論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子夏 〔1〕 )

《 §.はじめに 》   子夏 

子夏は、“子貢〔しこう〕”と字面〔じずら〕が似ていて間違えそうですが ・・・ 。子貢のように知名度が高くないので、ともすると子貢と同一視している人もいそうです。

文学子游子夏(先進・第11)。「四科(十哲)」では、子游と共に文学に位置づけられている大学者です。「文学」というのは、古典・経学のことです。姓は卜〔ぼく〕、名は商。子夏は字〔あざな〕です。孔子より、44歳年少

謹厳実直、まじめで学究タイプの人柄であったといいます。文才があり、殊〔こと〕に礼学の研究では第一人者です。大学学長・総長といった感じでしょうか。曾子が仁を重視する立場(忠恕派)なのに対して、子夏は礼を重視する立場(礼学派)です。儒学の六経を後世に伝えた功績は、まことに大なるものがあります。(漢代の経学は、子夏の影響力によるものが大きいです。) 長寿を得て、多くの門弟を育成しました。その子を亡くした悲しみで、盲目になったとも伝えられています。

子夏は『論語』でしか知られることがない、といってもよい人です。が、私は、非常にその文言に印象深いものがあります。というのは、“色”っぽい(?)弟子・子夏としての意なのです。私感ながら、『論語』は子夏の言に、“色”にまつわる記述が多くあるように思われるのです。私、日本最初の 1級カラーコーディネーター(’92. 現文部科学省認定「色彩検定」)としましては、子夏は、孔子門下で “色の弟子”としての印象なのです

補1) エピソード  ―― 3匹の豚、河を渉〔わた〕る ――
こんなエピソードがあります。知ったかぶりのある人が、歴史書の文言を「晋〔しん〕の師(軍隊)は、三豕〔さんし: 三匹のブタ〕 河を渉〔わた〕る」と読みました。
子夏に、「三豕ではなく 己亥〔きがい/つちのと・い〕」と教えられ恥いったといいます。この、故事から、似た漢字の読み書きの誤りを、 「
亥豕〔がいし〕」といいます。
cf.「烏鳥〔うちょう〕」・「魯魚〔ろぎょ〕」・「焉馬〔えんば〕」 ・・・ の誤り

補2) “色”の三(定)義を考える(色相・明度・彩度の“三属性・三要素”のことではありません)

色っぽいの意。「色」の文字は、元来男女の“からみ”を表した象形文字です。この意味は、東洋においてのみです。

カラー〔色彩(学):Coror/Corour〕”の意。欧米における “色”は、この意味です。

顔色の意。「顔(色)が青(白)い」 といったように、顔に出る色のことです。

cf.漢方(中医)と顔色 ⇒ 五行・五色の思想から体系だてられています。
ex.“五色診”後述

補3) 孔子の後継

【忠恕派・仁の重視】 : 曾子 ―― 子思 ―― 孟子

【礼学派・の重視】 : 子游/子夏 ―― 荀子 ・・・ (法家)李斯/韓非子
(*子游は“礼の精神” を重んじ、子夏は“礼の形式”を重んじました)

 

《 §.「過猶不及」 再考 》

○ “子貢問う、「師と商とは孰〔いず〕れか賢〔まさ〕れる。」 子曰く、「師や過ぎたり、商や及ばず。」と。 曰く、「然らば則〔すなわ〕ち師は愈〔まさ〕れるか。」 子曰く、「過ぎたるは 猶〔なお〕及ばざるがごとし。」と。”  (先進・第11−16)

 

【 子貢問、師與商孰賢。 子曰、師也過、商也不及。 曰、然則師愈與。 子曰、過猶不及。 】

 

《大意》

子貢が、「(兄弟弟子の)師〔=子張〕と商〔=子夏〕のどちらが勝〔まさ〕っていましょうか。」と尋ねました。 (孔)先生は、「師はゆき過ぎている、商は及ばない(ゆき足りない)ネェ。」といわれました。そこで(子貢は)、「それでは、師のほうが勝っているということでしょうか。」と重ねて尋ねました。孔先生がおっしゃるには、「(イヤイヤ)行き過ぎたものは、及ばない(行き足りない)のと同じだよ。(どちらも中庸を欠いてダメだね)」

 

