儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2011年04月

“甘やかし” を “麦ふみ” に想う  (その1)

“甘やかし” を “麦ふみ” に想う 

───  “ゴミふみ”と麦ふみ /“じゃがいも理論”/ 「甘やかし子を捨てる」 /
  舐犢〔しとく〕の愛・“舐猫の愛”/ 『孝経』 / 「家貧しくして孝子出づ」  ────

 

《 はじめに 》

私は、週2回、勤務先の高校で、“(もえるゴミの)ゴミふみ”をしています。
── どういうことかと申しますと、次のような事情です。

ゴミの公的回収費用は、(有料化の論議はあるものの)どこも無料だと思います。
そして、“ゴミ(回収ビニール)袋”のあり方は、自治体によってまちまちです。

このところ、ゴミ袋は指定化・有料化の傾向にあります。
一般のゴミ袋も店頭から、黒い袋は次第に姿を消し、
いつしか白色・半透明のものに変わってきていますね。

例えば、四国・愛媛の郷里の市〔し〕では、一枚(大)40円ほどの指定袋です。
現住の大阪北部の市では、市が自治会を通じて一定数無料配布しています。
一般の白または半透明袋でもよいことになっています。

これに対して、職場のある大阪南部の市では、(大)100円と少々高値です。
有料ゴミ袋の利益は、ゴミ回収関連の経費の一部を補填〔ほてん〕しているのでしょう。

一枚の値段は、しれているとも言えます。
それでも、(学校のように)消費数がまとまるとかなりの負担金額になります。

このゴミ袋にかかる費用を少しでも節約するために、
できるだけ(圧縮し、カサを減らして)“詰め込む”・“押し込む”ということです。

そんなわけで、やや大きめ(70リットル)厚出で黄色い柄の袋に、
“これでもか”といわんばかりに“親の敵〔かたき〕のように”、
大の男が足で踏みに踏んで
飲料の紙パックなどなどを踏みつぶしているというわけなのです。

まあ、特殊地域的な異様な風情〔ふぜい〕
(椿事〔ちんじ〕?)といったところでしょうか。〔苦笑〕


長い前置きは、この位といたしまして。

この“ゴミふみ”をしながら、不思議と“麦ふみ”を連想いたします。
そのあれこれ脳裡〔のうり〕に想っていますことを、今回まとめてみました。

 

《 麦踏み 》

 文部省唱歌・“冬景色”に、 ♪♯

「 1.さ霧消ゆる 湊江〔みなとえ〕の   舟に白し 朝の霜
    ただ 水鳥の声はして   いまだ覚めず 岸の家 / ♪
  2.烏〔からす〕鳴きて 木に高く  人は畑に 麦を踏む  
    げに小春日の のどけしや  かえり咲きの 花も見ゆ 」

とあります。(カラオケにあるので、時々歌っています♪)

私が幼少の砌〔みぎり〕、自分の家は農家ではなく、都市在住でしたので 
「畑に 麦を踏む」という直接の体験はないのですが、
小学国語の教科書挿し絵に、麦踏みの光景の挿し絵が幾度か登場していたのを
微〔かす〕かにに記憶しています。

ついでに、「小春日」。

小春日・小春日和〔こはるびより/小6月/ Indian summer〕は、
晩秋から初冬にかけてのポカポカと暖かいうららかな(=小春)日・ひよりのことです。

学生諸君で勘違いしている人が見受けられますが、
春の候を指した用語ではありません。

昨年(‘10.12)師走のはじめ頃、
天気予報で「小春日和」の表現をつかっていたのは、興深いものがありました。
(ちなみに、昨年末に発表の、一年の世相を表す漢字は「暑」でした。)

─── 話を戻しまして。



今時の学生には、とんと「麦踏み」の話が通じません。

例によって、言葉そのものの内容を示す説明と、
加えて(何故かという)解説が必要です。


ところで、『孟子』(公孫丑上)の中に、「助長」という寓話があります。
稲の成長を助けてやろうと、一日中引っ張り伸ばし
全部ダメにしてしまった愚かな男の話です。

(周りの人が)無理に力を添え、かえってこれ(=本人)を害することです。
(そこから、悪い傾向を一層強くすること、
/物事の成長・発展のために外から力を添えることの意で使われます。) 

