儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2012年09月

『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第5回)

※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第4回) の続きです。

『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第5回)

─── 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ── 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ───


【第155段】   世に従はん人は 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

〔1〕世間なみに従って生きてゆこうと思う人は、
第一に物事の潮時〔しおどき〕を知らなければなりません。

物事の 時機(順序) の悪いことは、人の耳にも逆らい、
気持ちをも悪くさせて、そのことがうまくゆきません。

(ですから)そういう、(そのことをなすべき)機会というものを
心得なければならないのです。・・・

ただし、病気にかかったり、子を生んだり、
死んだりすることだけは、潮時とは無関係なのです。

ことの 時機(順序) が悪いからといって、やめるわけにはゆきません。

物が生じ、とどまり、変化して衰え、滅するという現象、
すなわち物事が移り変わるという、この人生の重大事は、
ちょうど水勢のはげしい川が、みなぎって流れるようなものなのです

しばらくも停滞することはなく、すぐに実現してゆくものなのです。

ですから、仏道を修めることにつけても、世俗のことにつけても、
必ず成し遂げようと思うことは、潮時などをかれこれ言っていてはなりません。

なんのかのとためらうことなく、足ぶみをしていてはならないのです。


〔2〕春が終わってのちに夏になり、
夏が終わってのちに秋がくるのではありません。

春は春のままですでに夏の気を含み兆〔きざ〕しており、
夏のうちからすでに秋の気は通っており、
秋はそのまま(冬の)寒さとなり、
十月は小春の天気ともいうとおり、草も青くなり、
梅もつぼみを持ってしまうのです。

木の葉の落ちるのも、
まず葉が落ちてそののちに新芽が出てくるのではありません。

木の内部から新芽が兆し発生してくる勢いに
こらえられない(=耐えられない)で落ちるのです。

(次にくるものを)迎える気合〔きあい〕が、
内部にすっかり用意ができているので、
(その次にくるものを、)待ち受けて交替する 順序 がはなはだ早いのです

(人間においてもまた、)生まれ、老い、病み、死ぬ、
この四苦〔しく〕がめぐってくることは、
以上の自然界の物の変化よりも早いのです。

四季はまだそれでも定まった 順序 があります。

死期は 順序 を待ちません。

死は前から来るとは必ずしも限らないのです。

前もって背後に迫っているのです。

人はみな死のあることは知っていますが、
それを予期することがそう痛切ではないうちに、突然に襲ってくるのです。

(それはあたかも)沖まで干潟〔ひがた〕になっている時は、
いかにもはるばると〔=広々と〕しているけれども、
浜べから潮がさしてきて、間もなく一面に満ちてしまうようなものなのです。
--------------------------------------------------------------------


非常に思索的・哲学的な中味の深い内容であると思われます。

前段では、仏教的無常観に基づく兼好の主張が述べられています。

「機嫌」は、本来仏教用語で 「譏嫌」 と書き、
ここでは時期・ころあいの意です。

キーワード 「ついで〔序〕」 は、事の続き/折・場合・機会の意で
前段部二箇所はほぼ同じ意味です。

後段では順序・序列の意です。


「生〔しょう〕・往・異・滅の移りかはる」(四相)、

「猛〔たけ〕き河のみなぎり流るるが如し。
しばしもとどこほらず、ただちに行ひゆくものなり。」、

「真俗〔しんぞく〕につけて(真諦・俗諦)」 と、

相対的に緩急感ずる時間に沿って変化すること、
速やかに流れていくことを述べています。


時の流れを河の流れとのアナロジー〔類似〕で表現している所は、

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」 

の 『方丈記』 〔ほうじょうき〕 書き出しを想起させます。   ( → ※考察1 参照)


「必ず果し遂げんと思わんことは、機嫌をいふべからず。」 

東洋における変化の源流思想は“易”です

変化の思想(変易)は、哲学的に変わらぬものを前提としています。

この「不易」を含んだ変化の理を説いていると、私は理解しています。


後段は、具体例として時(四季)の運行と 
生から死への必然(四苦)の対比が、
無常・変化の理で厳然と述べられています。

ここで特徴的なことは、変化が 内在的超出作用により 
弁証法的な発展の論理で示されている点にあります。   ( → ※考察2 参照)


「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、 ─── 。」 

ヘーゲルの弁証法による 
正(テーゼ)・ 反(アンチテーゼ)・ 合(ジンテーゼ) です。

そして、変化(死)は、必ずしも漸進的でなく
飛躍的に実現されると説きます。

アウフヘーベン(止揚・楊棄 = 中す)です。

東洋流にいえば、儒・仏・道を貫く 「中論」 を展開しているといえるでしょう。


※ [ 考察1 ]

