儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2011年01月

元号(年号) と 経書(四書五経)   その4

この記事は、元号(年号) と 経書(四書五経) その3 の続きです。



元 号(年号) と 経 書(四書五経)   その4

───  元号/平成・昭和・大正・明治 ・・・大化/「平成」と安岡正篤氏/
経書/“明治維新”/「貞観」と太宗/“日出づる処”の国  ───


《 経 書 ── 四書五経 》

儒学の重要な本を、経書〔けいしょ〕”・“経典〔けいてん〕”と呼びます。
“経”は、経糸〔たていと〕の意です。
“五経”は、国教となった漢代から儒学の根本経書(五大聖典)です。

── すなわち、『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』
(*失われた『楽経』を加え六経〔りくけい〕ともいいます)がそれです。

 “四書”は、“五経”とならぶ儒学の根本経書です。

南宋の朱熹朱子:1130〜1200)が、『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』 の四つの書を
高く評価しました。

朱子がその注釈書 『四書集注〔しっちゅう〕』 を著してから
経書としての地位が不動になりました。

朱子は、この“四書”や形而上学である 『易経』 を拠り所にして、
“朱子学”を大成
し東洋思想の大きな源流となりました。

“四書五経”は、儒学が官学となり、
“科挙”という国家官吏登用試験の受験科目となると、
受験者必修のテキストブックとなりました。

いやしくも、時代の指導者(リーダー/エリート)たらんとするものは、
皆、これらを学修して善しとしたわけです。

この九書に、幼くして学ぶ 『孝経』 を加えてちょうど 10 の必修経書です!


 “日のさす処:asu〔アズー〕 = アジア:ASIA ”が、
“儒学(朱子学)文化圏”を築き

平和で文化が馥郁〔ふくいく〕と香った一つの時代がありました。

主要三国が、中国(=明−清)・朝鮮(=李氏朝鮮)・日本(=江戸時代)と重なる
300年ほどの時代です。

この間、老若男女、一般人から大人知識人まで、
これらの経書(古典)を学修し実践したのでした。

アジアの古き善き時代でした。

 21世紀の現在、共産国の中国では(真意の程はともかく)、
儒学を再び国の教えと位置づけ、子弟は『論語』を熱心に学んでいます。

韓国では、その国旗(太極旗/テグキ)に太極と(四)卦象がデザインされているように、
今なお儒学的伝統が残っています。

 現代の日本はと言いますと、
この 10 の経書(古典)は一つとして教育の場で学ばれることなく、
忘却の彼方へ消え去ろうとしています。

ただ、僅かに、ささやかに『論語』学習のともし火が保たれ、
一般社会で少し再燃焼しかけた時勢です。 

 ── まさに、往時と隔世の感です。

易学的にいえば、【地下明夷〔ちかめいい〕】 卦です。

【明夷】 とは、地中の太陽(離)、“天の盤戸〔いわと〕隠れ”の象〔しょう〕にて、
明らかなもの、正しきものが傷つけられやぶれるの意です。

“君子の道 閉ざされ、小人はびこる”、後のない時代、蒙〔もう〕の時代です。

 四書・五経 の説明は、次の機会に譲るとして、一言のみ呈しておきましょう。

 欧米(キリスト教圏、ベストセラー著書)の『バイブル〔聖書〕』に対して、
東洋のそれは、『論語』であるといえましょう。

四書の筆頭・『論語』は、孔子とその門下の言行録です。

応神天皇16年、王仁〔ワニ〕によって伝えられたとされ、
以後 『孝経』とともに大学の必修となりました。

偉大な、“処世哲学の書”であり、“円珠経”とも“宇宙第一の書”とも絶賛されています。

 儒学経書(五経)の筆頭・『易経』 〔“The Book of Changes”〕は、
万物の変化とその対応の学。

東洋の源流思想であり、帝王(リーダー)の学です。

私は、“東洋のバイブル”が 『論語』なら、
“東洋の奇(跡)書”
と呼びたく思っております。

私見ですが、実践哲学の書『論語』と、形而上学の書『易経』とを、
“儒学経書の両翼”
との認識を持っています。 

 『易経』は、世界と人間(人生)の千変万化を、
“ 64卦(384爻)”のシチュエーション〔 situations 〕
(シーン〔 scenes 〕) にしたものです。 

「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。」(繋辞上伝) ですので、
それ(64卦・384爻)を ものごとを象〔かたど〕る“象〔しょう〕”と、
解説する言葉=“辞”とによって深意・奥義を表示しています。

 さらに「易経本文」に、孔子及びその門下の数多が(永年にわたって)著わした
「十翼」(10の解説・参考書)が合体します。

辞と象の、さらに易本文と十翼の融合合体が、『易経』の真面目〔しんめんもく〕であり 
“奇書”の“奇書”たるゆえん
でありましょう。

『易経』の真義を修めることにより、個々人から国家社会のレベルにいたるまで、
“兆し”・“幾”を読み取り、生々・円通自在に変化に対応できるのです。

 ── ちなみに、些事〔さじ〕を一つ加えておきましょう。

今では少々昔のこととなりましたが、古本屋で易書をあさっておりました時、
思わぬ掘り出し物を入手致しました。

“五経”の全11巻です。

文化9年の序・寛政庚戌年の序があるので、
今からざっと200年ほど前の江戸後期の代物です。

寺子屋や藩校での教科書となっていたものでしょう。

 “五経”の筆頭が『易経』 と言いますが、この“五経”の序文も『易経』にあるので、
やはりそうなのかナ、と納得した思い出があります。

そして、『易経』・2巻には「乾」と「坤」の文字が、
『書経』・2巻には「天」と「地」の文字が、
『詩経』2巻には「上」と「下」の文字が、
『礼記』・4巻には「元」/「亨」/「利」/「貞」 (乾為天の卦辞4文字)、
「春秋」・1巻には「完」の文字が、タイトルの下に書いてありました。

江戸の人々のデリカシーに感心いたしました。



《 むすびに 》 

最も重要にして大なる言霊であるともいえる「元号」の名称は、
以上のように専ら儒学・“経書”から採られています。

それは、東洋の優れた文化の精華が、“経書”(四書五経など)に集約されていて、
その儒学の思想が皇室と相俟って、
日本の“古き善きもの”を形成している
からに他なりません。

言葉・言霊の重厚さ品位において、
“至れるもの”は、必然的に“経書”に典拠を求めることとなったのです。
(とりわけ、『易経』・『書経』が多いように感じています。)

(伝)応神天皇16年。『論語』・『千字文』が伝来したことに始まり、
この優れた大陸(中国)の儒学文化 ── 易の専用語でいえば【離〔り〕】 ── を
受容吸収してまいりました。