「助長」は、稲を引っ張りダメにすることでたとえた、孟子の作り話です。
が、「麦踏み」は麦を踏んで善くする現実の話・実際の話です。

冬の寒さの中、成長して伸びようとしている麦の若芽を足で踏みつけるのです。

それによって、(適度な負荷・ダメージによって)、
逆に麦がしっかり丈夫に育つということなのです。

冬期、土が霜で浮いた状態なのを踏み固める効果があるのかも知れません。

中国には、「獅子の子おとし
(獅子=ライオンは中国にいませんから虎でしょう。
虎は、生まれた子を千仞〔せんじん〕の谷に落とし、
這い上がり生き残った子だけを養育する)
という、まことしやかな言い伝えもあります。


わが国にも、「可愛い子には、旅をさせろ」・「他人の釜の飯を喰わせろ」 
・・・ などなど。

自分の子を苦難・艱難の環境において、
その器量を試したり 育成したりせよと誡〔いまし〕めていますね。

 

《 “甘やかし” と “じゃがいも理論” 》
 
じゃがいも理論”は、誰もご存知ないでしょう。
これは私が高校生の頃、単なる思いつきで考案したものを自称したものです。

私の若かりし時登場した「ポテトチップス」は、スナック菓子の主流となり、
ありきたりと思われていた「じゃがいも(馬鈴薯〔ばれいしょ〕)」も
人気のシャレた野菜となりました。

さらに、その後“カウチ・ポテト族”などという、
(数十年前の)当世若者気質〔かたぎ〕を表わす言葉も誕生しました。

これは、自宅で“カウチ”に寝そべって(孤独に)“ポテトチップス”をかじりながら、
独りファミコンなどに時を過ごす若者気質のことです。

平成の御世、「ポテトチップス」の類のスナック菓子は全盛を極め
店頭にところ狭しと安価に並べられています。

そして、“じゃがいも”も、昔は非常に安価で庶民的で、
“コロッケ”・“肉じゃが”を始め家庭料理(お袋の料理)の主要食材でした。

片栗粉”(馬鈴薯でんぷん)も懐かしいです。

が、今時、都市部でスーパーの店頭に並ぶと
(ひと山いくらでなく、一個いくらで売られており) 
決っして安価とはいえないと感じることしきりです。


さて、私は農業に関する専門知識があるわけではありません。
けれども、洋の東西を問わず、広く栽培され
古くから好んで食されているこの“じゃがいも”の栽培は、
肥沃な土地である必要はありません。

いな、むしろ痩〔や〕せた土地で良く育ちます。

しっかりと、せっせと光合成(炭酸同化作用)を行い、
できた養分(デンプン)を 根(=じゃが芋部)に蓄えるのです。



人間(ヒト)の場合も、(経済的にもお金持ちではなく) 
一見小柄で華奢〔きゃしゃ〕な体つきのお母さんが、
ずいぶん子沢山であったりすることを思い浮かべたものです。

そこから、
物質的・生物学的環境に(適度に)恵まれていない方ほうが、
子孫を多く残す意思・パワーがある

と、考え “じゃがいも理論” と名付けました。

今(2010.12)、エチゼンクラゲの異常発生が報じられています。
その原因を、学者は異常気象により、クラゲにストレスが加わり
多量の繁殖をもたらしたのではないかと説明していました。

およそ、動植物=生物〔せいぶつ〕の本能として、
自分の生〔せい〕の不安(ストレス)があると
子孫を残そうという本源的働きが活発になるということなのでしょう。

シンプルといえばシンプルな、自然の摂理には違いありません。

現代日本の、物質的に過度に恵まれた社会において、
子供を産み育てようという、
人間本来の、女(母)性本来の意思・願望が鈍化〔どんか〕してきています。

今や※出生率は、1.2人程にまで半減しています。
生物学的・民族的・国家的危機です。 注1)

われわれ人間ともうしますものは、ともすると、自分が生物であること、
動物であることを忘れてしまいがちです。

天地自然の存在を超越した、何かしら特別な存在であると錯覚する人がいます。

結局最後に生き残る者は、最も強い者でも最も賢いものでもない。
それは、変化し続けるものである。」 

これは、『種の起源』で著名な生物学者チャールズ・ダーウィンの言葉です。
(儒学=『易経』は、変化とその対応の学です。) 