≪ 水(川)の流れ ≫  → (*詳しくは「水(坎:かん)を楽しむ」参照)

古代中国語の“水”は“水”以外に“川”という意味もあります。

変化を水・川の流れに同一視するものは、
儒学・黄老に共通しています。

否、それは古今東西を問わず、
賢人に普遍〔ふへん〕するところとも言えます。

西洋。

古代ギリシアにおいては、“7賢人”の一人タレスが 
「万物の根源は水である」 と言いました。

近代の幕開けルネサンスにおいて、
“3大天才”の一人レオナルド・ダ・ビンチは、水(流水)の研究に没頭し、
水の流れで美と人生を哲学いたしております。


例えば。

「水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である。」 / 

「君が手にふれる水は過ぎし水の最期のものにして、
来るべき水の最初のものである。
現在という時もまたかくのごとし。」


東洋では。

儒学の開祖・孔子は、『論語』で

知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
知者は動き、仁者は静かなり。」
(雍也第6−23) / 

「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、
逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」
(子罕第9−17)

と言っています。


老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、
“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕り
その政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。

例えば。

「上善は水の若〔ごと〕し」
「水は善く万物を利して争わず」
(『老子』・第8章) / 

「天下に水より柔弱〔にゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」
(『老子』・第78章) etc. ─── 


孔子は水を楽しみ
孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、
老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。


※ [ 考察2 ]

≪ 「知」と「智」と柿の“シブ” / 【離・火】について ≫

“文字”に学んでみますと。 「知」は、“口”に“矢”、
口という矢(=武器)で他者を攻撃、傷つけるの意が「知」です。

危ういものです。

なまじっか(生半可)の知識がむしろ禍〔わざわい〕して
病的に性癖を生じるようになると、
“やまいだれ”がついて「痴」 (=バカものの意) となります。

「知」でくもって、ものごとの「本〔もと〕」が観〔み〕えない
浅薄な知識人のことです。

“賢い愚者” ですね。

ところで、シブ柿は「日(陽)」に干すことによって甘柿になります。

これは、太陽の作用(パワー)により、
シブ柿に内在する “シブ” 自体が日によって
“甘い” もの(善きもの)に変化する
ということです。

したがって、「知」に「日」をプラスして 「智」 としますと、
本来の善きもの、あるべきものとしての“智恵”となるわけです。

(漢字というものは、実に深く考えられて作られていますね。)


私は(職業柄かも知れませんが)、
この“柿のシブと太陽=【離】 → 甘柿”への “化成”
教育という分野にも当て嵌〔は〕まるナ、
と私〔ひそか〕に想っているところです。

そして、「知」は、易の八卦でいうと【離/火】です。

【離】は学術・文化文明です。
【離】=人類の文化文明は、“火と石のカケラ”から始まりました。

それが、21世紀の現在では、携帯電話・PC・インターネット・
原子力発電・ロケット・ミサイル・・・・ etc. を生み出しています。

然るに、【離】は、傷〔やぶ〕るものでもあります。

【離】の持つ危うさです。

私は、「財宝は子孫を殺し、学術は天下を亡ぼす」 
という中国の言葉を知っています。

現在最先端の“学術”である(【離】=太陽=火=)“原子力”も、
核兵器や原発事故で多くの人々に厄災をもたらしている現状では、
この言葉に納得せざるをえません。

【離】そのものが悪いのではなく、
ある特定の人類にその【火】を使う資格があるかなしかの問題です。


cf.「日」は儒学にいう「本(もと)」の学と考えればよいでしょう。

   老子は、 「絶学無憂〔ぜつがくむゆう: 学を絶てば憂い無し〕」
   (『老子』・第20章) と言っております。

   生半可な末梢的な学(末学)を遠ざけよということでしょう。

   また、「知りて知らざるは上〔じょう〕なり。
   知らずしてしるは病〔へい/やまい〕なり。」
(『老子』・第71章) 
   と言っています。

   ちなみに、「知不知上」 は、兼好法師の 

   「 ── いたましうするものから、
   下戸〔げこ〕ならぬこそ男〔をのこ〕はよけれ。」

   〔(酒をすすめられると)困ったような様子はしながらも、
   実際には飲めなくはないのが男としては善いのです。〕
   (『徒然草』・第1段結文) とも発想が同じような気がします。


