(こちらは、前のブログ記事の続きです。)
§.付説 ─── 貝原益(損)軒の『養生訓』 ───
*《序》
名前はご存知の方も多いでしょう。
『養生訓』 は、江戸時代 (元禄) の大学者 ・ 貝原益軒 〔かいばらえきけん〕 の、
最晩年・84歳のときの著作です。
「益軒」 は、最晩年の号〔ごう〕で、実は 「損軒」 ともうします。
漢方・本草学〔ほんぞうがく〕の大家でもあります。
(少子)高齢社会が急速に進展する現在。
(cf.満65歳以上の高齢者の占める割合23.1%、平均寿命:女子86.39、男子79.64)
善き晩年の養心・養生のために(また自分自身のためにも)講じたいと思って、
長年この『養生訓』について研究準備しておりました。
今回、「五行(中国医学)」を講じることとなり、
また受講者にこれから晩年を生きる方が多いことを踏まえまして、
付説・補論として加えました。
今回、直接の原教材としては、
安岡正篤・『易と健康 下 /養心養生をたのしむ』(所収の付録)を用いました。
これは、かつて(S.39.8/私が10歳のころ!)
安岡先生が講演されたものが講演録として編集・出版されているものです。
簡にして要を得たものです。
それを更に、抜粋して紹介させていただきました。
以下、少々、教材を引用しておきましょう。
─── 抜 粋 ───
“ なぜ損軒を益軒と直したか。これまた面白い問題であります。
損益というのは易の卦〔け〕である。
損の卦、山沢損の卦は「忿〔いかり〕を懲〔こ〕らし、欲を塞〔ふさ〕ぐ」という
つまり克己修養、克己努力だ。
損の卦の上九爻辞〔こうじ〕をみますと「損せずして之を益す」とある。
すなわち自由に到達する。
克己修養の結果、到達するところの自由の境地、
その自由と委任の道を明らかにしたのが益の卦です。
それで損軒先生、克己修養の努力を積んでだ、
八十近くなって、ようやく自由という境地に自信を得たんでしょうね。
そこで損軒よりも益軒を用いた。”
“ 世間が考えておるような単純、あるいは頑固な人ではなくて、
自由闊達〔かったつ〕、非常に豊かな生き生きした大人〔たいじん〕であります。
そうして医学にも本草学〔ほんぞうがく〕にも長じた人が、
これだけの体験と勉強を積んで、八十を過ぎて半生を省みて、
後進の人々のために著してくれた『養生訓』であるから、
これは世間でいうような簡単な養生学問とは違う。”
人生五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず。知恵いまだ開けず。 古今にうとくして、世変〔せへん: 世の移り変わり〕になれず。 言〔げん〕あやまり多く、行〔こう〕悔多し。 人生の理〔ことわり〕も楽しみもいまだ知らず。 五十にいたらずして死するを夭〔よう〕という。 是れ亦た不幸短命と云うべし。 長生すれば楽しみ多く益多し。 日々にいまだ知らざることを知り、日々にいまだ能〔よ〕くせざることを能くす。 この故に学問の長進することも、知識の明達なることも、長生せざれば得がたし。 之を以て養生の術を行い、いかにもして天年をたもち、・・・・・ 。
“ 道教の一派になりますと、人間の全〔まった〕き寿というものを百六十としています、
八十一を半寿という、八十と一を組み合わせると、半分の半という字になりますから。
八十にいたらずして死するを夭という。
ということは、我々はまだ死ねんわけで、死んだら夭折になってしまいます。
ともかく、長生すれば楽しみ多く益多し。
我々もやっぱり年をとってみて、まさにごもっともであるとつくづく考えさせられる。”
人の元気は、もと是〔こ〕れ天地の万物を生ずる気なり。 是れ人身の根本なり。 人此の気にあらざれば生ぜず。 生じて後は飲食衣服居処〔きょしょ〕の外物〔がいぶつ〕の助によりて、元気養われて命をたもつ。
“ (「摩訶〔まか〕不思議」の「摩訶」と) 同じように
元という文字も、時間的にいえば、発生的にいえば「始め」という意味である。
ものの始めという意味。形態的にいえば「根本」という意味である。
末に対して元という意味。
それから、限定的なものに対して、部分的、限られたるものに対していうならば、
これは「全体」という意味だ。
だからこれを「大いに」と読む。
そのいずれの意味にも限ることができませんから、「元」というのである。”