“甘やかし”・“過保護”は、ヒトを種〔しゅ〕として弱くしてしまいます。
“負のDNA”を連鎖させます。

人工薬や好環境に依存し過ぎると、自然治癒力を弱めていゆき、
いずれヒトは簡単に疾病〔しっぺい〕に斃〔たお〕れてしまいます。

今の日本人は、“負のDNA”を連鎖させ、
どんどん弱くなっていくように思えてなりません。

“じゃがいも”は、“じゃがいも”の立場から言えば、
“甘やかされず”(劣悪な)環境に変化・適応し、
種としてのパワーを強めながら種として繁栄しているとも表現できましょう。



注1)
正確には※「合計特殊出生率」。
本来人口が減少せずに、(ひと組=2人の男女が)再生産されるためには、
“2.2人”ほどの子どもを育てなければなりません。

今や、子どもの数は着実に減少し、(2005年で) 1.25人にまで低下しています。
半数近くに減った子ども達は、長じてまた、
半減に近い次世代しか生産しないという“連鎖”です。

日本人で減った人口(労働力人口)は、当然に、外国人が流入してくるわけです。

この「少子化」の現状を、「(女性の)産む権利=産まない権利」や
教育費の高額や「経済社会的な子育て環境の不整備」などの理由に
すり替えているように思われます。

そもそも、主要因は、子(子孫)を産み育てる本能・本源的パワーそれ自体が、
鈍化衰退していることにあります。
(ヒトという)種〔しゅ〕の危機、日本人という民族の危機です。



※ この続きは、次の記事をご覧下さい。


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真儒協会開設5周年記念・特別講演  予告紹介 

真儒協会開設 
5周年記念・特別講演 【H.23.4.29】  予告紹介 


《 はじめに 》

 本年は、真儒協会を開設して 5周年を迎えます。

易卦に【水沢節】がありますが、その“竹の節〔ふし〕”・“節目〔ふしめ〕”の意です。

とりわけ、「5」 という数は、東洋においては“五行〔ごぎょう〕思想”の「五」、
易の“生数”の「5」で神秘的にして重要な霊数
です。

今年度は、“節から(新たに)芽が出る”ような、充実の年にしたいと考えております。

 この、開設5周年の節目に当たり、(平成23)年度当初の 《真儒の集い》 は
公開とすることにいたしました。

例年 《真儒の集い》 は、定例講習受講者を中心に内輪だけで開催してまいりました。
が、今回は《発足の会》と同様に、広くご参加の皆さまを募り 
各界の御来賓もお招きして、
“一陽来復”(【地雷復】)・陽の気を顕〔あきら〕かにしたいと思っております。