《解説》

「過ぎたるは 猶〔なお〕及ばざるがごとし」の出典です。「」は、代表的な再読文字で“なお 〜 ごと シ”と、二度読みます。再読文字の学習の意味からも、漢文でよく出てくるおなじみの一節です。やり過ぎるのは、やり足りないのと同じようなものだ(どちらもよくない)の意です。過不足のない、中庸〔ちゅうよう〕 を得ていることが大切であることを述べた問答です。 孔子に尋ねた子貢は、やり過ぎる(師〔子張〕という弟子)のほうが、及ばぬ(商〔子夏〕という弟子)よりもよい(マシ)と思ったようですね。それに対する孔子の答えがこれです。

私は、以上の一般的説明の後で、学生に“皆さんはどう思いますか?”、“孔子の真意はどうなのでしょう?”と問いかけることにしています。(例えば、言い過ぎて人を傷つける場合と、 言うべきことが言い足りない場合との比較です)

学生達の答えはさまざまですが、私は“孔子は及ばないほうが優れていると考えている”と思います。徳川家康も同じ捉え方のようで、「東照君遺訓」の中に 「人の一生は 重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。 ―― 及ばざるは 過ぎたるに勝れり。とあります。

( つづく )

 

老子  【6】

『 老子道徳経 』※(本文各論)解説  

「道」に始まり 「不争」に終わる 5000 余語(字)

―― 一つとして固有名詞(人名・地名)なく、賁〔かざ〕ることなくエッセンスのみを、独り老子が静かに訥々〔ぼそぼそ〕と、そして時にシャープに語っています。

―― 形而上の極めて簡にして要の内容で、表現は“韻”を含んでまことに美しい文章だと想います。

○ 「李耳〔りじ〕は無為にして自〔おの〕ずから化す、清静〔せいせい〕にして自ずから正し。」

“李耳=老子は、ことさらな人為〔作為〕をすることなく自ずと人々を教化し、清らかで静かで自ずから人々を正しくしました。” ( 『史記』・「太史公自序」 )

老子の思想 


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『老 子』 (老子道徳経) 

≪ 上篇: 道 経 ≫
(体道・第1章) (養身・第2章) (安民・第3章) (無源・第4章) (虚用・第5章) (成象・第6章) (鞱光・第7章) (易性・第8章) (運夷・第9章) (能為・第10章) (無用・第11章) (検欲・第12章) (狷恥・第13章) (賛玄・第14章) (顕徳・第15章) (帰根・第16章) (淳風・第17章)(俗薄・第18章) (還淳・第19章) (異俗・第20章) (虚心・第21章) (益謙・第22章) (虚無・第23章) (苦恩・第24章) (象元・第25章) (重徳・第26章) (巧用・第27章) (反朴・第28章) (無為・第29章) (倹武・第30章) (偃武・第31章)  (聖徳・第32章) (弁徳・第33章)(任成・第34章) (任徳・第35章) (微明・第36章) (為政・第37章) /

≪ 下篇: 徳 経 ≫
(論徳・第38章) (法本・第39章) (去用・第40章) (同異・第41章) (道化・第42章) (徧用・第43章) (立戒・第44章) (洪徳・第45章) (倹欲・第46章) (鑑遠・第47章) (忘知・第48章) (任徳・第49章) (貴生・第50章) (養徳・第51章) (帰元・第52章) (益証・第53章) (修観・第54章) (玄符・第55章) (玄徳・第56章) (淳風・第57章) (順化・第58章) (守道・第59章) (居位・第60章) (謙徳・第61章) (為道・第62章) (恩始・第63章) (守微・第64章) (淳徳・第65章) (後己・第66章) (三宝・第67章) (配天・第68章) (玄用・第69章) (知難・第70章) (知病・第71章) (愛己・第72章) (任為・第73章) (制惑・第74章) (貪損・第75章) (戒強・第76章) (天道・第77章) (任信・第78章) (任契・第79章) (独立・第80章) (顕質・第81章)

 

コギト(我想う)

≪ Q. なぜ81章か? ≫

→ 後代の人々によって章立てがなされたのでしょう。

なぜ81章か、については特に記されていないようです。

80が一区切りで81からまた始まる(循環する)という古来の考え方があるのかもしれません。

例えば、姓名学での(画)数は、1から80で81はまた1にもどります(1に同じです)。

また、道教の一派で年齢の理想を160と考え、81を半寿と考えています。

「八十」と「一」を組み合わせると、半分の「半」という字になります。

“ 道教の一派になりますと、人間の全〔まった〕き寿というものを百六十としています、八十一を半寿という、八十と一を組み合わせると、半分の半という字になりますから。

八十にいたらずして死するを夭という。

ということは、我々はまだ死ねんわけで、死んだら夭折になってしまいます。” 

