■ 論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子夏 〔4〕 )
盧・研究
≪「素以為絢」/「繪事後素」≫ ・・・ 続き
D.彩色のプロセス/修正・善に改める白 (盧 私見)
最近(2014)スピーチで、「皆さんには、進路(将来・人生・職業)に対するいろいろな思いがあるでしょう。―― そこに色をつけなければなりません・・・」という表現を耳にしたことがあります。また、駅の宣伝大パネルで、某大学の宣伝広告に、巨大な“カメレオン” 補注1) が虹色に彩色されて描かれ「キミハナニイロ?」とキャッチコピーが書かれていました。
これらは、色と人生が重ねられて擬〔なぞら〕えられて語られている一例です。21世紀は“カラーの時代 〔Color Ages〕”ということを改めて感じました。そもそも色の世界を持つもの(色が見えるもの)は、ホ乳類だけです。犬の人生(犬生?)や猫の人生(猫生?)は、白と黒の“グレースケール”の中に表現され擬〔なぞら〕えられるわけです。
「繪事後素」 につきまして、私の美術家としての視点から私見を述べてみたいと思います。
まず、絵の素(白)地・生地=ベースとしての「白」については。和・洋紙にしろキャンバスにしろ、描くための素材・前提となることは自明です。「素〔もと〕」です。色や表面形状(“目”や凹凸など)、絵の具の“ノリ”具合・滲み具合などです。油絵などでは、特に各種技法としての下地処理・地塗りの技法が多くあります。
次に、彩色のプロセスの中でも「白」が重要な役割を果たす場合もある、ということを述べてみたいと思います。
まず一つ目。下地としてではなく、彩色する絵の具(有彩色)そのものに白を混ぜるということがあります。白を混ぜると、専用語で“(明)清色〔(めい)せいしょく〕”といいまして、明度が高くなり明るく澄んだ柔らかい色調になります。黒を混ぜると“(暗)清色〔(あん)せいしょく〕”といって暗く澄んだ色調に、灰を混ぜると“濁色〔だくしょく〕”といって濁った色調になります。平たく例を挙げれば、赤の色相に白を混ぜると“桃色〔ピンク〕”に、黒を混ぜると“茶色〔ブラウン〕”に変化していきます。 ―― 人生に擬えれば、白=素=徳 を含んだ善き人生行路を彩/章〔あやど〕るようなものです。
二つ目。(透明)水彩画の専門的彩色技術について述べておきます。仕上げ・キメ手のハイライト=白部を描くとき、(ポスターカラーやガッシュなど)不透明水彩絵の具の白色を強引にのせる(カバーする)ばかりではありません。彩色する前に、予〔あらかじ〕め白く残したい部分を、マスキング専用の“ゴム液”を塗って(描いて)おきます。彩色が一通り終わってから、専用ラバーでカバーしていたゴムをとれば白く抜ける(紙地の白が顕れる)というテクニックです。そこから、さらに微調整するように仕上げの彩色をつづけ絵を完成させます。 ―― 人生に擬えれば、若いときに培われた蔵された徳が、恰も種子の“核〔さね〕”のように、時を得て芽吹き形を整えて、やがて華を咲かせるようなものですね。
三つ目。油絵において“グレージング”技法という非常に優れたものがあります。私は、東洋的にいえば奥義・秘伝のようなものと言ってもよいとさえ想っています。これは平たく一言に要せば、下の油絵の具が乾いてから透明感のある薄い油絵の具を(透明水彩画のように)重ねて(何度も)塗るというものです。
つまり、下書きを終え彩色の段階で、明るい部分を白〔ホワイト〕(もしくは明度の高い色)で描きます。それがよく乾いてから、透明感のある薄く溶いた油絵の具で“グレージング”して“固有色”を与えると同時に明るさを押さえます。例えば、“緑のビン”を描く場合、まず明るめのグレーから白色を使ってビンを描きます。乾いてから、その上に緑(ビリジャンなど)で“グレージング”して“灰色のビン”であったものを“緑のビン”に変身(?)させるわけです。“茶色の編みかご”を描く場合も竹や籐〔とう〕の編み模様を一本一本を細かく白色で描きます。乾いてから、その上に茶(ブラウンなど)で“グレージング”すれば、その濃淡で茶色の竹や籐〔とう〕の編み模様が浮き出されます。犬や猫の(モノクロ)世界から、人間の固有色の世界に移り変わるわけですね。