【第243段】   八〔やつ〕になりし年 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

(わたくしが)八歳になった年に、父にたずねて、
「仏とはどんなものでございましょうか。」と言います。

父が言うには「仏には人間がなったのだ。」・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第4回)

※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第3回) の続きです。

『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第4回)

――― 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ―― 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ―――


【第127段】   改めて益〔やく〕なきことは 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

改めても効果のないことは、(むしろ)改めないのがよいのです。

--------------------------------------------------------------------


「改めて益〔やく〕なきことは、改めぬをよしとするなり。」 : 
「益」は“ヤク”と読み、利益・効果・ききめ。

「益無し」は、無益だ・かいがない・つまらない、といった意味です。

メモのような一文のみの段で、前後の関係もなく、
読者には何が言いたいのかほとんど意図が不明です。

兼好は、“無益なことをするな”と処々に説いていますので、
その関連のメモなのかも知れません。

例えば、【第98段】には、
「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうはせぬはよきなり。」
〔(そのことを)しようか、しないでおこうか、と思い迷うことは、
たいていはしないほうがよいものであるよ。〕 と述べています。

かつて、“(どちらか指す手に)迷った時には勢いのある手を指す”
と語っていた将棋の名人がいました。

勝負人(棋士)ならではの、“陽”・“動”の哲学です。

隠者・兼好には、これと逆の“陰”・“静”の哲学思想、
消極的意味における悟り(=あきらめ)を感じます

さてこの一文。その言いたかったこと、
兼好のこころに浮ぶに至った深層心理・潜在意識(無意識)にある
思想を探ってみるのも、また一興というものです。

―― 私が、思い想いますに、
これは黄老の“無為の思想”への同感なのではないでしょうか?

黄老思想の中で、最も要〔かなめ〕にして難解・特異な哲理は、
「無為」・「自然」・「静」でしょう。

これは、畢竟〔ひっきょう〕するに、
儒学でいう過不及をさける「中庸(中徳/時中)」と同じです。

“無為自然”とは、平たく言えば、ことさらな作為をなくすこと。
自然の法に逆らって無理を押さないということに他なりません。

例えば、大阪から東京へ行くのに、(ワラジばきで)歩いて行くのが、
江戸時代までであれば、それが「自然」であり「無為」であり「静」でありました。

が、しかし今ではそれは、“不自然”で“有為”で“動”です。

飛行機や新幹線や直行バスで移動するのが、
現代の「自然」であり「無為」であり「静」であるといえましょう。

更にもっと、当世という時に中してみれば、
家に居ながらにして、FAX.・TEL.(携帯)・
PC(インターネット)などで用件を片づけるのが、
なお一層「自然・無為・静」の意に適〔かな〕うというものです。

この、自然の命ずるままに任せて人知を加えないという
“無為の思想”は、『老子』全篇を貫いている信条です。


○「道は常に無為にして而〔しか〕も為さざる無し。 
 ・・・・・ 欲せずして以て静ならば、天下は将に自ずから定まらんとす。」

 (『老子』・第37章)

 〔道はいつも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為しているのです。
 (→ 道は何も働きかけていないように見えますが、
 全てのものはその理法の下にあり、道を離れては何物もありません。
 ですから全てのことは道が為しているとも言えるのです。)〕

cf.“Tao is eternally inactive, 
   and yet it leaves nothing undone.”

すなわち、 道=無為   であり、それによって万人が自然に感化されるので、
 道=無不為   といえるのです。


○「故に聖人云〔いわ〕く、我 無為にして民自〔おの〕ずから化し、
 我 静を好みて民自ずから正しく、 ・・・・・ 」 
(『老子』・第57章)

 〔そこで、古の聖人が言うには、私が何も為さないでいれば、 人民は自然と感化(純化)され、
 私が(無欲で)静けさを好めば、(天下)人民は自ずから正しく落ちつき、・・・・・ 〕

cf.“I will do nothing of purpose, 
   and the people will be transformed 
   of themselves.”