《真儒の集い》の内容は、
1部:特別講演(講師 真儒協会会長・高根秀人年)/ 
2部:式典(来賓祝辞、理事者あいさつ 他) です。

以下、私(高根)が担当いたします「特別講演」の、ご紹介・ご案内を
いたしておきたいと思います。


 
《 真儒協会開設 5周年記念・特別講演  予告紹介  》          
                                        
 「 器量人・子(し)貢(こう) と 経済人・ロビンソン=クルーソー
       
── 経済立国日本を“中(ちゅう)す〔Aufheben〕” 
                           1つの試論 ──
  」
 

 歴史が物語っていますように、儒学は平和な時代・成熟した社会の教えです。

かつて、“日出づる処”アジア(中国〔清・明〕 − 朝鮮〔李朝〕 − 日本〔江戸〕) が、
儒学(朱子学)文化圏を築いて繁栄した時代がありました。

日本は明治以降、資本主義を発展させ(農業国から)
経済(工業)立国へと進化してまいりました。

私は、善き経済の発展と儒学の隆盛とは、相扶ける関係にあると結論しています。
経済と道徳(倫理)は、「はなはだ遠くて、はなはだ近い」ものなのです。

 さて、儒家の開祖が孔子(BC.552〔551〕〜BC.479)です。
儒学の源流思想は、孔子とその一門にあります。

“孔門の十哲”の一人 子貢〔しこう〕 は、
3000人ともいわれる孔子の弟子の中で随一の才人・器量人です。

『論語』にも(子路とともに)最も多く登場します。

そして特筆すべきは、リッチ/ Rich!な存在です。
商才あり利財に優れ、社会的にも(実業家として)発展いたしました。

 一方、ロビンソン=クルーソー (D.デフォー、『ロビンソン漂流記』)は、
単なる児童冒険文学ではありません。

当時の“経済的人間”の代表像として捉えることができます。

つまり、世界帝国・イギリス資本主義の青年時代の担い手
「中流の(身分の)〔“middling station of life”〕人々」の
理想的人間像
と考えられるのです。

 洋の東西、時代も場所も全く異なるこの両者に、
グローバルな現代の視点から光をあて、
“「合一」なるもの”を探ってみたいと思います。

例えば、理想的人間(像)/経済的合理主義/金儲け(利潤追求)/
時間の大切さ/中庸・中徳・・・etc. などです。

以下、内容を少々ご紹介しておきたいと思います。


1)理想的人間(像) :

人格の完成した“理想的人間”を、儒学では「君子〔くんし〕」といい、
英国では「ジェントルマン〔Gentleman:紳士」といいます。

才徳兼備の人間像ですが、東洋思想では、徳がかったタイプといえます。

現実の経済社会では、そうとばかりにはゆきません。

子貢は、器〔うつわ〕・大器量人と位置付けられています。

経済社会にあっては、才がかった面(小人タイプ)の要素が必要です。

その才徳が、時代・社会状況を背景に一定のバランスを実現した理想像を、
「大人〔たいじん〕」と称せば良いのではないか
、と私は考えています。


2)経済的合理主義 :

ロビンソン=クルーソーは、いったいどのような人間類型として
描かれているのでしょうか? 

── それは、経済的・合理的に行動する人間です。

例えば、小麦を食べてしまわずに蒔いて増やします。
山羊〔やぎ〕を捕らえ“囲い込み地”の牧場で繁殖させます。

経済的生活実現のための“再生産”ですね。
このような、先々を見越した実践的合理主義です。

子貢は、名ばかりで実体のない毎月の祭事に供える、
生きた羊の出費(浪費)をめぐって孔子と対立します。

今時でいえば、“事業仕分け”すべきムダ・浪費の筆頭項目といったところでしょうか。 

「爾〔なんじ〕はその羊を愛〔お〕しむ。我はその礼を愛しむ。」
(八イツ・ハツイツ第3) 

(経済的)実益と(精神的)文化のどちらに重点をおくか、
という儒学(孔孟思想)での見解の相違
です。

私は、社会科学的思考と人文科学的思考との並立・相異でもあるかと感じています。
 

3)時間の大切さ :

時間〔とき〕は貨幣〔かね〕なり :(Time is money.)」 という観念を生み出したのは、
当時のイギリスやアメリカの中産階級の人々(デフォーやフランクリン)です。

ロビンソン=クルーソーは、日時計を作り、漂着の日付を基準に年月日を記録します。

面白いことには、一年目に漂流生活でのバランスシート(損益計算書)を作ります。

一方、東洋の儒学(=易経)の根本的考え方に“中〔ちゅう:中論〕”があります。

“中”はものを産み出すことです(産霊:むすび)。

そして、“時”を重視します。
すなわち、時中〔じちゅう〕” 《時に応じて中す》 ということが大切です。

例えば、儒学(孔孟)が重んじたものに、服喪〔ふくも:喪に服す〕があります。
親が亡くなった場合、3年の喪です。

この期間は、乳児(赤ちゃん)の時、親に抱かれ背負われ育ててもらった期間が
論拠となっています。

これに対して、子貢と同様
「言語」をもって“孔門の十哲(四科十哲)”に挙げられている
宰我〔さいが/宰予〕と孔子との対立問答が有名です。

それは、リーダー〔指導者〕が、その重責の仕事・役割を
3年もの間、休止していては(社会的に)マズいから、
1年で良いのではないかという主張です。
(私感ですが、しかも“死んでしまった者”に対してのことです。) 

