儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2011年06月

器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その7)

※この記事は、器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その6) の続きです。


5) 金儲け(利潤追求) :

 儒学は、金儲け(利潤追求)を肯定します。 ここに、儒学の現実性があります。

しかし、それは、貨幣〔かね〕そのものに価値を置く、
今の“拝金主義”とは全く異なります。

「利に放〔よ〕りて行えば怨み多し」(里仁第4) /
「君子は義に喩〔さと〕る。小人は利に喩る」(里仁第4) /
「利を見ては義を思い ・・・」(憲問第14)  などと『論語』に述べられています。

 子貢は、孔子門下で例外的に実業界でも成功し、
経済的にも孔子と孔子の学院を支えたと考えられます。

パトロン・理事長的存在でもあったのでしょう。

孔子も、その商才(今でいう経営の才)に、一目おき賛辞を送っています。

 意外に思われるかもしれませんが、
産業革命を今まさに遂行しようとしている当時の「中流の人々」は、
必ずしも貨幣に最高の価値をおいてはいなかったのです。

例えば、ロビンソン=クルーソーは、難破船に戻っていって金貨を見つけます。
そこで次のように語っています。
( ── もっとも、結局、最終的には貨幣を持ち帰るわけですが ・・・ )


【 お貨幣 〔かね〕 】

● 「 ・・・・ 引き出しの一つには、剃刀〔かみそり〕が二、三挺、
大きな鋏〔はさみ〕が1挺、上等なナイフとフォークが一ダースばかりあり、
別の引き出しには、ヨーロッパやブラジルの貨幣、スペインのドル貨、
その他金貨銀貨とりまぜて、英貨にして約三十六ポンドのお金がはいっていた。

 このお金を見てわたしはにやっと笑った。 思わず口に出していった。 

『無用の長物よ。お前はいったいなんの役に立つのか。わたしにはなんの値打ちもない、
地面に落ちていたって拾う値打ちもありはしない。
お前の一山よりもあの一本のナイフのほうがもっと貴い。
お前はわたしには全然用がないのだ。そこに今いるままに留まっていて、
救う価値なきものとしてやがて海底の藻屑〔もくず〕となるがいい』 

とはいうものの、わたしは考え直して、その金を持っていくことにした。
帆布の切れに金を全部包んで、さてもう一つ筏〔いかだ〕を作ろうと考えた。」 
(デフォー・前掲書p.74)

● 「 デフォーのころのイギリスの中産の生産者たちのあいだで、
どんな職業がよい職業だと考えられていたかといいますと、
その標準は ── マックス・ヴェーバーの要約によれば ── 
次の3つだったようです。 

(1) 不道徳なものでないこと
(2) 社会全体のために有益であること、
   つまり、人々のためになにか役立つものを生産して供給すること、  
(3) ところで、もしそうだとすると、その結果とうぜんにもうけが生ずることになるから、
   もうかる職業がよい職業だということになる。

つまり、ただ金もうけ(企業)がよいというのではなくて、
有益な財貨を隣人に供給する(つまり経営)、
そのことを表現するかぎりで金もうけがが肯定されていた。」
(大塚久雄・前掲書 P.125引用)
 
当時の「中流の人々」は、自分さえよければ、儲かりさえすればという仕方を強く排斥します。

人の役に立つものを作り、結果に於いて金が儲かる(=隣人愛の実行)のだと考えたのです。

(cf. 松下幸之助氏の経営思想・“水道哲学”に相通ずるものがあると思います。) 

そして、デフォーはそれを善しとしたのです。

つまり、ただ金儲け(利潤追求)するというのではなく、
“経営”(産業経営)それ自体を自己目的として献身努力したのです。
 

 「」 ・・・ “公共性” / “使命感” / “社会的責任”  ⇒ “経済的・義”(高根)
《アメリカ》  フィランソロピー (=企業の社会的責任)、 メセナ (=企業の文化貢献)、 
        コーポレイトシチズン (=企業市民) ・・・



《 結びにかえて 》

● 「国家に長として材用を務むる者は、必ず小人に自〔よ〕る。
  彼之を善くすと為して、小人をして国家を為〔おさ〕め使〔し〕むれば、
  サイ〔サイ〕害竝〔なら〕び至る。
  善者有りと雖も、亦〔また〕之を如何ともする無し。
  此〔これ〕を国は利を以て利と為さず、義を以て利と為すと謂うなり。」