加うるに、黄老と対照(対峙〔たいじ〕)的に捉えられがちな儒学においても、
“無為”はしっかり尊重されています。例えば。


○「子曰く、無為にして治まるものは其れ舜〔しゅん〕なるか。
 夫〔そ〕れ何をか為さんや。
 己〔おのれ〕を恭〔うやうや〕しくして正しく南面するのみ。」

 (『論語』・衛霊公第15−5)

 〔(古の多くの帝王の中で、その徳がゆきわたり民が自然に化し、)
 自ら手を下すことなく、天下をうまく治められた人は、まあ舜だろうネ。
 いったい、舜は何をなさっていたのだろう。
 ただただ、ご自分の身を敬〔つつし〕まれて、真南を向いておられただけだヨ。 *補注) 〕


補注)

天子や諸侯といった君子の位は、
「南面」して(北に位置して)政〔まつりごと〕をとりました。

cf.“May not Shun be instanced 
   as having governed efficiently 
   without exertion? 
   What did he do? 
   He did nothing but gravely 
   and rever‐ently occupy his imperial seat.”


【第155段】   世に従はん人は 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

〔1〕世間なみに従って生きてゆこうと思う人は、
   第一に物事の潮時〔しおどき〕を知らなければなりません。
   物事の時機(順序)の悪いことは、人の耳にも逆らい、
   気持ちをも悪くさせて、そのことがうまくゆきません。
   (ですから)そういう、(そのことをなすべき)機会というものを
   心得なければならないのです。・・・



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『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第3回)

※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第2回) の続きです。

『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第3回)

─── 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ── 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ───


【★第117段】   友とするにわろきもの 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

友とするのに良くないものが、七パターンあります。 

第一には身分が高く高貴な人、
第二には(歴年齢の)若い人、
第三には持病がなく(健康で)身体の丈夫〔じょうぶ〕な人、
第四には酒を好む人、
第五には強く勇み立っている武士、
第六にはうそをつく人、
第七には欲の深い人です。

(一方、)善い友には三パターンあります。 
第一には物をくれる友、
第二には医師、
第三には知恵のある友です。

--------------------------------------------------------------------

この段、兼好法師の人間・人生洞察深いものがあり、
私の学生時代から感銘を受けている段の一つです。

「友とするにわろきもの七つあり。 ── 」・「よき友三つあり。 ── 」 と
良悪の友を述べています。

いつの時代においても、人間形成・人生行路において、
“師と友”は大切です。

吉田松陰先生は、
「徳を成し材を達するには、 師の恩 友の益 多きに居る。
故に君子は交游を慎む。」
(士規七則) と述べられております。

この“師恩友益”は、
安岡正篤先生の“(関西)師友協会”の名称の由来となってもいます。
(現在、“関西師友協会”会誌の名前が“師と友”です。) 

私は、安岡先生が“師恩友益”と軸に書かれたものをよく目にしております。

さて『論語』に、「益者三友・損者三友」とあります。
この段は、これにヒントを得たものでしょうか?

○ 「孔子曰く、益者三友。損者三友。
直〔ちょく/なお・き〕を友とし、諒〔りょう/まこと〕を友とし、
多聞を友とするは、益なり。| 
便辟〔べんへき/べんぺき〕を友とし、善柔〔ぜんじゅう〕を友とし、
便佞〔べんねい〕を友とするは、損なり。」
 (『論語』・季氏第16−4)

〔孔先生がおっしゃいました。
「自分に有益な友が三種、有害な(損のある)友が三種あります。
正直な人(直言して隠すことがない者)を友とし、
誠心の人(誠実で表裏のない人)を友とし、
もの知り(博学で古今に通じている人)を友とするのは有益です。|
(反対に、)(便辟=)体裁ぶって直言しない者を友とし、
(善柔=)うわべだけのこびへつらい者を友とし、
(便佞=)口先ばかり達者で実のないものを友とするのは、有害(損)です」 と。〕


この段が、形式的には『論語』から思いついたにしても、
内容的には兼好法師自身のオリジナルでしょう。

「よき友三つあり」 で、それを現代に擬〔なぞら〕えれば。

「一つに物くるる友」は気前のいい金持ち・財界有力者の友、
「二つにはくすし」は医師、
「三つには知恵ある友」は学者教師(?)・ブレーン参謀・
法曹界のスペシャリスト(弁護士など)の友、といったところでしょうか。

ちなみに、ヨーロッパにもこんな話があります。

夜更け、突然に友人宅を訪れたところ、
その良き友人は“片手に剣、片手に金”を持って出てきて
「(必要なのは)剣か金か?」と言ってくれたというお話です。

平和な、当世わが国では(法治国家ですので)、
“剣”は、さしずめ、弁護士などの“法のPower”や
政治家のもつ“権力・人脈のPower”
といったところでしょう。

また、“ペンは剣よりも強し”で、
マス・メディアの“情報=口のPower”も物騒なものです。

とりわけ、現代大衆社会に於いては、マス・メディアの弊害は甚大です。

一方、“金=貨幣のPower”・“経済のPower”は、
一般に古今東西を問わないようです。

いつの世も、“ ── それにつけても 貨幣〔かね〕のほしさよ”ですね。!


