儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2010年10月

第33回 定例講習 (2010年9月26日) 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 宰予 〔さいよ〕 〔1〕 )

§.はじめに (・・・ 宰我と子貢)

宰予〔さいよ:BC.552−BC.458〕、字は子我、通称宰我。言語には宰我・子貢とあり、子貢と共に四科十哲の一人で、弁舌をもって知られています。孔子との年齢差29歳。子貢が孔子と年齢差31歳ですから、宰予と子貢はほぼ同年齢ということです。

『論語』の中に表われている宰予は、子貢とは対照的に悪い面ばかりが描かれ孔子と対立して(叱責を受けて)います。宰予は、孔門の賢く真面目な優等生的多くの弟子の中にあって、“異端児”・“劣等生”・“不肖の弟子”…といった印象を与えています。が、しかし、“十哲”にあげられ、孔子との対立が敢えて記されていることからも(逆に)端倪〔たんげい〕すべからぬ才人・器量人であったと考えられます。孔子も、“ソリ”・“ウマ”はあわなくも、一目おいていたのではないでしょうか。

cf. ≪ 孔子伝・「恕の人」(DVD)※ ≪ 孔子伝・「恕の人」(DVD) ≫

宰我:「先生の道は太陽や月と同じです。誰も見過ごせません。しかし、日が陰り月が欠けるように、先生の道にもまだ何か足りないところがあるのではないですか?」

孔子:「大道を天下に行い広めていくのは天命だ。季節が廻るのも天命、万物が育つのも天命、誤りなどあろうか!」

宰我:「天に誤ちがないなら、人が誤っているのです。もしかすると、先生のお考えにはかたよりがあるのでは?」

宰我:「もし先生に間違いがないのなら、諸侯に間違いがあるのです。」

孔子:「人よく道をひろむ、道人をひろむに非ず。生まれつき道を知る者、学んで知る者、苦しんで学ぶ者、学ばぬ者がいる。生まれつき知る者は賢人だ。私は、賢人でなく学んで知った。苦しんで知る者には教えるべきだが、苦しみを避け学ばぬなら望みはない。諸侯の皆が皆学ばぬということはあるまい。」

( つづく )

 

老子  【4】

黄老の学 あらまし

§.機 圈 嶇兄辧廖‐匆陝   

儒学と老荘(黄老・道家)思想は、東洋思想の二大潮流であり、その二面性・二属性を形成するものです。

国家・社会のレベルでも、個人のレベルでも、儒学的人間像と老荘的人間像の2面性・2属性があります。

また、そうあらなければなりません。

東洋の学問を深めつきつめてゆきますと、行きつくところのものが、“易”と“老子”です。 

―― ある種の憧憬〔あこがれ・しょうけい〕の学びの世界です。

東洋思想の泰斗・安岡正篤先生も、次のように表現されておられます。

 

「東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、どうしても易と老子を学びたくなる、と言うよりは学ばぬものがないと言うのが本当のようであります。

又そういう専門的な問題を別にしても、人生を自分から考えるようになった人々は、読めると読めないにかかわらず、易や老子に憧憬〔しょうけい〕を持つのであります。

大体易や老子というものは、若い人や初歩の人にはくいつき難いもので、どうしても世の中の苦労をなめて、世の中というものがそう簡単に割り切れるものではないということがしみじみと分かって、つまり首をひねって人生を考えるような年輩になって、はじめて学びたくなる

又学んで言いしれぬ楽しみを発見するのであります。」

(*安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収「老子と現代」 p.88引用 )

 

『論語』・『易経』とともに、『老子』の影響力も実に深く広いものがあります。

『老子』もまた、言霊の宝庫なのです。

我々が、日常、身近に親しく使っている格言・文言で『老子』に由来するものは、ずいぶんとたくさんあります。

例えば、次のように枚挙にいとまがありません。 

  • 大器晩成〔大器成〕 (41章)
  • 和光同塵〔わこうどうじん〕 (4章・56章)
  • 無為自然 (7章)
  • 道は常に無為にして、而も為さざる無し (37章)
  • 柔弱謙下〔じゅうじゃく/にゅうじゃく けんか〕の徳 (76章)
  • 柔よく剛を制す (36章)
  • 三宝 (67章)
  • 恍惚〔こうこつ〕 (21章)
  • 天網恢恢〔てんもうかいかい〕、疏〔そ〕にして失わず〔漏らさず〕 (73章)
  • 千里の行〔こう/たび〕も、足下より始まる (64章)
  • 知足(たるをしる) / 知止(とどまるをしる) (33章・44章・46章)
  • 上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水のごとし〕 (8章)
  • 天は長く地は久し (7章)  cf.“天長節”・“地久節”の出典
  • 知る者は言わず、言う者は知らず (56章)
  • 大道廃〔すた〕れて、仁義あり / 国家昏(混)乱して忠臣有り (18章)
  • 禍〔わざわい〕は福の倚〔よ〕る所、福は禍の伏す所 (58章) cf.“塞翁馬”
  • 功成り名遂げて身退くは、天の道なり (9章)
  • 絶学無憂〔ぜつがくむゆう〕 (20章)
  • 小国寡民 (80章)
  • 信言は美ならず、美言は信ならず (81章)
  • 怨みに報いるに徳を以てす (63章) 
    cf.「直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(『論語』) 

・・・ etc.

 

さて、(孔子とは対照的に)老子という人物は、実は、いたかどうかもはっきりしないのです。

が、少なくとも 『老子』(『老子道徳経』) と呼ばれている本を書いた人(人々?)は、いたわけです。

時代的には、儒家が活躍したのと(諸子百家の時代、春秋時代〔BC.770〜BC.403〕の末頃から)、同時代か少し後の時代と考えられます。

 

そして、近年この『老子』に、歴史的な新発見(サプライズ)があったのです

『老子』の現存する最古のテキスト=今本〔きんぽん〕『老子』というものは、8世紀初頭の石刻でした

ところが、1973年冬、湖南省長沙市馬王堆〔ばおうたい〕の漢墓で、帛〔はく:絹の布〕に書かれた 2種の『老子』が発見されました。

帛書老子”甲本(前漢BC.206年以前のもの)と乙本(BC.180年頃までに書写されたもの)です

 

さらに驚くことに、1993年冬、湖北省荊門市郭店の楚墓から、『老子』の竹簡〔ちくかん〕が出土しました。

この楚簡(竹簡)老子は、“帛書老子”よりさらに 1世紀ほど遡るBC.300年頃のものです。

 

こうして、『老子』のテキストは、一気に1000年以上も前にまで遡って、我々の目にするところとなりました。

これ等の研究により、老子研究の世界も、歴史学や訓詁〔くんこ〕学のそれのように、塗り替えられ新たになろうとしています。

 