そして、指や布で“グレージング”層を拭い凹部にのみ色を残したり、被〔かぶ〕り過ぎたところを整えます。仕上げにハイライト部を再度ホワイトで描き起こすこともします。これらのプロセスを何度もくり返すのです。
この“グレージング”技法を知ると知らないとでは、絵の出来に格段の深みの差があります。 ―― それは人生に擬えれば、自他の人生の試練・体験を重ね活かすうちに、熟成したワインのような深みと人徳に満ちた“よくできた”大人〔たいじん〕、が形成されるようなものでしょう。“よく出来た絵”は、“善くできた人”の象〔しょう〕です。
さらに、仕上げ(プロセス)=フィニッシュワークの「白」については。実際、私も各種描画(油絵・水彩・デザイン・パースetc.)において、「白/ホワイト」を最後のキメ手として重用しています。
加うるに私は、以上の白の用い方に加えて、“修正・善に改める白”について述べたいと思います。
絵画では“下書き”や“素描・デッサン”に鉛筆を用いますが、文字を書くには殆〔ほとん〕どがシャープペンシルを用いるようになりました。私は、社会人になるとシャープペンシルを使うことは稀〔まれ〕で、日常的にペン/ボールペン/水性ボールペンを使用しています。そうしますと、鉛筆・シャープペンシル書きの場合は消しゴムで消しますが、ペン・ボールペン他の場合は修正液(白)による消去・修正ということになります。現在、私にとりまして、水性ボールペン(黒と赤)と修正液(白)とはセットで持ち歩く必須筆記用具です。修正液の“ホワイト”で間違えたものを消去(リセット)・修正するわけです。
「白」は「清色」を創ると述べましたが、人間においても“善なるものは白”です。「白」の心理的象徴(カラーシンボル)は、清/潔白/善・善美/清潔/平和/明快/神聖/昼(太陽)/陽・離【☲】 ・・・ です。“白紙に戻す”と言う言葉も、人間本来の善き出発点に立ち返ると解することも可能です。言ってみれば、“人生のリセット”ですね! ―― “(善)美なるものは白”・“善なる人を創るものは素〔そ・しろ:白〕”に他なりません。補注2)
以上に考察してまいりました「白/ホワイト」の扱い、意義・役割は、(変な連想・アナロジーかもしれませんが)、料理の味のキメ手が(白い)“塩”味であることと同じように、私は感じています。というのは、塩加減(の中庸)で料理の味の(その人にとっての)善し悪し=美味か否か、が決まります。それと同時に、塩の鹹〔から〕さはその塩自身に含まれるミネラルの種類によって千変万化の旨味・甘味〔うまみ・うまみ〕を現出いたします。(ラーメンなどの)スープの類〔たぐい〕は、“だし”と“塩”でさまざまなバリエーションを創りだします。また、高級な素材の肉料理(ステーキやカラアゲなど)では味付けや食べる時の“付け調味料”は素材を活かすために、素材の旨味〔うまみ〕を引き出すために、塩のみとしますね。料理の味付けの極致はこの塩の鹹〔から〕さの旨味・甘味〔うまみ〕を極めることにあるといえましょう。つまり、私は料理の味は“塩にはじまり塩に終わる”といえると想っています。
―― 畢竟〔ひっきょう〕するに、美術・絵画における色も“白にはじまり白に終わる”のであり、人間もまた“素〔そ〕にはじまり素に終わる”といえましょう。理想的人間は、「素」にして「直(=徳)」なる人、“素直〔すなお〕”な人です。
水墨画の白黒濃淡の世界で、“墨に五彩あり”といわれますね。これは、“白と黒に五彩あり” と言い換えることも出来ます。人間でいうなら、ほんとうの賁〔かざ〕り、賁られた人生は「白」と「黒」の中に、「素」と「玄」の中にあるのだと思います。
“美しい絵(の色)”に擬えて“善美の人間”についてまとめてみますと。
善き人間の本(=素〔もと〕)には、ベースとして「白」(=素〔もと〕)が大切であること。
善き人間形成のプロセス(人生行路)には、人生を彩〔あやど/章〕るものとして「白」(=素〔そ〕)が大切であること。
善き人間の完成には、仕上げ修正するものとして「白」(=素〔しろ・す〕)で賁〔かざ〕ることが大切であること。
cf. 素 + 直 (=徳) = 素直〔すなお〕