その時から、わが国は大きく進化・発展したのです。

“智” を示す【離】は、同時に日・太陽であり、
聖徳太子の歴史的言霊「日出づる処」の国となったのです。

日本は、「倭・大和〔わ・やまと〕」の昔より、古く永く中国に学び、
近代はヨーロッパ諸国(列強: 英・仏・独)に学び、最近ではアメリカに学びました。

尤〔もっと〕も、ヨーロッパ列強については、
その植民地政策・外圧に防衛対抗するための富国強兵策としての“学び”でした。

対アメリカにいたっては、占領下に強制されたもので
毒され害されたものも多かったのです。

ここに、精神的(文化的)には半ばアメリカに占領されたままのような日本の現状があります。

このように、畢竟〔ひっきょう〕、古き善き中国に学んだものが、
アジア(“日出づる処”の意)人の DNA に根差した本源的なものを形成している
のです。

我々の先祖は、実に善く学び吸収し、活かしてきました。
それは、(山鹿素行の言葉を借りれば)“陶鋳力〔とうちゅうりょく〕”
すなわち非常に優れた独自の受容吸収力です。

例えば、漢語(中国語)を借りて表記し、日本語化し(漢文訓読)、
漢字から“ひらがな・カタカナ”を創始しました。

言葉は、文化の元始〔もとはじ〕まりに違いありません。

“「一〔いつ〕」なるもの”(不易なるもの)は、“受け継がれるもの“でもあります。

しかるに、日本人はこの貴重なミーム〔文化的遺伝子〕を、
敗戦後の被占領を契機に手放し始め、
平成の現世〔いま〕、まさに亡失の危機に瀕しています。

平成の時代は、尊いものを卑しめ・貶〔おとし〕めて平然としている人々が満ちている時勢です。

恰〔あたか〕も、大事故で一時的に、善き記憶を喪失して“呆〔ほう〕けている”ようにです。

事態は、(そうであることを多くの人が認識していない分)重篤です。

それでもなお、正しき(離)を説き、蒙(隅)を照らさんとする人はまだいます。

一本の燐寸〔マッチ〕の炎でも温存していれば、
やがて時を得て、大火となって燃え拡がり照らし輝かすことができます


かつて、シュペングラーが『沈みいくたそがれの国』を著し、
近代ヨーロッパ文明の消滅を予言してから久しいものがあります。 補注6) 

が、このままでは、わが国は、
滅びゆく“日の没する(たそがれの)国”に
なり下がってしまうのではないでしょうか


自国の文化・伝統・歴史を、おざなりにして大切に出来ないのは実に恥ずかしいことです。

“グローバル化”がますます進展する時勢の中で、
今、日本と日本人の“忘れかけているアイデンティティー〔自己同一性:自分は何か?ということ〕”が
問われているのです。


補注6)
ドイツの歴史哲学者 オスヴァルト・シュペングラー 〔Spengler 1880-1936 〕は、
その著 “Der Untergang des Abendlandes”〔『西洋の没落』 あるいは 『沈みいくたそがれの国』〕で、
資本主義社会の精神的破産と第一次大戦の体験から西洋文明の没落を予言し、
たいへんな反響を呼びました。
すなわち、近代ヨーロッパ文明は既に“たそがれ”の段階であり、
やがて沈みゆく太陽のように消滅すると予言したのです。


                                             ( 完 )



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元号(年号) と 経書(四書五経)   その3

この記事は、元号(年号) と 経書(四書五経) その2 の続きです。



元 号(年号) と 経 書(四書五経)   その3

───  元号/平成・昭和・大正・明治 ・・・大化/「平成」と安岡正篤氏/
経書/“明治維新”/「貞観」と太宗/“日出づる処”の国  ───


《 大化 〜 慶応 》
 
645(皇極〔こうぎょく〕4)年 6月19日
中大兄皇子〔なかのおおえのおうじ〕・中臣鎌足〔なかとみのかまたり〕らは、
蘇我入鹿〔そがのいるか〕を飛鳥板蓋宮〔あすかいたぶきのみや〕で暗殺。

翌日には、父の蝦夷〔えみし〕を自殺させ、
ここにクーデターを成功させました(乙巳〔いっし〕の変)。 

6月19日、中国にならって日本初の年号を定め、
名を大化としました。

以後日本史は、大王〔おおきみ:=天皇〕を中心とする
中央集権国家の建設が推進されてゆくこととなります。

ところで、易学で、変化・変転してやまないというそのものをといいます。
「化」とは、“変化”=“Change”です。

自然も人生もおおいなる「化」なのです。
(仏教の「無常観」、ギリシア哲学の「万物流転」)。
易学の根柢・本質であり、従って東洋思想の源流です。

私見ですが、「大化」は、この変化・変易の思想にもとづいて名づけられたのでしょう。

例えば、『易経』 の【離為火〔りいか〕】・彖〔たん〕伝、【山火賁〔さんかひ〕】・彖伝に、
化成 の語があります。
(「天下を化成す」/cf.“三菱化成”の会社名の典拠です。) 
・・・・まさに「大化」は、第一号の言霊元号に相応しいものだと思います。

さて、この『易経』の中心思想ともいえるものが、
64卦の第一、純陽卦の 【乾為天〔けんいてん〕】です。

本文(卦辞)に、「乾元亨利貞」 とあります。  ※ 詳細後述・補注4)

 僅か4(5)文字のシンプルさです(=易簡〔いかん〕・簡易)。
この文言を典拠にしているであろうと思われる元号は、実に多く見られます。すなわち。

鎌倉期に、「乾元(1302-1303)」・「元亨(1321-1324)」があります。
日本最初の仏教史・『元亨釈書』(虎関師錬〔こかんしれん〕著/1322)は有名です。

 「元」のつくものは実に多いです。
特に鎌倉期には、「元久」/「元仁」/「寛元」/「康元」/「正元」/
「嘉元」/「元応」/「元徳」とあります。

平安期に、「貞元」/「天元」/「長元」/「元永」/「保元(1156-1159)」/
「元暦〔げんりゃく〕」。

南北朝・室町期に、「元徳」/「元弘」/「元中」/「元亀」。

江戸期に、「元和〔げんな〕」/「元禄(1688-1704)」/「元文」/「元治」とあります。

「貞」(「観」)のつくものも多いです。

平安期に、「貞観(859-877)」があります。

“貞観〔じょうがん〕”は、本来、広大な中国の統一を成し遂げた太宗皇帝が、
その王朝に選んだ年号です。

その“貞観の治”にあやかってのことでしょうか(※後述)。 
同時期に「貞元」/「永観」があります。 

鎌倉期に、「貞応」/「安貞」/「貞永」。

南北朝・室町に「貞和」/「観応」/「貞治」、
江戸期に「貞享〔じょうきょう〕」とあります。

ほか、南北朝期の「文明(1469-1487)」や
江戸期「文化(1804-1818」/「文政(1818-1830)」
(両期を合わせて“化政文化”の用語が日本史にあります)も 
『易経』にみられる言葉です。