新発見の具体的一例をあげれば、大器(ハ) 晩成(ス)があげられます。

国語(現代文、古典ともに)で、しばしば登場する文言です。

四字熟語としても、小学生・中学生のころからお馴染みのものですね。

“大きな器〔うつわ〕は夜できる”という珍訳が有名ですが、大きな器を作るのには時間がかかるという(それだけの)意です

そこから敷衍〔ふえん〕して、立派な人物は速成では出来上がらず、晩年に大成するという意味で用いられます。

即戦力が求められ、レトルト食品なみの速成(即製)人間を作りたがるご時世。

心したい箴言〔しんげん〕ではあります。

 

ところが、この「大器晩成」は「大器免成」が本来の意義であったのです

真に大いなる器(=人物)は完成しない、完成するようなものは真の大器ではないということです。

これこそ、老子の思想によく適うというものです。

( → 詳しくは、『老子』本文・解説にて後述。また、※盧ブログ【儒灯】・《「大器晩成」と「大器免成」》をご覧ください。)

 

―― 『論語』の中に、孔子の「温故而知新」(故〔ふる/古〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて新しきを知れば、以て師となるべし)の名言があります。

“帛書老子”・“楚簡(竹簡)老子”の新発見による研究成果も踏まえながら、20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら、「老子」と“対話”してまいりたいと思います。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学してまいりたいと思います

 

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〈 易県龍興観道徳経碑 〉 : 唐708年

 cf.「天網は恢々〔かいかい〕、疏〔そ〕にして漏らさず。」(73章)
    ※不漏 → 不失

 


※  研究   ≪ 黄老(老子)とは? 儒学と黄老 ≫

 

〈 黄老(老子)とは? 〉

「―― (老荘は) けばけばしい色彩はぬけてしまって、落ちついた、渋い味を持ってゐる。

世間の常識的な型を破って、しかもその破格の中に、いかなる常識人にも感得せられるあの大きな独自の型を創造してゐる。

その点世間の何人からも肯定される理性的 reasonable な洗練を特徴とする孔孟型と好い対象であって、しかも危なげのない本格的な点で両々共通なものがある

孔孟の教へと同様、老子の説を *「人君南面の術」 とする漢志の説も妥当である。」

(安岡・『老荘』思想 p.15引用)

cf. 君子南面ス。リーダー・指導者のあるべき姿ほどの意でしょう。相学(家相など)にも応用。

 

〈 孔孟と老荘 〉

「しかしながら孔孟に老荘のあることは、丁度人家に山水のあるやうなもので、これに依って里人は如何に清新な生活の力を與へられることであらう。

自然に返れといふことは、浅薄に解してはとんでもないことになるが、正しく解することさへできれば、文化をその頽廃から救って、人間を自由と永遠とに導く真理である。

拘泥〔こうでい〕し易く頽廃しがちな悩みを持つ人間が、孔孟を貴びつつ、老荘にあこがれて来たのは無理のないことである。」

  (安岡・『老荘』思想 pp.2−3 引用)

 

〈 正しい意味の形而上学 → 『中庸』 〉

「そういう意味で、われわれの人生、生活、現実というものに真剣に取り組むと、われわれの思想、感覚が非常に霊的になる

普段ぼんやりして気のつかぬことが、容易に気がつく。

超現実的な直覚、これが正しい意味に於ける形而上学というものであります。

こういう叡知〔えいち/=英知〕が老子には輝いているのです。」

(安岡・『活学としての東洋思想』所収・「老子と現代」 p.92引用)

 

★ 参 考 : ≪ 儒学&黄老 (カラー)イメージスケール ≫ by.たかね

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中国の思想・文化の2大潮流 = 【学】 & 【黄/老荘】(道教)

 

中国の思想・文化の3大潮流 = 【学】 & 【黄/老荘】(道教) & 【教】

 

中国の思想・文化 = 【儒学】子・子・子 & 【黄老/老荘】 子・子・

 

日本の精神・文化 = 古神道(惟神道〔かんながらのみち〕) & 3教【

( つづく )

 

本学  【 漢文講読 ―― 『春秋左氏伝』 】

*漢文講読の第2回目は、『春秋左氏伝』 〔しゅんじゅう さしでん〕から、「病入 膏肓 〔やまいこうこうにいる〕」を取り上げました。

§.はじめに

“五経”の一つ『春秋』(魯の年代記、BC.722〜BC.481の12代242年間)は、孔子が整理・編集したとされる歴史書です。これに、左丘明が詳しく解説を施して、成立しました。“伝”とは、経書〔けいしょ〕の注解の意です。人物・場面の描写に優れ、その簡潔な表現は、後世の文章家達から模範と仰がれています。

今回は、“病膏肓〔やまいこうこう〕に入る”、の故事でよく知られている部分を採りあげました。「巫」・「夢」・「運命」といった事柄を考察するのに良いと思います。

(なお、本時講義には、多久引一・『多久漢文講義の実況中継』 を多く参照・引用いたしました。)

 

『春秋左氏伝』 ・ 「 病入2 膏肓 」 (病膏肓に入る)

《 漢 文 》   ――  略  ――

《 書き下し文 》 (現代かなづかいによる)

晋の景公、大辧未燭い譴ぁ揚韻鯣錙未劼蕁佑て地に及び、膺〔むね〕を搏〔う〕ちて踊り、大門と寝門〔しんもん〕を壞〔やぶ〕りて入〔い〕る。公懼〔おそ〕れて室〔へや〕に入れば、また戸を壞るを夢みる。|

公覺〔さ〕めて巫〔ふ〕を召す注1) 巫の言夢のごとし。公曰く、「何如〔いかん〕」 と。曰く、「新を食らわざらん」 と。公疾病〔やまいへい〕 なり。醫を秦に求む。秦伯〔しんぱく〕、醫の緩〔かん〕をして之を為〔おさ〕めしむ(※之を為〔おさ〕めしめんとす)。 |

未だ至らず。公の夢に疾〔やまい〕 二豎子〔じゅし〕となり、曰く、「彼は良醫なり。」懼〔おそ〕らくは我を傷つけん。注2) 焉〔いずく〕にかを逃れん」 と。その一〔いつ〕曰く、「肓〔こう〕の上、膏〔こう〕の下に居らば、我を若何〔いかん〕せん」 と。 |

醫至る。曰く、「疾為〔しつ・おさ〕むべからざるなり。」肓の上、膏の下に在り。之を攻むるも可ならず、之に達せんとするも及ばず、薬も至らず、為むべからざるなり」 と。