「友とするにわろきもの七つあり。」 

→ 「二つには若き人」 について。

私も、若い頃(学生時代)には、
この文言〔もんごん〕の深意が今一つ実感できませんでした。

今の年齢・立場になってみると、つくづく、しみじみと実感されます。

若い人(=若さだけの人)は、老人の経験・英知を尊敬できず、
むしろ莫迦〔ばか〕にしています。

老人と若者とは、ものの考え方・道理の解し方・趣味嗜好が異なり
面白く交わることが出来ないの意で、一般には解せましょう。

「今時〔いまどき〕の若い者は、・・・云々〔うんぬん〕」と、一言するようになると、
自分が精神的にも老〔ふ〕けてきた証〔あかし〕であるナとは思います。

老いると、若者の未熟さ・愚かさ・傲慢さが
殊更〔ことさら〕に癇〔かん〕に障〔さわ〕るものです。

いつの世でも、才徳ある善くできた高齢者からみれば、
若者は浅薄で身勝手なものに見えるのでしょう。

とは言え、それにしても、今の時代の若者気質は
(自分の若かりし頃に比べても)ひどすぎます。

日本に来ている外国人は、
電車の中で(混んでいる時)優先座席に平然と座り、姦〔かしま〕しく喋っている若者を
不思議に思っているといいます。

道や通路の定められた片側も歩けず、自転車もまともに駐輪できずにいて、
自己中心的に(義務をワキにおいて)おのれの権利ばかりを主張する若者たちです。

“厚顔無恥なる新人類”といったところです。

『論語』に、後生畏るべし。焉〔いずく〕んぞ来者の今に如かざるを知らんや。」
(『論語』・子罕第9−23) とあります。

これは、若さによる未来の可能性だけの問題ではありません。
しっかりと、自己を研鑽〔けんさん〕し徳を磨いていればこその未来です

社会の未来は、次代を担うべき若者の中に“兆〔きざし〕”を読むことができるわけです。

一例をあげれば、わが国幕末“ペリー来航”(1853.6/1854.1)という大震の時期、
後の日本史上に輝く維新の英傑たちは、
当然ながら、青々とした若者だったわけです。 *補注1) 

孔子の弟子は、「蓋〔けだ〕し三千」(『史記』)ともいわれました。

然るに、「後生畏るべし」といえる弟子は顔回(顔淵)唯一人であったことも、
併せて知っておきたいものです。

私は、青少年を教えるという仕事がら、
数多〔あまた〕(おそらく数万人)の若者を知っていますけれども、
「後生畏るべし」 という青少年は唯一人しか知りません。

まったく文字どおり、“後世 恐るべし”の想いです。

物質文明の繁栄と反比例した、こころ・教育の貧しさの故です。

→ 「三つには病〔やまい〕なく、身強き人」 については。

健康で丈夫な人というものは、一般的に解すれば、
健康の有難みが実感できず、
病気の人や弱い人の気持ちや痛み・悩みへの理解に欠けるものがありがちだからでしょう。

確かに日常の経験からも、健康で丈夫な人は、
病人・弱者といった他者への同情や思いやり(仁=愛=慈悲)のないことがままありますね。

“一病息災〔いちびょうそくさい〕”という言葉があります。

歳を重ねるにつれて、一つくらい持病があって当たり前です。

むしろ、そのくらいの方が、善く自ら摂生〔せっせい〕して
“養心養生(性)〔ようじんようじょう〕”することで、
大過なく寿〔いのちなが〕し、というものです。

“少子化”“(超)高齢社会”がますます進展する、わが国平成の御世ですから、 *補注2) 
以上2つの「わろきもの」 については、
改めて、よくよく考えねばならないことだと想います。


補注1)

西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山県有朋・福沢諭吉 ・・・etc. 
明治維新の英傑たちは、当時みんな若者だったわけです。