また、北朝最後の「明徳(1390-1394)」は、
『大学』の冒頭「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。」 
で周知のところです。
明徳義塾高校」も良く知られていますね。

江戸時代(幕府)最後の、孝明・明治天皇朝の元号が慶応(1865-1868)」です。

出典は、『文選〔もんぜん〕』 の  雲 レ 輝」 です。

ちなみに、幕末、徳川幕府最後の将軍は、
(15代将軍)徳川「慶喜〔よしのぶ〕」公です。

また、福沢諭吉が、福沢塾(洋学塾:1858)を改称設立した
慶應義塾」(現・慶應義塾大学)は、最古の私立大学です。(慶應4、1868年)

 以上に概観しましたように、
元号には、「天」・「元」・「仁」・「文」・「観」・「徳」 ・・・ 
などがよく用いられています。

これらは、儒学に関する文字・言葉です。

出典では、私は、五経の筆頭・『易経』からの言霊が
本〔もと〕のように感じています。



《 貞観 と 太宗 》 

( ※ この段、安岡正篤・『政治を導く思想 ── 「貞観政要」を読む ── 』 
  を主に参照しています。)

先述のように、わが国・平安期、「貞観」の年号が用いられています。
本家本元、本来の中国・唐代の“貞観”について、
特に一段を設け述べてみたいと思います。

理想的な社会(ユートピア、シャングリラ、桃源郷 ・・・)を過去に求めるのは、
東洋思想の一つの特色です。

理想の治政(政治)・治世は、“ 〜の治〔ち〕”と後の歴史家によって名付けられています。
(中国に倣ったのでしょうか?) 日本史にもありますね。

例えば、江戸時代の新井白石(あらいはくせき、1667〜1720)の文治主義による
7年間ほどの治政を “正徳〔しょうとく〕の治”と称します。

“中国”(大陸)は、大国ですから、万事が大陸的と言いますか
スケールが大きいと感じます。

過去・歴史上の多くの善き治世の中でも、
唐代・太宗皇帝(李 世民、598〜649: 唐2代皇帝、在626〜649)の
貞観〔じょうがん/じょうかん〕の治”
玄宗皇帝(685〜762、唐6代皇帝、在712〜756)の
開元〔かいげん〕の治”はその代表格と言えましょう。

太宗は、大唐帝国300年の事実上の創始者です。
私見に依れば、中国史上の偉大な皇帝の中にあっても、五指に入る名君です。

政治・軍事のみならず、学術・文化面でも群を抜いています。
儒学を保護奨励し、書聖・王羲之〔おうぎし〕の熱烈な信奉者でもありました。

アジアに“大唐文化圏”が形成されました。
広く周知のように、わが国は“遣唐使”によって
唐の文化・制度を熱心に受容吸収いたしました。
それは、“儒学文化圏”として捉えることもできると、私は考えています。

そして、「北辰〔ほくしん=北極星〕」に衆星が向かうように、
偉大な聖王・リーダーのもとに偉大なる宰相・大臣・(争臣/諌臣)が
キラ星のごとく集まりました。

房玄齢〔ぼうげんれい〕・杜如晦〔とじょかい〕をはじめとする名臣たちです。
太宗のもと、集結したその従える文武の官 640、と記されています。

比べるに、あまりにおこがましいものがありますが、
(一応わが国も現代、“経済大国”とよばれてはおりますので、
また近時中国とGDP世界第2位の座を争っておりますので、あえて比べてみますと)、
わが国の総理大臣と内閣閣僚達、衆・参国会議員722人
(衆議院議員480人&参議院議員242人)を観てみると、
まことに情けないこと微〔かす〕かに微笑するしかありません。

太宗とその幕僚(ブレーン)達のミーティングに、
とりとめもなくファンタスティックに想像を逞〔たくま〕しくすると ── 。

まず、一つ。“アーサー王と円卓の騎士”が想起されます。
イギリスの伝説の時代です。
霊水晶をあしらったエクスカリバー(剣)を持ち
イングランドを統一するアーサー王と、
ラーンスロットをはじめその直属の騎士たちの英雄伝です。
これは文学・物語のことです。

もう一つは、わが国、現実の近代史の一場景〔シーン〕です。
明治草創期、欧米列強による植民地支配に抗するべく、
強力な中央集権国家を目指して富国強兵策を推進していたころです。

近代日本の青少年期といえましょう。

明治天皇をカリスマ的中心に据えて、
西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允(維新の三傑)をはじめ
文武の幕僚が取り巻いていました。

若手には、後の総理大臣伊藤博文(初代、以後3回)や
山県有朋(3代・9代)らの面々が控えていたことでしょう。

在野には、勝海舟、福沢諭吉 ・・・など。
大人〔たいじん〕・大材煌〔きら〕めくがごとしであったように想います。  
── 余事はともかく。

さて、太宗は、即位にあたり、」・「観」の 2文字を
『易経』から採って年号としました


“易”に出づるところの “貞観” です。

まず、字義をみてみますと、「貞」の字は、永遠・不変をあらわすもので、
鼎(かなえ:中国古代の三足の金属器、ナベ・祭具)をシンボライズした象形文字です。

貞=鼎、重鎮・不動です。

思い想うにつけても、現代の日本は“普遍(あまねし)”・“一貫するもの” がありません。
まことに、貞操なき“不貞”の時代です。

そして、その“貞”から出ずる深遠な観察・智慧が「観」です。

次に、『易経』による典拠を述べますと、「貞」は易卦【乾為天】です。
【乾】卦は、64 卦の第一番目、易の代表卦で、総論であるともいえます。

すなわち、【乾】の本文は、
「乾元亨〔(乾は)げんこうりてい/乾は、元〔おお〕いに亨〔とお〕る、
〔てい〕に利〔よ〕ろし〕」。

この僅か4(5)文字が、それです。
しかしながら、その意味するものは、極めて真にして
“深〔しん〕”なるものがあります。 補注4)

 いっぽう、「観」は易卦【風地観】です。
【観】卦は、精神性の(3)卦で、心眼で深く観るの意です。

観世音(かんぜおん:観音/観自在 =世の訴えていることを観る)菩薩の観です。 補注5) 

人は、── 見識・胆識・達識・神識 を目指さねばなりません。 
以上を、安岡先生の言をお借りして要すしますと。

○「貞観というのは非常に落ち着いた、安定した、定まるところのある、
  しかも非常に深い見識、達識で観ることだ。
  なるほど、これはいい熟語ですね。
  落ち着いて普遍性のある、一貫性のある、
  そして大変思慮の、智慧〔ちえ〕の深い、いい年号・元号である。」 
   (安岡正篤・前掲書引用)


 なお、太宗と幕僚〔ばくりょう〕との問答を収録したものが 『貞観政要』です。
わが国でも、北条政子の版本(大江広元)をはじめ、
古来為政者の必読書として広く読まれています。