○ 「 『経済人』ロビンソン・クルーソウそういう歴史上、それ以前には、
  その萌芽以外かつてみられなかったような
経済的に合理的な行動をするタイプの人間 
  ── 現実にはもちろんさまざまな非合理的な暗い面をともなってはいますが ── 、
  そうしたタイプの人間が当時イギリスの中流の身分の人々のあいだにかなり広がっていた。 
      ・・・ 中略 ・・・ 
  そしてこういうタイプの人々を理念的に純粋化してとらえてみると、
  それが、ほかならぬ古典派経済学が前提とした「経済人」となるのではないかと
  私は考えるのです。

  が、もう一言「経済人」について申しそえておきますと、
  イギリスにおいて世界史最初の産業革命をその双肩に担った
この「経済人」は、
  ただ金もうけだけが上手な単なる企業家ではなく、
  もっと高いヴィジョンを持つ「経営者」だった
ということです。

  いいかえれば、ただ金もうけが上手なだけでは「経営者」ではないし、
  そういう単なる企業家だけではイギリスの国民経済の繁栄はありえなかった、
  というわけです。」    (大塚久雄 前掲書 PP.130-131引用)


「経済人」=「経営者」


 かつて、「貨幣〔かね〕で買えないものはない!」、
「儲〔もう〕け(すぎ)てはいけないのか!」と広言した大企業のトップがいました。

ロビンソン・クルーソーの父が誡めた、“アドヴェンチャラーとしての荒稼ぎの人々”を、
軽薄にも日本のマス・メディアはヒーローにしたてあげました。

 一流料亭での料理の“使い回し”、老舗企業での古い乳製品・菓子の販売、
大手企業での賞味期限表示や産地表示の偽造 ・・・ 
経済界(トップ)の不祥事は、呆れるばかり枚挙にいとまありません。

金拝・儲け主義、無責任、自己中心のまん延、
日本文化の善き「恥の文化」は忘れ去られています。

次代を担う青年経営者層も、欲望のままに無節操。

ジェントルマンならぬ“ゼニトルマン”(銭獲るマン)が主導し、
まさに“後世 恐るべし”の態です。


 日本の現代資本主義(大衆民主社会)の“精神”は何か? と問いたいものです。

ロビンソン・クルーソー以後のイギリスの青年時代。
若く健全な西洋資本主義を生み育んだ“精神”は、
自由勝手な経済、経済活動の延長にではなく、
M.ヴェーバーのいう(私利欲望を抑えた)ピユーリタニズムでした。

この西洋の宗教=キリスト教に対峙〔たいじ〕(相当)するものが、
東洋の道徳・日本の儒学思想です。


 “個(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕”する現代、
今、「温故知新」し善き“儒学のルネサンス〔再生・復活〕”が必要です。

経済立国日本は“道義立国”に立ち返らねばならないのです。



【 補足・蛇足 】

◆ 土井晩翠〔どい/つちい ばんすい〕 補注) が、英語を教えていた時のエピソード。

  「諸君がもし、ロビンソン・クルーソー のごとくに、
  無人島生活を余議なくされることがあり、
  仮に一冊の本を携えていくことが許されるとしたら、
  諸君は何を持っていくか?」

  ── 「聖書を持っていくか。論語か。なんだ!?」 ── 

  土井先生曰く、「私なら百科辞典を持っていく!」
  (無人島生活で役立つ生きていく知識が詰まっているからでしょうか? 
  それとも、知識欲旺盛な人であったからでしょうか? 
  もっとも、文明社会にいずれ戻れるという前提であったのやも知れませんが?)

  Q. あなたなら、どんな本を持っていきますか?   A.(            ) 
           →  cf. (「私なら『易経』を持って行きたいと思います)
 
  「携帯TEL.なしでは生きていけない」と曰〔のたま〕う若人が多いご時世です。
  が、無人島に携帯TEL.を持っていっても(電気がない・圏外)役に立ちませんよ。

  読書離れ、活字離れの若人ならでは、持って行きたい一冊が思い浮かばない者、
  どうということなき雑誌・マンガの類をあげる者ばかりの気がします。
  ─── 青年経済人・経営者の諸氏は如何でしょうか?