まさに、“後生畏るべき”若者輩が多士済々だった時期といえましょう。

なお、幕末の革新は、かれらニユーリーダーたちの
“若きPower”で推進されたと思われがちですが、そうではありません。

老若〔ろうにゃく〕相携えて、
二人三脚で “鼎新〔ていしん〕”し新しい時代を創ったのです。

だからこそ、一連の改革変化を“明治革命”といわずに“明治維新”と呼ぶのです

彼らが、長じた明治初期の新政府の陣容を推測してみますと。
当時のわが国は、弱小ひ弱な少年のような新興国家ではありました。

が、私は、明治天皇を中心に彼らが会議をしている場面を想像すると、
日本史上でキラ星のごとく人材が充実した会議であると圧巻に思います。

そして、その原因は、江戸時代・幕末期の教育と
明治以降・大東亜戦争以降の教育の差にあると認識せざるをえません。


補注2) ≪データ資料≫ 

日本人の平均寿命は、女性86.39歳(26年間連続長寿世界一)、
男性79.64歳(世界第4位) ─ (2010年) 

★【2011年;女性85.9歳(世界第2位)、 男性79.44歳(世界第8位)、
→ DOWNは東日本大震災による死亡のため】/
高齢化率(満65歳以上の人口比)は、23.1%。 ─ (2011年) 

cf.
高齢化社会:満65歳以上の人口比7%以上
高齢社会:満65歳以上の人口比 14%以上
超高齢社会:満65歳以上の人口比 21%以上
→ 2020年には26.9%(4人に1人)ともいわれます。/
年少人口(15歳未満)の割合、13.2%。─ (2011年)/
合計特殊出生率、1.39人─ (2011年)、1.25人─ (2005年)


*===========================================================================*

【第127段】   改めて益〔やく〕なきことは 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

改めても効果のないことは、(むしろ)改めないのがよいのです。



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『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第2回)

※この記事は、『徒然草』 にみる儒学思想 其の2 (第1回) の続きです。
 

『徒然草〔つれづれぐさ〕』 にみる儒学思想 其の2(第2回)

─── 変化の思想/「無常」/「変易」/陰陽思想/運命観/中論/
“居は気を移す”/兼好流住宅設計論( ── 「夏をむねとすべし」)/
“師恩友益”/“益者三友・損者三友”/「無為」・「自然」・「静」/循環の理 ───


≪ 吉田兼好・『徒然草』 抜粋 ≫

 鎌倉時代、中世の開幕は、貴族が社会の中心の座を譲り
武家の時代が到来したことを意味しました。

この新しく、激動と混乱の時代も、
元寇を契機として急速に幕府の力が衰えてゆき、
南北朝の動乱の時代へと向かってゆきます。

吉田兼好が生き『徒然草』を著したのは、
こういう時代変化と社会不安の時期だったのです。

 『徒然草』は、清少納言の 『枕草子〔まくらのそうし〕』と並び
随筆文学の双璧とされ、
また鴨長明〔かものちょうめい〕の 『方丈記〔ほうじょうき〕』と共に
この時代を代表する隠者文学の金字塔です。

 以下において、この『徒然草』の中に表されている兼好の
世界観・人間認識についていくつかの段をピックアップして
具体的に考察してみましょう。

そして、『徒然草』に共通する観方・思想的基盤について
論じてみたいと思います。

─── 【★  】が今回加筆・追加した段です。

【★序段】・【第7段】・【第50段】・【第51段】・【★第55段】【★第10段】)
【第60段】・【第74段】・【第91段】・【第92段】・【第106段】・
【★第117段】【★第127段】・【第155段】・【第243段】 


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【★第55段】   家の作りやうは  ( 【第10段】 家居のつきづきしく 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

家の作りかたは、夏を主とするのがよいのです。

冬はどんな所にでも住むことができます。
(が、)暑いころ、(建てかたの)悪い住居はがまんができないものです。

(庭に引きこんだ水も)深い水は涼しい感じがしません。
浅くて流れているのが、ずっと涼しいのです。

こまかい字の書物を見るには、
引き戸(の部屋)は吊り戸(の部屋)よりも明るいのです。

天井が高いのは、冬は寒く、(夜は)灯〔あか〕りが暗いのです。

家の普請〔ふしん:家を建てること〕は、
格別の用向きのない部分を造ってあるのが、見た目にもおもしろく、
いろいろの役にも立ってよいものです
などと、
みんなが、そう論じ評し合っておりました。

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“人が家をつくり、家が人をつくる” ともうしますが、
古〔いにしえ〕より住宅環境は、身心ともに重きをなしてまいりました。

伝統的な用語でいえば、“(建築)家相” です。

中国の先哲は“居は気を移す”といい、
ヨーロッパにも“陽の入〔はい〕らない家に医者が入る”という
古諺〔こげん〕があります。 *補注1)