孔子の「繪事後素」を察するに、孔子は絵の専門家でもありませんし、ここに言っている「絵」も今から2500年ほど以上も前の古代中国のそれです。したがって孔子は、ベースとしての素〔もと・そ〕の意で用いたと考えられます。つづく子夏の言葉も、「礼」=“文化:【離☲】”というものは、そのベースの上に後で施すという意であると考えられます。
しかしながら、私は、この問答の文言を「温故而知新」・現代に活かす意味で、以上に述べたように味わい解したい、と強く思い想うのです。
補注1) 易学・『易経』は、変化とその対応の学です。「易」の字義について、蜥易〔せきえき〕説というものがあります。それは、「蜴」(とかげ)に因〔ちな〕むとするもので、トカゲ〔蜥蜴・石竜子〕は変化するからというものです。私は、この「蜴」を、体表の色を周囲の環境に合わせて千変万化させる(保護色)“カメレオン”の一種ではないかと想像しています。
補注2) 自然界のホ乳類の色をみても、「白」と「黒」(およびその混合)が多く見受けられます。白犬と黒犬(およびブチ)、白猫と黒猫(およびブチ)、白馬と黒馬(およびシマウマ)、白熊と黒熊(および灰色、パンダ)、白兎と黒兎(および灰色) ・・・ などなど。また、自然は気まぐれに、色素がない白い動物を誕生させています。(これらは目立って天敵に襲われるためか、数は増えていませんが。) 白い蛇・白い虎・白いライオン・白いネズミ・(鳥類ですが)白いズズメ ・・・ などなど。
そして、人間が創りだした人工景観としての建築物をみても、圧倒的に白・(明)清色・白をベースとしたもの、が多いことに気付きます。
cf.善と美を求めた古代ギリシア: 古代ギリシア彫刻の白の世界(大英博物館)
キーワード 研究
◆ 【 素 = 白 white について】
「素」“そ”は、それを 「絵事」=色彩 として捉えれば、「素」“しろ”と発音されます。「黒:Black」に対する「白:White」です。
この色彩としてのの“白・黒”の概念については、次の3つの場合を考えることができると思います。
(1) “White:白色”の意 :
白い地〔じ〕や紙の上に文字や絵をかく〔書く・画く〕場合です。この色彩学上の「白:White」は、すべての色を反射したもの(反射率100%、吸収率 0%)です。すべての色は“三原色”から構成されます。「色光(加法混色)の三原色」(=黄みの赤【R:アール】・紫みの青【B:ビー】・緑【G:ジー】)を重ねますと白色光となります。
逆にすべての色を吸収すると(反射率0%、吸収率 100%)、「黒:Black」になります。「絵の具・色料(減法混色)の三原色」(赤紫【M:マゼンタ】・紫みの青【C:シアン】・黄【Y:イエロ−】)をすべて合わせると(理論上は)黒色になります。宇宙空間に存在するという“ブラックホール”は、あらゆるものを吸収(光さえも吸収)している空間なので“暗黒”空間であるということのようです。
ちなみに、この色料(絵の具)の三原色 + 白・黒 の5色が、東洋(五行〔ごぎょう〕)思想にいう「五色〔ごしき〕」であり、西洋色彩学にいうヨハネス・イッテンのペンタード(五原色)です。 ⇒ 参考資料 1)
(2) “何もない”の意 :
白を何もないの意で用いる場合があります。「素」を“す”と発音する場合はそれでしょう。“白紙に戻す”といえば、何もない「素〔もと=元〕」の状態に戻すことです。関西で「素〔す〕うどん」といいますのは、何もトッピングしていない“かけうどん”のことです。関東で“酢入りうどん”と勘違いしている人もいたとか(笑)。“うどん”は白色ですが、その意ではないと思います。“素〔す〕肌”や“す〔素?〕っぴん”も、白い肌ではなく、化粧していないありのまま(=天然・自然)の肌・顔のことでしょう。“素足〔すあし〕”も、履〔は〕き物を履いていない裸足〔はだし〕のことでしょう。
「素=す」について加えれば、例えば、スイカなどの野菜で、中に空洞ができている状態を“ス〔素?〕が入〔い〕っている”などと表現しています。“レンコン〔蓮根〕”は“蓮〔はす〕”の地下茎(ハスノネ)です。“蓮”は仏教でも尊ばれている植物で、“はちす”ともいいます(古称)。“レンコン〔蓮根〕”に8つほど穴(=ス)が空〔あ〕いているからではないでしょうか?