補注4)
乾=健の意、天の運行・剛健、龍(ドラゴン)

・「元亨利貞〔げんこうりてい〕」(卦辞) と ※「自強不息〔じきょうふそく〕」(大象)

※ 乾の四徳 ・・・ 循環連続性

   芽生え/「元」 ・・・時間的にいえばはじめ、立体的にいえばもと、
               大極=「元気」、大小の大、季節は春、徳では「仁」
   成長 /「亨」 ・・・通る、通じる、元で生じたものの無限の生成化育、
               季節は夏、徳では「礼」
   結実 /「利」 ・・・利ろし・利益・善きことがある意、
              “きく”・成果・結果を生む・収穫・実り、季節は秋、徳では「義」
   不変性/「」 ・・・正しく堅固に安定、次の生成への基、季節は冬、徳では「智」
     |
   また、芽生えと循環。 季節もまた然り。

(彖伝・全)
「大いなる乾元、万物資〔と〕りて始む。すなわ〔及〕ち天を統〔す〕ぶ。|
雲行き雨施し、品物〔ひんぶつ〕形を流〔し〕く。|
大いに終始を明らかにし、六位〔りくい〕時に成る。
時に六龍〔りくりゅう〕に乗り以て天を御す。|
乾道変化しておのおの性命を正しくし、大和を保合するは、すなわ〔及〕ち利貞なり。
庶物に首出〔しゅしつ〕して、万国ことごと〔咸〕く寧〔やす〕し。」 

《大意》
 乾天の気である元の根源的なパワーは、何と偉大であることよ! 
天地〔宇宙〕間に存する万物は、みなこの元の気をもとにして始められているのです。
すなわち、天道の全てを統率、治めているのが乾元〔=乾徳〕なのです。
(以上 元の解釈)|

 乾のはたらきにより、水気は上って天の気の“雲”となって運行し、
雨を施して地上の万物を潤し、万物・万生物(品物)が形を成し現われて
活動を始めるのです。(以上 亨の解釈)|

 乾天のはたらきは、物の始まりから終わりまで、
そしてまた始まりと間断なく循環するところを大いに明らかにしていて 
“6つの爻”(もしくは、老陽・老陰の交わって生ずる 震・巽・坎・離・艮・兌)は、
その時と場合に応じて成すべきことを示しているのです。
(聖人・君子は)その時に応じて、6つの変化の龍の陽気にうち乗って、
それを自在に駆使することによって、
天の命である 自身が履むべき道を行なうことができるのです。
(以上 元亨の解説)|

天の道は、時々刻々と神妙なる摂理によって変化しますが、
その変化に応じて万物もまたそれぞれの性命
〔天から与えられた本来のあるべき姿・性質〕を正しく実現して、
大いなる自然の調和〔大和=大いに調和した気〕を保って失わないのです。
これが利貞の徳であり乾徳なのです。

 (聖人・君子は)天乾の剛健の気にのっとっていることにより、
万物万民に抜きん出た地位につくのであり、
その乾徳を発揮してこそ万国は、みな感化され安泰安寧を得ることができるのです。
これが、聖人の利貞です。(以上 利貞の解釈
 
※ 「保合大和」・・・ 自然の大調和を持続せしめ〔保〕これに和する

(*より詳しくは、高根・『易経64卦解説奥義/要説版』参照のこと)


補注5) 
観=精神性重視、心眼で深く観る、“観光”、教育・教化・指導・(感化)、大衰の卦、
観世音(観音・観自在)菩薩・・・精神の高められた心でみる

・ 「観」の意 (1)みる → よくみる・こまかにみる
         (2)大観(俯瞰) → 大所高所からみわたす ex. 横山大観
         (3)仰観 → 下より仰ぎみる

・ 「孚〔まこと〕ありてギョウ若〔ぎょうじゃく〕たり。」(卦辞)・・厳粛な気持ちで事に臨む
     ギョウ若=厳粛な形、様子、恭敬のさま
   cf.大阪 四条畷〔しじょうなわて〕神社 ── 石段の両側に「有孚」・「ギョウ若」

・ 4爻辞 「国の光を観る」 ・・・国の文化を観、将来を観る、“兆し”を読む。
                   “観光”の語源  cf.観象=易の占の結果を観る

・ “臨観の義はあるいは与え、あるいは求む”(雑卦伝)・・・見下ろすと見上げる 
   ⇒ 相方で与え合ったり求め合ったり (主君・リーダーと平民・一般とで)   


(大象伝)
「風の地上を行くは観なり。先王以て方を省〔かえり〕み、民を観て教えを設く。」

《大意》
(巽の風が地上を行くのが観卦です。
風は万物を育成し、万物は風の吹くままになびき順って動いているのです。
古のよき王は、この風の恵みが万物に及ぶ象にのっとって、
東西南北を、遍く巡幸(観察)なさり、人民の生活風俗の情況を観察され、
徳育を教化(感化教育)し、それぞれに適した善政を布〔し〕いたのです。)
                             (* 同 上 )



《 経 書 ── 四書五経 》

儒学の重要な本を、“経書〔けいしょ〕”・“経典〔けいてん〕”と呼びます。
“経”は、経糸〔たていと〕の意です。
“五経”は、国教となった漢代から儒学の根本経書(五大聖典)です。・・・



※ この続きは、次の記事(元号(年号) と 経書(四書五経) その4)をご覧下さい。

(・・・経書/“日出づる処”の国)



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元号(年号) と 経書(四書五経)   その2

この記事は、元号(年号) と 経書(四書五経) その1 の続きです。



元 号(年号) と 経 書(四書五経)   その2

───  元号/平成・昭和・大正・明治 ・・・大化/「平成」と安岡正篤氏/
経書/“明治維新”/「貞観」と太宗/“日出づる処”の国  ───


《 「昭和」・「大正」・「明治」 》 

 大正15年12月25日、大正天皇が崩御され(48歳)、
摂政・裕仁〔ひろひと〕親王が即位され昭和と改元されました。

「百姓照明、協和万邦」が典拠です。

“百姓(漢文ではヒャクセイと読みます)”とは、人民・一般ピープルのことです。
人民がそれぞれの徳を明らかにすれば、
あらゆる国々を仲好く和〔なご〕やかにさせることができるということ。

君民一致による世界平和の意です。

昭和」・「大正」・「明治」 の出典を整理すると次のとうりです。


【昭和】   
1926年 12月 25日 ─ 1989年(S.64) 1月 7日(平成元年)

出典 : 『書経』・堯典〔ぎょうてん〕 の 「百姓明、協2 万邦1。」
      (百姓〔ひゃくせい〕昭明にして、万邦を協和す)

cf.昭和維新 ・・・ 1930年代の日本で、軍部急進派や右翼がかかげた国家革新の標語。
明治維新になぞらえ,天皇親政の実現を目指しました。
 

【大正】
1912年 7月 30日 − 1926年(T,15) 12月 25日(昭和元年)