【第10段】 「家居のつきづきしく」 では、
住宅について専〔もっぱ〕ら趣味的視点・
コーディネートの見地から論じられています。

静かで、自然で、古風な住宅を善〔よ〕しとして、
けばけばしく飾りたてた住宅を悪〔あ〕しとしています。

結びは、「おほかたは、家居にこそことざまはおしはからるれ。」
〔だいたいは、住宅のありようによって、
その家の主人の人柄は推し量られるものです。〕 とあります。

これに対して、この段は、
兼好法師の実際的視点からの住宅論が展開されています。

日本風=(当時の)日本の気候風土にあった
住宅計画・設計、が論じられています。

これは、現代の建築学の視点からも、風水・家相の面からも
ポイントを押さえた優れた日本住宅論であるといえます。

「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」。
「むね」
は、中心とするの意。
「べし」は、古文では概〔おおむ〕ね、“命令”にとるよりは
“適当”ととるほうがよいようです。

高温多湿の日本において、
夏場には「わろき住宅はたへがたきことなり」です。

殊に京都は、盆地ですので、夏は蒸し暑く冬は寒く、
気候条件は非常に悪いといえます。

冷暖房グッズの乏しい時代(=鎌倉時代)、
冬場は(厚着するとか炭火で暖をとるとか)何とか過ごせますが、
夏場は裸(以上)にもなれず、
“扇子”程度の涼風では如何とも耐え難いものがある、ということです。

したがって、四季寒暖のある日本ですが、
その夏に最良であるように、風通しよく過ごせるように
設計せよという意図です。

そして、“陰陽思想”から表現すると、
“陽の気”をたっぷりと受けることが快適な環境・健康を実現します。 *補注2) 

が、しかし、“陽(気)”が強すぎてはいけません。

暑気あたりです。

陰陽のバランス(≒中庸)が肝腎です。

つまるところ、陽を中心にしつつ
“過陽”を抑える“改過”を主眼とせよということに帰結するものでしょう。

さて、以上のことを、現代の光をあてて考えて見ましょう。

現在(敗戦後〜)、住宅の主流は、
“RC造〔鉄筋コンクリート造; マンションなど〕”
“S造〔鉄骨造〕”とになっています。

日本の(というより厳密には中国古来の)
伝統的構法である木造軸組構法(在来構法)は、
すっかり廃れてしまっています。

しかし、この構造的住環境の変化は、
あくまで空調(=冷暖房)設備の発達・普及を前提にしてのことです。

それなくしては、とても日本の気候風土で、
RC造やS造の住居に住まうことはできません。 *補注3) 

しかも、“冷房病”という言葉もありますように、
エアコンの冷房自体“不自然”で天然自然の涼に比べれば不健全なものです。

そもそも、コンクリートや鉄といった建築素材・材料そのものが
日本の気候風土に適ってなく、
日本人の身心の健康を歪〔いびつ〕なものに蝕〔むしば〕んでおります。

RC造のコンクリートは多量の水分と灰汁〔あく〕を含み、
鉄骨・鉄筋も日本の湿気の多い気候では腐り易いものです。

荷重〔かじゅう〕の関係で開口部が少なく、空気の流れが悪いです。
“ダニ”も多く発生します。

コンクリートは、古くは古代ローマから使われていますが、
それには地中海の過ごし易い気候が背景にあってのことです。

わが国の建築における浅薄〔せんぱく〕な洋風化には、
明治期の盲目的な文明開化が想起されます。

文明開化期の洋装化に始まり現在にまで至っている、
“靴下に革靴”・“スーツ”姿。

これは、イギリス(ロンドンなど)の気候風土に適ったもので、
日本の高温多湿の夏場のはナンセンスです。

“ジューンブライド〔6月の花嫁〕”も、
日本は気候不順な梅雨〔つゆ〕の時期です。

これらのチグハグは、“有為不自然”の身近な事例でしょう。

西洋の“石の文化”に対して、
日本は従来“木(と紙)の文化”と言われてまいりました。

現在漸〔ようや〕く“木の(よさの)見直し”が言われるようになり、
“木(と紙)の文化の復権”が志向されつつあります。

古の兼好法師住宅論を再考し、
日本の気候風土にあった“自然”という原点に回帰すべき時がきているのです。

加えて、「明かし」・「暗し」
明るい・暗いといった
“採光〔さいこう〕計画”・“照明計画”についても述べられています。

結びは、「造作〔ぞうさく:古くは家を建てること=普請〕は、
用なき所を造りたる、見るもおもしろく、よろづの用にも立ちてよしとぞ、・・・・ 」。

“間取り計画”における“フリースペース”
将来を見こしての“可変空間”、“アキの空間”の考え方です。

現代の最新の住宅計画論と同じですね。

以上のように、【第10段】・【第55段】を読み味わってみますと。
西洋(ルネサンス期)において、
ミケランジェロが偉大な建築士・風水師と捉えられるように、
わが国の兼好法師も、なかなかにセンス優れた建築士・
インテリアコーディネーターの一面を持っている、ということがいえましょう。