公曰く、「良醫なり」 と。厚く*が礼を為して*を帰す。 |

六月丙午〔ひのえ うま/へいご〕、晋公麥〔ばく〕を欲す。甸人〔でんじん〕をして之を献ぜしむ。饋〔き〕人之を為〔おさ〕む。巫を召し、示してを殺す注3) ※将〔まさ〕に 食はんとし、張す。厠〔かわや〕にゆき、陥〔おちい〕りて卒〔しゅっ〕す

 

《 現代語訳・解説研究 》

晋の景公は、次のような夢をみました。大きな妖怪(オバケ)が、髪をざんばらにし、―― その髪の毛は地面にまで届いていました ―― 胸を叩いて踊り、大門と寝門(宮中の門の名前)とを壊して宮殿内に入ってきました。景公は怖くて自分の部屋に(逃げ)入ったのですけれども、(その妖怪は、)部屋の戸を壊して入ってきました。(という夢です) |

景公は目が覚めて、巫〔みこ〕を召し出しました。注1) 巫の言う内容は景公の夢のとうりでした。景公は尋ねました、「(わしのみた夢は)どうだろうか?(どんな意味・暗示なのだろうか)」 と。巫が申し上げますには、「(陛下は、)新麦を食べることはできないでしょう」 と。景公の病はひどくなりました。それで、医師を秦国に求めました。秦伯(秦の伯爵)は、医師の“緩〔かん〕”に命じて、之(=景公の病気)を治療させようとしました。| 

(緩が景公のところに)まだ、到着しなかった(時のことです)。 景公の夢の中に、病気が2人の子ども(の妖怪)となって出てきて、言いますに、「彼は名医です。おそらく、私たちを傷つけるでしょう。注2) どこへ逃げたものだろう。」 その中〔うち〕の一人が言いました。「肓(=横隔膜)の上、膏(=心臓)の下にいたならば、(医者の緩は)私たちをどうしましょうか。(たぶん、どうにもできないでしょうよ)」 |

医師(の緩)が、到着しました。(よくよく診察した結果、) 緩が言いますには、「(陛下の)病は治療することができません。(と申しますのも)病因が、肓(=横隔膜)の上、膏(=心臓)の下にあるからです。病巣を攻めようにもできません。鍼〔はり〕治療をしようとしても(危険な部位なので)到達できません。漢方薬も通じません。ですから、治療の施しようがないのです。」 と。景公がおっしゃるには、「あなたは、名医でいらっしゃる。」 と。手厚くその医師(=緩)にお礼をして、その医師(=緩)を国に帰しました。 (*」=医師・緩) |

六月丙午の日〔旧暦の 6月7日、今の暦で 7月10日から14・15日ごろ〕、晋公は、新麦を食べようとしました。(農場の)役人に命じて麦を献上させました。料理人が食事の調理をしました。(晋公は、)巫を呼び寄せて、(麦飯)を示して、巫を殺しました。注3) 晋公は、麦飯を食べようとして、腹が張り(便意をもよおし)ました。厠(=便所・トイレ)に行って、(糞便の中に)落ちて亡くなりました(糞死?)。

・「壞大門寝門」:
「大門と寝門とを壞りて」(並列の公式)
Aト 与〔と〕2 B1 (AとBと)、「与」=「及」

・「不食新矣」:
新麦を食べることはできない → 新麦を食べる(時節の)前に、景公は死ぬという予言。新しい麦は、初夏の穫り入れです。

・「焉逃」:
「之」は、漢文でよく用います。語調で、特に意味はありません。

・「何如」 と 「若我何」: 
何(若・奈)如は、“いかん”とよみ、疑問、「どんな〜か」
若(如・奈)何は、“いかんセン”とよみ、手段・方法・処置、「どうするか」・「どのようにするか」
目的語【我】は、若何の間に入れます。目的語には、・・・ヲ、若何のあとには ・・・センをつけます。

cf.「 力抜レ山兮気蓋レ世  時不レ利兮騅不レ逝
騅不レ逝兮可2奈何1  虞兮虞兮奈レ若何 」(『史記』・「四面楚歌」)
*〔虞や虞や若〔なんじ〕を奈何〔いかん〕せんと

・「将食、張。」:
「食べる」は、古文では「食らふ」。「将食」は、“まさに食〔くら〕はんと”。「将食、」は、“まさに食〔くら〕はんと”。
【「。」句点 → 「す」は終止形の「す」】
【「、」読点 → 「す」は連用形の「し」】
*サ行変格活用・ ―― 【せ//す/する/すれ/せよ】

・「陥而卒」:
「陥〔おちい〕り」は、“陥り、しこうして”の “て”が上にあがり、語調で「陥りて」になりました。「卒〔しゅっ〕す」は、貴人の死の場合の用います。
ちなみに、当時の厠(便所・トイレ)は、プールのように(糞尿が)蓄えられたものでした!

 

注1) 「巫」: みこ・かんなぎ医師

  • “神と人との感応を媒介する者。神に仕えて人の吉凶を予言する者” (広辞苑)
  • 最初は男女ともに巫〔みこ〕、後には女性を巫、男性を覡〔げき〕といいます。「巫覡〔ふげき/ぶげき〕」。
  • 「巫」の字は。上の横棒があの世、下の横棒はこの世。中間は、*榊〔さかき〕や数珠を持って踊るような形です。あの世から、霊魂を降ろす(神降ろし)スペシャリストです。

    cf.*わが国、神道〔しんとう〕(=神社)では榊〔さかき〕、仏教(=寺)では樒〔しきみ・しきび/梻〕。
    *巫女のことを、(ダンサーが役割の中心との視点から?)神楽女〔かぐらめ〕とよんでいる神社もあります。

  • 日本では、「巫」は女性のみ。なぜかは不明です。(女神)天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕や邪馬台国の女王・卑弥呼〔ひみこ〕が有名ですね。

    「倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃〔すなわ〕ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰う。*鬼道を事とし、能〔よ〕く衆を惑わす。」
    (『三国志』・「魏志倭人伝」)

    *鬼道=呪術〔じゅじゅつ〕、鬼道を事とし→ 呪術師〔じゅじゅつし〕/シャーマン

注2) 余事ながら、私は、現代の“病占”の卦の解釈の考え方を連想しました。というのも、この病気(二豎子)が傷つけば、病人(景公)の病気が治るということです。つまり、(病人ではなく)病気そのものを主体として、得卦の判断をするという考え方です。