本来ある日本語の用法かどうかは定かではありませんが、“素〔す〕の自分”・“素〔す〕になれる”とか“人間、素〔す〕が大事”とか使うのを聞いたこともあります。この場合の「素〔す〕」は「素〔もと〕」・「本〔もと〕」に近く、偏見や先入観のない状態を指しているのでしょう。
また、白は易の八卦で示すと【離☲】と考えられます。が、同時に【離☲】が持つ空〔くう〕・虚・中身がないの意であるとも考えられましょう。“無”・“空〔くう〕”(ex.“空〔くう〕白”・“空〔から〕手”・“空〔から〕約束”)は、黄老の思想・仏教の思想に重なってまいります。
(3) “透明なものがある”の意 :
さらに特殊な場合が考えられます。何も無いといっても、宇宙空間のような真空ではなく、地球上には“空気”があります。例えば、遠くの山が青みがかかって見えるのは、空気の層があるからです。すなわち、空気の色は青色だからです。従って逆に言えば、青色を少しずつ山の本来の色に混ぜて、さらに輪郭をボカして描けば遠くの山々が表現できるというものです。(cf.レオナルド・ダ・ヴィンチ: 色彩遠近法・空気遠近法・スフマート〔ぼかし〕)
また、“透明人間”ではないですが、“透明なものがある”という場合があります。例えば、ガラスやビニールなどは、白色ではなく何も無いのでもなく、透明なものが存在するのです。バリアーのような物理的エネルギー層も、目に見えなくても存在しています。
自然科学で、宇宙や生命の誕生について“無から有を生じた”といっても、その “無”は“Nothing”〔何もない〕ということではなく、「素〔もと〕」はあってのことでしょう。形而上学(思想・哲学)で、黄老思想の“道=無”から有を生じるのも、仏教思想の“空〔くう〕”から有を生じるのも、“Nothing”からということではないのです。
cf.≪宇宙の誕生≫ 「暗黒空間(時代)」/水素・ヘリウム・暗黒物質/「ファーストスター」 (太陽の100万倍・青白〜白)/宇宙の膨張は加速度的・「暗黒エネルギー」の存在 (盧・『大難解老子講』 pp.46〜49 参照のこと)
さて、この色彩学の白・黒の概念を“人間学”に擬〔なぞら〕えれば、白=「素」・黒=「玄」と表現されます。例えば、“素人〔しろうと〕”・“玄人〔くろうと〕”という対応語がありますね。私が想いますに、それは結論的に要せば、「白:White」=儒学の「素〔そ〕」・「黒:Black」=黄老の「玄〔げん〕」ということです。そして、それを易学的に表象すれば、「白:White」=【離〔り〕☲】・「黒:Black」=【坎〔かん〕☵】です。
儒学の「素〔そ〕」は、「明〔めい〕」です。儒学は「明徳〔明という徳〕」を重視します。例えば、『大学』の書き出しは「大学の道は明徳を明らかにするに在り」(明明徳) とあります。一方、黄老(老荘)のほうは「玄徳」を重視します。明と玄(=暗)は、陽と陰と捉えることもできましょう。この両者は、二様・相対峙〔あいたいじ〕するようなものではなく、表裏一体です。(深層)心理学的に“氷山”で図示してみますと、次のようなものだと考えられます。 ⇒ 参考資料2)
∴
☆儒学の「素」〔そ/しろ=白〕/【離☲】 と 黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕/【坎☵】
─── “「白と黒」は色の本質であり、「素〔そ〕と玄」は人間の本質であり、
【離】と【坎】は万物の源 である” ─── (by たかね)
◆ 【 白 賁 〔はくひ〕 】
儒学の源流思想(形而上学)は、『易経』になります。その重要性は“五経”〔ごきょう〕の筆頭に位置づけられていたことからもわかります。
『易経』(=儒学)の思想にいう、賁〔かざ〕りの極致〔きょくち: 最高で最上の境地〕が「白賁」〔はくひ・白く賁る〕です。「白」=「素」〔そ・しろ〕です。
