儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2013年02月

むかしの中国から学ぶ 第5講 「英語でABC論語カルタ」 (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 “「英語」より『論語』” 》

“「英語」より 『論語』”。

だれが言ったか、ゴロもよく(エイ・ロン と韻〔いん〕をふんでいます)、
アメリカ(欧米)文化に追随して、
日本語と日本の伝統精神を忘れている現状からの脱却を端的に示しています。


「太初〔たいしょ〕に言〔ことば〕があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 と、
『聖書(ヨハネによる福音書)』にあります。

言葉は文化です。

文化は、“POWER”です。

21世紀・ “国際化の時代”・“グローバル時代” において、
わが国は、まず 母語=日本語 をしっかりと善く身につけさせるべきです。

その上で、国際語としての【英語】を、
そして最も多くの人が話している【中国語】を修得すべきです。

(尤〔もっと〕も、中国が経済力や軍事力のみならず、
世界をリードするに相応〔ふさわ〕しい“文化大国”に成長するならばですが。)


そして、何より忘れてはならないことが(現実にはすっかり忘れているようですが)、
話す中身、教養・人徳(品格)が肝腎〔かんじん〕です。

いくら英語をペラペラと流暢〔りゅうちょう〕に話せても、
その話している中身が浅薄であり、
教養・仁徳(品格)に欠けるものではダメです。

それこそ、日本人の恥を世界に吹聴〔ふいちょう〕し、
曝〔さら〕しているようなものです。

それならば、むしろ母語でしっかりと表現するほうがマシというものです。


わが国は、明治以来の欧米に対する言語・文化的コンプレックスを
いい加減払拭〔ふっしょく〕して、
日本語・日本伝統精神の本来あるべき姿に帰る時です。

明治期の英語で知られる啓蒙〔けいもう〕的教養人、── 
例えば、福沢諭吉(慶應義塾大学創設者)にしろ
夏目漱石(作家になるまでは東大の英語の先生)にしろ、
皆、漢学・日本語の偉大な教養人でもあったのです。

外国語としての英語の受容も、
ベースにあるものは日本語・東洋文化でなければなりません。


ところで、大概〔たいがい〕、末学〔まつがく〕の「知」のご人 というものは、
得てしてその「知」が“曇り”・“障壁”となって、
単純明白な真理すら見えにくくなるものです。

病だれの「痴」(*バカ者の意)となりがちです。

今、何が“本〔もと〕”で何が“末〔すえ/まつ〕”なのかを見失っているのです。


先述のように、当世の中国では、“文化大国”を標榜〔ひょうぼう〕し、
(英語でなく)中国語〔=漢語〕と中国文化(儒教文化)を世界に広めようとしています。

国内では儒学を“国教化”し、若者に『論語』を学ばせています。

孔子は、再び聖人に奉られてきているということです。


かつて、 「日の出づる処(ASIA)」 (by.聖徳太子) であったわが国は、
今や 「沈みいくたそがれの国」 (by.オスヴァルト・シュペングラー)となりつつあります。

“心貧しき”わが国が、忘れかけている徳性・道徳性を取り戻すためにも、
儒学を中心とする伝統精神の象徴としての 『論語』 を再生・復権することが急務なのです。


《 いろは がるた 》

●「犬も歩けば棒にあたる」/「論〔ろん〕より証拠」/「花より団子〔だんご〕」 
(江戸がるた)

■「一寸〔いっすん〕先は闇〔やみ〕」/「論語読みの論語知らず」/「針〔はり〕の穴から天のぞく」 
(上方がるた)


「いろはがるた」は、わが国江戸期(後期・化政文化)の優れた教育における、
そのツール(手段・方法)の一つです。

和歌のカードである「(小倉)百人一首」なども、
より古い歴史を持つ同様のツールといえましょう。


そもそも「いろはにほへと・・・・」(=いろは歌)そのものが、
他の言語には類をみない日本言語文化の傑作です。

仮名文字(ひらがな&カタカナ)は、
平安時代に中国伝来の漢字を簡略化(ひらがな)したり
一部を取って(カタカナ)発案されました。

これで、容易に日本語を文字で表記することが可能になりました。

とりわけ、漢字に対する“ルビ(ふりがな)”は、何とも偉大な工夫です

そして、「あいうえお・・・」 47の仮名を1字も余さずすべて用いて 
“いろは歌”という素晴らしい作品を創り出しました。

これは、七五調で曲節〔きょくせつ〕をつけて歌われました。  補注) 