さて、孔子も応答・反論できず、問題をすりかえて叱責〔しっせき〕しています。
ここに、(孔孟)儒学の限界・課題の一つがあると考えます。

子貢と宰我とは、当時の “孔門の新人類”=“経済的リーダー〔指導者〕”
であった
といえるかも知れません。


4)金儲け(利潤追求) :

儒学は、金儲け(利潤追求)を肯定します。

ここに、儒学の現実性があります。

しかし、それは、貨幣〔かね〕そのものに価値を置く、
今の“拝金主義”とは全く異なります

「利に放〔よ〕りて行えば怨み多し」(里仁第4) /
「君子は義に喩〔さと〕る。小人は利に喩る」(里仁第4) /
「利を見ては義を思い ・・・」(憲問第14) などと『論語』に述べられています。

子貢は、孔子門下で例外的に実業界でも成功し、
経済的にも孔子と孔子の学院を支えたと考えられます。

パトロン・理事長的存在でもあったのでしょう。

孔子も、その商才(今でいう経営の才)に、一目おき賛辞を送っています。

意外に思われるかもしれませんが、
産業革命を今まさに遂行しようとしている当時の「中流の人々」は、
必ずしも貨幣に最高の価値をおいてはいなかったのです。

ロビンソン=クルーソーは、難破船に戻っていって金貨を見つけます。

「このお金を見てわたしは にやっと笑った。思わず口に出していった。
  『無用の長物よ。お前はいったいなんの役に立つのか。
  わたしにはなんの値打ちもない、地面に落ちていたって拾う値打ちもありはしない。
  お前の一山よりもあの一本のナイフのほうがもっと貴い。
  お前はわたしには全然用がないのだ。
  そこに今いるままに留まっていて、
  救う価値なきものとしてやがて海底の藻屑〔もくず〕となるがいい』 
とはいうものの、わたしは考え直して、その金を持っていくことにした。
帆布の切れに金を全部包んで、さてもう一つ筏〔いかだ〕を作ろうと考えた。」
(デフォー・『ロビンソン・クルーソー』、旺文社文庫p.74引用)

当時の「中流の人々」は、自分さえよければ、
儲かりさえすればという仕方を強く排斥します。

人の役に立つものを作り、結果に於いて金が儲かる
(=隣人愛の実行)のだと考えたのです。
(cf. 松下幸之助氏の経営思想・“水道哲学”に相通ずるものがあると思います。)

そして、デフォーはそれを善しとしたのです。

つまり、ただ金儲け(利潤追求)するというのではなく、
“経営”(産業経営)それ自体を自己目的として献身努力した
のです。


5)中庸・中徳 : 

儒学(=易学)の根本思想は、中論”・“中庸です。
中庸の思想は、西洋においても古代ギリシアの古くからみられ、
普遍的思想であるともいえましょう。

昨年、ドイツのお話をした時に(H.22 真儒の集い・特別講演:“ 『グリム童話』と儒学 ”)、
その 《はじめに》 で、両極端で“中庸”を欠くドイツ史? として、
次の文を引用しました。

「ドイツ国民の歴史は、極端の歴史である。
そこには中庸さ(moderation)が欠如している。
そして、ほぼ一千年の間、
ドイツ民族は尋常さ(normality)ということのみを経験していなかった
  ・・・中略・・・  
地政的にドイツ中央部の国民は、その精神構造のうちに、
とりわけ政治的思考のなかに、中庸を得た生き方を見出したことはなかった。
われわれは、ドイツ史のなかに、フランスやイギリスにおいて顕著である
中庸(a Juste milien)と常識の二つの特質
をもとめるのであるが、
それは虚しい結果に終るのである。
ドイツ史においては激しい振動のみが普通のことなのである 」
 (A・J・P・ティラー、『ドイツ史研究』)