出典 : 『易経』・「地沢臨」卦・彖〔たん〕伝 の 「亨以、天之道也。
      (大いに亨〔とお〕りて以て正しきは、天の道なり。)
他に : 『易経』・「山天大畜」卦・彖〔たん〕伝 の 
      「剛上而尚レ賢、能止レ健、大正也。」
      (剛上りて賢を尚〔たっ〕ぶ、能〔よ〕く健を止むるは大正なり。)
      《陽爻が上爻に上っているのは五爻の君主が賢人を尚ぶ象〔しょう/かたちです。
      立派に健、すなわち乾の尊いものを止めているのは、
      大いに正道に適っています。》
    : 『易経』・「天雷无妄」卦・彖〔たん〕伝 の 「亨以、天之命也。」
      (大いに亨りて以て正しきは、天の命なればなり。)

 cf.ちなみに、大阪市に「大正区」、大阪環状線の駅に「大正」の名称があります。


【明治】
1868年(慶応4年) 9月 8日改元 ─ 1912(M.45) 7月 30日(大正元年)

出典 : 『易経』・説卦伝 の  「聖人南面而聴2 天下1 、※ 。」
      ( 聖人南面して〔位について〕天下を聴き、明に嚮いて治む。 )
       ※ 『尚書』 の 「明君の治」を 出典とする説あり
    : 『孔子家語〔けご〕』 の 五帝徳
      「長聡2五気1、設2五量1、撫2万民1、度2四方1、・・・」
      (長じて聡明、五気を治め、五量を設け、万民を撫〔ぶ〕し、
      四方を度〔はか〕り、・・・ )
      《 (黄帝は、)・・・成人してからも聡明で、五行の気を治めて、
      五量を定めて、すべての人々を思いやり愛〔いつく〕しみ、
      諸国を調査測量し、・・・・ 》

※ 当時の落書き: 「おさまる めい(明)、と下からは読む」


cf.明治維新  ・・・ 「維」は“これ”の意の発語、革新。 補注3) 
       
出典1: 「周雖2旧邦1、其命維新。」 (『詩経』・大雅 文王)
出典2: 「詩に曰く、周は旧邦なりと雖も、其の命維〔こ〕れ新たなりと。」
      「苟〔まこと〕に日に新た、日々に新たに、また日に新たなり。」 
                             (『大学』)

      ※ 「革命」: Revolution  と 「進化」: Evolution


補注3)
徳川幕府を倒し、近代国家を建設するに至る社会変革の過程を総称して
明治維新といいます。

易学は、世界(社会)と人間(人生)の維新の研究、
維新の学問にほかなりません


わが国の明治革命が、“革命”でなく“維新”と呼ばれるのは、
それが漸進的〔ぜんしんてき: 少しづつ善く変わる〕な、
進化のプロセスであったからに他なりません。

易でいえば、革命の語源になっている 【沢火革】の卦と
それに続く【火風鼎〔てい〕】の卦のことです。

【革】は破壊で、「革命」: Revolutionです。
【鼎】は建設で、「進化」: Evolution です。

ですから、変革・改新は、“革鼎”⇒ 鼎新 でなければならないのです。

わが国の明治の変革は、そうであったのです。

例えば、幕府は「大政奉還」し、江戸城は無血開城し、
江戸は戦火をまみえることもありませんでした。

新勢力が倒すべき旧勢力のトップ・将軍慶喜公は、殺されることなく、
悠々自適に専ら好きな“カメラ”で風流・優雅な余生をおくります。

“西郷 vs 勝”会談で、江戸城無血開城を実現した幕府代表の幕臣・勝海舟は、
貴族院の議員ともなり明治政府を側面からバックアップしています。

そして、若・壮年者(ニューリーダー)と古老(オールドリーダー)とが、
協力し和して幕末から明治の変革を推進していった点
も見逃せません。── などなど、
実にわが国の明治の変革は、世界に誇れる立派なものです。

これに対して、欧米の市民革命の中で、
唯一つ“名誉革命”( Glorious Revolution 1688-1689/無血革命) 
と名付けられたものがあります。

それは、裏を返せば、他の革命が血で血を洗うがごとき、
激しく急激な破壊と殺戮の【革】であったからに他なりません。

── 蛇足ながら、付言いたしておきます。
“維新”という語は、その言霊〔ことだま〕を慕って、
巷間〔ちまた〕でもよく使われています。
それも、残念なことに、安易・軽佻〔けいちょう〕にです。

私には、“維新”の言霊の品格が汚されているように感じられてなりません。

ローカルな話題で恐縮ですが、大阪府では、(橋下)知事が、
府議会の会派として “大阪維新の会”を設立しております。

今春(‘11.4)の統一地方選挙に向けて(知事選挙は1年後)、
自民党を中心に(離党して?)おおくの現職議員が加入し、
数において第一党になっております(’10.11〜)。

パフォーマンス豊かで、メディアも便乗してさかんに報じています。

私、想いますに。
知事はじめ“維新”を唱えるご歴々は、皆“大学”も出られて
表面的にはインテリなのでしょう。が、しかし、
実際、『大学』や『詩経』を読んでいるのでしょうか?

その経書に蔵された為政者の精神を理解〔わか〕っているのでしょうか?

易の、革鼎・漸進的進化がどこまで理解っているのでしょうか? 

その唱える変革に、“維新”がカッコづけに用いられているように思えてなりません。
そして、政治家の易卦【水沢節】にいう「節」(節操・志節)なきを想います。




《 大化 〜 慶応 》
 
645(皇極〔こうぎょく〕4)年 6月19日
中大兄皇子〔なかのおおえのおうじ〕・中臣鎌足〔なかとみのかまたり〕らは、
蘇我入鹿〔そがのいるか〕を飛鳥板蓋宮〔あすかいたぶきのみや〕で暗殺。

翌日には、父の蝦夷〔えみし〕を自殺させ、
ここにクーデターを成功させました(乙巳〔いっし〕の変)。 

6月19日、中国にならって日本初の年号を定め、
名を大化としました。

以後日本史は、大王〔おおきみ:=天皇〕を中心とする
中央集権国家の建設が推進されてゆくこととなります・・・


※ この続きは、次の記事(元号(年号) と 経書(四書五経) その3)をご覧下さい。

(・・・慶応〜大化/「貞観」と太宗/経書/“日出づる処”の国)




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元号(年号) と 経書(四書五経)   その1

元 号(年号) と 経 書(四書五経)   その1

───  元号/平成・昭和・大正・明治 ・・・大化/「平成」と安岡正篤氏/
経書/“明治維新”/「貞観」と太宗/“日出づる処”の国  ───


《 はじめに ・・・ 元号表記をめぐって 》
 
 「2011年」といったような西暦の表記か、
「平成二十三年」といったような元号(年号)表記か、
(あるいは両方併記か)をめぐって、さかんに論じられた時期がありました。