なお、 「かるた」 〔carta/歌留多・骨牌〕の言葉は、
かつて世界史をリードした強国ポルトガルの語です。


西洋のカード(トランプなど)が、専〔もっぱ〕らゲーム・娯楽であるのに対して、
「いろはがるた」は、文化教養と娯楽を渾然〔こんぜん〕一体に兼ね備えた
優れものといえましょう。

西洋のカードとは、似ていて否なるものといえましょう。


殊〔こと〕に、内容文言において、
“ことわざ”・“慣用句”・“格言”・・・ などと称されるものが
用いられていることが重要です。

これらの短いフレーズは、本来は深遠な思想や人生(処世)哲学を、
一般庶民にきわめてわかり易くかみ砕いて表現したものです。

そして、それらを家庭教育・初等教育の場において
日本中に普及させたことは偉大です。

見事としか言いようがありません。

日本文化の英智を改めて想います。


補注)

「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ 
うゐ〔イ〕のおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑ〔エ〕ひもせす」

「いろは匂いへ〔エ〕ど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ〔ン〕 
有為〔ウイ〕の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひ〔エイ〕もせず」

*「いろは歌」の元は仏教の『涅槃経〔ねはんぎょう〕』にある、
次の四句と言われています。

「 諸行無常〔しょぎょうむじょう〕/是生滅法〔ぜしょうめっぽう〕/
生滅滅已〔しょうめつめつい〕/寂滅為楽〔じゃくめついらく〕 」


《 ABC論語カルタ 》

◎英語・中国語(漢語)・日本語 の語学教育ツール / 
◎イラスト・絵画による美術・情操教育ツール / 
◎内容文言による徳育・基本的生活習慣形成のベース
(*儒学徳目の基本的キーワードで創られています)


 わが国は、21世紀・ “グローバルな時代” に在って、
また同時に少子(超)高齢社会が進展しております。

かかる時代情勢において、 “ABC論語カルタ” は、
古くも新しい優れた伝統的教育ツール〔手段・方法〕として、私が考案中のものです・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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むかしの中国から学ぶ 第5講 「英語でABC論語カルタ」 (その1)

●吹田市立博物館・講演 『 むかしの中国に学ぶ /【全6講】 』

《 万博市民展 〜千里から上海へ〜 》 関連イベント    H.23.6.18


第5講 「 英語でABC論語カルタ 」 (その1)

       講師 : 真儒協会会長   高根 秀人年 (たかね ひでと)


 ── “グローバル時代”(国際化・ユビキタス社会)/
アメリカと中国とそして日本(GDP)/日の出づる処(ASIA)/
言葉は文化/英語教育の小学校必修化/“「英語」より『論語』” ──


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《 はじめに 》

21世紀初頭の現代は、 “国際化の時代”・“グローバル時代” と称されています。

グローバルな世界と申しますのは、
米国の、経済を中心とする影響力によるまとまりを意味する世界です。

政治的には米国の、言語文化的には英語(英米)のパワー(影響力・支配)が
覇〔は〕をとなえている時代といえましょう。

その弊害・課題は、顕〔あら〕わになりつつあります。

その「陽〔よう〕」の面を視〔み〕れば、文明的には“ナノ(テクノロジー)の時代”です。
コンピューター、インターネットで緊密に結ばれる
“ユビキタス社会” が到来しようとしています。

