黄門さまの“虎変” と 「伯夷伝」
―― 水戸光圀・『大日本史』/司馬 遷・『史記』/「伯夷伝」/
“譲〔ゆずる〕”の徳/虎変・豹変/放伐(革命思想)/古典学習の大切さ ――
《 はじめに ・・・ “水戸黄門” 》
「このインロウ〔印籠:Tokugawa’s classical symbol〕が目にはいらぬか!ひかえおろう!・・・ 」
のステレオタイプ〔紋切り型〕で誰もに知られ親しまれている “水戸黄門”。
現今〔いま〕も昔も大昔も、ずっと人気の(ゴールデンタイム)TV番組で、
主役と脇役を交替・引き継ぎながら“受け継がれ”ているわが国の代表的お話です。
最近も(‘10.4)人気助演女優の 由美かおる さんの入浴シーンが
なくなることがメディアで報じられています。
こういった世相には、ほのぼのしたものを感じます。
番組最後に、この紋切り型〔きまりきった〕の10分間ほどのシーンが毎度繰り返されます。
(遠山の金さん、桃太郎侍なども同様です)。
結末がわからぬ、どんでんがえしするのが当然の欧米の人々には解し難い、
日本人独特の感性でしょう。
今回は、日本、日本人の“こころ”とでもいえる、「黄門さま」 をテーマに述べてみたいと思います。
“水戸黄門”のお話は、無論フィクションです。
が、全くすべてが作り話というわけではありません。
水戸藩主・徳川光圀〔みつくに〕公が実在し、仁徳ある名君であったこと、
“助さん”が実在して光圀公のために諸国をめぐり活躍するのも事実です。
「黄門さま」は水戸藩主の位ある(中納言の唐名)ご隠居さまの呼称ですから何人もいます。
ちなみに、古代エシプトのクレオパトラも 7人います。
みなさんがご存じのクレオパトラは、エジプト(プトレマイオス朝)最後の女王
クレオパトラ 7世のことです。
私たちが、普通言っている水戸黄門さまは、徳川光圀(1628-1700)公を指しています。
光圀公は、明〔みん〕の遺臣 朱舜水〔しゅしゅんすい〕を招き、
江戸藩邸に彰考館〔しょうこうかん〕を建て、『大日本史』の編集を開始しました。
――― この伝説化され、お馴染みの徳川光圀公ですが、
一般にはあまり知られていないエピソードがあるのです。
《 “不良少年”水戸黄門 と 伯夷列伝 》
かの、徳川光圀公(水戸黄門さま)は、少〔わか〕いころ勉強もせず
放蕩三昧〔ほうとうざんまい〕で、周りの人を困らせていました。
今風に平たくいえば“不良少年”だったのです。
ところが、18歳(今なら17歳、高校生くらい)の時、『史記』を読み、
とりわけこの「伯夷列伝」に感動し自身悟るところがあったのです。※注)
そうして変身します。
名君を目指します。
そして、江戸藩邸に彰考館〔しょうこうかん〕を建て『大日本史』の編纂を開始するのです。
ところで、今年(‘10) の12支は虎です。「豹変」はよく知られていますが、
「虎変〔こへん〕」はあまり知られていません。
2つはペアーで、共に易卦「沢火革〔たくかかく〕」
(Revolution :革命の革、あらたまる、かわる)の 爻辞〔こうじ〕です。
5爻辞が「大人〔たいじん〕虎変す」、上爻辞が「君子豹変す」です。
両方とも、毛が生え替わって、虎柄・豹柄が美しく変化するという意味です。
実際、虎や豹の生え替わりは実に見事な美しさです。
ついでに、現在「君子豹変」は、いきなり悪く変わることを指して用いられますが、
明らかに誤用です。
虎も豹も、より立派に変わることを虎変・豹変というのです。
5爻・虎と上爻・豹の違いは、陽と陰(大人と君子/大と小)の違いです。
豹のほうが、しなやかで女性的でしょう。―― それはさておき。
若き光圀公は、この『史記』・「伯夷列伝」との邂逅〔かいこう〕により、
見事、変身=虎変したわけです。
名君(=君子)への道をスタートいたします。
では、その「伯夷列伝」とはどのようなものでしょうか。