 私は、(東西)歴史全般を教えていますので、
「世界史」を講義していると西暦中心ですし、
「日本史」・「中国史」を講じていると元号中心です。

数字の西暦は、合理的でわかりやすい気がしますし、
漢字の元号は、親しみやすくイメージが広がり素敵です。

 若い世代には、西暦表記が何かしら新しいもの、一般的なもの、
良いようなものと錯覚しているむきがあるように思います。

また、尊いものを卑しめて平然としている風潮が横行している時勢です。

そもそも、甲論乙駁〔こうろんおつばく〕する問題ではなく、
文化圏の暦表記です。

 「西暦」は、キリスト教(文化圏)での暦です。
イエス・キリストの生誕を元年とする数え方です。

すなわち、イエスの生誕以前を BC.〔(英):ビフォアークライスト/紀元前〕、
イエスの生誕以後を AD.〔(ラ):アンノドミニ/紀元後・・・キリスト以後の意。
通常は面倒なので略されます〕とします。 補注1) 

イスラム教(文化圏)では、「イスラム暦」があります。
我国には、「皇紀」があります。が、今は普通用いられません。
それはそれで、時代の変化でよろしいかと思います。

ただ しかし、「皇紀」そのもののわからない人、
「皇紀」と聞いただけで天皇制軍国主義などとすり替えてしまう人がいるのは、
その偏、まことに残念に思います。

 私が考えますに、年号は、東洋・日本の文化です。
西暦のみにすり替えてしまうのは、いかがなものでしょうか。

日本は、かつて一時期(近代)、日本語そのものをなくして英語にしようとか、
フランス語にしようとかといった極論もありました。
(被占領時、GHQ による強い漢字廃止・ローマ字表記論もありました。)

 少なくとも、元号をなくしてしまうと、
ずい分、味気のない情のないものになってしまいます

例えば、“慶應義塾大学”・“明治維新”・“大正デモクラシー/ロマン”
・“激動の昭和”・“平成の世代” ・・・ などといった表現の情緒は消え失せて、
無機的な数字の羅列表現になってしまうのは、非常に寂しいものがあります。

“21世紀初頭”・“2010年代”・“2010年クーデター” ・・・ 
それこそ、無味灰色な歴史の受験勉強みたいですね! 

それでもそれで良しとする人がいたら、
無粋〔ぶすい〕、日本の“あわれ・をかし”を解さぬ人であると言いたいものです。

 今回は、このわが国の年号を、
儒学の経書との連関の切り口で考察してみたいと思います。  


補注1) 
イエスの誕生年と西暦元年には、数年のズレがあります。
また、西暦に「0」の考え方はありません。
1年から始まり、1年〜100年を 1世紀としました。
例えば、シャルルマーニュ(チャールズ大帝)の戴冠の 800年は、8世紀。
801年からが、9世紀です。

 

《 元号とは / 一世一元の制 》

 元号は、年号ともいいます。
古代中国で、BC.140年に前漢の武帝
(儒学を国教〔国の教え・教学〕化したことでも有名です)
によって制定された「建元〔けんげん〕」に始まります。

 我国では、645年の “大化の改新”による「大化〔たいか〕」が最初です
(645年6月19日 ※後述)。

701年の「大宝」以降は、途絶えることなく制定され続け、
現在の平成に至っています。

したがって、日本の元号は、1300年以上の歴史を持っているということです。

 一世一元〔いっせいいちげん〕の制は、
(中国では)皇帝一代を一年号とする制度です。

明〔みん〕の初代皇帝(太祖)・朱元璋〔しゅげんしょう〕の、
“洪武〔こうぶ〕”(帝)に始まります。

 わが国では、天皇一代の年号を一つだけに定めるものです
(:一代一号、在世途中で改元しない)。

1868年9月に、(明治新政府が)慶應を改め
明治と改元した詔〔みことのり〕で制定しました。

それまでは、年号は、瑞祥〔ずいしょう〕・災禍〔さいか〕といった
天変地異や暦の吉凶など、さまざまな理由で改元されていたのです。

 さらに、その元号は天皇の追号に用いられますので、
元号と天皇は不離一体の関係にあるといえましょう。

1979(S.54)年に、元号法が改正され、
現在元号制定についての権限は、内閣に属しています。

 

《 「平成」 と 安岡正篤氏 》

 昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御され(87歳)、
明仁〔あきひと〕親王が即位されました。

新しい元号は、「平成」となりました。 補注2) 

この時、小渕恵三氏(後に総理大臣、当時 竹下登内閣)が、
TVで “平成”と書いた紙を前に掲げているシーンは、
鮮明に脳裡に残っている人も多いのではないでしょうか。

 さて、新元号決定のプロセスで、
政府元号案は、「平成」・「修文」・「正化」の3つでした。

「平成」は、元号に関する懇談会と政府の双方から、
強く推〔お〕されて選ばれたそうです。

 この「平成」を考案されたのが、
東洋思想の泰斗・安岡正篤 〔やすおか まさひろ:
明治38、1898.2.13 〜 昭和58、1983〕先生です。

「決定当時は、極秘裏の事項として一般人には発表されませんでしたが、
何時〔いつ〕しか、関係者の間から話題となり、
今では公然の事として認められています。」 
(『瓠堂〔こどう:瓠堂は安岡先生の号〕語録集』引用、
以下「平成」の出典についての記述も、本書にもとづきます。)


出典1): 『書経』・大禹謨〔うぼ〕篇 の 「」 
      (舜〔しゅん〕、禹〔う〕に曰く、地平かに天成り
      六府三事よく治まり、万世永く頼りとするは、乃〔なんじ〕の功なり)

出典2): 『史記』・五帝本紀舜の項 の 「」 
      (舜、 ・・・ 五教を四方に布〔し〕かしむ。
      父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝たれば、 内平かに外成る

出典3): 『春秋左氏伝』・僖〔き〕公二十四年 の 「
      (夏書〔かしょ〕に曰く、地平かに天成る、とは称〔たた〕えるなり)
      *同上文公十八年に 「」・「」の両句


補注2) 
「平成」の典拠は、
地平天成」・「内平外成ということですが、
これを易卦で私〔ひそか〕に考えてみたいと思います。

その、意図するところ、希〔ねが〕うところは、
安泰・泰平の卦【地天泰〔ちてんたい〕】でしょう。
(上卦「坤/地」・下卦「乾/天」 : 易家のトレード・マーク、看板になっていますね) 