  “その一冊”が、古典、とりわけ『論語』・『易経』をはじめ
  儒学の“経書〔けいしょ〕”であれば(この国の未来は)安心です。

  ちなみに、私ならば一冊『易経』を携えて、
  海の無人島でも山の上にでも参りたいと想います。

※ 補注)
  「荒城の月」の作詞者として知られています。 M.4(1871)〜S.27(1952)。
  明治浪漫主義を開花させる詩人として島崎藤村と併称されました。
  『天地有情〔てんちうじょう〕』で浪漫的叙情を漢詩風な詩体でうたいました。

                                     ( 以上 )



※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
  (後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)


●5月20日(金) その1 
                《 §.はじめに 》

                《 『論語』 と 子貢 について 》            

●5月23日(月) その2 
                《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》 

                《 経済と道徳・倫理について 》

●5月25日(水) その3 
                《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
                   1) 理想的人間(像)                

●5月27日(金) その4
                   2) 中庸・中徳                   

●5月30日(月) その5   
                   3) 経済的合理主義                 

●6月1日(水)  その6
                   4) 時間の大切さ                  

●6月3日(金)  その7
                   5) 金儲け(利潤追求)      

                《 結びにかえて 》



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器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その6)

※この記事は、器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その5) の続きです。



4)  時間の大切さ  :

 「時間〔とき〕は貨幣〔かね〕なり :(Time is money.)」 という観念を生み出したのは、
当時のイギリスやアメリカの中産階級の人々(デフォーやフランクリン)です。

ロビンソン=クルーソーは、日時計を作り、漂着の日付を基準に年月日を記録します。


 面白いことには、一年目に漂流生活でのバランスシート(損益計算書)を作ります。

島での境遇を考え想って、“悪い点”と“良い点”を“貸方”と“借方”に分けて記し、
そして総合的に差引勘定して十分に良い(利益が出ている)と判断して、
神に感謝しているのです。

このことを、M.ウェーバーが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、
興味深く指摘しています。 ※補注1)

※ 補注1) 
  Weber,Max. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 1904−05 :
  ウェーバーは、プロテスタンティズムの職業倫理(召命/Beruf, Calling)が、
  資本主義(産業資本)形成・発達の推進力となったと主張しました。
  新しい時代には、それに見合った新しいモラル〔倫理・道徳〕が生まれてきます。
  中世カトリック教会の清貧を中心としたモラルは、
  宗教改革によって、利潤獲得・富の蓄積が神の栄光を表わすものであるという、
  プロテスタンティズムの職業倫理へと変わってゆきます。
  そして更に、理性と自由を基調とする近代市民社会の倫理が形成されてゆくのです。


 一方、東洋の儒学(=易経)の根本的考え方に“中〔ちゅう:中論〕”があります。
“中”はものを産み出すことです(産霊:むすび)。

そして、“時”を重視します。
すなわち、時中〔じちゅう〕” 《時に応じて中す》 ということが大切です。


 例えば、儒学(孔孟)が重んじたものに、服喪〔ふくも:喪に服す〕があります。 ※補注2) 
親が亡くなった場合、3年の喪です。

この期間は、乳児(赤ちゃん)の時、
  親に抱かれ背負われ育ててもらった期間が論拠となっています。 ※補注3)

これに対して、子貢と同様「言語」をもって“孔門の十哲(四科十哲)”に挙げられている
宰我〔さいが/宰予〕と孔子との対立問答が有名です。


 それは、【1】 リーダー〔指導者〕が、その重責の仕事・役割を
3年もの間、休止していては(社会的に)マズいから、
1年で良いのではないかという主張です。 
【2】 (私感ですが、しかも“死んでしまった者”に対してのことです。) 


 さて、孔子も応答・反論できず、問題をすりかえて叱責〔しっせき〕しています。
ここに、(孔孟)儒学の限界・課題の一つがあると考えます。

子貢と宰我とは、当時の “孔門の新人類”=“経済的リーダー〔指導者〕”
であったといえるかも知れません。

※ 補注2) 
  現代日本では、特別な場合を除いて、喪に服する行為は
  “一年間 年賀のやり取りを控える“といった程度ではないかと思います。
  ところで、「黙祷〔もくとう〕(をささげる)」という慣習がよく行われます。
  専ら集団で、30秒から1分ほど無言のまま心の中で冥福を祈るものです。
  今回の、東日本大震災についても 様々な団体・場面でおこなわれていますね。
  (開設5周年・“真儒の集い”でも式典の最初に黙祷を捧げました。)
  ルーツは存じませんが、現代生活にマッチしていて良い慣習だと思います。