 『ロビンソン漂流記』で、冒頭の部分は、
ロビンソン=クルーソーが父親から説教され訓戒を受けているシーンです。

その2ページほどの文言に、著者デフォー の言いたかったことが
代弁され尽くしているといっても良いのです。

その内容は、中流の人々こそがイギリスの国を支えている土台であり、
個人としても幸福である
ということ。

アドヴェンチャラーとしての荒稼ぎを誡め
堅実に父祖の仕事を“受け継ぐ”こと
を指します。

 現代の日本社会・日本経済の荒廃は、
父の誡めを破ったロビンソン=クルーソーの失敗と同じに、
この中庸・中徳 を失った所に根本原因があります。
   
わが経済立国“日本”は、行方を見失い、窮し行き詰まっています。
滅びゆく“日の没する(たそがれの)国”になり下がろうとしています。

その打開・再生の方途〔みち〕は、“儒学ルネサンス”しかありません。

今回の講演は、その実現のための一つの指針となれば、と想っての試論です。

 (おそらく、)はじめての視点・切り口によるテーマかと思います。

経済・商業にかかわる方をはじめ、倫理・道徳を想う方、広く一般の皆さま、
皆々さまお誘い合わせのうえ、是非ご聴講ください。


■ 講師 : 真儒協会会長  高根 秀人年 (たかね ひでと) 
<プロフィール>
S.29年生。 慶應義塾大学法学部卒 / 経済学修士・法学士・商学士 /
【資格】 文科省1級カラーC.(第1回認定)・ インテリアC.・ 
      教員免許状(社・国・商・書・美)ほか / 
【著書】 『易学事始』・『易経64卦解説奥義』ほか / 
【講演】 みずほ会〔旧第一勧銀ハート会〕(江坂東急イン)・
      第三銀行女子チアリーダーセミナー(三重研修センター)・
      日本易学協会大講演会(東京湯島聖堂)ほか多数。

                                                   
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【 開設5周年 《真儒の集い》 のご案内 】
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■ 日時 4月29日 (金曜日※祭日) 
■ 会場 吹田市メイシアター (B1 大集会室)
     ⇒ 阪急「吹田」駅マエ (市役所側) 
     ⇒ アクセス地図
       http://www.maytheater.jp/access/
   
■ 内容/時間 
○1部 : 特別講演 PM.1:00〜2:00 (受付12:30〜)
     ・ テーマ 「器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー
             ── 経済立国日本を“中す”一つの試論 ── 」   
     ・ 講師  真儒協会会長  高根 秀人年 
○2部 : 式典 PM.2:30〜4:00 (受付2:00〜)
     ・ 来賓各位祝辞、理事者あいさつ 他

■ 参加費   無 料 
 
*ご参加いただける方は、準備の都合上、事務局まで
 メール/FAX./TEL./郵送 にてご連絡願います。
 (1部または2部 片方のみのご参加、お子様のご参加もOKです!)

真儒協会事務局 : 〒564-0001 
             大阪府吹田市岸部北2-4-21
             TEL 06-6330-0661 FAX 06-6330-0920
             メール info@jugaku.net


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第39回 定例講習 (2011年3月27日) 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子夏 〔5〕 )

盧・研究

≪「素以為絢」/「繪事後素」≫ ・・・ 続き

《 §3.「色 難」 》

○ 「子夏孝を問う。子曰く、色難〔かた〕し。事有れば、弟子〔ていし〕其の労に服し、酒食〔しゅし〕有れば、先生に饌〔せん〕す。 曾〔すなわ/かっ・て〕ち是〔これ/ここ〕を以て孝と為さんや(為すかと)。」   (為政・第2−8)

 

【 子夏問孝。子曰、色難。 有事、弟子服其労、有酒食、先生饌。 曾是以為孝乎。 】

 

《大意》

子夏が孝についておたずねしました。 孔先生がおっしゃいました。「子たる者(が親に事〔つか〕える際)の“顔色”=表情 がむつかしいのだヨ。※注) (力)仕事があれば、若い者が骨折って引き受けて、ごちそう〔おいしい飲み物・食べ物〕があれば親に勧めて召し上がっていただく。(そのこと自体は結構な事で、世間ではそれを“孝”だといっている) けれども、そんな形の上だけのことで“孝”といえるのだろうかネェ。(和らぎ、楽しそうな顔つきでやらねばダメだよ!)」 と。

※注) 「孝子の深愛ある者は、必ず和気有り。和気有る者は必ず愉〔たのし〕める色有り。愉める色有る者は必ず婉容〔えんよう〕有り」 (『礼記』・祭義)

 