内(卦)〔下卦〕平らか = 「坤/地」、
外(卦)〔上卦〕成る = 「乾/天」です。

一見上が天で、下が地は、
自然の然〔しか〕るべき状態の象〔かたち〕をあらわしているようです。
が、そうではありません。

これは、【天地否〔てんちひ〕】の卦になります。
閉塞〔へいそく〕し交流せず、の意です。
(八方塞がり、天地交流せず、男女和合せず、暗黒時代、“君子の道塞がって小人はびこる”)

逆に、上が地で、下が天の組み合わせが【地天泰】です。
すなわち、天は上昇しようとし地は下降しようとし、
かくして動き、天地交わり交流し安泰となるのです。

私感ながら、「平成」の元号は、【泰】であれかし、と望んだものでしょう。
しかし、今、平成の御世を23年余経て、現実には、
易卦に示す【否】の時代であるように思えてなりません。

実際、敗戦後過半世紀を経て、日本の現状は内柔外剛」(【否】の象)です。

国内では、政治・経済・社会・人心あらゆる面において“陰・柔”。
国外(外交)では、中国・北朝鮮/韓国・ロシア
そしてアメリカ(のほう)が“陽・剛”です。

なお、易卦で“時”を解釈しておきますと、
“現在”が【否】卦であれば、“過去”(裏卦)は【泰】であり、
“近未来”(上下卦の入れ替え)も【泰】です!

 

《 「昭和」・「大正」・「明治」 》 

 大正15年12月25日、大正天皇が崩御され(48歳)、
摂政・裕仁〔ひろひと〕親王が即位され昭和と改元されました。

「百姓照明、協和万邦」が典拠です。
“百姓(漢文ではヒャクセイと読みます)”とは、人民・一般ピープルのことです。

人民がそれぞれの徳を明らかにすれば、
あらゆる国々を仲好く和〔なご〕やかにさせることができるということ。
君民一致による世界平和の意です。・・・



※ この続きは、次の記事(元号(年号) と 経書(四書五経) その2)をご覧下さい。

(・・・昭和・大正・明治 “明治維新” /慶応〜大化/「貞観」と太宗/経書/“日出づる処”の国)



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第36回 定例講習 (2010年12月26日) 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子夏 〔2〕 )

《 §2.「素以為絢」/「繪事後素」 》

○ “子夏問いて曰く、「『巧笑倩〔こうしょう せん〕たり、美目盼ハン〔びもく はん/へん〕たり、素〔そ〕以て絢〔あや〕を為す。』 ※注) とは何の謂いぞや。」 | 子曰く、「絵事〔かいじ/絵の事〕は、 A:素より後〔のち〕にす(後る) 」 B:素を後〔のち〕にす。」と。 | 曰く、「礼は後か」 | 子曰く、「予〔われ/よ〕を起こすものは、商なり。 (※予を起こすものなり。商や・・・ ) 始めて与〔とも〕に詩を言うべきのみ。」と。”  (八佾・第3−8)

 

【 子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、以為絢兮、何謂也。| 子曰、繪事後素。 | 
曰、禮後乎。 | 子曰、起予者商也。始可與言詩已矣。(※子曰、起予者。商也始可與言詩已矣。) 】

 

《大意》

子夏が、「『にっこり〔莞爾〕と笑うと口元が可愛らしく(エクボが出て愛嬌があり)、目(元)はパッチリと(黒い瞳が白に対照して)いかにも美しく、(その白い素肌の)上にうっすらと白粉〔おしろい〕のお化粧を刷〔は〕いて、何とも艶〔あで〕やか』※注) という詩がありますが、これはどういう意味のことを言っているのでしょうか。」 と質問しました。 |

孔先生がおっしゃるのには、「絵画で言えば、 A:(の胡粉〔ごふん〕)で地塗りしてその上に彩色するようなものだ。」 B:彩色して一番最後に白色の絵具(胡粉〔ごふん〕)で仕上げるようなものだ。」 と。 |

(子夏が質問して言うには) A:礼(儀作法)は、まごころ〔忠信〕というベース・地塗りが出来てから行われるものですね。」 B:(まごころをもとにして) 礼(儀作法)が人の修養・仕上げにあたるものなのですね。 |

孔先生がおっしゃるのには、「わしの思いつかなかったことを言って(啓発して)くれる者は商(子夏の名)だね。 (※わしの思いつかなかったことを言って(啓発して)くれたものだね。商よ、お前でこそ、共に ・・・ ) 商のような(古典を活学できる)人にして、はじめて共に詩を語ることができるというものだね〜。」 と。

 

《解説》

子夏のこの時の年齢はさだかではありませんが、(孔子との年齢差を考えるにつけても)おそらく若々しい青年だったでしょう。純情内気な子夏が、生真面目〔きまじめ〕に(艶〔つや〕っぽいことについての)とぼけた質問をして、それに対して覚人達人の孔子が ポン とよくわからぬ応〔こた〕えをしています。その応えに、賢く類推し凛〔りん〕として思考を閃〔ひらめ〕かせています。「禮後乎」とわずか三字で表現したところに“打てば響く”がごとき子夏のシャープな覚りが感じられます。その賢い弟子に対して「起予者」と三字で応じた孔子も流石〔さすが〕なるものがあります。

―― この問答の深意は、読者のみなさんには、“禅問答”のようで、トン とよくわからないものでしょう。このあたりが又、『論語』の得も言われぬ妙味たるゆえんかもしれません。

※注) 『詩経』の詩について、上2句は衛風・碩人篇にありますが、下1句は見当たりません。
「笑〔え〕まい可愛いや口もとえくぼ、目もと美しぱっちりと、白さで美しさをしあげたよ。」
(金谷治・『論語』 p.56 参照引用)

 

参考資料

「人形〔にんぎょう〕」   1911(M.44)年 5月 
文部省唱歌/作詞作曲ともに不詳/ 『尋常小学校唱歌・第一学年用』

1. わたしの人形はよい人形。
目は ぱっちりと いろじろで、
小さい口もと 愛らしい。

わたしの人形はよい人形。

2. わたしの人形はよい人形。
歌を うたえば ねんねして、
ひとりでおいても 泣きません。
わたしの人形はよい人形。

 1970年代、替え歌 CMソング(関西地区限定)  『モリシゲ人形のうた』

1. わたしの人形は モリシゲで
お顔がよくて 可愛くて
五人囃子に 内裏さま
たのしいみんなの ひな祭り

―――  2.3.4.5.

