5) 金儲け(利潤追求) :
儒学は、金儲け(利潤追求)を肯定します。 ここに、儒学の現実性があります。
しかし、それは、貨幣〔かね〕そのものに価値を置く、
今の“拝金主義”とは全く異なります。
「利に放〔よ〕りて行えば怨み多し」(里仁第4) /
「君子は義に喩〔さと〕る。小人は利に喩る」(里仁第4) /
「利を見ては義を思い ・・・」(憲問第14) などと『論語』に述べられています。
子貢は、孔子門下で例外的に実業界でも成功し、
経済的にも孔子と孔子の学院を支えたと考えられます。
パトロン・理事長的存在でもあったのでしょう。
孔子も、その商才(今でいう経営の才)に、一目おき賛辞を送っています。
意外に思われるかもしれませんが、
産業革命を今まさに遂行しようとしている当時の「中流の人々」は、
必ずしも貨幣に最高の価値をおいてはいなかったのです。
例えば、ロビンソン=クルーソーは、難破船に戻っていって金貨を見つけます。
そこで次のように語っています。
( ── もっとも、結局、最終的には貨幣を持ち帰るわけですが ・・・ )
【 お貨幣 〔かね〕 】
● 「 ・・・・ 引き出しの一つには、剃刀〔かみそり〕が二、三挺、
大きな鋏〔はさみ〕が1挺、上等なナイフとフォークが一ダースばかりあり、
別の引き出しには、ヨーロッパやブラジルの貨幣、スペインのドル貨、
その他金貨銀貨とりまぜて、英貨にして約三十六ポンドのお金がはいっていた。
このお金を見てわたしはにやっと笑った。 思わず口に出していった。
『無用の長物よ。お前はいったいなんの役に立つのか。わたしにはなんの値打ちもない、
地面に落ちていたって拾う値打ちもありはしない。
お前の一山よりもあの一本のナイフのほうがもっと貴い。
お前はわたしには全然用がないのだ。そこに今いるままに留まっていて、
救う価値なきものとしてやがて海底の藻屑〔もくず〕となるがいい』
とはいうものの、わたしは考え直して、その金を持っていくことにした。
帆布の切れに金を全部包んで、さてもう一つ筏〔いかだ〕を作ろうと考えた。」
(デフォー・前掲書p.74)
● 「 デフォーのころのイギリスの中産の生産者たちのあいだで、
どんな職業がよい職業だと考えられていたかといいますと、
その標準は ── マックス・ヴェーバーの要約によれば ──
次の3つだったようです。
(1) 不道徳なものでないこと
(2) 社会全体のために有益であること、
つまり、人々のためになにか役立つものを生産して供給すること、
(3) ところで、もしそうだとすると、その結果とうぜんにもうけが生ずることになるから、
もうかる職業がよい職業だということになる。
つまり、ただ金もうけ(企業)がよいというのではなくて、
有益な財貨を隣人に供給する(つまり経営)、
そのことを表現するかぎりで金もうけがが肯定されていた。」
(大塚久雄・前掲書 P.125引用)
当時の「中流の人々」は、自分さえよければ、儲かりさえすればという仕方を強く排斥します。
人の役に立つものを作り、結果に於いて金が儲かる(=隣人愛の実行)のだと考えたのです。
(cf. 松下幸之助氏の経営思想・“水道哲学”に相通ずるものがあると思います。)
そして、デフォーはそれを善しとしたのです。
つまり、ただ金儲け(利潤追求)するというのではなく、
“経営”(産業経営)それ自体を自己目的として献身努力したのです。
「義」 ・・・ “公共性” / “使命感” / “社会的責任” ⇒ “経済的・義”(高根)
《アメリカ》 フィランソロピー (=企業の社会的責任)、 メセナ (=企業の文化貢献)、
コーポレイトシチズン (=企業市民) ・・・
《 結びにかえて 》
● 「国家に長として材用を務むる者は、必ず小人に自〔よ〕る。
彼之を善くすと為して、小人をして国家を為〔おさ〕め使〔し〕むれば、
サイ〔サイ〕害竝〔なら〕び至る。
善者有りと雖も、亦〔また〕之を如何ともする無し。
此〔これ〕を国は利を以て利と為さず、義を以て利と為すと謂うなり。」
○ 「 『経済人』ロビンソン・クルーソウ、そういう歴史上、それ以前には、
その萌芽以外かつてみられなかったような、経済的に合理的な行動をするタイプの人間
── 現実にはもちろんさまざまな非合理的な暗い面をともなってはいますが ── 、
そうしたタイプの人間が当時イギリスの中流の身分の人々のあいだにかなり広がっていた。
・・・ 中略 ・・・
そしてこういうタイプの人々を理念的に純粋化してとらえてみると、
それが、ほかならぬ古典派経済学が前提とした「経済人」となるのではないかと
私は考えるのです。
が、もう一言「経済人」について申しそえておきますと、
イギリスにおいて世界史最初の産業革命をその双肩に担ったこの「経済人」は、
ただ金もうけだけが上手な単なる企業家ではなく、