注3) 「召巫、示而殺。」の「之」は、「巫」のことです。新麦飯を示して、新麦を食べる(時節の)前に、景公は死ぬという予言が外れたではないか。デタラメ・けしからんことを言いおって! とばかりに殺したということです。
古代(農耕)社会において、「巫」(シャーマン)は、その特殊能力(占・呪術)による神秘性・カリスマ性から、絶大な権威と権力を有していたと考えられます。中国の伏犧〔ふつぎ・ふつき・ふくぎ/包儀・ほうぎ〕やわが国(邪馬台国)の卑弥呼〔ひみこ〕然りです。しかし、その“占・呪術”は、命がけの真剣なものであったと想像されます。万が一にも、外せば権威は失墜し、ここに書かれているように、その地位ばかりか生命もなかったことでしょう。安易な(アテモノ的)俗易者とは、大いに異なる所以〔ゆえん〕です。

( 完 )

 

易経  執筆中 )

 


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第32回 定例講習 (2010年8月29日) その3

こちらは、前の記事の続きです。

本学  【 漢文講読 ―― 『晏子春秋』・〔2〕 】

*(『晏子春秋』 〔あんし しゅんじゅう〕から、「景公病水 〔けいこう みずをやみ〕」の続き」

解説と研究

≪盧補論≫

■ 『論語』 にみる晏子

○ “子曰く、晏平仲は善く人と交わる。久しうして(人)これを敬す。 (公治長・第5−17)

晏平仲( ?〜BC.500)、名は嬰〔えい〕、字は仲、諡〔おくりな〕は平。通称、晏子。“管仲・晏子”と並び称される(春秋時代)斉の名宰相です。

『論語』のこの章は、孔子が晏平仲を賛美したものです。人はたいてい、久しく交際すると、敬意が衰え侮るものです。が、(晏平仲というより)人は、年が経つにつれても、敬意を失わなかったのです。 ―― 久敬という言葉がありますね。

故・安岡正篤先生も晏子を褒めておられます。この『論語』の章は、『小学』にも取り上げられています。(稽古第4) その『小学』の解説の中で次のように述べられています。

「これは実に嬉しい人ですね。そして非常によくできた人です。『一狐裘〔こきゅう〕30年』といって、同じ着物を30年 ―― いつまでもという意味ですが ―― 着ておった、そういう辺幅〔へんぷく〕を飾らない人で、風采もあまり上がらなかったらしい。しかし実に尊い叡知〔えいち〕と友情〔ゆうじょう:情・心のあること〕に富んだ人であります。」
(安岡正篤・「人間をみがく 『小学』を読む」引用)

cf. 安岡先生が、(高弟の)伊與田覺先生に宛てた手紙の一節です。
「能く云う者はあれども能く為す者は少く、能く為す者はあれども能く久しうする者は更に少くして人愈々〔いよいよ〕敬を加ふるは至って稀に候」
(伊與田覺・『安岡正篤先生からの手紙』/※新刊です)

■ 陰陽五行思想の基本解説

古代東洋(中国)の源流思想は、“陰陽相対(相待)論”と“五行思想”です。易の思想は、陰陽相対(相待)論が基本です。

○  陰陽相対(相待)論  :

万物を陰と陽で捉える・分ける、二元論です。※注) それと同時に、陰陽は相対(相待)的なもの、立場によって変化するものです。

たとえば、「母」は、父・夫・男性の陽に対しては【陰】です。しかし、親子関係でみると、親である母は子供(息子・娘)に対しては〔同一人物にもかかわらず〕【陽】です。

この話に関しては。「日」〔太陽〕は、(月の陰に対して)【陽】。/水は【陰】で火は【陽】 ※易で水は病気(「坎〔かん〕」の象意)、火は日=太陽、明智(「離〔り〕」の象意)。/病気(の人)は、【陰】、健康・元気(な人)は【陽】。

※注) 現代のコンピューターも、「0」と「1」(スイッチのONとOFFです)の二進法です。易とコンピューターは時代を隔てて不思議な一致を見せています。

○  五行思想  :

宇宙・世界を、木・火・土・金〔ごん〕・水 の5つのエレメント〔要素〕で、類系だてて考えるものです。(西洋・古代ギリシアは、四元素説)、この 5つに森羅万象をあてはめます。 そして、この 5つを、相生〔そうしょう〕・相剋〔そうこく〕・比和〔ひわ〕 の関係で捉えます。

「 木 → 火 → 土 → 金 → 水 → 」の順で、生じる関係、隣同士が相生関係です。相剋は、木・火・土・金・水 で “一つおき” の関係で、木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木、で剋し剋される関係です。 比和は、木=木 のように同じ・同根〔どうこん〕ということです。

この話に関しては。五行と臓腑(臓器)では、腎臓(や膀胱)に代表される泌尿器系が「水」です。その「水」は、「火」(=日・太陽)を剋します。水で火を消します(火は消されます)。しかし、火が強力な場合は、水の方が蒸発してしまいます。つまり、“焼け石に水”は、 1)水で焼け石が冷やされる場合と、 2)水の方が蒸発してしまう場合、があるということです。陰陽相対(相待)論と同じく、相対的思考にたどりついて現実をより深く捉えているのです。

―― 但し、この話の当時(春秋時代末頃)、この五行思想が内容的にどの程度にまで、深められ普及していたかは微妙なところかと思います。

●イラスト●

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五行 (木) (火) 《土》 【金】 【水】
臓〔 肝臓 心臓 脾臓 肺臓 腎臓
腑( 胆嚢 小腸 大腸 膀胱
      

( 臓腑と色の五行表 )

 

■ 夢について

1)神秘的なもの ・・・ 予知夢、お告げ、夢占い

2)「夢の持つ物語性」(高根) ・・・ 文学

3)フロイトによる“心”の世界の解明 ・・・ 深層心理学、精神分析学、夢分析

ex.荘子の「胡蝶の夢」/『枕中記』/『三国志』(吉川栄治)ex.頭にツノの生えた夢の解釈 ・・・

 

■ 「景公病水 … 」

―― 登場する人物の考えがどのようであったのか、検討し整理してみましょう。

1)  景 公  ⇒
結論 【たぶん、自分が死ぬという“夢のお告げ”だろう。(正夢) どうしよう! でも、ひょっとしたら違う(逆夢)かもしれない?】

・ 「夢与二日闘、不勝」(夢に二日と闘ひて、勝たず。)

A.単に、2つの太陽という「敵」と闘って負けた。
→ 戦争の時代。負け=死。

B.日(太陽)=陽(それが2つ)、自分は腎疾(病気)だから陰。
→ 陰は陽に勝てない。

∴ 病が治らず、死に至るのか?(日本流にいえば、正夢か? 逆夢であればよいのだが。)

※【陰】を(普通に)病人自身とみているところに要注意。

 

2)  夢占ふ人  ⇒
結論 【景公は重篤・ダメだろう、死ぬだろう。でも、晏子に逆らって罰せられるのもかなわないナ。言われるようにしておこう。】

A.病の景公は【陰】。本来、「水」(陰)は「火」(陽)に勝つが、2つの陽なので強力。あるいは病気で弱っている陰なので。

B.単に夢の結論が、「景公が勝てなかった」のだから、病気は治らない(俗論)。

C.医学の発達していなかった当時、専ら死に至ったであろうから死ぬと応えたほうが無難ではある。

※【陰】を(普通に)病人自身とみているところに要注意。

・ 「請ふ、其の書を反〔かえ〕さんことを」となぜいったのか?