然るに反面において、「陰〔いん〕」の視点から近未来を展望してみると、
地球環境はますます荒廃しております。

また、とりわけ中国・日本において、
急速に少子(超)高齢社会が進展し大きな問題を孕〔はら〕んでいます。


《 現代中国のようす 》 

米・ソ 2大国の時代から、米国一人横綱の時代となりました。

そして、(公称)13億の人口を抱える中国が世界の舞台に急速に台頭してまいりました。

資本主義国顔負けの経済発展を推進し、軍備も増強しています。

中国は、わが国を抜いてGDP.世界第2位(2010)。
少なくとも、経済の視点からは、
“米 − 中 − 日” の3国は世界に大きな影響力を持つ国です。

「中国〔チュンクオ〕」 (中す国)は、 “文化大国” も標榜〔ひょうぼう〕しています。

実〔じつ〕が伴えばそれは結構なことではあります。

中国政府は5年ほど前に儒学を復活 「国教」化 しました。

2008.8.8.8 に“北京奥林匹克〔ペキンオリンピック〕”を開催し、
開会式で『論語』の冒頭を世界に向けてアピールしたことは記憶に新しいです。

国策として孔子と孫文の思想を広げようとしています。

世界各地に 「孔子学院」 を開設し、
中国語と中国文化を普及(大阪では2大学に開設)しています。

今・・・ 中国の子ども達は熱心に 『論語』 を学んでいます。
モノ(経済)のみならず“精神”も充実しつつあると言えましょう。

(ちなみに、私は趣味として、9カ国語で“一人カラオケ”を歌って楽しんでおります。
その9カ国語目が中国語です。
当世、“国際化の時代”に似つかわしく、
また高尚安価な趣味かナ?と自嘲〔じちょう〕しています。)


現代の中国語表記は (1)漢字 と (2)中国式ローマ字〔ピンイン〕 の2種があります

中国式ローマ字〔ピンイン〕も立派な中国語です。

英語の素養のある若人〔わこうど〕諸君には、
むしろピンインのほうがとっつき易いかも知れません。

そして、漢字はより多くの人々が書けるように積極的に簡略化が図られています。

“言葉は文化”です。

文化は水のように高き所から低き所へと流れてゆきます。

現代中国には、日米の言葉が急激・大量に入ってきています。

例えば、「カラオケ」・「ぱちんこ」・「ラーメン」 ・・・ などは
皆、日本の文化的産物であり日本語です。

そしてまた、言葉は“音”です。

漢字は本来表意文字であったのですが、
現代中国では表音文字化して(音を借りるだけで)受容吸収しています。

一例をあげてみましょう。 ──── 

「奥林匹克〔オリンピック〕」・「咖啡〔コーヒー〕」・「麦当労〔マクドナルド〕」・
「肯徳基〔ケンタッキー〕」・「拉面〔ラーメン〕」・
「卡拉OK〔カラオケ:英語の“OK”をそのまま借用しています〕」 等々。


補注) 

わが国でも、かつて“開国 〜 明治維新期”に、
英語を中心に欧米の言語が急速かつ大量に流入してまいりました。

先人の偉大なところは、それらの外国語をそのまま受け入れるのではなく、
対応する日本語の訳を造語したところです。

この受容吸収力が、日本人のDNAが持っている
“陶鋳力〔とうちゅうりょく〕”なのです。  ── 

一例をあげれば。
前島密〔ひそか〕造語による「郵便〔Post〕」、
福沢諭吉造語による「経済〔Economy:“経世済民”から〕」・
「演説〔Speech〕」などがよく知られていますね。



《 英語教育の小学校必修化 》

たまさか、昨日(2011.6.17)の朝日新聞・「天声人語」に、
今春から必修化されている小学校での英語教育について書かれていました。
( → 抜粋引用) 

その内容、善き哉〔かな〕見識と同感いたしております。

このままでは、日本人は“カタコト外国語(英語)”を話す国民にとどまらず、
生半可な母語(日本語)しか話せない“日系日本人(?)” を濫造してゆくことになりそうです。


─── 書けるが話せない、読めるが聞けない。

日本の英語教育の、今日にいたる宿痾〔しゅくあ〕だろう。

▼批判にさらされて、文科省は「英語が使える日本人」を育てる計画を進めてきた。
今春からは、小学5、6年で英語が必修になった。
コミュニケーション重視の一環と言う。
訳読と文法中心で育った世代には、どこか?〔うらや〕ましい。

▼英語なしにはグローバル経済の果実をもぎ取れないという声もきこえる。
様々な人々が一家言を持ちつつの教育の舵〔かじ〕切りだ。
その侃々諤々〔かんかんがくがく〕に口をはさませてもらえば、
英語重視が日本語軽視を誘わないよう、気をつけたい