この「白」は 〆嚢發凌А崘髻廚任發△蝓´◆_燭碎未襪海箸ない「空〔くう〕・無」(=“徳”で賁る) ことでもあります。
孔子は、『易経』を愛読しその研究家でもあったので、この「白賁」の教養をもとに答えた可能性もなくはないでしょう。その意図するところは同じです。(尤〔もっと〕も、突然の『詩経』の文言についての質問であり、「易」ではなく「絵事は」とあるので、直接「白賁」を脳裏に描いてのげんであるかどうかは疑問ですが。)
≪参考資料:高根・「『易経』64卦奥義・要説版」 p.22 抜粋引用≫
§.易卦 【山火賁〔ひ〕】 「賁〔ひ〕」は、かざる・あや。
(高根流 超高齢社会の卦)
●“文化の原則”は、知識・教養で身をかざること、本当のかざりは躾〔しつけ〕、晩年・夕日・有終の美、衰退の美・
“モミジの紅葉” ・・・もみじ狩り(=愛でる)、“賁臨”、
やぶれる・失敗する
cf.「火」と「石のカケラ」から文化・文明はスタートした。(by.高根)
・「天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す。」(彖伝)
※ 文明(離)の宜〔よろ〕しきに止まる(艮)のが人文。人文を観察して天下の人々を教化育成すべき。
・上爻辞: 「白く賁る。」“白賁”・・・美(徳)の極致、あや・かざりの究極は「白」・“素”
(1)すべての光を反射する
(2)なにもない(染まっていない・白紙・素)
※ インテリアC、カラーC、福祉住環境C・・・の卦/超高齢社会の卦 (by.高根)
■上卦 艮山の下に下卦 離。
1)離の美を止めている象。→ ※文明(離)の宜〔よろ〕しきに止まる(艮)のが人文。
2)山下に火ある象。山に沈む太陽(夕陽・夕映え・晩年のきらめき)。
◆ 【 『中庸』 と 『老子』 ―― 「素行自得」と「安分知足」・「無為自然」 】
○「君子は、其の位に素して行い、その外〔ほか〕を願わず。 | 富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い、夷狄〔いてき〕に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。 | 君子は入るとして自得せざる無し。」 (『中庸』・第14章)
【 君子素其位而行、不願乎其外。 | 素富貴行乎富貴、素貧賤行乎貧賤、素夷狄行乎夷狄、素患難行乎患難。 | 君子無入而不自得焉。 】
《大意》
有徳の君子は、自分の置かれた立場・境遇を、自分の本来あるべきもの(然〔しか〕るべきもの)と心得て、それに適った行いをして、あえてそれ以外のことを願う心を持たないのです。
もし、(出世して)経済的に豊かで社会的地位が高い時は、驕〔おご〕り高ぶったり好き放題であったりせず、富貴な者の然るべき道を行うのです。もし、(逆境にあって)経済的に貧しく社会的地位が低い時には、卑屈になったり媚び諂〔へつら〕ったりすることなく、貧賤の者の努力すべき然るべき道を行うのです。夷狄(外国の野蛮国)に在〔あ〕っては、(じぶんの道を守り貫きながらも)その地の風俗習慣に従って然るべく行うのです。患難に臨んでは、いたずらに恐れ憂うことなく、節操を守り貫き、患難を然るべく克服するのです。
このように、君子というものは、それぞれの位置・境遇に“適中”する(素する=もとより然りとする)行為をするので、どのような位置・境遇に在っても(入〔い〕る)も、少しも不平や不満がなく自ずから意に適って悠游〔ゆうゆう〕と自適するものなのです。
《解説》