→ 自分の解釈(内容的に良いものではないし)を、正当化・権威づけしようとした。(裁判の判例みたいなものか)

・ 「此れ臣の力に非ず。晏子臣に教ふるなり」となぜいったのか?

→ マイナス、悪い結果であった時の責任逃れ。(私は、晏子様のおっしゃるとうり言わされただけです)

 

3)  晏 子  ⇒
結論 【夢判断の定説では、病状は重いのだろう。だが、運命も夢判断も定まったものではない。景公には回復してもらわねばならない。この夢を起死回生の妙薬としてやろう!その最良の方法はというと ・・・ ☆! まず、正夢を逆夢にする夢解釈。次に、それを権威づけして景公に思い込ませることだ。(心理療法)】

POINT
晏子は、夢占い人の判断(当時の陰陽五行思想の定説)を見抜いています。そして、その判断・解釈がマズイものと見抜いているのでなければ、夢占い人にストップをかける必要はないわけです。

・ 「シャープで合理的な晏子の解釈:
「二日」は、2つの太陽=2つの陽 / 疾病は、腎臓(泌尿器系)なので「水」=陰・1つの陰
cf.例えば心臓(循環器系)の疾病ですと「火」 = 陽です。
1:1ならば、「水剋火」で陰が勝ちますが、2:1なので陽がかち陰が負けます。病気が負ける・死ぬ、ということは病人(景公)は元気になるということです。

※【陰】を病人自身ではなく、病気(腎疾)それ自体とみているところに着目。結論がまったく、180°逆になります。

 

4)  高根小考  ⇒
結論 【 正・逆両方考えられる → 景公は回復すると解したい。解するべきでしょう。】

A.フロイト的夢分析(?): 2つの腎臓【陰】に対する2つの太陽【陽】

B.病占の考え方: 主体を人物でなく病気そのものと見る。つまり、

・ 吉卦あるいは勝つ卦は、病気が勝つ → 治らない。

・ 凶卦あるいは負ける卦は、病気が負ける → 治る。

晏子が、主体を景公の病気そのものにすり替えたのは、卓見です。が、1対2としたところ ・・・・・・

(追補)

・ 病占判断について :

・ 腎疾について :

・ 心理療法について :O.ヘンリー「最後の一葉」

 

易経  執筆中 )

 


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第32回 定例講習 (2010年8月29日) その2

こちらは、前の記事の続きです。

老子  【3】

◆プロローグ :

は じ め に

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横山大観 *16): 「老君出関〔ろうくんしゅっかん〕」 (1910、三幅)

§. 《 「老耼〔ろうたん〕 道を行く」 (高村 光太郎・『道程』より) 》

老耼〔ろうたん〕*1、 を行く

眤次仝太郎

象〔ぞう〕のように耳の大きい老先生は *1)
水牛の上にまろくうずくまり、
時の歩みよりもひそかに  太虚の深さよりも物しずかに、
晴れ渡った秋の日ざしにとっぷり埋〔うも〕れて
どこまでもつづく陝〔せん〕の道を西へ行く*2)

凾谷関〔かんこくかん〕でかいた五千余言の事だけが *2)
老先生のちょっと気になる。

莽莽蕩蕩〔もうもうとうとう〕、
黄河の水が愚かのように東に流れる。*3)

 

老先生は鬚〔ひげ〕もじゃの四角な口を結び、
大きなおでこの下の小さな眼をあげる。

河岸のまばらな槐〔えんじゅ〕林が黄ばみ落ちる。

黄土の岩に秋の日はあたたかく、  人も通らず鳥も鳴かない。

風景は老先生の心を模倣し*4)
自然は老先生の形骸をよろこび迎える*4)

わしは堯舜〔ぎょうしゅん〕の教えを述べるに過ぎない*5)
坦坦〔たんたん〕たる道を示すに過ぎない。

天下の百姓〔ひゃくせい〕の隠れた生活を肯定〔こうてい〕し*6)
星宿その所に在〔あ〕るを説くに過ぎない。

世を厭〔いと〕うのでなくて、  世にもぐりこむのだ。

 

世は権勢のみで出来ていない。

綿綿幾千年の世の味わいは百姓の中に在る*7)

わしが逆な事ばかり言うと思うのは *8) 
立身出世教の徒に過ぎない。*9)

其の無に当たって器の用有るを悟〔さと〕る者が *10)
満天下に充溢〔じゅういつ〕する叡知〔えいち〕の世は来ないか。

為して争わぬ事の出来る世は来ないか。*11)

ああそれは遠い未来の文化の世だろう。

人の世の波瀾〔はらん〕は乗り切るのみだ。

黄河の水もまだ幾度か干戈〔かんか〕の影を映すがいい。

 

だが和光同塵も夢ではない。*12)

わしの遺〔のこ〕した五千余言よ人をあやまるな。

わしのただ言〔ごと〕よ奇筆とは間違えられるな。

わたしの教えよ妖教の因〔もと〕となるな*13)

わしはこの世にもぐりこんで死ぬ。

 

竜となって天に昇ったなどと人よ思うな*14)

白い小さな雲が南の方泰嶺〔たいれい〕に一つ浮かんで、
自然にわいたままじっとしている。

老先生は溶〔と〕けたようにそれを見ている。

(「程〔どうてい〕」以後より)*15)

《 たかね下線部・注 解説 》  

*1) 老子は、姓は李〔り〕、名は〔じ〕、字〔あざな〕は伯陽、諡〔おくりな〕を耼〔たん〕。と、いわれています。が、私はおそらく「耼・タン」も字ではないかと思います。(というのは、その死が定かではないわけですから ・・・) 耼・タンとは、耳の長いという意味ですから、老子は耳が長く・大きい人だったのでしょう。

*2) 老子が乱世を遁〔のが〕れ、関(凾谷関あるいは散関)に至った時、関令の尹喜〔いいん〕に求められるままに書いたのが五千余言からなる『老子道徳経』です。その後老子は、その書を渡して関所を去り西方への旅を続けたといわれています。そして、その行方〔ゆくえ〕はようとして知れず、どこで没したかその後の消息を知る者はありませんでした。(by.司馬遷・『史記』) 陝〔せん〕は、陝西省。省都の西安は「長安」と称して、周王朝以来幾度も国都となりました。