※ 補注3) 
  「三つ子の魂、百まで。」 ―― “三つ子”は何歳児? 
  現代発達心理学で、性格はほぼ何歳までに決まるとされていますか? 
  → (    ) 歳
  「三つ子」は、数え年による数え方なので、今の満年齢では 2歳児にあたります。
  発達心理学や教育心理学では、人間の性格はほぼ 2歳までに決まるとされています。
  洋の東西で、経験にともなう智恵と科学的学説が、ピタリと一致するわけです。

 

※ 【 宰我 と 子貢 】 
        
 宰予〔さいよ:BC.552−BC.458〕、字は子我、通称宰我。
言語には宰我・子貢」とあり、子貢と共に“四科十哲”の一人で、
弁舌をもって知られています。

孔子との年齢差29歳。
子貢が孔子と年齢差31歳ですから、宰予と子貢はほぼ同年齢ということです。


 『論語』の中に表われている宰予は、子貢とは対照的に悪い面ばかりが描かれ
孔子と対立して(叱責を受けて)います。

宰予は、孔門の賢く真面目な優等生的多くの弟子の中にあって、
“異端児”・“劣等生”・“不肖の弟子”…といった印象を与えています。

が、しかし、“十哲”にあげられ、孔子との対立が敢えて記されていることからも
(逆に)端倪〔たんげい〕すべからぬ才人・器量人であったと考えられます。

孔子も、“ソリ”・“ウマ”はあわなくも、一目おいていたのではないでしょうか。


○ 「宰我問う、三年の喪は期已〔すで〕に久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊〔やぶ〕れん。
  三年楽を為さずんば、楽必ず崩〔くず〕れん。旧穀既に没〔つ〕きて新穀既に升〔みの〕る。
  燧〔すい〕を鑽〔き〕りて火を改む。期にして已〔や〕むべし。|
  子曰く、夫〔か〕の稲を食らい、夫の錦〔にしき〕を衣〔き〕る。
  女〔なんじ〕において安きか。曰く、安し。 
  女安くば則ち之を為せ。夫〔そ〕れ君子の喪に居る、旨〔うま〕きを食らへども甘からず。
  楽を聞けども楽しまず。居所やすからず、故に為さざるなり。今 女安くば則ち之を為せ。|
  宰我出ず。子曰く、予の不仁なるや、
  ※ 子〔こ〕生まれて三年、然る後に父母の懐〔ふところ〕を免る。
  夫れ三年の喪は、天下の通喪〔つうそう〕なり。予や其の父母に三年の愛有るか。」  
   (陽貨第17)


※ 【服喪〔ふくも〕の期間 についての孟子の考え方】
 
○ 斉の宣王、喪を短くせんと欲す。
  公孫丑曰く、「朞〔き:一年〕の喪を為すは、猶已〔や〕むに愈〔まさ〕れるか」 と。 
  孟子曰く、「是れ猶、或る人其の兄の臂〔ひじ〕をネジ〔ねじ/=捩〕るに、
  子 之に謂いて、姑〔しばら〕く徐徐にせよと爾云〔しかい〕うがごとし。
  亦〔また/ただ =唯〕之に孝弟を教うるのみ」と。 | 
  王子に其の母死する者有り。其の傅〔ふ/もりやく〕は、之が為に数月の喪を請う。
  公孫丑曰く、「此〔かく〕の若〔ごと〕き者は何如〔いかん〕ぞや」と。
  曰く、「是れ之を終えんと欲するも、得可〔う・べ〕からざるなり。
  一日を加うと雖〔いへど〕も、已むに愈れり。
  夫〔か〕の之を禁ずる莫〔な〕くして為さざる者を謂うなり」 と。
   (『孟子』・尽心章句上)

《 大意 》
 斉の宣王は、(父母に対する3年の喪は長過ぎるので、1年に)喪を短くしたいと思いました。
公孫丑は、(宣王に頼まれて、孟子に)尋ねました。
「(3年の喪を)1年の喪にするのは、まったく止めるよりは勝〔まさ〕っているのではありませんか。」 

孟子がおっしゃるには、「これは、例えば、ある人が兄の腕をねじ上げているとして、
お前がこの者に向かって、まあまあ徐徐にねじ上げるのがよかろうと言うようなものだ。
(そうではなく、ねじ上げるのが悪いと知ったら)孝弟の道を教得て、
そのようなことは止めさせればよいのだ。
(1年でもやらないよりマシなどと言ってはいかん)」 と。