▼第2、第3言語は道具だろう。
しかし「母語は道具ではなく、精神そのものである」と、
これは井上ひさしさんが言っていた。
英語習得もたしかな日本語力が前提との説に、異を言う人はいまい。

▼振りかえれば、日本人は自信喪失期に日本語を冷遇してきた。
敗戦後には表記のローマ字化さえ浮上した。
そして今、英語を公用語にする日本企業が登場している。
ダンゴラスで笑っていられた時代が羨ましい人も、多々おられようか。

(「天声人語」抜粋、2011.6.17)


《 “「英語」より『論語』” 》

“「英語」より 『論語』”。

だれが言ったか、ゴロもよく(エイ・ロン と韻〔いん〕をふんでいます)、
アメリカ(欧米)文化に追随して、
日本語と日本の伝統精神を忘れている現状からの脱却を端的に示しています・・・


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老子の“現実的平和主義” に想う (第4回)

※この記事は、老子の“現実的平和主義” に想う (第3回) の続きです。

老子の“現実的平和主義” に想う (第4回)

──── 『老子』・「不争」/「兵は不祥の器」/「戦いに勝つも、喪礼を以て之に処り」
/永世中立国スイス/老子とシュヴァイツァー&トルストイ/安岡正篤・「シュヴァイ
ツァーと老子」/佐藤栄作&ケネディ大統領会談/儒学(孔子)の平和主義 ────


現代。

国際的大会の舞台で、勝ってメダルの決まった日本の選手が、
両手を挙げて飛び上がって喜びを現わし、
負けた選手は床に崩れ落ちているという場面をよく目にします。

また、かつて「ヤワラチャン」と愛称され国民的英雄となった
女子柔道・金メダリストは、今、なぜか国会議員になっています。


次に、日本の国技になっている“相撲”について一言いたしておきますと。

相撲には源流思想(易学)がよく取り入れられ、
その影響が色濃く残っています。

具体的には、陰陽」・「五行〔ごぎょう〕」・
「易の八卦〔はっか/はっけ〕」
などの思想です。

例えば、相撲場は、□・四角の土俵(=陰/=地)に 
○・丸(円)い俵(=陽/=天) から出来ています。

その土俵の中で、東方〔ひがしがた〕(=陽) と 西方〔にしがた〕(=陰)の力士が戦います
(「天地人和」)。

そして、行司〔ぎょうじ〕のかけ声は、「ハッケヨイ!」(=八卦良い!) です。


相撲は、勝負を争うものではありますが、
「心・技・体」といって、精神性が重視される世界です。

現在の相撲界は、不祥事の連続で「心」の部分が忘れられ、
すっかり堕落しきっている状況です。

心ある人の誰もが、周知のとおりのことです。


過去の相撲界の尊敬すべき国民的ヒーローは、何といっても大横綱・双葉山です。

今年、生誕100年にあたります。

“木鶏〔もっけい/ 出典:『荘子』・『列子』〕”たらんと精進し、
右目が不自由というハンディキャップを克服して、不滅の69連勝を記録いたしました。
(双葉山については、後日、 「“木鶏”と双葉山」 のテーマで取り上げたいと思っています。)