*3) 老子は「水」(=川)を思想・処世術の象〔しょう〕=お手本 と考えました。また「無知・愚・愚昧」なあり方を説いています。悠游〔ゆうゆう〕たる黄河は、(賢しくではなく)愚かに流れなければなりません。この“愚の思想”は、非常に大切です。
孔子もまた、よく「愚」を解し、「愚」を高く評価していた人であったと考えられます。
「子曰く、寗武子〔ねいぶし〕、邦〔くに〕に道あれば則〔すなわ〕ち知、邦に道なければ則ち其の知や及ぶべく、其の愚及ぶべからず。」(『論語』・公冶長第5)
自分(=孔子)は、頭の良いところは真似ができるけれども、(彼の)その“バカさぶり(ばかっぷり)”には、とても及ぶべくもない、というおもしろい一節です。

cf.『戦争と平和』で知られるロシアの世界的文豪であり思想家の レフ・トルストイ (LN Tolstoi,1828〜1910)も老子を非常に高く評価しています。その晩年の民話的寓話〔ぐうわ〕作品イワンのばかは、老子の“愚の思想”・“愚の政治”をお話にしたものです。

cf.安岡正篤氏は、「愚」について次のように述べておられます。こういう“愚の思想”は、日本にもよく伝わっており、民間の口碑・伝説、その他格言などにも残っております。それらの中で最も普及しているもの(同時に“常識の誤解”しているもの)を2・3、折に触れて紹介されています。たとえば。

A)「馬鹿殿」: バカな殿様ではなく、“名君”のことをアイロニカルに表現したもの

B)「糠味噌女房」: 糠味噌〔ぬかみそ〕漬けの上手な女房は至れる女房。女房礼賛の話
※「糟糠〔そうこう〕の妻 堂より下さず」(『後漢書』・宋弘伝)

C)「女房と畳は新しいほど好い」: 畳は畳表〔タタミオモテ〕を裏返しし、更に畳表のみ取り替えるなどしてリフレッシュする。老子的“生活の芸術”です。今は亭主も同様にあれ!

*4) 「自然」・「無為自然」。老子は天地自然との一体を説きました。それはまた、(生命・生死の)“循環の理”でもあります。

*5) 老子も孔子と同様、善き古〔いにしえ〕をお手本としています。(=尚古思想)

cf.「子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。」(『論語』・述而第7)

*6) 「百姓」は、〔ひゃくしょう〕ではなく〔ひゃくせい〕と読み、一般ピープルの意です。老子のユートピア思想は「小国寡民」(80章)であり、「静」か(26章)で穏やかな村落共同体での生活を善きこととするものです。

*7) “営々”とくりかえし営まれる(循環)社会・民衆中心の思想・自由の尊重 ・・・を感じます。

*8) 『老子』の中には、「逆説の真理/論理・論法」とでもいえる箴言〔しんげん〕・慣用句の類がたくさん登場しています。

*9) 儒学(儒家)を指しています。儒学は、現実的で、“修己治人の学”・“終身・斉家・治国・平天下の道”(指導者・リーダーの養成)を説きます。老荘は儒学への批判的立場です。

*10) 老子のいう「道」を体得した者の意でしょう。すなわち、「無の発見」・「空虚の効用」(11章):器物の働きは空虚あればこそ(仕事・心であればゆとり、空間設計であればアキ)のことです。

cf.安岡正篤氏の一番よく愛用された雅号が「瓠堂」〔こどう: 瓠=ひさご/出典『荘子』・逍遥遊篇〕です。

*11) 「不戦」・「不争」 の思想です。『老子』 5000余言は、「道」にはじまり「不争」に終わります。

*12) 「和光同塵」(其の光を和らげ、其の塵〔ちり〕に同ず):老子の道のあり方(4章)であり、聖人のあり方(56章)です。

*13) 老子(黄老)の思想は、儒学における易学同様最古にして本格的なものです。が、インド仏教が民衆に普及するにつれて、道家との交流が著しくなり“道家の仏教化”がおこります。道家は通俗道学となり、「道教」という特異の宗教となってまいります。そして、世紀末的な民衆のもとでは老子(黄老)は老荘となり、やがて頽廃的なものに堕落してゆきました。

cf.常格や平凡に飽いて、とかく奇を好み異を愛する人情からすれば、荘子ほどおもしろいものはない。まして現実のあらゆる不快不安に悩まされて、疲労倦怠に陥り、深刻な懐疑を抱いて、時代に嫌悪と自嘲さへ感ぜざるを得ぬような世紀末的な民衆になると、黄老は勢ひ老荘となり、その老荘も次第に頽廃的なものに堕落してゆくことは魏晉の例によっても明らかである。」  (安岡安岡正篤・『老荘思想』 p.16引用)

*14) 司馬遷の『史記』(「老子・韓非列伝」)に、いわゆる「老子物語(伝説)」が書かれています。―― それは、ある時、老子(老耼)のもとを(当時既に、教育・道徳家として名声の高かった)若き日の孔子が訪れ教えを乞います。孔老会見」(孔子問礼です。孔子は、貴重なアドバイスを受け感激して魯〔ろ〕の国に帰ります。そしてその後、弟子たちに、よく老子をほめてしみじみと言いました。 曰く。
「(私にも)鳥が飛べるということはわかっているし、魚が泳げるということはわかっているし、獣が走れるということはわかっている。走る者が相手なら網で捕えればいいし、泳ぐ者が相手なら綸〔いと=釣り糸〕で捕えればいいし、飛ぶ者が相手なら矰〔いぐるみ=ひもをつけた矢〕で捕えればいい。が、相手が(霊獣の)龍で、(龍は)風雲に乗じて天空に昇り(時に飛翔し時に雲間に隠れるのであれば)私の理解を超えている。(如何ともし難い/捕えようがない。)今、私は、老先生にお会いしたが、老子というのはまるで龍のようなお人だナァ!
(吾、今日〔こんにち〕老子を見るに、其れ猶〔なお〕龍のごときか。/“To-day I have 
seen Lao Tzu; he is like the dragon.(Gowen)” )
龍は“陽”の化身ですが、三棲するといわれています。地上にいたり、深淵に潜んだり、雲間に隠れたり、天空を飛翔したり、と捉えどころがないの意でしょうか。あるいは、スケールが大きすぎて圧倒されて推し量れないの意でしょうか。

*15) “道程”は、本来、みちのり・行程のことですが、もちろんここでの“道程”は道路のことではありません。  「ぼくの前に道はない  ぼくの後に道はできる  ――  」 (『道程』)