もっと高いヴィジョンを持つ「経営者」だった ということです。
いいかえれば、ただ金もうけが上手なだけでは「経営者」ではないし、
そういう単なる企業家だけではイギリスの国民経済の繁栄はありえなかった、
というわけです。」 (大塚久雄 前掲書 PP.130-131引用)
* 「経済人」=「経営者」
かつて、「貨幣〔かね〕で買えないものはない!」、
「儲〔もう〕け(すぎ)てはいけないのか!」と広言した大企業のトップがいました。
ロビンソン・クルーソーの父が誡めた、“アドヴェンチャラーとしての荒稼ぎの人々”を、
軽薄にも日本のマス・メディアはヒーローにしたてあげました。
一流料亭での料理の“使い回し”、老舗企業での古い乳製品・菓子の販売、
大手企業での賞味期限表示や産地表示の偽造 ・・・
経済界(トップ)の不祥事は、呆れるばかり枚挙にいとまありません。
金拝・儲け主義、無責任、自己中心のまん延、
日本文化の善き「恥の文化」は忘れ去られています。
次代を担う青年経営者層も、欲望のままに無節操。
ジェントルマンならぬ“ゼニトルマン”(銭獲るマン)が主導し、
まさに“後世 恐るべし”の態です。
日本の現代資本主義(大衆民主社会)の“精神”は何か? と問いたいものです。
ロビンソン・クルーソー以後のイギリスの青年時代。
若く健全な西洋資本主義を生み育んだ“精神”は、
自由勝手な経済、経済活動の延長にではなく、
M.ヴェーバーのいう(私利欲望を抑えた)ピユーリタニズムでした。
この西洋の宗教=キリスト教に対峙〔たいじ〕(相当)するものが、
東洋の道徳・日本の儒学思想です。
“個(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕”する現代、
今、「温故知新」し善き“儒学のルネサンス〔再生・復活〕”が必要です。
経済立国日本は“道義立国”に立ち返らねばならないのです。
【 補足・蛇足 】
◆ 土井晩翠〔どい/つちい ばんすい〕 補注) が、英語を教えていた時のエピソード。
「諸君がもし、ロビンソン・クルーソー のごとくに、
無人島生活を余議なくされることがあり、
仮に一冊の本を携えていくことが許されるとしたら、
諸君は何を持っていくか?」
── 「聖書を持っていくか。論語か。なんだ!?」 ──
土井先生曰く、「私なら百科辞典を持っていく!」
(無人島生活で役立つ生きていく知識が詰まっているからでしょうか?
それとも、知識欲旺盛な人であったからでしょうか?
もっとも、文明社会にいずれ戻れるという前提であったのやも知れませんが?)
Q. あなたなら、どんな本を持っていきますか? A.( )
→ cf. (「私なら『易経』を持って行きたいと思います)
「携帯TEL.なしでは生きていけない」と曰〔のたま〕う若人が多いご時世です。
が、無人島に携帯TEL.を持っていっても(電気がない・圏外)役に立ちませんよ。
読書離れ、活字離れの若人ならでは、持って行きたい一冊が思い浮かばない者、
どうということなき雑誌・マンガの類をあげる者ばかりの気がします。
─── 青年経済人・経営者の諸氏は如何でしょうか?
“その一冊”が、古典、とりわけ『論語』・『易経』をはじめ
儒学の“経書〔けいしょ〕”であれば(この国の未来は)安心です。
ちなみに、私ならば一冊『易経』を携えて、
海の無人島でも山の上にでも参りたいと想います。
※ 補注)
「荒城の月」の作詞者として知られています。 M.4(1871)〜S.27(1952)。
明治浪漫主義を開花させる詩人として島崎藤村と併称されました。
『天地有情〔てんちうじょう〕』で浪漫的叙情を漢詩風な詩体でうたいました。
( 以上 )
※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
(後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)
●5月20日(金) その1
《 §.はじめに 》
《 『論語』 と 子貢 について 》
●5月23日(月) その2
《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》
《 経済と道徳・倫理について 》
●5月25日(水) その3
《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
1) 理想的人間(像)
●5月27日(金) その4
2) 中庸・中徳
●5月30日(月) その5
3) 経済的合理主義
●6月1日(水) その6
4) 時間の大切さ
●6月3日(金) その7
5) 金儲け(利潤追求)
《 結びにかえて 》
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