔とうおう〕の洗面台に刻まれ戒めとされていた文言です。
  易卦「風山漸〔ふうざんぜん〕」の、漸進の徳といえましょう。

○「詩に曰わく、周は舊〔旧〕邦なりと雖〔いえど〕も、その命〔めい〕、〔こ〕れたなり。」
  (詩=『詩経』・大雅文王篇)
  ── “明治維新”の「維新」の出典です。
  (破壊の)「革命」 (Revolution)ではなく (創造の)「進化」 (Evolution)です。
  “ ○○ 維新”と安易にネーミングしているのを、時折見聞きしますが、
  さて「維新」のこの本義をどこまでご承知なのでしょうか?

 

《 再び「洗心」に想いをよせて 》

 我国の今の時代状況は、易卦に擬〔なぞら〕えると、
私には「地火明夷〔めいい〕」(徳なき時代・君子の道閉ざされ小人はびこる)の卦象のイメージです。

高齢者の社会=「山火賁〔さんかひ〕」の社会、も急速に進展いたしております。

かかる時代の中にあって、我々はなおさらに汚れざるを得ません。
汚れ・ストレス・老い ・・・ といったものをいかにリフレッシュするか、
それが問題です。

 ちなみに、『宇宙英雄ローダン』という西ドイツの SF小説のシリーズがありまして、
若い頃120・30巻まで読みました。

主人公ローダンは、“相対的不死性”を持ち、
60年に1度細胞活性化シャワーを浴びることで永遠に若さを保つ、
という想定です。

“洗身”ですね。実際、我々の体の細胞は新陳代謝によって3ケ月もすれば、
すっかり入れ替わっているといわれています。

また、執筆する作家のほうも、リレー方式で次々交代します。

ですから、このローダンの SF小説シリーズは永遠に続くというわけです。 

── それは、ともかく。

 要するに、身心を充電し、英気を養い、活性化するといった
“リフレッシュ”が大切ということです。

このリフレッシュ、クリーニングの仕方・工夫、次第で人生は善く永いものとなります。
いかに工夫するかということを“人生哲学”というのでしょう。

この、汚れ・ストレス・老い ・・・ といった異質・対立するものを
止揚〔Aufheben:中す〕して統合するという考え方が「中論」です。
易学」です

「洗心」は、“中する”ことに他なりません。
  
 先述のキョ伯玉の文言のように、人生を全面的にリセットできる場合もありましょう。

タタミの表替えですね。

しかし一般の節目〔ふしめ〕には、クリーニングするために良い洗剤が必要でしょう。
それが聖賢の教え、今は“儒学のルネサンス”だと思います。

そうしてクリーニングしてこそ、「山火賁〔ひ〕」卦の徳で、
古いものもワインのような“味わい”が出るというものです。

 そして、単にクリーニングで旧に復するだけではなく、新しい(時代の)要素を加えたいものです。

それが、易卦の「地雷復〔ちらいふく〕」=ルネサンスの本来の意味であり、
『論語』の「温故知新」の深意であるかと思います

 更に、「洗心」・ルネサンスのためには、変化のなかにあってこそ、
変わらぬもの「一〔いつ〕なるもの」の価値を重視せねばなりません。

“松に古今の色なし”、孔子一貫の道であります。

それは、人間の「徳」であり、徳が形を成した「美」に他なりません

とりわけ、リーダー〔指導者〕たらんとする者は、
潤徳の修養とその教化・感化に努めねばなりません。

 ヘーゲルの名言に、
ここがロドスだ。ここで跳べ!(今、この場所と歴史文化が自分に最上のもの)」
とあります。

結びにあたり、現今〔いま〕私は、改めてこの文言をかみしめつつ 「洗心」し、
真儒協会の“照隅啓蒙 ── もっと光を”の活動に邁進してゆくことを思い想っています。


以 上 


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