*16) 横山大観 : 1868−1958。老子像、荘子像(包丁〔ほうてい〕)、「被褐懐玉」〔ひかつかいぎょく: 『老子』第70章による〕、伝説の隠者・「寒山拾得」〔かんざんじっとく〕。「生々流転」〔せいせいるてん〕は、大観水墨画の集大成・畢生の大作です。―― 木々の葉の露が、雨が小さな流れをつくり川となり、川は川幅を増しながら大海に流れ注ぐ。さざ波から荒れ狂う波となり、昇天する飛龍は・・・(水蒸気は雲となり雨となり) という天地自然の偉大なる“水の循環です。まさに、老子の世界です。
そして、“龍”は「易学」の世界でもあります(【乾為天】)。「双龍争珠」・「龍蛟躍四溟」〔りゅうこうしめいにおどる〕などの名作があります。“龍”は東洋の精神と西洋の科学を象徴するものともいわれています。
「大観」の雅号(本名:秀麿)は、一説には法華経の「観世音菩薩普門品」の「広大智慧観」の2文字を採ったとされています。「観」のルーツを考えてみると、易卦に【風地観】があります。【観】は精神性をいう卦で、第3の目・心眼でみるという意です。ちなみに、松下幸之助氏のブレーンに“加藤大観”という名の僧侶がいたかと思います。
※(本稿、横山大観の作品・文章の引用は、別冊太陽142・『気魄の人 横山大観』・平凡社に統一いたしました)

 

 コギト(我想う) 

東洋において、芸術(家)と老荘思想(家)の間には密接な繋がりがあると思います。(詳しくは、安岡正篤・『老荘思想』/「学問・芸術・宗教」を参照ください)

○「老荘思想が前述のやうに本来多分に芸術的であるため、後世老荘家に芸術家が多い。また文人画家にして老荘を愛さぬ者はないといって過言であるまい。」

(安岡正篤・『老荘思想』 p.112引用)

わが国の芸術家では、私は、画家の*横山大観(老子画像・荘子画像をはじめ、童子を描いた「無我」、水の変態・循環を描いた畢生〔ひっせい〕の大作「生々流転」など)、と詩人・彫刻家の高村光太郎がすぐに思い浮かびます。

さて、老荘思想と芸術との密接不可分の関係は、私はまず、“右脳のはたらき”がかかわっているのではないかと考えています。

右脳は、感性・情緒を担当する脳であり芸術・創作活動と直結しています。

易(平行思考)や老荘という形而上学〔けいじじょうがく〕を思考する分野と重なっているのでしょう

それはまた、“覚〔さとる〕”・“覚知〔かくち〕”の世界を含んでもいるのでしょう。

今一つは、東洋の芸術の世界が、“自然”と一体・“無為自然”であり(西洋芸術は人間と自然が対峙しています)、老荘思想のそれと重なるからなのかも知れません。

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横山大観 : 「生々流転」


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)

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第32回 定例講習 (2010年8月29日) その1 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔5〕 ) ※最終

2) 理想的指導者〔リーダー〕像 ・・・・ 政治・経済の要〔かなめ〕:“民 なくば立たず

○ 「子貢・政〔まつりごと/せい〕を問う。子曰く、食を足(ら)し、兵を足(ら)し、※民は之をにす。(民をしてこれをぜしむ。) 子貢曰く、必ず已〔や〕むを得ずして去らば(す・てば)、斯〔こ〕の三の者に於いて何をか先にせん、と。 曰く、兵を去らん、と。 子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二の者に於いて何をか先にせん、と。 曰く、食を去らん、と。古より皆 死有り、※民になく(ん)ば立たず、と。」    (顔淵・第12‐7)

【 子貢問政。 子曰、足食、足兵、※民信之矣。 | 子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。 | 子貢曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死。※民無信不立。 】

《 大 意 》
子貢が、政治(の要〔かなめ〕)についてお尋ねしました。孔先生がおっしゃいました。「食糧を充分にし、軍隊を充実させ、※A.人民に信(義)を重んずるようにさせることだ。( B.人民に為政者を信頼させるようにすることだ。)」と。
子貢が尋ねました。「どうしても、やむを得ずに切り捨てるとしたら、この三つの中でどれをさきに切り捨てますか。」 と。 先生はおっしゃいました。「軍隊を捨てよう。」 と。
子貢が(さらに重ねて)尋ねました。「また、どうしても、やむを得ずに切り捨てるとしたら、この二つのうちどちらをさきに切り捨てるべきでしょうか。」 と。 先生はおっしゃいました。「食を捨てよう。(食を捨てれば人は餓死することになるけれども)昔から、誰にも死というものはあるのだ。この人の世に信義・信頼というものがなければ、(そもそも)政治(=社会)は成り立たないヨ。」 と。

《 解 説 》
この問答、凡庸を超えて、子貢ならではの問いであり孔子ならではの答えといえましょう。これは、政治・経済の要〔かなめ〕を示した名言であり、儒学の理想的指導者〔リーダー〕のあるべき姿が示されているといえます。
“経済生活の安心”と“国防の安全”と“道義教育の完成”の3つは、当然に、古〔いにしえ〕も現代も変わらぬ普遍的な政〔まつりごと〕の要諦〔ようてい〕です。“安心”・“安全”の生活の文言は、政治家の公約・スローガンにもよく見かけますね。そして、この3つの要の優先順位を、孔子は 癸院嵜」(道義教育) 癸押嵜」(経済) 癸魁嵎次廖聞駛鼻法,箸靴燭里任。実に達見です。経済も国防も一〔いつ〕に「信」にかかっているということです。しかるに現代の日本は、癸欧痢嵜」(経済)の一辺倒で、癸海痢嵎次廖聞駛鼻砲和称亘楷蠅派埆縞、癸韻痢嵜」に至っては忘却され、3番目にもなってないがごとき有様です

「民信之矣」は、“民は之を信にす”と読めば「之」は民を受けて“人民に信(義)を重んずるようにさせることだ”と解せます。次に“民をしてこれを信ぜしむ”と読めば、「之」は為政者を指して“人民に為政者を信頼させるようにすることだ”と解せます。この「民信之矣」の上に「使」や「令」の使役の文字がある本もあります。(後述「民可使由之。不可使知之。」参照のこと) 私は、どちらも孔子の真意・深意を得たものと考えます