「素(行)」・「自得」は儒学思想のキーワードです。その儒学思想・哲学の書『中庸』で最も有名な1章がこれです。「素(行)」は、「素」=「故」で、 “もとより然りとなす”の意です。「自得」は“少しも不平や不満がなく自ずから意に適って悠游〔ゆうゆう〕と自適する”の意です。儒学・『中庸』の「素行自得」は、『老子』の「安分知足」・「無為自然」にそのまま通ずるものです。そして、現代にそのまま通じ望まれるものと私は考えます。 ―― “トナリの芝生”は、時代を超えて人間が戒めねばならない“業〔ごう〕”なのかも知れません。
「人を指導する立場にある人、いやしくもエリートたる者は『その位に素して行ふ』、自分の立場に基づいて行う。自分の場から遊離しないで行うものである。現実から遊離するのが一番いけない。ところが、人間というものはとかく自分というものを忘れて人を羨〔うらや〕んでみたり、足下〔あしもと〕を見失って、他に心をうばわれる。
職業人にしてもそうだ。自分の職業に徹するということは、案外少ないものである。たいていは、自分の職業に不満や不平を持って他がよく見える。 ―― 中略 ――
とにかく、※いま日本で社会的に困ることは、多くの指導者がその場を遊離して騒ぐことだ。」
※昭和36年7月の講義講録
(安岡正篤・『人生は自ら創る』・PHP文庫pp.135-136/
旧・『東洋哲学講座』関西師友協会pp.113-114引用)
ちなみに。先述のように、『論語』・孔子「絵事後素」の「後素」から、大塩平八郎(中斎)が大塩後素と号したことを安岡正篤先生が紹介されております。この『中庸』の「素行」が、江戸前期の大儒学者山鹿素行〔やまがそこう〕 補注) の号の由来であろうと推察いたします。
補注) 「忠臣蔵」の“山鹿流の陣太鼓”でご存じの方も多いでしょう。山鹿素行(1622-1685)は、江戸前期の儒学者・兵学者で山鹿流軍学の開祖でもあります。名は高興・高祐、会津生まれ。朱子学を排斥し古代の道への復帰を説きました。
なお、“陶鋳力〔とうちゅうりょく〕”の語は、山鹿素行が用いたとされます。“陶鋳力”とは、“消化力・包容力を併せた創造的な力”のことです。わが日本(人)は、例えば儒学・仏教・漢語(ひらがな・カタカナの発案) ・・・ などの外来文化を、この優れた創造的受容吸収力をもって、自在に自分のものとして取り込んできたのです。
cf.・『易経』:【雷山小過】 “安分知足”(分に安んじ足るを知る)の意、
「小事には可なり、大事には可ならず。飛鳥これが音を遺〔のこ〕す。」(卦辞)
(上るには宜しからず、下るには宜し、安分知足、謙虚・控え目であれ)
・『老子』:33章・44章・46章 「知足」〔たるをしる〕/「知止」〔とどまるをしる〕
25章:「自然」 ☆ 無為 = 自然 。 無為を別の面から説明したものです。
「自然」は〔おのずからしかり〕で、“それ自身でそうであるもの”(他者によってそうなるのではなく、それ自身によってそうなること)の意。
A.ウェイリーの英訳 “the Self−so”と 注釈 “what−is−so−itself” は参考になります。ほか、“its spontaneity”〔その自発性・自然さ〕。
(盧・『大難解老子講』 p.26引用)
・「ここがロドスだ ここで跳べ!」 〔“Hic Rodhos,Hic Salta!”〕 (ヘーゲル)
☆ 素行・自得 ≒ 安分知足 ・ 無為自然
( つづく )
■ 老子 【9】
・「象帝之先」 : ↓
コギト(我想う)
≪ “天の思想”と「帝」 ≫
古代中国の思想・信仰が“天の思想”と呼ばれる独特のものです。
易学の本〔もと〕、源流思想の一つにもなっています。
すなわち、天地万物の創造者・造物主としての「天」への信仰があり、擬人化して「天帝」・「上帝」とも称します。
その天地も「帝」もその母胎は「道」であると考えて、「道」の始原的性格を明言したものが「象帝之先」です。
「天」(天帝・上帝)は、宗教でいえば(神道やキリスト教で)“神”に相当するものでしょう。