(安岡正篤・『易と健康 下 /養心養生をたのしむ』 所収の付録「貝原益〔損〕軒の『養生訓』」)

(cf.『易経』は、64卦の循環の体系です。
※ 1.【乾】→ 64.【未済】→ 1.【乾】→ … )

≪ 主要英文文献 ≫

・Arthur Waley ; The Way and its Power,A Study of the Tao Tē Ching 
and its Place in Chinese Thought. London 1934 / Routledge 2005

・D.C.Lau ; Tao Lao Tzu Tao tē ching. Penguin Books, 1963  

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【 25章 / 4章 】

(象元・第25章) 注1) 《 “元始〔もとはじまり〕”の理 ―― 「道」とは? 》

§.「 有物混成」 〔イオ・ウ・フヌ・チャン〕

注1) 「象元」のタイトルは、“万物の根源たる道に象〔かたど/=のっとる =したがう〕って生きていくべき”の意で、この章の内容をよく表しているといえます。

この章では、“元始〔もとはじまり〕”の理が述べられています。天地万物に先立つ根源的存在(=道)が説いてあり、老子の宇宙論の中で最も重要な章です。

私(盧)は、この「道」の始原性・「道」の偉大なる営み(万物造化のエネルギー)について語るのが、老子の思想学修の“はじめ”によろしいのではないかと思います。

○ 「有物混成、先天地生。寂兮寥兮独立不改、周行而不殆、可以為天下母。 |
吾不知其名、字之曰道。強為之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。 |
故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。
人法地、地法天、天法道、道法自然。」

■ 物有り混(渾)成し、天地に先〔さき〕んじて生ず。 寂〔せき〕たり寥〔りょう〕たり、独立して改〔あらた/かわ・らず〕まらず、周行して殆〔やす/とど・まらず/あやう・からず/おこた・らず/つか・れず〕まず、以て天下の母と為すべし。 |
吾れ其の名を知らず、之に字〔じ/あざな〕して道と曰〔い〕う。強〔し〕いて之が名を為して大と曰う。大なれば曰〔ここ/すなわ・ち〕に逝〔ゆ〕き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反〔かえ〕る。|
故に道は大なり、天は大なり、地は大なり、王も亦〔ま〕た大なり。域中〔いきちゅう〕に四大〔しだい〕有り、而して王は其の一〔いつ〕に居る。*人は地に法〔のっと〕り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。 |

 “ The ways of men are conditioned by those of earth.The ways of earth, by those of heaven.The ways of heaven  by those of Tao,
and the ways of Tao by the Self−so. 注)” 
注) The “ unconditioned ”; the“ what−is−so−itself ”.
(A.Waley adj. p.174)

 “ Man takes its law from the earth; the earth takes its law from 
the heaven; heaven takes its law from Tao; but the law of Tao is its spontaneity. ”  (Kitamura adj. p.88)


《 大 意 》

(定まったフォーム〔形態〕も名前もないけれども完〔まった〕き) “有るもの”があって、ミックスされて化成し、天地(開闢〔かいびゃく〕)より前に生じていました。

それは、寂として声なく、寥として形なく、(相対的にではなく)独り立って、(不易=不変にして)改まることなく、周〔あまね〕く万物の中に行き渡り、しかも息〔やす〕むことがありません(疲れることがありません/危なげがありません)。

ですから、それは、天地万物の慈母と称してよいのでしょう。

私は、その(混成したあるもの)真の名前を知りません。

(仮に)文字で現わして「道」をあててみました。

(が、どうも適当ではないようです。) 

無理に(こじつけて)名〔形容詞〕をつけて、「大」としてみました。

「大」は、はるかに「逝」〔い/=行〕ってしまう、
「逝」〔ゆ〕くは果てしなく遠ざかることですから「遠」とも現わせます。

遠ざかれば結局、(循環の理によって)また、本源へと「反」〔かえ/=返〕って来ますから「反」でも現わせます。

→ 道・大・逝・遠・反 のどれでも、また5文字全部をとって名前としてもよいのですが、いずれにせよイマイチで“有るもの”をピッタリと表示する文字はありません。)

 

「道」 ≒ 「」 → 「」 → 「 → 「反」 → 「」 ・・・

 