《解説》

命学(四柱推命)に“咸池〔かんち: 色情の因縁星/cf.易卦【沢山咸】〕”という宿命星がありますが、「色難」〔いろかたし〕を“しきなん”と読んでは“色っぽい”話になってたいへんです。この“色”は東洋的な“色”の意味で“表情・顔色”の意です。東洋思想ではこれが重要です。例えば、中医学・漢方医学では、“五行思想”に基づく“色”による視診 =“五色診” (⇒ 参考資料 )が重視されていますね。

古注では、「親の表情を読み取ること」と解しています。が、これでは親の顔色を窺〔うかが〕って諂〔へつら〕っているようで、おもしろくありません。“孝”の行いは、ニコニコと優しく“和らぎ楽しむ”(『礼記』) ことが大切であり、かつこれが難しいのです。心の中にほんとうの愛情があってこそできるものなのです。そして、それはまた、親を真に和ませ喜ばせることでしょう。 ―― この孔子のことばは、人の情にしたがっていてとても自然に思われます。現代の介護やボランティア活動にも共通していえることなのではないでしょうか。

cf.易卦【兌為沢〔だいたく〕】の象〔しょう〕 → ☱☱ 「笑う少女の象」(新井白蛾)

 

※「酒食」: “しゅし”、酒やごはん(めし)の意。名詞では“シ”、「食べる(食らう)」の動詞では“ショク”と発音します。

※「先生」: 先に生まれた者、父(母)や兄(姉)・年長者。 対義語は「後生〔こうせい〕」、 先生←→後生 cf.(「生徒」ではありません)。 ここでは「弟子」〔ていし;年の若い者〕が対語になっています。

※「曾」: “乃”と同じ、反語〔はんご〕的に用いています。
→ 「どうしてこれが孝といわれようか、イヤいえないヨ。」

 

☆資料 ≪盧:吹田市立博物館・講演/第4講 「五行〔ごぎょう〕(中国医学)」引用≫

《 (中医) 五 色 診 》

◇“色に出る” → 色=顔色
・・・ 漢方・中医で重視 (『論語』にもよく登場しています)

ex. 

木性: 肝臓・胆嚢 =  : 良くても悪くても「あおみ」
知力・若々しく健康的な青み VS 青白い・青びょうたん(血の気がひいて顔色が悪いこと/= pale : You look pale.

cf.【若々しい青年時代 + 季節の春 → 「青春」 】

火性: 心臓・小腸 =  : 心臓(循環器系)、血圧。「あかみ」
快い・きれいな赤み・ピンク、紅潮(顔・頬に血がのぼって赤味をおびること)、ほんのり桜色 VS 不快な赤み、赤ら顔、赤黒い

cf.(「何かこう、顴骨〔かんこつ/=頬骨〕なんかに不自然にポーッと赤みがでてくると、だいたい心臓病患者が多いね。」)

土性: 脾臓・ 胃 =  : 「きみ」・「きいろみ」
あざやかな黄色・“陽黄” VS くすんだ黄色みは “陰黄”、 黄疸〔おうだん〕

金性: 肺臓・大腸 =  : 健康的な「白さ」と不健康な「白さ」 cf.「白」=「素」
「色の白いのは七難隠す」、生き生きとした白、肺病の婦人に美人が多い
VS  生気のない白・「白っちゃける」

水性: 腎臓・膀胱 =  : 健康的な「黒さ」と不健康な「黒さ」 cf.「黒」=「玄」
小麦色の肌、赤銅色〔しゃくどういろ〕の肌 VS どす黒い肌色、うっ血・汚血

 

● 「チャングムの誓い (大長今)」  (‘06.5.27 放送 ・ NHK )

先生
(=チャンドク) 
「顔色を病状で分けると大きく分けて、青・赤・黄・白・黒 の五つに分類される。これを、五色診というの ・・・ 」
先生 「顔色は? 意見を言ってごらん。」
チャングム 赤み がかって います。 赤みが強いので実熱でしょうか? 熱が体にこもってしまう病かと思います。」
先生 「次をみて! 」
チャングム 「患者の顔と目が黄色み がかって います。これは、キョ症やシツ症・黄疸〔おうだん〕が考えられます。」
先生 「この患者は黄疸よ。 黄疸とはどういう病気? 」
チャングム 「黄疸とは、肝臓と胆のうが、侵され、胆汁〔たんじゅう〕が正常に分泌されないために起こる病状で、あざやかな黄色は “陽黄” といい、それほどあざやかでないくすんだ黄色みは “陰黄” といいます。」
先生 「次。診断して! 」
チャングム 「患者の顔が青いので、癇性・痛症・汚血・引きつけ が考えられます。この患者は、鼻と眉の間と唇のまわりが青く、これは気と血液の流れが正常でなく、風邪〔かぜ〕や脳卒中〔そっちゅう〕の前兆だと思います。」