つまり、“”ではなく、そのオールマイティーの神が在る前に、“あるもの=「道」”があったと考えているわけです。
『荘子』にも次のように述べられています。
「道は自身に本をつくり自身に根をつくる、天地あらざる古より固〔もと〕より存在す。」
※ 参 考 ≪ 天の思想 と 天人合一観 ≫
(大宇宙マクロコスムと小宇宙ミクロコスム)
(by たかね・『易経ハンドブック』より)
◆ 中国思想・儒学思想の背景観念、 天=大=頂上
・ 形而上の概念、モノを作り出すはたらき、「造化」の根源、“声なき声、形なき形” を知る者とそうでない者
「神」〔しん〕 ・・・・ 不可思議で説明できぬものの意
天 = 宇宙 = 根源 = 神
cf.「 0 」(ゼロ・レイ)の発見・認識、 「無物無尽蔵」(禅)
・ 敬天、上帝、天(天帝)の崇拝、ト〔ぼく〕占(亀ト)、天人一如〔てんじんいちにょ〕、
天と空〔そら〕
・ 崇祖(祖先の霊を崇拝)、“礼”の尊重
・ 太陽信仰 ・・・・ アジアの語源 asu 〔アズ〕 =日の出づるところ
―― ユーロープの語源 ereb 〔エレブ〕 =日のない日ざしの薄いところ“おてんとう様”、“天晴〔あっぱれ〕”、天照大御神
ex. 天命・天国・天罰・天誅・天道・天寿・北京の「天壇」
「敬天愛人」(西郷隆盛)、「四知」(天知るー地知るー我知るーおまえ知る)
「天地玄黄」(千字文) ・・→ 地黄玄黒
○「天行は健なり、君子以て自強して息〔や〕まず」 (『易経』 乾為天・大象)
――― “龍(ドラゴン)天に舞う”
○「五十にして天命を知る」 孔子の “知命” (『論語』)
○「天の我を亡ぼすにして戦いの罪にあらず・・・」 (『史記』・「四面楚歌」)
◎ 天賦人権論 〔てんぷじんけんろん〕
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず・・・」
(福沢諭吉・『学問のすすめ』)
◎ 易性革命 〔えきせいかくめい〕
「天子の姓を易〔か〕え天命を革〔あらた〕める」 ・・・
天命は天の徳によって革る
革命思想・孟子
★☆
※ 研 究 ―― 松下幸之助氏が説く “天” (by 伊與田覺先生講義より)
・ 書物によってではなく、自らによって(天によって)学んだ人
・ 「真真庵」の “根源さん” の社〔やしろ〕 ― (中には何も入っていない、無、空)
・ 人生は“運”(たまたま)、自分を存在させてくれるものは何か?
“両親” ・・→ そのまた両親 ・・→ “人間始祖” ・・→ 人間はどこから?
―― “宇宙の根源” からその生み出すによって生み出された
―― 自然の理法(法則) = 宇宙万物のものを生成発展させる力
・ 天と交流し、宇宙根源の働き、天によって生かされていることを悟得した(覚った)
・ その感謝のきもちを “社” の形で表した
★☆ 「松下電器」・現「パナソニック」の創業者、松下幸之助氏は「経営の神様」と尊称される“君子型経営者”です。 晩年、日本の将来の政治(家)を憂い、「松下政経塾」を創設されました。安岡正篤先生も参与されていました。さる平成23年9月、「松下政経塾」1期生である野田佳彦氏が、首相の就任いたしました。 その所信表明演説で、“和と中庸の政治”を標榜〔ひょうぼう〕し、“正心誠意”(『大学』)の言葉についても語られました。
松下幸之助氏は、学校や書物からの学問はされませんでしたが、自らの思索によって(天によって)学ばれました。 そして、その至れるところは、儒学の“君子の教え”と同じでした。 私(盧)は、松下幸之助氏の思想・哲学は、(“根源さん”の社 の話などを知るにつけても)儒学とともに、黄老の教えとも同じである と私〔ひそか〕に想っているところです。
( つづく )
「儒学に学ぶ」ホームページはこちら → http://jugaku.net/
にほんブログ村