最後に
目は ぱっちりと いろじろで、
小さい口もと 愛らしい。

わたしの人形は よい人形。

 

( つづく )

 

老子  【7】

コギト(我想う) 1

≪ 循環の理 (1)  「大曰逝、逝曰遠、遠曰反」 ≫

「遠曰反」は、老子の思想の特徴的な部分であり、私は、老子の面目躍如たるものを感じます。

25章は、道の始原(元)性にはじまり、めまぐるしく論旨が展開していて複雑・難です。

中でも、この文は難解です。が、私は興味深く感じるものがあります。

 

道は周〔あまね〕く行き渡っているので、その性質から「大」といってみました。

「大」〔Great〕は「小」に対する相対的概念ではなく、“絶対大”・“無限大”です。

「大」なるものの運動は「逝」〔ゆ〕き「遠」ざかります。

無限・永遠の拡がりを示し、その極〔きわみ〕に達すると、“循環の理”に由って根源〔もと〕に「反」(=返)るのです。

“矛盾を孕〔はら〕んだ統一”ですね。

 

“Great, it pass on in constant flow. Passing on, it becomes remote.
Having become remote, it returns.“ (Kitamura adj. p.87)

 

さて、このことを現代の科学的(宇宙物理学・天文学・・・)常識・成果で考えてみましょう。

地球は球体(丸い)であり、太陽(月は地球)を自転しながら公転しています。

一日・一年の巡り(周行)でまたもとに戻ります。

「春→夏→秋→冬→」という四季の移り変わりも、それが故のことですね。

遥かに「遠」くなり、やがて本源に立ち返〔「反」〕るのです。 注1)

これが、老子の思想の深淵・面目躍如たるところです。

 

例えば、もし悠遠〔ゆうえん〕にみることが出来る望遠鏡があれば、地球上では自分の後ろ姿が見えるのでしょう?

アインシュタインの(宇宙)論でも、「遠」〔無限∞〕に遠くが見える天体望遠鏡で宇宙のはてを見ると、自分の後ろ頭が見えるといいます。 注2)

137億年前のビッグ・バンに宇宙は始まり、以後拡大・膨張し続けているといわれていますが、膨らむ宇宙の結末は、空間も引き裂かれてバラバラになるのでしょうか?!

それとも行き着くところまで行けば縮み始めるのでしょうか?

 

易学においても、陰陽2原論の易理が、現代のコンピューターの2進法の原理(0と1、Off と On)と同一です。

また、易・64卦の理は、生物学の胚の誕生・“卵割〔らんかつ〕”のプロセス(単細胞の受精卵が、2・4・8・16・・・と分割され64分割をもって終了すること。それ以降は、桑実胚〔そうじつはい〕とよばれます。)と同じです。

 

想いますに、これら21世紀の現代科学の成果と2000年余前の老子の思想との不思議な一致は何でしょうか?

なぜ、老子は知り得たのでしょうか?

これは、(易学でもいえることですが)私は、聖人のシックスセンスによる、“覚智〔かくち〕”の世界の故だと想うのです

まことに、“至れる哲学(者)は科学的であり、至れる科学(者)は哲学的”ではありませんか。

 

注1)

「遠の極み(遠の大なるもの)は、反〔返〕る」は、まことに万般においての哲理・真理と想われます。

それは、円運動にしろ振り子(半円)運動にしろ、山谷の波運動にしろ(cf.易は 円の循環でもあり、陰極まれば陽・陽極まれば陰の山谷の波の循環でもあります)、「周行」であるからなのでしょう。

大いに「離」=遠くなれば、反る。

その循環の理により自然に復帰するものですが、それは、人間のイデオロギーや心理状態にも言えるのでしょうか?

老子は、人間だけは進んで反(=帰)ることを知らないと言っています。

私は、現代文明=易の【離】はまさにそのとうり、反ることを知らないでいると思い想います

 

注2)

cf.現在の宇宙科学で、ビッグ・バン以来(加速しながら)膨張し続けている宇宙の格好は球体をしており、その大きさは、(年齢を137億年として) 【 9.1 × 10 の78乗 立法メートル 】 と計算されています。

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*易: 易(の循環)は、「円」であり「波」である? 
(cf.光は粒であり波である:アインシュタイン)
 ・・・  算木の象は「6」、易卦は「64」の循環 


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コギト(我想う) 2

《 「四大説」の “4・四” 》

「道」の性質を「大」として、論旨は別方に転じて「四大説」が展開されています。

道・天・地・王がそれです。

老子のいう「王」は、道の体得者、無為にして化した三皇時代(堯・舜より前)の聖王でしょう。

(cf.“尚古思想”)

老子の理想的指導者像です。

「而王居其一」と強調しているところに、老子の政治思想の現実的立場がよく示されているといえます

 

老子の「四大説」では、言葉としては 5つあります。

が、意味するところは、「人」/「天・地」/「道」=「自然(おのずとそうである/道は自然のままに生まれる)」 と 3つに捉えるべきものでしょう。

そうして、「王(指導者・リーダー)」は「道(天・地を含む)」に従いかなうべきであると論理を展開してゆくわけです。

 

ところで、「四・4」という“数”に着目してみたいと思います。

東洋(儒学)では、「五行思想」【木・火・土・金・水】にもとづく“五”、易にいう   生数  “5”「五」を神秘的な霊数として重んじます

それに対し、“4”は西洋の源流思想の霊数です。

起源は、ギリシア哲学の「四元素説」【水・火・土・空気】です。

この「四元素」は、物質の4態: 固体・液体・気体・プラズマでもあります。

 (cf.プラズマ = 第4物質形態。宇宙の99.9%以上がプラズマ状態) 

西洋の「四元素説」 と東洋の「五行説」とは、遥〔はる〕かむかしからよき対照をなしているのです

 

なお、“4”は陰、“五”は陽の数です。

黄老と儒学は、コインの裏表のように中国二大源流思想を形成しています。

老子の思想を陰(ウラ)、儒学の思想を陽(オモテ)と考えることもできるかもしれません。

 

さて、インド(仏教)思想にも“四”がよく登場します。

「四苦」・「四諦〔したい〕」・「四法印」・・・ といった具合です。

「四大」についても、仏教では【水・火・土・風】を称します(ギリシア哲学の「四元素説」と同じですね)。

また、仏教で三宝〔さんぽう〕」 といえば「仏」・「法」・「僧」です。

聖徳太子の十七条憲法でも、「二に曰く、篤〔あつ〕く三宝を敬へ。三宝とは 仏〔ほとけ〕・法〔のり〕・僧〔ほうし〕なり。・・・ 」とありましたね。

この三宝も実は、『老子』・67章に登場するものです。

すなわち、「慈〔じ: 慈悲〕」・「倹〔けん: 倹約〕」・「後〔ご: 出しゃばって人の先頭とならない〕」の 3つがそれです。

→ 後述 ≪老子の三宝≫ 参照のこと

 

ちなみに、「老子化胡〔けこ〕説」というものがあります。

「胡」とは、釈迦(仏陀)のことです。

すなわち、消息を絶った老子が、その後インドに行き、釈迦を教えたとか釈迦そのものであるとかというものです。

それはともかくとしても、黄老思想と仏教とを眺めておりますと、老子の仏教への影響もまた深いものがあるかもしれません。

 

( つづく )

 


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