 (ところで、宣王の妾腹の)王子でその母(側室)の亡くなったものがいました。
その王子の守役〔もりやく〕が、(王子の心中を察して)
王子のために数月の喪につくことを王に請いました。
この事について、公孫丑は、「こういうのはどうでしょうか」と尋ねました。 
孟子がおっしゃるには、「こういう場合は、3年の喪を終えたいと思っても、
(妾腹の子なので)できないのだ。
仮に1日多く行うだけでも、止めて行わないより勝っているのだ。
前に言ったのは、(3年の喪を)誰もさし止める者はないのに、
自ら行わない者のことを言ったのだ」 と。 

 

【 参考 】  ミヒャエル・エンデの 『モモ』 ・・・ 『中庸』の「時中」に学べ 
         (H.22 真儒の集い・特別講演:“ 『グリム童話』と儒学 ”より)

・ (西)ドイツの児童文学者 ミヒャエル・エンデ 〔Michael Ende〕 は、
  1973(s.48)年 『MOMO〔モモ〕』 という作品を発表いたします。
  これは、単なる童話ではなく、世代・時代を超えた普遍性を持つ作品です。
  世界的に非常に高い評価を得ています。

  私は、学生時代の愛読書の一つ、フランスのサン・テグジュペリの 『星の王子さま』
  (“ル・プチ・プランス”:内藤 濯〔あろう〕の名訳です)に通ずるものを感じています。

  「大切なものは、目に見えない。」ということばを、悠〔はるか〕に覚え続けています。

  この歳になりまして、『中庸』に学び
  「その見えざるを観、・・・」ということと重ね合わせたり、
  易卦【観】の心眼で観ることに想いを馳せたりしています。

  さて、モモという主人公の女の子は、今風にいえば ホームレス(浮浪児)です。
  モモは大宇宙の音楽を聴き星々の声を聴く(東洋流にいえば“天の声を聴く”?)
  超能力の持ち主です。

  物語の舞台は、ある時代のある村。
  人々は日々、楽しく歌ったり踊ったり飲食したりしておりました。

  ある日、「時間どろぼう」がやって来て、時間の節約と労働によって、
  貨幣〔かね〕を儲け有名人になることを教えます。

  人々は、それに随って一所懸命努力し、富と名声を得ます。
  が、その代りにみんな孤独になってしまいました。

  そこへ、モモが現われて、「時間どろぼう」を退治します。
  人々は、以前の幸せな生活を取り戻すというストーリーです。

  そして、最後の部分で、このモモの物語を語った人が言います。
  自分は、このお話を過去に起こったことのように話してきましたが、
  これは未来に起こることと思っても良いのですよ、と。


* 「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語」

* 「おとなにも子どもにもかかわる現代社会の大きな問題をとりあげ、
  その病根を痛烈に批判しながら、それをこのようにたのしく、うつくしい
  幻想的な童話の形式(エンデはこれをメールヘン・ロマンと名づけています)
  にまとめる ・・・ 」


 ※ 時間・時計に支配(自己疎外)されている現代人 
        ――― 時間がない(時間を意識しないでよい)のが幸せ


 この作品は、わが国のオイルショックのころ書かれています。
普遍的なものですが、当時から現在の日本(人)の問題ある状況に
ぴったり当てはまるように思います。

 わが国は、おとなも子どもも、時間に追い立てられアクセクと生きています。

私は、日本が改めるべきは、目指すべきは、
「君子而時中」 (君子よく時中す:『中庸』第2章)だと思います。

 


(この続きは、次の記事をご覧下さい。)



※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
  (後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)


●5月20日(金) その1 
                《 §.はじめに 》

                《 『論語』 と 子貢 について 》            

●5月23日(月) その2 
                《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》 

                《 経済と道徳・倫理について 》

●5月25日(水) その3 
                《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
                   1) 理想的人間(像)                

●5月27日(金) その4
                   2) 中庸・中徳                   

●5月30日(月) その5   
                   3) 経済的合理主義                 

●6月1日(水)  その6
                   4) 時間の大切さ                  

●6月3日(金)  その7
                   5) 金儲け(利潤追求)      

                《 結びにかえて 》



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※定例講習、吹田市立博物館における講演(全6回)のご案内も掲載しております。
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