ちなみに、当世住宅事情を付言しておきますと。
現在、(超)高齢社会が急速に進展する中で、
“高齢者同居バリアフリー(住宅)〔障壁除去住宅〕”が強調・提唱されています。

それらは平たく要せば、
“陰の気(部分)”をなくし“陽の気(部分)”に変えることに他なりません。

そして、一言すべきは、完全なバリアフリー(刺激のない)住環境を善しとせず、
陰陽の“中庸〔ちゅうよう≒バランス〕”を保つことが理想です。


補注1)

マルクス〔Marx, K.〕は
「人間の意識が社会の在り方を決定するのではなく、
社会の在り方が人間の意識を決定する」 と、かつて鋭く指摘しています。

教育現場の視点からも、
“環境・雰囲気が人をつくる”ということが言えます。
“転地療養”という言葉もありますね。


補注2)

家相では、専用語として“陽(の気)”を善し と表現しています。
家のつくりようは、陽をむねとすべし”ですね。 

ちなみに、私は、教派神道〔きょうはしんとう〕で
“陽気ぐらし”という言葉を耳にしたことがあります。


補注3)

≪トピックス〔平成の時事〕≫ を一言。

人間の異様さに因〔よ〕る地球環境の異常が顕〔あらわ〕になってきております。

地球温暖化を主要因とする異常気象現象は、
改善するどころか、ますますその程度を顕著なものとしてきています。

平成22年(`10)の世相をあらわす文字(漢字)は「暑」でした。

22年の夏は、猛暑で、屋内においてすら“熱中症”で亡くなられた方が、
高齢者を中心に多数出ました。

高齢者の環境変化への適応不良に配慮するのは、
住環境を考える上での“イロハ”です!

また、平成23年(`11)福島第一原発事故(`11.3〜)による
原子力発電のストップにより、
節操もなく、節電や電気代値上げが声高に論議されています。

冷暖房エネルギーの電力需要を満たせない、
電気代のコストアップを迫られるような事態に至って、
漸〔ようや〕く、その無駄・浪費の文化と
住環境のあり方を再考せざるを得なくなってまいりました。

(なお、原発事故では現代日本の“スペシャリスト〔専門家〕”の愚かさ、
無責任さが露呈されました。)

今年、平成24年(`12)も、
“春一番”の風で近畿圏の列車が一日近くマヒしたり、
ゴールデンウイークには“竜巻”による甚大な被害が出たり 
─── 全く、椿事〔ちんじ〕続きです。

 ≪私事・余事ながら≫ 私の古里(愛媛)の高校の母校は、
当時木造2階建で緑々の中庭があり、
夏の心地よい爽風〔さわかぜ〕が思い起こされます。

卒業後は、RC造4階建てに建て替わっています。

さて、現住・大阪府の公立高校(RC造)は、
現在概ねすべての教室に冷暖房が完備しています。

それは数年前からのことです。

私は、まだ冷暖房が完備していないころを知っています。
7月夏休み前のころは、風通しも悪く、
教室は蒸し風呂状態で気が遠くなりそうでした。

勉強どころか、とても長時間人が生活できる状況ではありませんでした。

廊下に出ると、まだしも涼しく息がつけたのを覚えています。

学生は皆、休憩時間は、廊下に出て
茹〔う〕だった草の如き態であったのが思い出されます。


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【★第117段】   友とするにわろきもの 

《 現代語訳 》----------------------------------------------------

友とするのに良くないものが、七パターンあります。 

第一には身分が高く高貴な人、
第二には(歴年齢の)若い人、
第三には持病がなく(健康で)身体の丈夫〔じょうぶ〕な人、
第四には酒を好む人、
第五には強く勇み立っている武士、
第六にはうそをつく人、
第七には欲の深い人です。

(一方、)善い友には三パターンあります。 
第一には物をくれる友、
第二には医師、
第三には知恵のある友です。



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。

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