※注) 光圀は、兄頼重〔よりしげ〕を超えて水戸藩を継いでいます。
後、34歳で兄の子を養子にし、63歳で隠居して後を継がせます。
別荘を「西山荘」と名付け、そこで73年の生涯を終えます。
《 「伯夷列伝」 》
『史記』は、中国最初の正史〔せいし〕そして、最も秀〔すぐ〕れた史書(兼文学書)だと思います。
宮刑〔きゅうけい:性器を切り取る刑罰〕の苦しみと屈辱に耐えて
司馬 遷〔しば せん〕が完成したものです。
(“司馬 遼太郎”氏が心酔し、司馬 遷には遠く“遼”〔およばない〕と
ペンネームにしたことでも知られています。)
その、『史記』・「列伝」の最初・第一番目が、「伯夷列伝」です。
私は、「伯夷列伝」は、偉大なる「史記列伝」の冒頭を飾るに相応しい話が、
名文でつづられていると感じています。
真儒協会定例講習・本学〔もとがく〕で、昨年度後半、『史記』を扱いました。
以下に、伯夷伝の書き下し文(現代仮名遣い)と大意現代語訳をご紹介しておきます。
なお詳しくは、講習レジュメをご参照ください(‘9.10 −‘10.3 ・第24〜29回)。
(※ 主要引用・参考文献は、新釈漢文大系『史記列伝』(明治書院)によりました。)
(定例講習レジュメは以下URLよりご覧いただけます。
第24〜29回は後日アップの予定です。
→ http://jugaku.net/seminar/index.htm#program )
【 首陽山に餓えて死す/采薇之歌 】
其の伝に曰く、伯夷・叔斉は孤竹君の二子なり。
父、叔斉を立てんと欲す。
父、卒〔しゅつ〕するに及び、叔斉、伯夷に※譲る(譲らんとす)。
伯夷曰く、「父の命なり」 と。遂に逃れ去る。
叔斉も亦、立つことを肯〔がえん〕ぜずして之を逃〔のが〕る。
国人其の中子を立つ。 |
是〔ここ〕に於て伯夷・叔斉、西伯昌〔せいはくしょう〕の善く老を養うと聞き、
蓋〔なん〕ぞ往きて帰せざるやと。至るに及べば西伯卒す。
武王、木主を載せ、号して文王〔ぶんのう〕と為し、東して紂〔ちゅう〕を伐つ。
伯夷・叔斉、馬を叩〔ひか〕えて諌めて曰く、
「父死して葬らず、爰〔ここ〕に干戈〔かんか〕に及ぶは、孝と謂うべけんや。
臣を以て君を弑〔しい〕するは、仁と謂うべけんや」 と。
左右之を兵せんと欲す。
大公曰く、「此れ義人なり」 と。扶〔たす〕けて之を去らしむ。 |
武王已〔すで〕に殷の乱を平らげ、天下、周を宗とす。
而〔しか〕るに伯夷・叔斉之を恥じ、
義として周の粟〔ぞく〕を食〔く〕らわず (は・まず)。
首陽山に隠れ、薇〔び〕を采りて之を食らう。
餓えて且〔まさ〕に死なんとするに及び歌を作る。
其の辞に曰く、
| “彼〔か〕の西山に登り、其の薇を采る。/
暴を以て暴に易え、其の非を知らず。/
神農・虞〔ぐ〕・夏〔か〕、忽焉〔こつえん〕として没〔お〕わる。
我安〔いず〕くにか適帰せん。/
干嗟〔ああ〕、徂〔ゆ〕かん、命之れ衰えたり” と。 |
遂に首陽山に餓死せり。
此れに由りて之を観れば、※怨みたるか、非〔あら〕ざるか。
《 大意現代語訳 》
伯夷・叔斉について伝えられているものは、次のようなものです。
伯夷と叔斉は、(殷の諸侯である)孤竹君の二人の息子でした。
父は自分の後継者として、(弟の)叔斉を位につけたいと思っていました。
その父が亡くなると、叔斉は位を(兄である)伯夷に譲ろうとしました。
伯夷は、「叔斉が継ぐのが父の言いつけである」と言いました。
そして、とうとう(叔斉に位を譲るために、こっそりと国から)立ち去ってしまいました。
すると、また叔斉も位につくことを潔しとしないで(伯夷の後を追って)国を去りました。
そこで、(仕方なく)孤竹国の人々は、
仲の子〔伯夷と叔斉の間の次男〕を位にたてました。
さてそこで、伯夷と叔斉とは、西伯の昌が(仁徳のある)領主で、
隠居したものをよくいたわるとの評判を聞いて、行って落ち着こうと考えました。
ところが、ちょうど行きついたころ、西伯は亡くなりました。