凡〔およ〕そ人の楽しむべきこと三〔みつ〕あり。 一〔ひとつ〕には道を行い、ひが事なくして善を楽しむにあり。 二には身に病なくして快く楽しむにあり。 三には命ながくして久しく楽しむにあり。 富貴にしても、此の三の楽なければ真の楽なし。 故に富貴は此の三楽の内にあらず。
“ つまり、一つは宿罪、宿業、宿悪をなくすること。
第二には疫病をなくすること。
三つには長生きして久しく楽しむ。
富とか出世するとかいうことは、この三楽の中には入らん。
孟子は「君子に三楽あり」 (尽心章句・上) といっておる。
「而〔しこう〕して天下に王たるは与〔あずか〕り存せず」。
皇帝になることは、三楽に関係ない。
まず第一に、 「父母倶〔とも〕に存し、兄弟〔けいてい〕故〔こ〕なきは、一の楽しみなり」。
それから 「仰いで天に愧〔は〕じず」、良心的にやましくない。
第三には、「天下の英才を得て之を教育す」ということで、
「天下に王たるは与〔あずか〕り存せず」と、孟子らしい気炎をあげておりますが、
益軒先生も、富貴はこの三楽の中にはないという。
読めば、もっともなことである。”
夕食は朝食より滞りやすく、消化しがたし。 晩食は少きがよし。かろく淡きものをくらうべし。 晩食にテイ〔てい〕の数多きは宜しからず、テイ多く食うべからず。 魚鳥などの味濃く、あぶらありて重き物、夕食にあしし。 菜類も薯蕷〔やまのいも〕、胡蘿蔔〔にんじん〕、菘菜〔はくさい〕、芋根〔さといも〕、慈姑〔くわい〕 ※注) などの如き、滞りやすく、気をふさぐ物、晩食に多く食〔くら〕うべからず。
“ これは専門家に聞かないとわかりませんが、
山の芋、人参なんていうものが「滞りやすく、気をふさぐ」なんて書いてある。
これはもう非常な本草の大家ですから、よほどの研究の結果の解説でしょう。
ちょっと私どもの常識とは違っておる。
なるほど確かにいわれてみれば、里芋や慈姑〔くわい〕なんてものは、
ちょっと確かに重いですね。
白菜が滞りやすく、気をふさぐなんて思わないが、
菜類の中ではそういう中に入るんでしょうかね。
しかし本草学に基づいて、益軒先生はいうておる。”
※高根 注) 「クワイ」は、吹田市の特産物でもあり
(ご受講の皆さまには)お馴染みですね。
「秋茄子は嫁に食わすな」
(秋茄子は陰気が強く体を冷やすから、と姑が嫁の体を気づかった言葉)
ということわざがあります。
「慈悲」の「慈〔じ/いつくしみ=〕」と「姑〔しゅうとめ〕」をあてているのが、
興味深いと思っています。
四時〔しじ/=四季〕、老幼ともに、あたたかなる物くらうべし。 殊に夏月〔かげつ〕は*伏陰・内にあり。 若く盛んなる人もあたたかなる物くらうべし。 生冷を食すべからず。 滞りやすく泄瀉〔せっしゃ〕しやすし。 冷水多く飲むべからず
*伏陰 ・・・ 陽の中に隠れて有る陰
(ex.バナナ・パイナップルなど熱帯の果物は陰性にて食すると体を冷やします。)
“ これはもう大事なことです。
ことに夏は、外が陽ですから、中はみな陰になっている。
だから夏の季節にできる食物は、みんな中が陰です。
胡瓜〔きゅうり〕でも茄子〔なす〕でも、
みな非常に陰性のものであります。
白菜などもそういう意味においては、やはりそうでしょうね。
これは伏陰というやつです。”
─── 中略 ───
“ まあ、こういうところが益軒先生の『養生訓』の抜粋、
すなわち精粋の存するところであります。”
“ 元気を養うということは、「真気を養う」ということである。
肉体の鍛錬・陶冶〔とうや〕だけでは、どうしても元気にならんですね。
やっぱり真気、精神力というものを養わんというと、
本当の意味の生命力・体力というものはわからん。”
“ まあ養生というものも、学問も政〔まつりごと〕も、みな同じことだ。
これが根柢〔こんてい〕の養生の道であり、術である。
どうぞ一つみなさんも、貝原益軒先生、損軒先生に負けずに健康で、
学問もして、長生きしていただきたいと思います。” (終)
─── 私(高根)も、まったく同感でございます。
(この続き、“むかしの中国から学ぶ” 第5講 「英語でABC論語カルタ 」 は
次のブログ記事に掲載の予定です。)
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