勝負の世界が過度となって、勝つことのみに偏しているのは、相撲でも顕著です。

その一例として、かつて、強さ(勝ち星)だけはピカ一〔いち〕の
外国人(モンゴル出身)の横綱が想起されます。

相撲は、俵から出せば勝負は決しています。それ以上は攻撃しません。

敗者が土俵の下に落ちている場合は、土俵に戻るのをいたわり、
(土俵上の勝者が)手を差し伸べます。

しかるに、その強い横綱は、これでもかと言わんばかりに(豪快に?)、
相手を土俵下にたたき落とし勝ちを誇っていました。

言動においても、何かと横綱としてのマナーや品格を欠くことが取り沙汰されていました。

それでも、勝ち星が重なり優勝すると批判的な声はなくなり、
むしろ讃美の調子に変わります。


そもそも、悲しいかな、その外国人横綱には武道・“敬”の精神が教えられていないのでしょう。
知らないのは、無理からぬことかも知れません。

“勝てば善し”のスポーツの感覚、勝ち負けの感覚しかないのでしょう。 

── 武道・“敬”の精神を日本人選手は忘れ、外国人選手は知らないということでしょうか


最後に、私の尊敬する野球選手、王貞治選手(後に監督)について述べておきたいと思います。

まずもって、108歳の天寿で亡くなられた(2010)謙虚な“偉人の母”様に敬意を表します。

私の好きな言葉の一つに「家貧しくして孝子出ず」があります。
王さんの“孝行”を想います。


世界のホームラン王(868本)としての王選手は、その人知れぬ努力、その成果は無論偉大です。
が、その精神(仁徳)において、私は一層尊敬します。

その最たる事例が次のものです。

ホームランを打つと、普通、満面の笑顔で両手を挙げて
ウイニングポーズをとってグラウンドを回ります。

しかるに、王選手は、(ある時から)勝ち誇る様子微塵〔みじん〕もなく
黙々淡々とグラウンドを回り続けました。

老子の 「恬淡〔てんたん〕」 として、ですね。

それはなぜでしょう? 

それは、自分がホームランを打ったということは、
相手のピッチャーはホームランを打たれたということです。

自分のチームの勝利は、相手のチームの敗北ということです。

勝者が敗者を慮〔おもんばか〕ってのことです。 

── 老子の平和主義・不争、易卦の【地山謙】
〔ちざんけん: 謙虚・謙遜、“稔るほど頭〔こうべ〕をたれる稲穂かな”〕
そのものではありませんか

この一事をもっても、【謙】徳のあるゆかしい大選手だと尊敬の念を深くするものです。 補注)


補注) 
── ≪ 合格者に対する「オメデトウ」(賛辞)の配慮 ≫

ちなみに私事ながら。教師として多くの生徒を教えていますと、
一般の人では気付かぬような、尋常でない配慮をせねばならない場合があります。

学校の入学試験・資格試験・就職試験などを受験すれば、
全員合格とはゆかず必ず不合格者がいます。

合格者に対して、迂闊〔うかつ〕に、「オメデトウ」や賛辞を声高〔こわだか〕に言って
祝福することは教師としてタブーです。

傍らにいる(いなくても)、残念な結果の人への配慮に欠けるというものです。

賛美・祝福の気持ちは裡〔うち〕に秘めて、
“恬淡〔てんたん〕”と対応することが必要です。

日常身近な些事〔さじ〕ですが、この他者(敗者)への配慮・思いやりが
「仁」であり「恕」の基本だと想います。


《 結びにかえて 》

“兆”〔きざし〕を読む。
国家・社会の近未来は後生(=子ども達)の有様〔ありよう〕に窺〔うかが〕い知ることができます。


── 日曜の電車(大阪)内の一場景。
サッカー少年とおぼしき、スポーツウェアー姿の小学生8・9名と
その先生(監督)らしき大人〔おとな〕を見かけました。

両側の座席を占拠して、元気に(うるさく?)しゃべっていました。
引率の大人も坐ってそ知らぬ態〔てい〕です。

周りには、(私も含めて)立っている大人・老人がたくさんいました。
よくある場景ですね。 

── どこかおかしいスポーツマンシップではないでしょうか? 

“本”〔もと〕が忘れられてはいないでしょうか?

わが国は、 “心の貧しさ” が顕〔あらわ〕となり、
“心の時代” が唱えられてすでに久しいものがあります。

徳の【蒙】〔くら〕い時代 となりました。

このままでは、君子の道閉ざされ【明夷】〔めいい〕の暗黒時代となってしまいます

“戦い”と“勝つことへの偏執”が、現代版の“見せ物”である
スポーツの世界をも支配しているということです。

この現実を、老子や孔子といった聖人たちは、なんと言うでしょうか? 

その延長線上にあるものは何か、過去の歴史を眺めてみれば解かります。

現今〔いま〕の、“本〔もと〕”を欠いた平和主義を標榜〔ひょうぼう〕しているわが国の有様は、
私には、 “理想の平和な社会に向かって、足早に後ずさりしている” ように想えてなりません。


( 以 上 )



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