(西伯の息子の)武王は、西伯 昌の位牌を車に載せ
これを文王〔ぶんのう〕とおくり名し、東に軍を進め殷の紂王を伐とうとしました。
(その出発の時)伯夷と叔斉とが、武王の馬(の轡〔くつわ〕を)押さえて諌めて言うには、
「父が亡くなって、葬儀の礼も全うせずに戦〔いくさ/たたかい〕を起こすのは
“孝”といえましょうか。
また、臣下でありながら主君を弑殺〔しいさつ〕 するのが
“仁”といえましょうか。(おやめなさい)」 と。
武王の側近の家臣たちは、この両名を殺そうとしました。
が、太公望呂尚〔たいこうぼう ろしょう〕が、
「この者達は義人である(殺してはならぬぞ)」と言って助けて、
二人をその場から去らせました。
武王が殷との戦いを平定し終えると、
天下(の諸侯)は周を宗主国として仰ぎ統一されました。
伯夷と叔斉とは、武王の(武力革命の)行いを恥ずべきこととして、
義として、周の国に仕えて禄〔ろく〕を得て食すことをせず、
首陽山に隠棲しました。
わらびを採って食べていましたが、(わらびは栄養にならないので)餓えて、
今や死期が迫った時に詩〔うた〕を作りました。
その辞〔ことば〕にいうには、
「(私たちの諫言は容れられず、)私たちは、かの西山に隠棲して
わらびを採って食し何とか生きている。/
(武王は、)自分自身が暴力をもって殷の暴政にとって代わっていながら、
その行いの非道さに気がついていない。/
(古の創国の聖王である)神農〔炎帝〕・舜〔しゅん〕・禹〔う〕などの王道は、
今や全くなくなってしまった。
いったい私たちは、何処へ落ち着けばよいというのか。/
ああ、死ぬしかあるまい。天命は、そのパワーを失ってしまったよ。」 と。
(伯夷と叔斉とは、)とうとう、首陽山で餓死してしまいました。
これらの事実に照らしてみれば、
伯夷と叔斉とは、(その運命や世の中を)怨んでいたのでしょうか、
それとも怨んでいなかったのでしょうか?
《 譲(る) の徳 》
ここでのテーマは“譲(る)” ということです。
“譲(る)”は、儒学で最も尊ばれている徳目の一つです。
『論語』にも、
「夫子〔ふうし:孔子のこと〕は、温・良・恭・倹・譲 以てこれを得たり。」(学而第1)
「譲」の字義を見てみると、言へんに襄。
女へんに襄で、おじょうさんの「嬢」。
音符の襄は、おんなに通じ、はは・むすめ・やわらかいの意義です。
土へんをつけた「壌」は、やわらかくて肥えた土の意です。
初等教育の現場では、シンデレラや桃太郎(主役)が何人も登場するという
キテレツ な発表会が公然と催されています。
電車の席(シルバーシートすら)も、若者が譲らないで居座っています。
ワレもワレもで、“譲(る)”を忘れたわが国の今時、
忸怩〔じくじ〕たる想いがあります。
この「伯夷列伝」にある、国を譲る、
それも恩に着せず自然に(自分がいなくなることで)譲る、
という事は真〔まこと〕に偉大なる徳行です。
私は、青年時代に漢文でこの話を始めて読み、
その後幾星霜〔いくせいそう〕、何度読み返してみても、
味わい胸に迫るものがあります。
これは、多くの読者の遍〔あまね〕くところでしょう。
人生の各ステージ〔段階〕において、
とりわけ少年(少女)・青年期に、これを読み味わうかどうかは
人間形成上まことに大いなる差があるかと思います。
余事ながら、愚息も、小学生の時クラスで “譲り合い” をテーマに
発表し合った時がありました。
他の児童が、電車中での席を譲ることなどを発表する中で、
この伯夷・叔斉の話をしたそうです。
愚息の幼少年期に、なにげなく日常物語ってやっていた話が心の養分になっている、
と父親としてささやかな矜持〔きょうじ〕の想いを持ちました。
なお、古代中国の“譲(る)”故事を加えておきますと。
伯夷・叔斉の故事と同様に、周の大王の季歴の子、
昌〔しょう:後の周の文王、昌の子が発〕に位を譲るために、