以上のように、「道」は「大」です。

そして、(大なるものは)天も大であり、地も大でありさらに「王」もまた大です。

世界中(=宇宙)の中に、大なるものすなわち「四大」があります。

「王」はその一つの地位を占めています。

(王は人ではありますが、その徳が天地自然と冥合〔めいごう〕した者が王であるからです。) 

(そして、次のように自分より偉大なものから規範をとりますので)
のあり方をお手本(=規範)とし、のあり方をお手本とし、のあり方をお手本とし、自然のあり方をお手本とするのです。

 

※ 【 四 大 】

 王(人) 〔従う〕 → 地 〔従う〕 → 天 〔従う〕 → 道 ⇒ 自然 〔おのずとしかり〕

 

・「有物混成」: 「物」=(あるもの)=“道”。混(渾)成=混合・入り混じりの意。混乱の意にみて“カオス”の状態に捉えるのは正しくないでしょう。

*There was something formlessly fashioned
That existed before heaven and earth. (A.Waley adj. p.174) 

*There is a thing confusedly formed
Born before heaven and earth. (D.C.Lau adj. p.30)

 

 参 考   ≪ 元始まり の“混沌”話 ≫

元始まりの話、天地未分化の“混沌”〔こんとん〕話は、多くの(歴史)神話・宗教・物語で語られています。

わが国では例えば、『古事記』には「くらげのように漂っている」と、『日本書紀』には「鶏卵の中身のようだ」と。

ある教派神道では、「どろ海で、“どじょう”が沢山いて“うを”と“み”がまじっていて・・・・・ 」といった具合です。

これらの“混沌”話 といったものは、有形のひとつのモノです。

老子のいう、無形の万物造化のエネルギーである「道」と同一視してはならないでしょう。

この章では、解かり易くするために“混成”という表現を用いたのでしょう。

・「寂兮寥兮」: 寂は無声、寥は無形。 14章に、之を視〔み〕れども見えず。/之を聴けども聞こえず。/之を搏〔とら〕うれども得ず。」と、道が超感覚的な存在であることが述べられています。

cf.  『中庸』    第16章にも、「鬼神の徳たる、其れ盛〔さかん〕なるかな。之を視〔み〕 れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺〔のこ〕すべからず。」

《大意》 
天地宇宙の働き=造化 を「天」といい「鬼神」といいます。
この鬼神の徳と いうものは、実に盛大です。
しかし、形を持たないので肉眼で見ようとしても見えません。
声を持たないので、耳で聴こうとしても聞こえません。
けれども、その鬼神の徳(=はたらき)というものは、すべて自然に、万物の上に現れているのです。
宇宙の間に在るものはすべて、鬼神の徳によって生まれ、そのフオーム〔形体〕を得たのです。) 

*「鬼神」:神は天神(天〔あま〕つかみ)と地祗〔ちぎ〕(国つ神)をいいます。鬼〔き〕は、人の霊魂をいいます。

・「独立不改」: 絶対であるから独立、不改はその常道を改めないこと。

*Standing alone without changing. (Kitamura adj. p.85)

・「周行而不殆」: 「殆」はさまざまに訓読されています。
やす・まず/とど・まらず/あやう・からず。

道は万物に周〔あまね〕く行われ、息〔やす〕むことがないと解釈しておきました。
cf.易の“不易”・「自強不息」(【乾】大象)
この老子特有の“循環(復帰)の思想”は、16章にも述べられています。
「万物は並び作〔お〕こるも、吾は以て其の復〔かえ〕るを観る。」

・「天下母」: 帛書甲・乙本では「天地の母」とあります。=万物の母・母胎、天地の根。

・「大曰逝」: 「曰」〔えつ〕は、ここでは「而」〔じ〕や「則」〔そく〕と同じような用法・働きの言葉です。
≒すなわち。

・「道法自然」:  【自然】   ☆ 無為 = 自然 。

無為を別の面から説明したものです。「自然」は〔おのずからしかり〕で、“それ自身でそうであるもの”(他者によってそうなるのではなく、それ自身によってそうなること)の意。
A.ウェイリーの英訳 “the Self−soと 注釈 what−is−so−itself は参考になります。ほか、its spontaneity〔その自発性・自然さ〕。

*POINT: 5つの文字・言葉は、どれも「名」ですが、どれも適する文字・言葉ではありません。

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( つづく )

 


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