「民無信不立」: 「無」=「不」。∴「民不信不立」=「民不信則不立」

cf.中江藤樹(近江〔おうみ〕聖人) と “徳治主義” のエピソード
→ 中江藤樹が住む村の人々は、藤樹の教えに感化されてよく徳が行き渡っていました。ある時、藤樹の村に在住の馬子〔まご:現代のタクシードライバー〕が、大金を置き忘れたお客をはるばる探し出しお貨幣〔かね〕を届けました。そして、お礼のお貨幣を決して受け取ろうとはしませんでした。・・・
*現代の日本でも地方によっては、農産物などの“無人販売”が行われている地域があります。 都市部の路上(屋外)に無数ある“自動販売機”の存在も諸外国の人々は、(日本の治安・道徳の良さに)驚きます。

cf.「衣食足りて礼節を知る」 (『管子』)/「人はパンのみ生きるにあらず」(イエス・『聖書』)/ 孟子: 「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の」 / “五常”: 仁・義・礼・智・ /道徳的パワー: 「自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往かん。」(『孟子』・公孫丑〔こうそんちゅう〕上の中の曾子の言葉)

次に、『論語』の権威でもあり東洋思想の泰斗〔たいと〕である故・安岡正篤先生の記述をピックアップしてみましょう。

≪ 民無信不立 ≫ 〔民に信なく(ん)ば立たず。〕 (顔淵・第12‐7)

「実に大識見であります。――(中略)―― 信とは良心に従つて変ぜぬことです。人と約して違はぬことです
そこで子貢がどうにもやむことを得ずして、この三者のうちどれかを犠牲にしなければならないとしたら、まづ何から去りませうかと申しますと、孔子は兵を去らう、すなはち軍備・武力これを犠牲にしよう。さうすると子貢はたたみかけて、もしどうにもならなくて、尚このいづれかを去らねばならないとすれば、『食を足らす』と『民は之を信にす』と、いづれを先にいたしますか。深刻ですね。普通ならば、信を棄てる外ないといふところでせう。孔子は『食を去る』、すなはち経済活動を犠牲にするほかない。人間といふものは昔から皆死ぬものだ。しかし死に代り、生き代つて、かうして続いてをる。しかしこの信が人間から無くなると、人間は存立することが出来ない。たとへ武力を去り、経済生活を犠牲にしても、最後まで失ふことのできないものは、信であると断言したのであります。」
安岡正篤述・『朝の論語』(明徳出版社) / 第13講「食と兵と信」参照 (pp.155 − 156)

≪ 民可使由之。不可使知之。 ≫
〔子曰く、民はこれに由〔よ〕らしむべし。これを知らしむべからず。〕
(泰伯・第8‐9)

「これは孔子が当時の政治家・為政者に対して与へられた教訓であります。民は之に由らしむべしといふこの「由る」は、民が信頼するといふ意味でありまして、その由らしむべしとは信頼せしめよといふ命令のべしであります。知らしむべからずとは、知るは知る・理解する意味であることは勿論、べからずとはむづかしい、できないという可能・不可能のべしであります。民衆といふものは、利己的で、目先のことしかわからぬから、為政者の遠大公正な政策の意味などを理解させることは非常にむづかしい。時には不可能な話である。結局は、民衆にも案外一面良心はあるのですから、何だか能く分らんけれども、あの人の言ふこと、あの方の行ふことだから、間違ひはなからう。自分は分らないが任せる ―― かういふふうに信頼させよ。といふことであります。
民主主義といっても、その要は結局民衆をして信頼させることであります。民衆が安んじて信頼することのできる政治家になることが何より大切です。」
安岡正篤述・前掲書/ 第14講「行政と民衆」参照 (pp.170−171)

「無信不立」は、政治家が好んで唱えられたり色紙に書いたりされますね(ex.三木武夫 元総理)。人の長たる(たらんとする)者、人の指導者〔リーダー〕たる(たらんとする)者に真の意味でしっかりと味わって頂きたいものです
畢竟〔ひっきょう〕するに、平成の現代日本国民にとって、最も忘却されているもの、(したがって)これから日本人に求められるものは、“信頼(信)”と“思いやり(仁・愛・恕)”です。それは、国家百年の大計である教育の分野においての道義教育のことに他なりません。そして、その道義教育教育の直接の担い手である教師において問題の課題は“〔けい〕”の欠如です。!
『論語』に君子は本〔もと〕を務〔つと〕む。本立ちて道生ず。〔有徳の君子(=指導者)は根本のことに努力し行うものです。すべては、根本が定まってこそ、自ずと進むべき道が開けるのです。〕(学而・第1−2) とあります。「信」と“思いやり”は、「本〔もと〕」であり「食」≒“経済”は枝葉です!

cf. ≪ TOPIX ≫ ‘12.12.16 :「民主惨敗、自民圧勝(衆院)」 /

’13.7.21 :「民主惨敗、自民圧勝(参院)」、ねじれ解消・自民1強体制・与党衆参で過半数 / 6年前’7.7.30 :「自民・歴史的大敗」(民主の歴史的大勝)

cf. ≪ 孔子伝・「恕の人」(DVD) ≫ ―― 信について

孔子:「500年前の殷の人々は、人が言うと書いて信の字を作った。これはつまり、話す言葉に信用があるということ。人は常に真実を話さねばならず、嘘はいけない。人と人の間で真実の言葉が語られなければ、互いを信用ができず、社会の秩序も保つことができない。」

顔回:「人にして信なくんば、其の可なるを知らず、大車輗〔げい〕なく、小車〔げつ〕なくんば、其れ何を以て之を行〔や〕らんや。車に譬〔たと〕えて言うと、どんな車でも重要な部品を欠いては走れません。人づき合いや祭りごとにおいても、言葉に信なくしては社会で認められないのです。」
cf.為政・第2−22 「子曰、人而無信、・・・・ 」

cf. ≪ 黄老&儒学の理想的指導者〔リーダー〕像 ≫
(たかね『大難解老子講』 pp.113−114 参照のこと)

老子は、儒学的政治指導者を第2位においています。が、現実の政治の世界では、第2位の仁・慈の政治指導者も理想的指導者〔リーダー〕像といえます。黄老的政治指導者は文字どうり、至上・太上のものとして考えればよいでしょう。
また、政治は実際、一人でやるわけではありません。総理大臣(総大将)の理想像を黄老的聖人とし、大臣・閣僚参謀のトップを儒家的聖人とみるのが善いのではないでしょうか。

≪ 指導者(為政者・君主) の 4 ランク ≫ (聖人 ≒ 君子 ≒ 指導者)

1位
(太上)
黄老的 聖人 : 無為自然 存在が知られているだけ
2位 儒学的 聖人 : 仁 慈 親しまれ誉められる
3位 (法家的 聖人) : 刑 罰 畏(恐)れられる
4位    * 侮りバカにされる

cf.*現代大衆社会のリーダー?

(子貢完)

(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)

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