泰伯は末弟の季歴に天下を譲ったのです。
「子曰く、泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲り、民得て称する無し。」
(『論語』 泰伯・第8−1)
《 革命思想 》
次に、(周の)武王が紂王〔ちゅうおう〕・殷を滅ぼした
(あるいは、殷の湯王が桀王・夏を滅ぼした)武力革命を、「放伐〔ほうばつ〕」といいます。
中国政治思想では、有徳者が天に代って、
暴君を討伐・放逐するものと考えてこれを正当化しています。
孟子は、「易姓革命〔えきせいかくめい:平和的な禅譲と武力革命の放伐〕」で、
武力による易姓革命を是認しています。
このような武力革命思想は、西洋にもみられます。
イギリスのJ.ロック〔John Locke 1632-1704 〕は、
政府に対する“抵抗権”を認める社会契約説を主張し、
名誉革命(1688、英)を正当化し、
アメリカ合衆国の独立やフランス革命に多大な影響を与えています。
わが国においても、徳川家康の (主君・秀吉から託され引き受けた)秀頼滅殺を、
林 羅山〔はやし らざん:幕府おかかえの儒学者〕が正当化していますね。
このような、儒学(者)による武力革命の正当化はいかがなものでしょうか?
“勝てば官軍”で、勝者の自己正当化とは考えられないでしょうか。
伯夷・叔斉は、儒家思想では天命を受けて周の天下を定めた、
有徳の聖王とされている武王を、
「暴を以て暴に易え、其の非を知らず」と批判しているわけです。
儒学を学んでいる者も、改めて考えさせられるところではないでしょうか。
私が想いますに。“歴史”が、勝者が書いた敗者の評価の記録であることは、
洋の東西を問わず真理です。
現代の世界でも、例えばアメリカは“正義”を掲げて
結局いつも武力による解決をしてきた国です。
が、その普遍性はどこにあるのでしょうか。
“正義”は、アメリカのいう“正義”ではないのでしょうか?
天命であり、有徳者であればよいのですが、
その判断基準は自分・勝者ではないのでしょうか?
《 『史記』 と 『大日本史』 》
『大日本史』は、わが国における『史記』ですね。
情報収集にあたって諸国を飛び回って活躍した“助〔すけ〕さん”の名は
よくご存じかと思います。
『大日本史』 402巻は、光圀とその遺志を継いだ子孫によって、
驚くなかれ262年の歳月をかけて明治29年に完成します。
―― 他に例をみないロマンに満ちた、わが国の誇るべき大文化事業ではありませんか。
ちなみに、『大日本史』にも 『史記』と同じく「列伝」があります。
その文学部の首篇は、「王仁〔ワニ〕」の伝です。
王仁博士は、朝鮮(百済)の人ですがわが国に『論語』 10巻と
『千字文〔せんじもん〕』 1巻をもたらした大学者です。
そのことは、わが国への文字(漢字)=儒学の伝来を意味します。
仏教伝来の影響が大きく詳細に扱われているのに比べて
儒学伝来については不思議と過少扱いされている感があります。
(外国人でありながら)王仁博士をもって、
日本史の元〔もと〕始まりとしているところ、
本〔もと〕を観ぬく慧眼〔けいがん〕、度量の大きさ、
さすがと感服いたします。
《 むすびに ・・・ 古典教育の大切さ 》
現在、わが国の教育は、“古典”を軽視し “偉人” を忘れています。
教育、「蒙」の時代です。
とりわけ、“漢文”・漢学教育はおざなり〔御座なり〕で、
そのなおざり〔等閑〕にすること蒙昧〔もうまい〕なること目に余るもがあります。
―― 亡国の“幾〔きざし〕”でしょう。
私は、以上の光圀公の“虎変”と「伯夷伝」から、
古典の持つ力、感動の持つ力、影響力の大きさを想います。
わけても、青年期の良書(古典)の読書の大切さを改めて想うのです。
( 以 上 )
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