 

(子夏完)

 

老子  【10】

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【 1章 】

体道・第1章) 注1) 《 首章・冒頭  ―― 「道」とは? 》

§.「 道可道」 〔タオ・コ・タオ〕

注1) 「体道」とは、道を“身に体する/体得する”(“Embodying the Tao”)という意味でしょう。

「道」の語を用いずに、「道」が万物を生み出していく言妙な働きについて、この1章では、ある種詩的に表現しています。cf.(6章ではリビドー的〔生殖神秘的〕に表現しています)

『老子』の冒頭部分、この首章59字で他の80章全体を要したものといえます。(『易経』の最初【乾】・【坤】も同様です)

『老子』は難解といわれています。が、まずもって、この章は解釈さまざま、とりわけ難解であるといえる部分です。

『老子』は、平易から難にではなく(いきなり一喝)難物を示し、漸次平易に入っていくのです。他の全章を読めば、この章の意は容易に理解出来ます。

○「道可道、非常道。 名可名、非常名。※ |
無名、天地之始。 有名、万物之母。※ |
故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。|
此両者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、 衆妙之門。」

■ 道の道とすべきは、常(の)道に非ず。 名の名とすべきは、常(の)名にあらず。
※(道の道〔い〕うべきは常道に非ず。 名の名づくべきは常名にあらず。) |
無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。
※(“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。) |
故に、常に欲無くして以て其の妙を観〔み〕、常に欲有りて以て其の徼〔きょう〕を観る。 |
此の両者は同じきに出でて而〔しか〕も名を異にす。同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門なり。


《 大 意 》

これこそが理想の“道”です、と言っているような“道”(=世間一般に言っている道)は、恒久不変の本来の「道」ではありません。これこそが確かな“名”だと言い表わすことのできるような“名” (=世間一般に言っている名)は、普遍的な真実の「名」ではありません。  |

※(言葉で説明〔限定〕出来るような道は〔ニセ物であって〕、(私・老子がいう)恒久不変の本来の「道」ではありません。指して名がつられるような名は、普遍的な真実の「名」ではありません。) 
ex. 「道」という名そのものが名づける人・立場によって、さまざまではありませんか!ですから、正常の道は無名なのです。|

天地の元〔もと〕はじまり(=「道」)には、まだ名前がありません。(ですから、無名は天地の始源です) それが、万物の母(=「天地」)が創造されて初めて、名前が定められました。(ですから、有名は天地で)その天地の間に万物が生まれ育ちます。つまり、有名(=天地)は万物の母胎なのです。

※(〔文字に現わすためやむを得ず〕 「天地の始」めに“無”という字を振りあて、「万物の母」に“有”の字を振りあてます。〔そうして、無から有に説き進もうというのです。〕) |

まことに、恒〔つね〕に無欲であれば、(元始〔もとはじまり〕の「道」の)微妙を観る〔心で認識する〕ことができますが、恒に有欲な人(=一般世俗の人)は、結果・末端の現象(形態)が見えるだけです。 |

この「天地の」と「万物の」(/微妙な始源= と 末端の活動している現象=)の両者は、根元は同じ一体のものでありながら(一方は「無名」・「道」といい、他方は「有名」・「万物」というように)それぞれ違った呼び名となります。

名は違っていても、同じく「道」という根元から出ているので、併せて「玄」( =神秘/不可思議/ほの暗く奥深いもの・深淵なもの)といいます。

その「玄」の上にも、さらに深奥の「玄」なるところ、そこに万物の生まれ出る出口があります。玄妙な働きで、衆〔おお〕くの「妙機」が発する出口(=衆妙の門)です

 

( つづく )

 


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